『竜の定め 1』 |
「フン……! あの大馬鹿野郎めが、ついに行きやがったようだな」 そんな呟きをこぼしながら、岩影からのっそりと現れた老人に真っ先に気がついたのは、アバンだった。 「マトリフ……! あなたも来ていたんですか?」 「一応な。ああ、見物に来ただけだから、構わなくていいぜ」 駆け寄って来ようとする一同に対して、マトリフは野良犬でも追い払う様にシッシと手を払って手近な岩に腰を下ろす。 それにキルバーンの見張りをしなければならないという重要な用事もあるし、構わなくてもいいと言いきった見物客に気を遣うだけの余裕もない。 「どうしたんです、わざわざ来るだなんて。……身体は大丈夫なんですか?」 知識だけは貸してくれるものの、めったなことでは自分の洞窟から出ようとしないマトリフが病を患っていることを知る者は、ごく少ない。 他人に余計な心配をかけることを好まないマトリフがそれを伏せたがっているのを知っているアバンは、他人に聞こえない様にと気遣いながらこっそりと囁く。 「ふん、そんなくだらねえことを心配している場合かよ? おまえらが心配しなきゃならねえことは、他にあるだろうが」 「……ええ、そうかもしれませんね」 頷きながら、アバンは不安げに魔法陣に目をやった。 フローラを通じてポップが何をやろうとしているのかを知った時、アバンは強烈なジレンマに悩まされた。 通常では思いもつかず、また例え思いついたとしても実現の手順を揃えるのさえ困難極まりない秘術。生半可な魔法力では発動さえできなかったであろう秘術を成功させた弟子を褒めたたえ、協力したいと思う気持ちと。 その危険性を思い知らせるために叱り飛ばし、無理やりにでも止めてやりたいと思う気持ち。 葛藤の末、結局アバンが選んだ選択肢は前者だった。 最後の最後まで、師として弟子の無謀に反対しておくべきだったのではないか、と――。 「ポップの野郎がこの術を成功させたからには、ダイは必ず戻ってくるさ。十中八九の確率でな」 その言葉を聞いたのは、アバンのみだった。――だが、喜べなかった。 他に比類のない観察眼を持つマトリフは、安易な慰めによる糠喜びが、物事が上手く行かなかった場合いかに手酷いダメージを与えるか、よく知り抜いている。 それだけに、マトリフは安易な励ましなど言いはしない。その頭脳と経験から驚く程正確に先の展開を見通しながらも、確定するまでは自分の考えをおくびにも見せない思慮深さを持っている。 そのマトリフが十中八九と保証したのなら、それはほぼ100%の予言に等しい。 だからこそ、不安だった。 わざわざ他の仲間達には聞こえない様に自分にだけよい情報を与えてくれた事実を、アバンは親切とは受け止めなかった。 「『ダイ』は、と言いましたね。では、ポップは……?」 尋ねる声が掠れるのを、アバンは自覚していた。 「ポップの野郎が戻ってくる確率は……三割……いや、いいとこ二割以下ってところだな。それも、最大限によく見積もっての話だ」 感情の籠っていない淡々とした口調には、さっきのダイの生還を保障した時と同じだけの真実味が込められていた。 「オレは手伝いになんぞ、来たんじゃねえ。 マトリフが自分にだけ真実を先に教えてくれた理由を、アバンは苦みと共に悟る。 ダイの生還は、仲間達にとって最大の願いだ。誰もがそれを望んでいたし、そのための努力など惜しまないだろう。 ダイの帰還と引き換えに、仲間の命が失われる……それがどんなに恐ろしく、また胸を荒らす後悔となるのか、彼らはすでに知っているのだから。 それを宥めるために手を貸せと、言外に要求してきた老魔道士の思惑は理解する。 もちろん、アバンもこの真相に衝撃を受けるとマトリフは承知している。弟子に対して我が子同然の愛情を注いできたアバンにとって、弟子の死は大きなダメージを与える。控えめに言っても、打ちのめされるだろう。 だが、それでは駄目だ。 勇者一行がポップの未帰還を知る時には、アバンはすでに立ち直ってマトリフと共に彼らの動揺を抑える役割を担わなければならない。 それがポップやマトリフの望みならば、手を貸すのは吝かではない。だが……それはひどく心を潰す作業になるだろう。アバンの育てた弟子達の中でもっとも手を焼かせてくれた弟子は、卒業して実力的にはとっくに師を追い越したにもかかわらず、未だに手を焼かせてくれるらしい。 「……相変わらず、困った子ですね」 アバンのごく小さな呟きを聞かなかったふりをしたまま、マトリフは鋭い目でじっと魔法陣だけを見つめていた――。 魔界。 彼らの多くは、何が起ころうとしてるのかは分かるまい。ただ、今までにない不吉な前兆を漠然と感じているに過ぎない。 今、魔界全土を震わせている鳴動は、古代の神々の争いの名残だと。古代の神々によって生み出された太古の精霊の力で作られた封印と、それを破ろうとしている神にも匹敵する力を持つ古き竜との力がぶつかり合いこそが、この鳴動を生み出しているのだと。 言わば、これは胎動だった。 