『もう一つの救済 1』

 

「……諦め時だぞ……ダイ……!」

 ヒュンケルの静かな声が、断定的に響く。
 それは、慈悲を含んだ言葉ではない。
 アバンの一番弟子だと名乗り、ダイ達をアバンの弟子達だと知った上で攻撃してきた恐るべき戦士は、弟弟子達に情けをかける気配など微塵もない。

 それは直接戦っているダイだけではなく、ポップにも痛い程よく分かっていた。
 育ての親である魔族を勇者アバンに倒されたヒュンケルは、正義そのものに強い憎しみを抱いている。

 その恨みは、アバンが亡くなった今も少しも減じていない。
 それどころかむしろ増大し、怒りの矛先はアバン一人ではなく、勇者そのものへ向かっている。

 正義の象徴である勇者という存在に対しての、徹底した攻撃心がヒュンケルを支配しているのだろう。
 それは、ポップやマァムへの中途半端な攻撃に比べて、ダイへの攻撃への容赦のなさから見ても分かる。

 ヒュンケルの恨みの対象は、ぴたりと勇者ダイへと当てられている。
 倒れているポップやマァムに見向きもせず、ダイ一人に対して執念じみた憎しみを燃やすヒュンケルは、奇妙な技を使っていた。

 暗黒闘気で相手の全身の自由を奪う、闘魔傀儡掌と言う技でダイの五体の自由を奪っている。

(そこまで……ダイが、憎いのかよ?!)

 絶望的な思いで、ポップは目の前の光景を見ているしかなかった。魔法を跳ね返す鎧を身に付けたヒュンケルに対して、魔法使いのポップは手も足も出ない。逆に、ヒュンケルから繰り出された攻撃がかすっただけで大ダメージを受けて動けなくなった。

 マァムの攻撃も同様だった。
 辛うじてヒュンケルと対抗できるのはダイだけだったが、その強さが段違いだった。

 考えてみれば、それは当たり前の話なのかもしれない。彼らは、アバンから戦士としての修行を受けたという共通点がある。
 同じ師により同じ教育を受けたのなら、年齢も修行日数も上回っているヒュンケルに一日の長がある。

 最初、ヒュンケルはダイと技を競おうとしているかのように、剣を振るっていた。まるで自分の技を見せつけるように。
 だいたい、冷静に考えればいくらヒュンケルが強かったとしても3対1の状況でわざわざ敵の前に出てくること自体がおかしいのだ。

 しかも、ヒュンケルはダイとの対決に固執した。わざわざダイの技を受けた上、同じ技を使って威力を誇示してさえみせた。
 アバンの弟子であるダイよりも、アバンの弟子であることを止めた自分の方が強いとてもいいたげに。

 その上、ダイの動きにはいつもの生彩がなかった。追い詰められた時、いつもは輝くはずのダイの額の紋章は今は浮かぶ気配すらない。
 ダイが握り締めていたはずの剣が、石畳の上に落ちて固い音を響かせる。それは、ポップの耳にはとてつもなく不吉な音に聞こえた。

「ダッ……ダイ――ッ!!」

 ポップの叫びにも、ダイはもう反応する余裕すらない。まだ意識はあるようだが、全身を締め上げられる苦痛にもがいているダイには、ポップどころかヒュンケルの声さえ耳に入っているかどうか。

 もちろん、先程ヒュンケルの強烈な一撃を食らって気絶したマァムは、何の反応も見せない。完全に意識を失って、ぴくりとも動かない。

「もはや遅い……」

 悲痛なポップの叫びに応じたは、皮肉にもヒュンケルの方だった。禍々しさを感じさせる鎧に身を包んだ魔剣士は、剣を振りかぶって身構える。

「今度こそ最後だ!! 死ねッ!!」

 それは紛れもなく、死刑執行を告げる一言だった。降り下ろされた剣の轟音を聞いた時、ポップは思わず目を瞑ってしまった。
 しかし、それでも耳は勝手に周囲の音を拾う。

 空を割く、凄まじい音を。
  そして――肉を割く鈍い音と同時に聞こえた、不吉な水飛沫の音も。

(ダイ……ッ!!)

