『平和な村の片隅で ー後編ー』
  
 

「…………送り出すさ」

 ぼつりとした声が、その場の沈黙を破った。
 それは静かな、だがはっきりとした意思の込められた声だった。

「あいつがまだガキのままなら、殴ってでも引き留めるさ。だが、あいつはいつの間にか、一人前の男になっていやがった」

 そこまで語ってから、ジャンクは露骨に顔をしかめる。それが、息子の話をする時の彼の癖だと、もうバランは知っていた。

「まっ、年齢でいや、あいつなんざまだガキなんだがよ。って言うか、あの馬鹿は中身もたいして成長したとは言えねえけどな。
 でも、それでもあいつは――もう、男だ。自分の信念のためなら、命だって惜しくはない……そんな目をしていやがった」

(確かに、そうだったな……)

 無言のまま、バランはジャンクの意見に賛同する。
 バランの知っている限り、ポップはまさにそうだったのだから。

 自分を睨みつけていた、ポップの苛烈な目をバランはまだ記憶していた。まだ少年でしかない年齢だったにも関わらず、覚悟を決めたようなあの目は、死地へ挑む戦士のそれだった。

「だから、オレは……死ぬかもしれねえと知っていても、あいつの旅立ちは止めなかった。魔王軍との戦いの中、あいつは一度村に戻ってきたが、あの時にはもう、あいつは勇者の魔法使いだった。
 それが分かったから、オレはそのまま、あいつを送り出してやったよ」

「…………」

 意識せず、バランは瞑目していた。
 今、バランの目の前にいるのは、戦士でも何でもないただの武器商人にすぎない。

 だが、それでいて、バランは久しく忘れていた感情を思い出す。
 自分では到底適わない相手を前にした時に感じる、圧倒的な敗北感。畏怖にも似たその感情を味わうのは、ずいぶんと久しぶりだった。

 しかし、それは悪い気分のするものではなかった。だからこそ、バランは尊敬の念すら込めて静かに言った。

「……潔い、ものだな」

 ジャンクの器の大きさに、バランは感動すら覚えていた。
 人間ではない相手でも差別しないこの男は、息子の敵を前にしてでさえ自分の意見をブレさせることはない。

「私なら、とてもそうはできん」

 それは、バランの本音だった。
 実際、バランはダイと共に死闘に挑む覚悟すらなかった。超魔ハドラーとの戦いの最中、彼に埋め込まれた黒の核晶の存在に気づいたバランが選んだのは、ダイを眠らせて一人で戦う道だった。

 結果的に見れば、おそらくバランのその判断は間違っていたのだろう。
 その後の戦いの展開がどうなったかなど知る由もないが、バランが戦線離脱した後にダイ達が勝利を収めたことを考えれば、その実力を認めざるを得ない。

 もし、あの時、ダイの意見を受け入れて二人がかりで戦っていたのならば――一瞬、そう思いはしたが、バランはすぐに自分で自分を否定した。
 己の欠点を、バランは嫌と言う程承知している。

「私なら……息子の仇に会ったのなら、自分を抑えられる自信は無い」

 その言葉は、掛け値無しの本心に他ならない。
 実際、バランはそうした。

 息子ではなく、妻の仇に対してバランは寛容さを見せるどころか、怒りを爆発させた。仇を討つだけにとどまらず一国を滅ぼし、人間全てにまで復讐の対象を求める程の怒りに身を任せてしまった。
 だが、ジャンクはやはり、バランとは違っていた。

「そりゃあ、あのガキがオレの目の前であんたに殺されたのを見たってんなら、話は別だったろうな。適う相手じゃないって分かってても、オレも玉砕覚悟で突っかかっていたかもしれねえ。
 けどよぉ、今、そんな話を聞かされたところで、どうにもそんな気にはならねえんだよな。あのガキはちゃんと生きているし、あんたのことは今でも悪い奴には見えやしねえよ」

 少し困ったような顔で、頭をポリポリと掻きながら話す口調は気安いものではなかったが、軽いものではなかった。

「それにさっきも言っただろう、オレは分かっていてもあいつを止めなかった、と。
 それを思えば――オレには、あんたを責める言葉なんかねえ」

「そうか……」

 胸に静かに広がる感情が、安堵なのか、失望なのか――バランには、判断がつきかねた。

 他人に責められると言うのは、時として救いとなる。
 自分で自分を責める辛さに比べれば、他人に叱責される方がいっそ気楽というものだ。

 しかし、自分の息子が死地へ向かうのを無言で見送ったこの男は、息子の敵に対しても同じ態度を貫くつもりらしい。
 さすがは、武器商人と言うべきか。善にも悪にも傾かない、潔いまでの公平さは、ある意味で武器そのものだ。

