『切れない鎖 ー前編ー』

 

 ひどく寒くて、心細かった。
 それは昔から何度なく繰り返した、覚えのある感覚だった。だが、何度も繰り返した経験があるからといって、決して馴染めるわけではない。
 まるで、一人取り残された迷子のような心許無い気分が胸を締めつける。

 震えながら、メルルは思う。
 もし、誰かが手を差し延べてくれるのなら。
 それは、どんなにか心安らぐだろう。迷子の子供がひたすらに母親の手を欲する様に、メルルもまた自分を救ってくれる手を待ち望む。

 だが、同時にメルルはその手が自分には与えられないのも承知していた。
 メルルの母親は、メルルが物心つく前に亡くなった。
 記憶にさえ残っていない母親の手は、たとえ夢の中でさえメルルを救ってはくれない。誰もいない薄闇の中で、メルルはただ震えていた。

 寒くて、身体が良く動かない。だが、それゆえか感覚だけは研ぎ澄まされて、いつもよりも遠い場所まで察知できる。
 震えながら、メルルは光を求めていた。
 そう――太陽の光を。

(あ……)

 かすかに、気配を感じた……ような気がする。だが、それは曖昧でとても断言できない。

 あまりにも、距離があり過ぎるのだ。
 遥か遠くに見えるぽつんと浮かぶ光は、関知できる。
 だが、ずっと遠い場所にある光は、近くの闇を際立たせるばかりだ。おまけに、その光は遠すぎた。

 あまりにも遠すぎて、光の正体どころかその場所がどこにあるのかさえも分からない。

(だめ……私の力では、どうしたってあそこまで届かない)

 絶望的がメルルの心を塗りつぶす。
 自分に対しての嫌悪感や無力感がより一層闇を深くし、心細さを募らせる。
 だが、そんなメルルに『その手』が与えられた。

 優しい手が、メルルの額に触れる。
 そっと触れるその優しい手は、警戒心を与えるよりも先に安堵感を与えてくれる。

『……いいのよ、大丈夫だから。大丈夫、安心して……大丈夫だから』

 ゆったりと繰り返される女性の声のリズムが、メルルの震えを消してくれる。
 どこまでも優しいその手と声に、メルルは思わず呼び掛けていた。

「お……母さ……ん……」

 

 

「目が覚めたのね? よかったわ」

 自分を心配そうに覗き込む、中年に差し掛かった女性は、正しく『母親』だった。
 誰もが心に思い浮かべるような、理想的な憧れを体現したかと思える母親……だが、それはメルルの実の母ではない。

 しかし、それでいてひどく馴染みがある様に感じるのは、細面のその顔がメルルのよく知っている人に似ていたからだ。
 性別と年齢こそ違えど、すんなりした眉と大きめの黒い目が、人好きのする親しみやすい笑顔が、その人とそっくりだった。

「あ……?! ポップさんの……お母様……!!」

 驚いて呼び掛けた声が掠れたのは、驚きのせいだけではない。妙にぎこちなくひきつったような感じは、覚えのあるものだった。

「ええ、そうよ。安心してねメルルさん、ここはあの子の家……ランカークス村の武器屋だから。
 ポップとマァムさんが、倒れたあなたをここに連れてきた時は本当にびっくりしたわ」

 スティーヌのその言葉を聞いて、ぼんやりと思い出す。
 旅の途中で、風邪を引いたこと。
 熱が思ったよりも上がって、ポップやマァムがひどく心配そうにしていたのも覚えている。

 最後の記憶では、メルルは二人と一緒に小さな山小屋で休んでいたはずだった。だが、熱が高くなりすぎたのか、その後の記憶が曖昧だ。

「あなたは丸一日、ずっと目を覚まさなかったのよ。
 でも、熱が下がって本当に良かったわ」

 スティーヌの言葉に、そんなにも長く寝込んでいたのかと驚く。
 身体に上手く力が入らないし、喉が痛くてひりひりする。
 しかし、メルルがそれを口にするよりも早く、スティーヌは優しく彼女を抱き起こしながら口許にコップをあてがってくれる。

 おそらくは湯冷しなのだろう、熱くも冷たくもなく飲みやすい温度だった。砂糖が入っているのかほんのりとかすかに甘く、喉に優しい。
 その柔らかい甘さがメルルを潤し、多少なりとも身体に力を与えてくれる。