 頭の中が真っ白になってしまったように、ポップは顔を伏せたまま動かなかった。

  また、何もできなかった──。
 師であるアバンを失った時のように、どうしようもない無力感がポップを打ちのめす。まだ癒えていない生傷を無理やり押し広げられるのにも似た痛みに、息が詰まりそうだ。

 そのままならポップはそうして身動きもせず、目を開けようともせずにいたかもしれない。

  すぐ近くにヒュンケルが――敵がいることすらどうでもいいと思える絶望に支配されたポップは、刃を振りかざされてもよけもしなかっただろう。
 しかし、ポップを救ったのは他ならぬヒュンケル自身の驚きの声だった。

「な…なんだとォッ?!」

 ひどく驚いたようなその響きに、ポップの止まっていた思考がやっと動きだす。
 これほど驚くということはおそらくヒュンケルにとって、なにか予想外のことが起きたのだろう。

 しかし敵の驚愕は、味方にとって必ずしも悪いこととは限らない。
 免れないと思っていたダイの死を覆す出来事なら、それはポップにとっては朗報だ。

(もしかして、まだダイは……っ)

 希望に縋って顔を上げたポップもまた、驚かずにはいられなかった。

「あああああっ……!!」

 ボタボタと滴り落ちる血。鎧を砕き、柄の傷を抉った剣が突き立ったままの、生々しい光景。
 しかし衝撃的なその怪我以上に、彼がそこにいること自体がポップには驚きだった。

 獣王クロコダイン。
 かつて、ダイと死闘を交えた巨漢の戦士は、ダイを庇うかのように仁王立ちになってヒュンケルの剣を自らの身体で受け止めていた。

「……ク……クロコダイン?! …生きてたのか……!!」

 二重の驚きに、ポップは目を見張らずにはいられない。
 まず、クロコダインが生きていることが信じられない。ダイとの戦いの時、クロコダインはほぼ致命傷に近い傷を受けたはずだ。

 だからこそクロコダインは、最後の言葉を残すと同時に城の上部から身を投げ出したのだと思っていた。
 その場にいたポップは、クロコダインの巨体が確かに落下したのを見たし、その際、断末魔のように咆哮を上げるのも聞いた。

 とてつもなく重いものが地面に落ちる地響きさえ、聞いたのだ。
 その上、その後を境に、あれほどロモス王国を悩ませた怪物達の襲撃が嘘のように収まったのだから、誰もが軍団長クロコダインの死を疑わなかった。
 ただ、一人を除いては。

『ねえ、ポップ。もしかしたら……クロコダインは生きているんじゃないかな?』

 ロモス王国を経つ少し前、ダイがそんなことを言っていたのをポップは覚えている。戦いの後、王の命令で兵士達が城の周辺を丹念に捜索したがクロコダインの遺体は見つからなかった。

 その事実を、ダイだけは肯定的に受け止めていた。もしかしてクロコダインにはまだ息があり、起き上がってどこかにいったのではないか、と――。

 だが、ポップを初めとした他の人間はまったく逆の意見だった。
 地面に落ちた衝撃でクロコダインは大きな損傷を受けただろうし、そもそも落下の前からいつ死んでもおかしくはない重傷だった。

 あの落下に、耐えられたとは思いにくい。
 死体が見つからないからといっても、それは即座にクロコダインの生存を意味しない。 動物や動物系の怪物の中には、他の生き物の死肉を食べるものは多い。

 野生では、生き物の死骸は驚くほどの早さで消滅してしまう。他の生き物の食物連鎖に飲み込まれる形で、自然に返るのである。
 それを知っているものならば、誰もクロコダインの生存説を、本気で信じられはしなかった。

 そして……ダイには言えなかったが、多くの人間はクロコダインの生存など望んではいない。
 ロモス王国を壊滅寸前にまで追い詰めた魔王軍の軍団長が死亡したと聞けば、ホッとするのが人情というものだろう。

 もしかして生きているかもと不安になるよりも、もう彼は死んでしまったのだと考える方がよほど安心できる。
 だからこそロモスでは誰もが、クロコダインが死んだと思っていた。

 だが、こうして獣王の雄々しい姿を目の当たりにすれば、ダイが正しかったのを認めざるを得ない。

 その上、さらに信じられないのは、クロコダインの行動だ。
 彼は、明らかにダイを庇った。
 もし、このタイミングで彼が現れなかったのは、串刺しにされていたのはダイだったはずだ。

 しかし、クロコダインの分厚い身体に遮られ剣はダイには届かなかったし、ヒュンケルのしかけた闘魔傀儡掌の威力も遮られたらしい。ダイの身体が、ドサリと地面に落ちるのが見えた。