「いずれにせよ、オレはあんたとは敵や仇としては出会わなかった。それは、多分、幸運だったんだろうな」

「同感だ」 

 ニヤリと笑うジャンクに対してバランは笑みこそ浮かべなかったものの、素直に頷いた――。





 鳥のさえずりが、心地よく森に響いていた。
 バランは、一人、森の中を歩いていた。山間に位置するランカークス村は、少しでも村から離れれば周囲には森が広がっている。

 危険な獣や怪物はほとんど住んでいないという話だが、すぐ近くにベンガーナ王国に向かう街道があるせいか、わざわざ不便な森へ行く人々はほとんどいないらしい。

 豊かな緑に溢れる森はバランの目からは、静かないいところだと思えるのだが、田舎の村に住む人々にとっては有り触れすぎていてその価値を感じ取れないらしい。

 そのおかげで、今、バランは森を独り占めしているも同然だった。
 ランカークス村の穏やかな生活も悪くはなかったが、人の気配の感じられない森の中を散歩するのは無条件に落ち着ける。

 ジャンクとのいささかきわどい会話を終え、薪割りも片付けたバランは、少しばかり一人になりたいと考えていた。と、その思考を読み取ったかのように、この森を教えてくれたのはジャンクだった。

『また、旅に出るなら引き留めねえが、村に留まるってんなら歓迎するぜ。オレんちにならいつまでだっていてくれたっていいし、なんなら、村はずれの森に空いている猟師小屋があるぜ。まあ、ボロくて小さな小屋だが、男一人、住めない場所でもねえよ』

 そう言って、見物したいのなら散歩にでも行ってくればいいと背を押してくれた。

 つくづく不思議な男だと、バランは思わずにはいられない。意外と人が良くてお節介な気質があるようだが、やることなすこと型破りで、何を考えているのかよく分からない。

 だが、不快ではなかった。
 実際にジャンクに進められた通り、森に来てみてよかったとつくづく思える。

 ジャンクの言っていた小屋は、本当に小さな小屋だった。しかし、思っていたよりも造りがしっかりしているのか、雨風を凌ぐのに不自由はなさそうだった。

(……似ているな)

 ふっと胸を過ぎるのは、懐かしい思い出だった。
 辺境の森や山小屋などどこでも似たり寄ったりだと言ってしまえばそれまでだが、思い過ごしとは思えない程、この森はテランの森に、そしてそこにあった小さな小屋に似ていた。

 ソアラを攫うようにアルキード王国を飛び出した後、バランが逃亡先に選んだのはテランの森の奥だった。

 あの時、バランには分かっていた。
 一国の王女、それも唯一の王位継承権を持つ惣領姫を国王の許しもなく連れ出して、ただで済むわけがないと。

 いずれ、追っ手が来るのは分かりきっていた。だからこそ、バランは追っ手の目を眩ますために隠れ潜む決意を固めた。

 治外法権扱いとなる場所でひっそりと暮らすことが、追っ手の目を少しでも眩ませ、ソアラを守る一番の方法だと思った。当時はそれが最善手だと思ったし、今でもそう思っている。

 おかげで、ソアラがダイを産む時間を稼げたし、森の奥で静かだが穏やかな、なにより二人きりの生活を送ることができた。バランはその選択肢にこの上なく満足していたし、ソアラもいつも微笑んでくれていた。

『私は……あなたといられるなら、どこにいても幸せなの』

 とびっきりの秘密を打ち明けるように、何の衒いもなく嬉しげにそう言ってくれたソアラの言葉を、バランは忘れたことはなかった。
 その言葉にどんなに救われたか、きっとソアラは知るまい。

 なぜなら、バランは想いを口にするにはあまりにも不器用な男だったのだから。
 彼女には、伝えたい言葉の半分……いや、その百分の一も告げられなかった。ソアラを失った後、バランは何度となく後悔したものだ。