その余波が世界全土を揺るがす鳴動となって伝わっているのだ。 岩の塊に過ぎなかった身体に、命が宿っていく。 強いて言うのならば竜に見えなくもないと言えないレベルだった造形がどんどん立体的になり、なおかつ洗練されていく。見えない彫刻家の手が高速で動いているかのように、無骨な岩の固まりは精緻な彫像へと変化していった。 さらに、ゴツゴツとした岩の質感に、生き物特有の息吹が生まれる。 奇跡とも思えるその光景は、ともすれば目を奪われそうになる程に美しい。しかし、その美しさは恐怖を伴う美だった。 冥竜王が実体を取り戻すに従って、空恐ろしいほどの覇気がその場に満ちていく。空気そのものが変化していくかのように、張り詰めた物がその場に広がっていく。 肌が緊張感で泡立つのが自分でも分かる。 だが、ダイは恐れは感じなかった。 もちろん、長い間徒手空拳の戦いを強いられた後で手にした剣は、これで戦う牙を取り戻したという実感を与えてくれたし、闘志も掻き立ててくれた。 自分の――勇者のすぐ側に立っている魔法使い……彼の存在こそが、ダイに勇気を与えてくれる。 忘れて久しい希望が、胸を暖かく照らしてくれる。 「さて、いっちょ始めますかね」 軽い口調で言ってのけるポップの手から、揺らめく炎が生まれる。そして、もう片方の手からは冷気をまき散らす氷が。その段階でダイにはポップが何の呪文を使おうとしているのか、分かった。 しかし、ヴェルザーにとってはそれは初めて見るものだったようだ。長寿を誇る魔界の民でさえ感嘆するほど、永劫にも等しい時間を生きてきた古代竜の知識にない呪文は、彼の興味を引きつけた。 「……なんのつもりだ、人間よ」 「へへっ、知りたいかい? なら、しばらくの間、大人しくご見学願いたいもんだね」 おどけたポップの口調に、ヴェルザーは喉の奥で低く唸る。それは、嘲りに近いとは言え笑いを含んだものだった。 「つくづく面白い人間だな、おまえは……」 「お褒めにあずかりまして、光栄だね」 ふざけた口調で軽口を叩く間も、ポップの手の動きは止まらなかった。 その光景に、ダイでさえ思わず目を奪われた。 事実、それはある意味で奇跡だった。 光で出来た弓矢と、蘇りゆく石の竜……そのどちらもが甲乙つけがたい輝きと莫大なエネルギーを感じさせる物だった。 意識せず、ダイはゴクリと生唾を飲み込んでいた。 いや……それとも、その気になればすぐに復活できるのにも関わらず、わざと時間をかけているように見せているだけなのか。魔法が不得手なダイには想像もつかない、戦い以前の鍔迫り合いがそこには発生していた。 名人の打つチェスの一手が初手から勝敗を決めるように、ポップとヴェルザーは戦いの前から優位を争って見えざる心理戦を繰り広げているらしい。 緩やかに石から竜へと戻りゆくヴェルザーにぴたりと狙いを定めて、ポップは魔法の弓を作り上げながら見えざる弦を引き絞っている。 タイミングを計っているのは、ポップとて同じことだ。 ――グゥォオオオオオオオオオオ――――――!! 突然の咆哮が、魔界を切り裂く。 地面が不気味なほどに揺れ、変化のない魔界の灰色の空に稲光が明滅するのが見える。だが、それ以上に強力だったのはヴェルザーから一気に解き放たれた闘気の固まりだった。 ダイが竜闘気を高めた時に周囲に熱気や風を呼び起こすように、ヴェルザーの咆哮は周囲に竜巻にも似た暴風と冷気を巻き起こす。 もし、それを不意に喰らったのであれば、ポップはひとたまりもなく吹き飛ばされてバランスを崩し、せっかく練り上げていた極大消滅呪文も破れていたに違いない。 天才的な魔法センスと微妙なバランスの上に成り立つ極大消滅魔法は、術者がよろけて足を滑らせただけでも発動不可能になる脆い魔法だ。 ずっと前、バーンとの戦いの最中でハドラー親衛隊達と初めて戦った時、敵の不意打ちをいきなり食らった時のように。 「ダイッ!!」 ポップがダイの名を呼び終わる前に、ダイはすでに行動に移っていた。両の手の竜紋章の力を全開にして、ポップを支えるようにすぐ脇に立つ。 だが、ポップの側に寄り添ったのはそれだけが理由ではない。 目を見交わせる必要すらない。ポップが何を考え、何を狙っているかなど手に取るように分かった。 「うぁああああああああ――――っ!」 ヴェルザーの物とは違うが、それも紛れもなく竜の咆哮だった。 ダイの掌の中に、ダイが使えるもっとも強い魔法が高められる。ポップ自身はダイがその魔法を使うのを見たことが無いはずなのに、彼の計ったタイミングは相変わらず完璧だった。 ダイが術を自然に完成させるのと全く同じタイミングで、ポップもまた術を組み上げていた。コンマ一秒のズレも無く、二人の手から必殺の魔法が全く同時に解き放たれる。 メドローアとドルオーラ……二つの超魔法が、ヴェルザーめがけて射かけられた――! 《続く》
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