 落ちたまま動かないのが心配だが、うめく様な仕草から息があることだけは分かる。

「な……、何の真似だっ! クロコダイン!」

 怒りと糾弾の意思を込め、ヒュンケルが叫ぶ。傍らで聞いているだけのポップでも身が竦みたくなるような迫力だったが、クロコダインはびくともしなかった。
 それどころか、そのごつい顔に太い笑みすら浮かべて言ってのける。

「……フフフッ……み…見ての通りだ。
 ダイ達は殺さん……!!」

「バカな! 気でもふれたか…?!」

 驚きを隠そうともせず、ヒュンケルが叫ぶ。彼に同意するのは不本意だが、ポップも全く同感だった。
 正直、ポップの方が驚いている。
 クロコダインが自分達を助けようとする理由が、分からない。

(なんで……?!)

 クロコダインとダイは、敵対していた。
  魔王軍の軍団長と、勇者の少年――立場も利害も見事なまでに対立している二人の出会いは、最初から戦いになった。

 二人の戦いは、まさに死闘と呼べるレベルだった。
 最後に潔さや武人の誇りを見せ、ダイを励ますような言葉を残したとは言え、それでもクロコダインがダイに味方をする義理まではなかったはずだ。
 しかし、クロコダインは言葉ではなく行動で自らの意思を示す。

  これ以上、ヒュンケルにダイ達を攻撃はさせない――。
 腹筋に力を込めるだけでなく腹を抉る剣を素手でがっしりと掴み、ヒュンケルに剣を抜かせないようにしている。それがどれ程の苦痛と命の危機を伴う行為か、戦士ならば知らないはずもないだろう。

 いや、それ以前に想像を絶する苦痛がクロコダインを苛んでいるはずだ。なのに、クロコダインはそれをおくびにも見せずに不敵に笑い、腰の後ろから小さな筒を取り出す。

 巨大な手に握られるにはあまりにも小さすぎる筒には、ポップにとって見覚えのある文様が刻まれていた。

「デルパ!!」

  魔法の筒――怪物を閉じ込めておき、呪文により出し入れすることのできる魔法道具の中から飛び出してきたのは、巨大な怪鳥だった。

 それがガルーダと呼ばれる怪物だと、ポップが気がつくまで少し時間がかかった。実際に見るのは初めてだが、飛行能力に優れた鳥系の怪物だと習った覚えがある。

 もっとも姿形は図鑑で見た通りだったが、その大きさは標準よりもかなり大きい。翼を広げるとその特徴はさらに顕著で、巨漢のクロコダインと比べてさえ大きく見える。
 呆気に取られているポップに、突然クロコダインが怒鳴りつけてきた。

「おいッ!! 小僧ッ!!」

「ハ…ハ…ハイ!! な…、なんですか?!」

 余りの迫力に、つい返事が敬語になってしまったのは愛嬌と言うべきか。
 だが、クロコダインが続けて叫んだのは、ポップにとって予想外すぎる言葉だった。

「こいつでダイを連れて逃げろッ!!」

「エエッ?! で……でも…」

 戸惑いや怯えを見せるポップの視線を読み取ったのか、クロコダインは落ち着いた声で説明をする。

「怪物達の中にはオレの直接の命令しかきかぬ奴等もいる。このガルーダもその一匹だ」

 クロコダインの言葉を証明するかの様に、ガルーダは彫像の様に動かずにその場にいるだけだった。

 人の姿を見ればすぐに襲いかかってくるようになった最近の怪物達とは、明らかに違う。命令を待つ犬のような忠誠心は、確かに並の怪物とは違う知性の様な物を感じさせる。

 確かに、このガルーダの力を借りれば逃げるのは可能かもしれない。
 そう思ったポップの心を後押す様に、クロコダインが力強く言い切った。

「今のおまえ達の強さでは、ヒュンケルには勝てん……! 逃げるのだ!!」

 その強さに、その判断に、ポップは思わず無条件で従いたくなる。
 実際、ポップもそう思ってはいた。実力が桁違いの上に、肝心のダイがヒュンケルに押されていた……その上、彼と戦って得られるものなどない。

 ヒュンケルの復讐心に付き合って戦うよりも、ここは仕切り直した方がいいと思える。 だが、それにためらいをかけるのは倒れている少女の存在だった。

「だっ…だけど、マァムが…!!」

 さっきヒュンケルに果敢にも戦いを挑んだものの、あっけなく気絶させられてしまったマァムは、いまだに目を覚まさない。

 しかもポップの位置からだと、少々距離がある。ちょうどヒュンケルとクロコダインが戦っている場所を挟み反対側の位置に倒れている少女は、ダイと違って一緒に連れて逃げるのは難しい。