 もっと、彼女に伝えておきたい気持ちを、素直に告げておけば良かった、と――。 

 すでに十何年も持ち続けている深い後悔を、バランは今日も繰り返す。思っていたよりも長い時間、そうしていたのか彼の周囲に霧が立ちこめだしていた。

 不慣れな森の奥では、霧さえも危険な存在だ。霧は方向感覚を容易く狂わせ、徐々に体温を奪っていく。そろそろ、戻った方がいいかもしれないと思い始めた時のことだった。

 突如、明るさが広がってきた。
 その方角の霧だけが消え、急に日が照ってきた様な気がした。

 同時に全身を包む、暖かな気配を感じる。それを感じた途端、バランは弾かれたように振り向く。敵対的な気配ではないとは言え、ここまで近くにくるまで他人の接近に気がつかなかった事実に驚きながら。
 だが、そんな驚きなど軽く消し飛ばす驚愕が、バランを打ちのめす。

「……っ!?」

 たとえ、たった今、太陽が落下したとしてもこれ以上の驚きを感じることはなかっただろう。

 今、バランの目の前にいるのは、一人の娘だった。
 いったいどこから現れたのか、まるで降って湧いたように忽然と現れたのは、黒髪の娘だった。

 緩やかなウェーブのかかった髪を長く伸ばし、大きな、人を真っ直ぐに見つめる目をした若い娘が、そこにはいた。
 目が合った途端、彼女は感極まった表情を浮かべる。

「バラン!」

 あの頃のままのソアラが、ためらいなくバランの胸へと飛び込んでくる。その細い身体を受け止めた後で、バランは彼女を抱きしめていた自分に気がついた。

 夢なら、醒めるな――。

 心の底から、バランは願う。
 この、太陽のように眩い輝きを、日溜まりにいるような暖かな気配を、女性の身体特有の柔らかさを、いつまでも味わっていたいと、全身が叫んでいた。
 たとえ夢でもいい、愛しくて愛しくてたまらないこの女性を、もっと抱きしめていたいと心が震える。

「バラン……、やっと、会えたのね……」

 囁くように呼びかけられるその声までもが、記憶のままだった。恥ずかしいのか、遠慮がちにバランの背に回される細い指先の感触に、甘美な震えが走る。

 己の腕の中にすっぽりと収まる華奢な身体をしっかりと抱きしめながら、バランは軽く目を閉じた。しかし、視覚情報を閉ざして尚、彼女の存在感は圧倒的だった。

 むしろ目が利かない分、他の五感で補おうとばかりに、バランの感覚の全てが彼女へと向かう。耳が彼女の声を、吐息を捉えようと神経を張り巡らせ、鼻は彼女の匂いを求め、腕は彼女の暖かさを決して逃さないとばかりに、しっかりと抱きしめる。

「会いたかったわ……っ」

 弾むような、それでいて涙声の言葉に、バランは頷いた。

「私もだ」

「嬉しい……、夢みたい」

「そうだな……夢なら――」

 醒めないで欲しい。

 そう、願いながら、バランはゆっくりと言いきった。

「終わる時間だ」





 一度、閉じた目をゆっくりと見開いた時は、世界はすでに一変していた。
 ついさっきまでの静かな森の光景も、牧歌的な田舎の村の光景など微塵もなく、そこは一面の雲海だった。

 それはこの上もなく幻想的で、この世のものとも思えない程美しい光景ではあったが、バランはごく平凡な村の風景が消えたことを残念に思う。
 なにより、この腕に抱きしめた柔らかな温もりが消えてしまったことが、胸を締め上げられるほど哀しく、寂しくてたまらなかった。

(……未練なことだ)

 自分でそう望んだ癖に、寂しさを感じる身勝手さを自嘲しながらバランはっかりと目の前の現実を受け止める。
 そして一面の雲海の中、雲と見まごうばかりに白く輝く美しい竜を見いだした。

 薄く、儚いその姿はうっすらと透けて見える。だが、それでいて尚、その竜は気高くも美しかった。

「マザードラゴン。やはり、あなたでしたか」

 最上級の敬意を込め、バランは彼女に話しかける。
 竜の騎士を産み、また、竜の騎士が寿命を終えて天に召される時に迎えに訪れるという聖母竜は、竜の騎士にとっては母親以上の存在だ。