「ありがとうございます、すっかりとご迷惑をかけてしまって……」

「気にしなくていいのよ、それにお礼を言うのはこちらの方なんだから。
 いつもあの子の方こそが、あなた達にとんでもない迷惑をかけているんでしょ?」

 あの子は昔からちょっと鈍い上に甘えん坊だからと軽やかに笑い、スティーヌはサッと立ち上がる。

「少し待っていてね、メルルさん。お湯と着替えを用意してくるから」

 そう言い残して彼女が立ち去って一人になってから、メルルは首だけ動かして周囲を見回す。
 そこは、きちんと片付けられた小さな部屋だった。無個性な宿屋の部屋に比べ、雑多な品が随所にちりばめられたその部屋は暖かみが感じられた。

 埃っぽさなど微塵も感じられないほど掃除も行き届いているし、物がゴチャゴチャ置かれているのにそれがうるさく見えないように片付けられている。しかし片付いてはいてもどこか飾り気がなく、壁に貼られた地図や部屋の隅に立てかけられた木製の剣の玩具などから、ここは男の子の部屋だと分かる。

 窓から見える光景からここは武器屋の二階だろうと見当をつけながら、メルルは密かに思わずにはいられなかった。

(もしかして……ここって、ポップさんの部屋なのかしら?)

 鮮やかな緑色の布団を見つめながら、そう考えるメルルには退屈する時間もなかった。やがてドタドタとした足音と共に、にぎやかな声が扉越しに聞こえてくる。

「母さん、メルルが目を覚ましたのか?! 意識は? 熱は?」

 扉越しでもはっきりと聞こえる元気な声は、ポップのものだ。それに対してスティーヌが何かを答えたとは分かったが、穏やかで物静かなその声までは聞き取れなかった。
 しかし、その後のポップとマァムの声のやり取りははっきりと聞こえる。

「なんでだよ、なんでおれが中に入っちゃダメなんだよー、ここ、おれの部屋なのにさ」

 こんな時なのに、ポップのその子供っぽい不満の声や、予想通りここが彼の部屋だと分かったのが嬉しかった。

「バカね、少しは気を使いなさいよ! そんなことも分からないの?」

 呆れたように言うマァムの言葉のきつさにハラハラしつつも、メルルは内心感謝せずにはいられない。

 ポップに会いたいのは山々だが、丸一日寝たきりで身繕いもしていないまま会うのは、やはり気が引ける。数日前から野宿続きだったし、しかも調子が悪くてろくに風呂にも入れなかったのだ。

 同性であるスティーヌやマァムならまだいいが、ポップに今の自分を見られるのは恥ずかしい。せめて身繕いを整えてから  そう思ったメルルの心を読み取ったように、部屋に入ってきたのはスティーヌ一人だけだった。

 湯気の立つ洗面器を手に部屋に戻ってきたスティーヌは、手際よく看護をしてくれた。
 
 寝汗をかいた身体を暖かいタオルで丁寧に拭ってくれた上、新品ではないがきちんと洗濯されたこざっぱりとした寝間着に着替えさせてくれる。その上、髪まで整えてくれるのを忘れない。

 さすがに体力的に洗うのはまだ早いと思ったのか洗髪までは許してくれなかったが、熱いお湯で堅く絞ったタオルで拭いてもらうだけでもずいぶんさっぱりした。その際、お湯によい香りのする香草を浮かべてくれたのが効いたのか、香しい匂いがほんのりとメルルを包む。

 そして、荒れた髪をいたわる様に丁寧に梳かしてくれた。
 ここまで甘えていいのかと恐縮してしまうが、スティーヌはやはり優しく微笑みながらこんな風に娘の髪を整えるのは昔からの夢だったのだから遠慮しないでと言ってくれた。

「女の子っていいわね。男の子だと髪の毛を梳そうとしても、嫌がって少しもじっとしてくれないんだもの。
 申し訳ないんだけど、おばさんの夢に付き合ってもらえないかしら?」

