『美の在処』

  
 

「……あぁ……何と惜しい芸術家が、私の死とともに失われることか……!」

 芝居がかって呟かれたその言葉と共に、男はその場に倒れ込む。まるで、糸が切れた操り人形のようにあっけなく、バッタリと。
 このまま死ぬのだろうと、彼はもはや覚悟していた。

 だが、崩れ込みながらも手にした荷物だけはしっかりと抱き込み、守るかのような仕草を見せたのは職業意識というものか。

 倒れ込む際、とっさに背中から倒れこんで荷物を守りはしたものの、それでもダメージは完全に殺せなかったのか、荷物の中からガチャガチャと音がするのだけは気がかりだった。

(あー、どうしよう、瓶が割れたりしていたら! このテレビン油、特別に取り寄せたものですっごく高かったのにっ)

 死の寸前と思っていても、ついみみっちい未練が脳裏をよぎる。
 実際、男にとって、抱えている荷物は一財産だった。

 本格的な絵の道具は、ため息が出るほどにお高い。たとえば絵の具一つにせよ、入手困難な材料と独自の製法により生み出されるものであり、わずかな量であっても目玉が飛び出るほどの金額を請求される。

 筆にせよ、絵の具を希釈するための専用の油にせよ、どれもが庶民ならば一年分の生活費に匹敵するほどの値段がかかっている。
 今、男が手にしている絵の道具、全ての購入代金を合計したのならば、庶民どころか貴族でさえたじろぐような金額になるだろう。

 ――が、世の中、高値で買った物が、高値で売れるというわけではない。
 むしろ、購入時はとびきり高かったのに売る時には二束三文、なんて品の方が大多数だ。

 男が今、胸に抱え込んだ財産……絵の道具などは、その典型だろう。
 庶民の手には決して届かない高級品なのに、貴族にはまず、興味を持たれない残念商品だ。

 芸術を好む貴族は多いが、彼ら自身が芸術を作り上げることは、稀だ。
 貴族とは余暇を楽しむ存在であり、自らの手で何かを生み出そうとは、普通は思わないものなのだから。嗜み程度の楽器の演奏ならばまだしも、絵を実際に描く貴族など皆無と言っていい。

 貴族にとって絵とは見るものであり、画家に命じて描かせるものにすぎない。絵の具を差し出したところで、見向きすらしないだろう。色鮮やかな完成品をならば、貴族平民を問わずに目を奪われるだろうが、絵の具自体に興味を抱くのは、画家のみだ。

 そして、それこそが男が倒れた原因でもあった。

(……予算、オーバーしまくったからなぁ……)

 しみじみと、男は思い起こす。
 もちろん、男には男の言い分がある。優れた絵を仕上げるためには、それなりの絵の具は必要不可欠だ。特に、今回依頼された品はとある貴族の姫の肖像画だった。

 金に糸目は付けないから、とにかく美しく見栄えのする作品に仕上げろと言う命令には少々芸術家魂が傷つけられたものの、依頼自体は好条件だった。
 モデルの姫も文句の付けようのない美少女であり絵心を大いに掻き立ててくれたし、なによりも金に糸目を付けないという情念に心をくすぐられた。

 だからこそ、男は依頼主に要求した。絵を仕上げるための絵の具代を、必要経費として支払って欲しい、と。その代わり、完成した作品の代金自体は低めに設定したのが良かったのか、依頼主は二つ返事でそれを承諾してくれた。

 ――が、物事には限度があったと言うべきか。
 最初の頃は気前よく絵の具代を支払ってくれた依頼主も、男がどんどんと絵の具を増やすにつれて渋い表情を見せるようになってきた。

 ちくちくと、まだ絵は完成しないのかとか、そろそろ絵の具は充分だろうなどと、嫌味を言ってくるようになってきたものだ。
 そこで空気を読んで、ほどほどで終わらせておけば問題は無かっただろうが、男は絵のこととなると夢中になる性格だった。

 次から次へと絵の具を注文し続け、後で計算したら高額な肖像画を数枚は買えそうな大金を使ってしまっていたようだ。しかも、そこまで金をかけても一年近くもかかってまだ絵が完成しないという不始末。

 それに腹を立てた依頼主に、とうとう追い出されたのは三日前のことだったか。

 しかし、たったそれだけの期間で、もう、男は行き倒れかけていた。
 ――画家としては才能があっても、日常生活全般においては極めて無能な男であった。

 家を出奔したとは言え、男は元は貴族であり、庶民のような逞しさや生活の知恵は皆無だ。そこらで野生の獣を狩って腹を満たすようなワイルドさも、手持ちの品を売り払ってその場を凌ぐだけの臨機応変さもない。

 まあ、それ以前にいかに高価であろうとも、絵の道具などという特殊な品は、その辺の商店では見向きもされなかった。金貨数十枚はしたはずの絵の具に対して、村の商人が付けた値段がたったの銅貨三枚だった時には、男は愕然とするしかなかった。

 いざとなったら手持ちの絵の道具を少し売り払って当座を凌げばいいと軽く考えていた男の甘い目論見は、この時点で完全崩壊したと言っていい。
 それでいて、誰かに頼って助けを求めるには貴族のプライドが邪魔をする。
 結果的に何も出来ず、空腹に倒れるしかなかった。

(あぁ……おなかがすくのが……こんなに辛いことだなんて…………)