「ええ。……余計なことでしたでしょうか?」

 気遣う気配を漂わせた優しい問いに、バランは首を横に振った。

「いいえ、とんでもない。心から、感謝しております」

 すでに、バランは悟っていた。
 今までバランが見ていたものが、『夢』だったのだと。

 竜の騎士は、戦いに明け暮れる生涯を送る宿命を持つ。夢の中で味わったような、平和な生活など享受できようはずもない。その生涯を哀れんでか、聖母竜は本来ならば見られるはずもない夢を竜の騎士に見せてくれた。
 それは、命を落とした竜の騎士と聖母竜しか知らない、密やかな夢だった。

「あまりにもリアルな夢で、驚きました」

 本心からのバランの感想に、マザードラゴンは静かに答える。

「あなたが竜の血を分け与えた少年が、いましたから」

 マザードラゴンの起こせる奇跡は、竜の騎士に関わることに限定されている。

 その意味では、普通の人間の生活を疑似体験させるのは、マザードラゴンにも不可能な話だ。だが、たった一滴とは言え、竜の騎士の血を受け入れた人間が同世代にいるのならば、話は別だ。

 マザードラゴンは、竜の騎士の魂に深く関与する能力を持つ。
 死にかけたダイの魂の中に入り込んだ時のように、己の血の分けた相手の心に入ることもできれば、記憶を読み取ることも可能だ。

 その力は、竜の騎士の血を受けて生還した者に対しても発揮できる。
 ポップの魂の記憶を元にしたからこそ、平和な村の光景はこの上ない現実味を帯びた。

 死した竜の騎士の魂を慰めるために、聖母竜は末期の夢を見させてくれる。その夢を少しでも現実に近づけようと努力するのは、聖母竜の思いやりに他ならなかった。

「あなたの人生は、歴代の竜の騎士の中でも特に辛く、戦いと悲嘆の繰り返しでした。だからこそ、せめて優しい夢で彩ってあげたかったのですが……」

 どこか残念そうに語る聖母竜の慈悲を、バランは疑いもしなかった。あの夢は、どこまでも優しく、暖かったのだから。
 バランが望めば、夢の中とは言えダイ……最愛の息子に会うことはできただろう。

 疑似的な夢とは言え、ダイはパプニカ城にいるとジャンクははっきりと教えてくれた。ダイだけではなく、ポップやヒュンケル、クロコダインなど戦いを共にした者達と顔を合わせることもできたに違いない。
 息子とも思っていたラーハルトが生きていたことも、ジャンクから聞いた。

 再会の喜びは、すでに確約されていた。
 だが、慣れぬ平和に戸惑い、ランカークス村に留まり続けたのはバランの方だ。

 そんなバランを思いやって、聖母竜は彼が望んでやまない人間を――ソアラとの再会さえも叶えてくれた。

 バランが望めば、あの夢はいつまでも見続けることができた。戦いの中で人間を傷つけてしまった罪を懺悔し、人間に許され、人間を許して平和な村で暮らす夢を。穏やかで静かな生活の中には、ソアラとの再会までもが用意されていた。

 それは、夢に過ぎないかもしれない。だが、どこまでも限りなく現実に近づけられた、望まない限りずっと見続けられるはずの夢だった。
 もしバランが望むのなら、優しい夢に抱かれたまま、至福のまどろみを享受できたはずだったのだ――。

「ですが、夢は終わりました……。
 夢から目覚めてしまったからには、仕方がありません。あなたは、選び取る権利があります」

 凜とした声に、意識せずに背筋が伸びる。
 彼女は問う。

「最後の正統なる竜の騎士バランよ、私はあなたに問います。
 あなたが望む者は、転生ですか? それとも、永遠ですか?」

 聖母竜は今まで歴代の死亡した竜の騎士達に、末期の夢を見させてきた。その夢にまどろみながら魂を浄化させるのなら、それはそれでいい。だが、問題となるのはそれが夢だと気がつき、目覚めた魂だ。

 真実に気づいた魂に対して、聖母竜は常に二つの道を選択させてきた。
 転生を願うか、それとも竜の紋章と同化して留まり続ける道を選ぶか。
 一度、死んだバランだからこそ、この問いかけの慈悲深さを理解できる。この選択肢を竜の騎士に与えるのは、聖母竜の情けゆえだった。

 竜の騎士は、本来は兵器だ。
 経験を積み重ね、データを蓄積させることで兵器設計の向上を図れるのなら、竜の騎士の魂も同じことだ。

 人間と違い、死した竜の騎士はその魂を聖母竜に還し、己の経験を竜の紋章に残す。そして、本人は全ての記憶をなくして、新たなる竜の騎士として生まれ変わる。

 それは人間の輪廻転生とは全く仕組みの違う、極めて限定された転生だった。ごく限定的とは言え記憶の一部と、戦いの経験を引き継ぎ続けることのできるそれは、ある意味では永遠の命を確約されているとさえ言えるかも知れない。