 しかし、クロコダインはマァムにちらりと目をやった後、やはり落ち着いた声で言い切った。

「……心配いらん……。
 このヒュンケルと言う男は、間違っても女に手をかけるような奴ではない……」

 その言葉は、それほどポップを安心させてくれる物ではなかった。なにしろ、マァムを気絶させたのは他ならぬヒュンケル自身だったのだから。
 だが、すぐにポップは思い直す。

(いや……でも、あり得るかも)

 マァムと戦う前、ヒュンケルは女を殺したくはないと言っていた。その時はなんて気障な奴だと思ったのだが、ポップの見た限りそれは嘘とも思えなかった。

 ダイへの殺気だった攻撃に比べれば、マァムへの攻撃はずいぶんと手加減が感じられた。認めるのは悔しいが、ヒュンケルは自分やマァムをほとんど相手にもしていないように思えた。

 女子供と戦うのを良しとはしない騎士道精神を、彼は持っているのかもいれない。
 本当は戦う気がないが、挑んでくるから仕方がなく相手をしてやったと言わんばかりの雰囲気があったのは否めない。

 憎しみの対象であるダイと違い、ヒュンケルには積極的にマァムを害する気持ちはなさそうだ――それは確かだ。

「あの娘はオレがなんとかする!
 今はとにかく、ダイを逃がすのが先決だ!! ハドラーの狙いはダイなのだからな……!!」

 そう急かされても、ポップは動かなかった。
 何かに縛られた様に、目の前の魔法の杖を見つめたまま動けずにいた。

 それは、クロコダインの言葉が信用できないからではない。
 それどころか、彼の言葉は正しいと思える。この場はどう考えても逃げる方が正解だと思えるし、クロコダインの言うことは一々もっともだ。

 その上、ポップにとってはこの上なく都合がいいと言えば、都合のいい話だ。撤退するだけの力すらもない自分達のために、クロコダインが進んで殿(しんがり)を務めてくれると言っているのだから。

 クロコダインの思惑が分からないままであれ、この場は従った方が得策だとポップの心の中の計算高い部分が囁く。
 だが、それでも迷いがあった。

「……で…でもよォ…」

  逃げたくない──。
 まだ、真っ先にそう思う気持ちがあるのが、ポップ自身にも不思議だった。なぜそう思うのか分からないが、この場を逃げてはいけない気がする。

 ぐるぐると悩みながらその場に座り込んでいるだけのポップの耳に、ヒュンケルの激昂が響き渡った。

「…そんなことをみすみす見逃すと思うかッ!!」

「……オレとて、魔王軍の六大軍団長の一人。いざとなれば……おまえと刺し違えてでも……!」

 クロコダインの言葉には、口先だけとはとても思えない気迫が込められている。しかし、ヒュンケルはクロコダインを一瞥して詰めたく言い捨てた。

「無理だな。
 今のおまえには刺し違えることすらできん」

 そう言ったかと思うと、ヒュンケルは手にした剣に力を込める。
 その途端、クロコダインが吠えた。

「ぐわああああ――――ッ!!」

 凄まじい絶叫とともに、巨体のあちこちから噴水の様に血が噴き出す。あまりに衝撃的な光景に、ポップは思わず目を見張る。
 もはや苦痛を隠せずに苦しそうな表情でうめくクロコダインを、ヒュンケルは冷徹な目で見やる。

「やはりな……」

 確信の籠ったその一言だけで、ポップにも分かった。
 クロコダインの、重傷さが。

 彼は無傷ではなかった。ダイとの戦いで受けたダメージが、癒えていないのだ。真新しい鎧を身に付けていたから雄々しく見えたが、その内部は最初から無数の傷があったに違いない。

 今の出血はヒュンケルの攻撃のせいというよりも、クロコダインが力んだせいで塞がっていない傷口が一斉に割れたとしか思えない。見る間に、クロコダインの全身が血に染まり、それにとどまらずに鎧を伝って血が滴り落ちる。
 その痛々しい光景を、ポップはとても黙って見てはいられなかった。

「クロコダイン……ッ!」

  思わず、ポップは目の前の杖を手にして立ち上がっていた――。
                                    《続く》                             
 

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