 そう言いながら、メルルの髪を優しく梳いてくれる手が心地好かった。そんな風にメルルの身なりを整えてくれた後で、スティーヌは扉に向かってもういいわよと声をかける。

 その途端に扉を開けて飛び込んできたのは、ポップとマァムだった。どうやら、扉のところでずっと待っていてくれたらしい。

「よかった、メルル……! 心配したのよ、一時はどうなるかと思ったわ」

 心底ほっとしたようにそう言うマァムは、幾分やつれているように見えた。普段はきりりとポニーテールに結い上げている髪も、肩に流すままで放ってあるせいかいささかばさついて見える。

 慈愛の使徒であるマァムは、それこそ心底自分を心配してくれていたのだろう。それが容易に想像がつくだけに、メルルは申し訳なく思う。

「ごめんなさい、マァムさん、心配をかけてしまって。迷惑をかけるつもりはなかったんですけど……」

 語尾が小さくなっていくのは、自分のかけた迷惑が身に染みているからだ。
 今の三人は、一種の運命共同体だ。ポップの魔法を封じるという意味で、マァムとメルルは常に協力し合っている。二人の少女がそろって許可を出さなければ、ポップは魔法を使えない状態なのである。

 メルルが熱で意識が朦朧としているでは、ポップの封印を解除できたとは思えない。となれば魔法を使わないまま、マァムとポップはメルルをここまで連れてきてくれたのだろう。

 ここがポップの実家だということを考えると、おそらくは緊急用に持っていたキメラの翼を使ったのだろうと見当はつく。実家に帰りたがらないポップが、自分などのためにそうしてくれたと思うのは嬉しくもあったが、やはり申し訳なさが先に立ってしまう。

 が、ポップはいつものように明るい調子のいい笑顔で、メルルの不安を一蹴してくれた。

「あー、全然迷惑とかじゃないから気にすんなよ。っていうか、お互い様ってやつだろ、こーゆーのはさ。おれが調子が悪い時はマァムやメルルに迷惑かけてんだし、持ちつ持たれつってことでさ」

「そうね。でも、ポップの場合、お互い様っていうにはちょっと多いんじゃない?」

 ちょっぴり皮肉を効かせて文句を言っているように見えるマァムだが、一緒に旅をしているメルルは知っていた。禁呪のせいで体調を崩しやすくなったポップが少しでも苦しそうなそぶりを見せるたびに、一番心配しているのが彼女である事実を。

 それは、ポップも知っていることだ。だからこそ、二人の会話は屈託だがない。

 相変わらずおまえってきついよなぁ、などと言いながら気楽に笑い、マァムだけでなくメルルの心も和ませてくれる。それは母親であるスティーヌも同じらしく、柔らかな微笑みを浮かべながら控えめに見守ってくれている。

 それは思いもしないほど暖かく、居心地のよい空気に包まれていた。だからこそ、次のポップの言葉を聞いた時のメルルの驚きは大きかった。

「ま、狭い家だけどメルルはしばらくここで休んでてくれよ、その間、おれとマァムは一度パプニカに戻ってくるから」

「え……?!」

  思わず絶句してしまったメルルのその驚きを、ポップはものの見事に勘違いしたらしい。

「あ、心配ないって、おれは魔法を使ったりしねえからさ。ルーラなら、ノヴァの奴がいるから平気だよ」

 こともなげにそう言ってのけるポップに、メルルはちくんと胸が痛むのを感じる。

 ノヴァ――かつて北の勇者と呼ばれた少年は、今はロン・ベルクの弟子とリンガイア将軍としての二つの職業を兼ねて活躍していると聞いている。ランカークス村の近くの森の奥と、リンガイア王国というかけ離れた距離を瞬間移動呪文を使って行き来しながら飛び回っているノヴァは、プライドが高く気が強いが案外付き合いのいい少年だ。

 仲間が頼めば、必ず協力してくれる。
 瞬間移動呪文の使い手でもある彼が協力してくれるのなら、確かにポップが魔法を使わなくても平気だろう。

 ポップの魔法  ポップのお目付役と見込まれて旅に出ているメルルは、本来ならば真っ先にそれを心配しなければならないはずだった。だが、そんな心配などメルルの脳裏をかすりもしなかった。

(いえ……私の心配は、もっとわがままなことなんです)