 しかし、その永遠は竜の騎士の幸せを保証してくれる物ではなかった。飽くまで、兵器としての利便性を追求したからこそ与えられる永遠だった。

 その仕組みに乗っ取るのなら、選択肢など与える必要はない。魂を手放すことで竜の騎士の記憶が少しでも弱まる恐れがあるのなら、転生の自由を与えるのは神々にとって何の益にもならない。

 問答無用で記憶だけを消し、生まれ変わらせた方が効率がいいに決まっている。

 しかし、聖母竜にとって竜の騎士は至高の兵器と言うだけではなく我が子でもある。
 子に情けをかけ、幸せを願う気持ちは竜であっても変わりはない。

 故に、マザードラゴンは愛する子にせめてもの選択の余地を与えてきた。彼女自身も神々によって作り出された生物兵器の一環であることを考えれば、それは兵器とは思えぬ優しさだ。

 その真摯な優しさに感謝を抱きながら、バランは自問自答するために目を閉じる。

「…………」

 ――竜の騎士であり続けたい。
 そう思う気持ちが、バランの根幹にあった。
 長年に亘って、人間に拘り続けた竜の騎士の想いがあった。

 バラン自身は意識していなくとも、ずっと心の奥底にこびりつき続けていた古代の竜の騎士の想いが。何度生まれ変わってでも、何度繰り返しても忘れることのできない、なにか、大切な約束をしていたような気がしていた。

 ディノス、と言う名をバランは知らない。覚えてはいない。彼が何を望み、何を願って竜の記憶に影響を及ぼし続けていたかも、知らない。
 だが、それでいて今、バランは長年に亘る約束を果たしたかのような爽快感を味わっていた。

 心の奥底、竜の騎士の魂の一部を縛りつけ続けていた約束から解放された今、バランの心はバランだけのものだった。
 だとすれば、バランが望むものを一つだけだった。

「母よ……、もし叶うのならば、私は転生を選びます」




 
「……了承しました」

 しばしの間を置いて、マザードラゴンは静かに頷いた。
 その態度からは、彼女の本心は窺い知ることはできない。バランの選択に対して満足しているのか、それとも落胆しているのか、それさえ分からなかった。

 しかし、マザードラゴンがバランの選択を尊重してくれたことだけは確かだった。

 マザードラゴンは、すでに死んでいる。
 彼女の肉体は、すでに滅びた。と言うよりも、その肉体と生命エネルギーの全てを、ダイへと託してくれた。バランの無茶な望みに応じて、自分の身も顧みずに子の願いを叶えてくれた。

 そして今、彼女は魂だけの存在となっても未だにバランを気に懸け、救おうとしてくれている。

 その無償の愛は、まさに母親ならではのものだった。
 その親心は、バランにも分からないでもない。我が子の身を案じ、我が身に変えてでも子の未来を願うのは、親ならば当然の心理だ。

 マザードラゴンに習うのであれば、バランも永遠を望むべきだったのかもしれない。
 これまでのようにダイの紋章に魂を眠らせたまま、いつの日か彼が人生を終えて共に生き、見守り続ける……そうしようと思わないでも無かった。

 しかし、バランは夢の中とは言え、ジャンクに会った。
 息子の選んだ道に口出しせず、黙って見送ったあの男の潔さが、バランの中の何かを変えた。

 使命感に従うのではなく、他人の生き方をありのままに認め、己の一番の望みのままに生きる道もあるのだと、気づかせてくれた。
 ならば、心のままに道を選ぶのも悪くはない。

「バランよ……あなたの息子に伝えたい言葉はありませんか?」

 気遣うように、マザードラゴンがそう声をかけてきた。
 これが最後だからと、言外に伝えていることを知った上で、バランは大きく首を横に振った。

「いえ、不要です」

 マザードラゴンの心遣いは嬉しいが、自分も、ダイも、とんだ不器用者だ。おそらく、最後に言葉を交わす機会をもらったところで役に立てることなどできはすまい。

 自分達が語り合うのなら、きっと言葉ではだめだ。
 戦いの中で、もしくは背中で、伝えるのがやっとだろう。しかし、それはもう済ませてある。
 ならば、もう思い残すことはなかった。

 白く、眩い光に包まれながらバランは静かに目を閉じる。おそらくは、この光こそが自分を生まれ変わらせるものなのだろうと、バランは理解していた。
 今まで自分を自分たらしめていたものが、少しずつ消えていくのが分かる。その中には、決して忘れたくない思い出も含まれていた。

 それが寂しく無いと言えば嘘になるが、生き物の本能としてバランは知っていた。
 これこそが、転生なのだと。

 全ての記憶を失い、魂は生前の罪から浄化され、また、一から生き直す。それは、罪人にとってはこの上ない救いだ。

 そして、記憶は失っても縁は失わない。
 深く関わり合った魂達は、それぞれの心に縁を残す。縁は、見えない糸のように魂と魂を結び合わせ、いつか巡り合わせてくれるだろう。ならば、別れも怖くはない。

 願わくば、その縁の中には夢の中で結んだ縁も含まれるといいと思いながら、バランは最愛の家族の姿を眼裏に描く。

(ソアラ……ダイ……!!)

 その思いを最後に、バランの魂は眩いまでの純白の中に飲み込まれていった――。





「……イ、ダイ? おい、起きろって、ダイ」

 乱暴に揺さぶる手よりも、その声のせいでダイはようやく目を開ける。寝起きでも、この声の主を間違えることはない。
 だが、その顔がぼやっと滲んで見える事実にダイは戸惑う。

「あ。あれ?」

 ごしごしと目を擦って、手が濡れているのに気がついてからようやく、自分が泣いていることを自覚する。
 だが、思い当たることなど一つもなかった。

「なんで、おれ、泣いてんだろ……?」

 それを聞いて、ポップがひどく呆れた様な顔をする。

「なんでって、そりゃこっちの台詞だってえの! なんだよ、寝てるかと思ったらいきなり泣き始めやがってよ、びっくりするじゃねえか!!」

 立て続けにポップにポンポンと文句を言われながら、ダイはやっと涙を拭き終わった目で周囲を見回し、不思議に思う。

「あれ? 朝なのに、何でこんなに暗いの?」

「何言ってやがるんだよ、このバカ! 今はまだ夜だっつーの!」

 ポップが言う通り、窓の外を見れば空は真っ暗だったし、月もぽっかりと浮かんでいた。どうやら、かなり夜遅い時間のようだ。
 それに気がついてから、ダイは今更な疑問に気がついた。

「そういや、ポップ、なんでここにいんの?」

 ここは、ダイの部屋だ。
 パプニカに戻ってきて以来、レオナが自由に使ってくれていいと言ってくれた部屋だが、正直、ダイはあまりこの部屋を気にいってはいない。レオナの名誉のために言うのなら、広々として、装飾を極力抑えた実用的な家具の揃えられたいい部屋だが、ダイは寝る時ぐらいしかこの部屋にはいない。

 ダイ本人でさえそんな調子なのに、ポップがここに来るなんて珍しい。と言うよりも、ほぼ初めてではないだろうか。
 そう思って尋ねると、ポップはぎくんと肩を跳ねさせた。

「あっ、ああ、仕事が終わったから部屋に戻るとこだったんだよ。だけど、ちょうどこの部屋の前を通りかかったら、おまえがうなされているみたいだったからさ」

 やけに早口に言い訳っぽく言うポップに、ダイは思わず目を丸くする。

「えー、ポップ、こんなに遅くまで仕事してたの?」

 とりあえず、ダイ的にはそこが一番気になる。
 ポップやレオナがどうやら、ダイよりも遅い時間まで起きているっぽいのは知っていたが、まさかこんな遅くまで仕事しているとは知らなかった。

 その驚きが大きすぎて、ダイは持ってしかるべき疑問――例えば、部屋の前を通りかかったぐらいでは、中の人がうなされているのなんて分からないだろう、などという部分までは気づかなかった。

「そんなに仕事ばっかしてたら、疲れるんじゃない? 大丈夫?」

 思わずそう聞いてしまうと、ポップは不機嫌そうに言い返してくる。

「う、うっさいな、そんな話は今はどうだっていいだろ!? それより、大丈夫じゃねえのは、てめえの方じゃないか! 勇者の癖して、なに、泣いたりしてんだよ!? 怖い夢でも見ていたのかよ?」