 ポップとマァムが、二人でパプニカに行く。
 それを聞いただけで、こんなにも動揺してしまった自分は途方もない身勝手な人間だと思う。だが、それがメルルの驚きの正体だった。

 ずっと三人で旅をしているし、それに不満を抱いているわけでもないのに、その旅が二人旅になるかと思うだけで胸がさざめくのを感じる。

 風邪をこじらせて迷惑をかけた自分をこんなにも気遣ってくれているのに、自分だけがこの場に取り残されるという不安をどうしても感じてしまう。
 その心のままに、つい、引き留める言葉がついてでる。

「で、ですが……、ここはポップさんの家なのですし、少しゆっくりなさったらどうでしょう? ポップさんだって、疲れがたまっているでしょうし……」

「いや、平気だって。ここんとこ、すっげー調子いいんだよ」

 メルルのちょっぴり邪な気持ちなどきっと想像すらもしていないポップは、屈託のない口調でそう言った。体調が悪い時ほど強がりを言うことの多いポップだが、今の言葉に嘘がないことはメルルにも分かる。

 ここのところポップは食欲もあるようだし、夜もよく眠っている様子だった。むしろ体調の悪化で歩くのが遅くなっていたのはメルルの方で、彼女のペースに合わせたゆっくり目の旅はポップにとっても悪くはなかったようだ。

「それにそろそろ姫さんに報告もしなきゃだし、ちょっと聞きたいことや調べたいこともあるからさ」

 そうまで言われると、メルルにはそれ以上何も言えなくなってしまう。
 元々、ポップ達三人の旅は、パプニカ王女であるレオナの特別な計らいによって実現しているのだ。ポップの魔法に制限をつけて無茶を封じたのも、また、旅費を全面的にバックアップしてくれているのもレオナだ。

 それだけにレオナに対して三人は感謝も感じているし、彼女からの頼みは極力聞くようにしている。定期的にレオナと連絡をとるようにしているのも、彼女に対する配慮の一つだ。

 それに、王族としての知識やコネを持っている彼女に対して、ポップが相談を持ちかけるのは珍しいことではない。メルルやマァムでは読めもしない古文書を調べる時など、ポップはレオナや師匠であるマトリフの手助けを借りるためにパプニカに戻りたがる。

 今回、パプニカに戻るのはポップにとってもレオナにとっても、メリットが大きい。それを思えば、役に立たずに寝込んでいるだけの自分の側に付き添ってほしいとは言えなかった。

 それでも心の波を抑えきれずに俯くメルルに、マァムが優しく励ましの言葉をかけてくれる。

「とにかく、メルルは何も気にしないで数日の間しっかり休んでいてね。大丈夫よ、心配しないで。ポップのことは私がちゃんと見張っておくから!」

 いかにもマァムらしい親身な言葉と笑顔は、眩いほどだった。彼女が本心からメルルを案じてくれているのは分かるし、また、責任感が強くて真面目な彼女はきっと言葉通りポップが無茶をしないかどうか見張ってくれるだろう。
 だが、それが分かっていながらメルルは少しも安心などできなかった。

 恥ずかしいことだが、マァムを羨む気持ちも抑えきれない。自分が同行できない時も、ポップと一緒にいられる彼女が心底羨ましいと思ってしまう――。

(……私ったら、何を考えているのかしら)

 小さく首を横に振り、メルルはその気持ちを振り払う。少なくとも、振り払おうと努力はした。
 ただでさえ風邪を引いて迷惑をかけたのに、これ以上二人にさらにわがままを言うわけにはいかない。メルルは何とか笑顔を取り繕って、二人へ言った。

「……ええ。では、お言葉に甘えて、しばらくここで養生させていただきます。あの、それでよろしいでしょうか」

 最後の言葉はポップ達ではなく、ポップの母親に向かっての言葉になる。いくらその家の息子に許可されたとはいえ、家の主は当然、彼ではなく彼の両親だ。

 メルルにとっては、前に一度顔を合わせたことがある程度の知人にすぎない。なのに、病人の看病なんて面倒を押しつけてしまっていいのかどうか不安だったが、スティーヌはどこまでも優しくにっこりと笑う。

「ええ、もちろんですとも。ここを我が家と思って、ゆっくりしてくれていいんですよ」
               《続く》

 

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