 いかにも怒っているような調子で文句を言いながらも、ポップの手は宥めるようにダイの頭を撫でてくれる。その手に心地よさを感じながら、ダイはちょっと考えてから、首を横に振った。

「ううん、別に夢は見てなかったよ。でも……」

 そこまで言って、ダイは言葉に迷う。
 夢は見なかった――それは、嘘ではない。だが、何かを失ったような、そんな気がするのだ。今まで当たり前のようにあったものが、不意になくなってしまったかのような喪失感がある。

 だが、何をなくしたのか分からないだけに、ダイは言葉に迷う。
 なぜだか、手の甲……いざという時に紋章が浮かぶ場所が妙に疼くような気がした――。

「えーと? んーと?」

 一生懸命考えてみるダイだが、短気なポップはそれを最後まで待ってくれはしなかった。 

「ああ、もういいって。いいからてめえ、ちょっとどきやがれ」

 と、蹴飛ばすようにポップはダイの身体をベッドの端へと追いやり、ポップはさっさとベッドの中に潜り込んでくる。その行動を見て、ダイは目をぱちくりさせた。

「ポップ? なにやってんの?」

「だから、もう、寝るんだよ。疲れたし、もう部屋まで戻るのもかったるいんだ、邪魔すんなよな、ダイ。次におれの安眠を邪魔したら、今度こそ部屋から叩き出すからな」

(って、ここ、おれの部屋なんだけど……)

 そう思いはしたものの、ダイはそれは口にはしなかった。最初の驚きが過ぎてしまえば、その口に浮かぶのは笑みだった。

 憎まれ口を叩いてはいても、ポップの本心は分かりやすい。
 寝ながら泣いていたダイを心配して、ポップは一緒に寝てくれようとしているのだ。

「うん……っ、ありがと、ポップ!」

「だから、邪魔すんなってえの、そんなにしがみつかれちゃ寝にくいだろ!」

 などと文句は言っても、ポップはダイの手を振り払ったりはしない。大人しく、ダイの手の中に収まっていてくれる。

 それが嬉しくて、ダイはより一層しっかりと、ポップにしがみついた。暖かい感触や、細くても骨張った感触に、安堵する。なにより、ポップの匂いが懐かしかった。

 大戦中はこんな風に一つのベッドで寝ることも珍しくはなかったが、ダイが魔界から戻ってきて以来、部屋も別々の場所が与えられていたし、そんな機会もなくなっていた。

 それだけに、こんな風にポップと並んで眠るのは素直に嬉しかった。その嬉しさのままに、ダイはポップをギュッと抱きしめる。そうしていると、不思議に落ち着く。
 ぽっかりと空いてしまった穴が、塞がったような気がした――。
                                                        


                                                                            END 


《後書き》

 666666hitその1記念リクエスト、『バラン生存IFストーリー(ランカークスにて)』でした!

 『バランとポップ親父との絡み。捨て身に攻撃を知った&生き返らせてもらったことを知った親父とか。無謀な攻撃を仕掛けた子供の両親が少し気になったバラン様とか』と言うのがリクエストだったのですが、リクを満たせたかどうかはいささか不安が。

 バランの性格上、自分がポップを殺したことは打ち明けたとしても、その命を助けたと自分から言うとは思えなくて、バランの告白が中途半端なものになってしまったのが申し訳ない気がしますです。

 マザードラゴンとの話の方が長引いてしまった気もしますし〜。しかも、結局は夢オチっぽいし! 

 なお、ネタバレな補足説明になりますが、バランは原作通り、超魔ハドラー戦で命を落として魂だけの存在として竜の紋章に宿り続けていました。ダイに対して精神的に働きかけ、時として会話を交わせたり、記憶の一部を共有できるという設定も原作の通りです。

 ですが、いつまでもバランの魂がダイと共にあるのもどうかと思ったので、聖母竜の手助けによるバランの昇天話を書いてみました。

 ところで今回は健全ストーリーとのリクなので、ダイとポップとの関係に裏要素はありません♪ ごく普通に、ポップが魔界から戻ってきたばかりのダイを心配して寝室を勝手に覗きこんだり、挙げ句同じベッドで一緒に寝ていますが、単に寝ているだけなのでご了承を。

 多分、ジャンクは表でも裏でも、まさかポップとダイの仲を疑ったことなんかないでしょうし(笑)、そうだとすると世間の噂を素直に信じて勇者はお姫様と結婚すると言うハッピーエンドを素直に信じていそうですしね。


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