 倒れたまま、男はぼんやりと前に食事をとったのはいつだったのか、思い出そうとした。
 空腹の余り、デッサンの消しゴム代わりに使っていた汚れたパンを食べたのが最後だっただろうか。まあ、炭臭くて食べられたものじゃなかったが。

(あの絵……最後まで仕上げたかったなぁ……)

 薄れゆく意識の中で、男の中での最大の未練はそこだった。
 環境は、最高の筈だった。
 非の打ち所のない美少女に、背景選びに困らない美麗な城。おまけに絵の具はふんだんに用意され、時間制限も特になかった。

 それこそ、一世一代の絵を仕上げようと気合いを入れて、肖像画に挑んだものである。

 だが……そんな意気込みとは裏腹に、絵は思うように進まなかった。
 モデルは、ただそこに居るだけに絵になるような美少女だった。背景となる城も、素晴らしい瀟洒さに溢れていた。家具の一つ一つも高級で、どこを切り取っても背景として見栄えがした。

 それに、人工物ではなく自然の背景を望むのであっても、景観のいい場所に立てられた城なだけに背景には困らなかっただろう。ベランダや窓際に佇むだけで、その外には観光に値する自然美が広がっていた。

 実際、男はそれらの環境に狂喜乱舞した。
 この環境なら、最高傑作の絵が描けるだろう、と――。
 しかし、現実は厳しかった。

(何が……いけなかったのだろうか?)

 何度も何度もデッサンを繰り返し、足を惜しまずに城中を歩き回って理想の背景となる場所を選定した。モデルの一番の美しさを引き出そうと、それこそ寝食を忘れて絵に没頭した。

 その絵は、客観的に見ていい出来だっただろう。
 豊富に購入できた絵の具の効果も大きく、未完成の段階でさえパッと人の目を惹きつける作品だった。途中経過を見に来た依頼主はもちろん、モデルの姫や単なる見物人らも、口を揃えて絵を褒め、完成を待ち望んでくれた。

 だが、男にとってはどうしても満足できなかった。

(あれじゃあ……! ダメなんだ……っ、私が求めている絵は、あんなものじゃない……っ!)

 もどかしさが、今も胸を焼く。
 どんなに称賛されても、これじゃない感が強かった。

 本来ならばもっともっと魅力を放つはずの宝石が、磨き損ねて曇ったままの状態なのに絶賛されるもどかしさは、職人にしか分からないだろう。モデルの魅力を十全に引き出せないことは、画家にとっては敗北に等しい。

 自分の技量に自信を持っているからこそ、男は足掻けるだけ足掻いたのだが……この結果では惨敗したとしか言い様がない。

 これ程までに環境が整ったのに、それでも満足のいく絵を描き上げることは叶わなかった。それは男の胸に深い絶望を刻み、二度と立ち上がれないほどの敗北感を植えつける。

 ここまで状況が整っても理想の絵を描くことが出来ないのならば、この先にどんな希望があるというのだろう?

(私の……私の、理想の……絵とは…………)

 その思いを最後に、男の意識は闇へと飲まれていった――。







「あ、あんた、気がついたのかい? よかったねえ、半分、くたばっちまったかと思っていたよ!」

 ガサツにそう言い立てながら、大口を開けて笑う女性の姿に、男は目を見張らずにはいられなかった。

 貴族の常識では、女性は淑やかさがなによりも求められる。だが、今、彼の目の前に居る女性は貴族とはかけ離れた庶民――それも、農村の主婦のようだ。

 過酷な農作業も楽々こなす逞しさと引き換えに、荒れた髪や肌が目につく。どっしりとした肉のついた身体付きは、女性らしい優美さなど欠片もない。農作業のせいで汚れ、すり切れた服は土まみれで泥の色が染みついているようなシロモノで、よくよく見なければスカートだと気がつかないほどの品だった。

 実際、声をかけられるまでは、男は目の前に居るのは農民の男かと思ったぐらいだ。
 今まで会ったことのないタイプの女性に戸惑い、男は何度となく瞬きを繰り返す。

「貴女は、いったい……?」

「あらやだ、貴女だなんて! そんな風に呼ばれるなんて、初めてだよ。あたしゃ、ただの農家のおかみさね」

 声を立てて笑いながら、女性は水を差しだしてくれた。粗末な木製のコップはいかにも持ちにくく、男の衛生観念から言えばためらいたくなるほど汚い品だったが、喉の渇きの前ではそんなためらいも薄くなる。

 それに、実際に口に含むと、その水は予想以上に美味かった。わずかに体温よりも低い水は、氷で不自然に冷やされた水よりもずっと口当たりがいい。果汁や香料が全く含まれていない分、さっぱりとしたすがすがしさがあった。

「これは……美味ですね! こんなに美味しい水を飲んだのは、生まれて初めてですよ、ありがとうございます!」

 驚きのままに素直に称賛したのだが、女性はおかしそうにぷっと吹き出した。

「おやまあ、大げさだねえ。そんなに褒めても、お代わりぐらいしかでないよ」

 豪快に笑って、女性はコップに二杯目の水を注いでくれた。お世辞では無く本音だったのだが、喉が渇ききっていたせいもあり二杯目の誘惑に耐え消えずもう一度水を飲み干す。
 それでようやく一息を突いた男は、改めて周囲を見回した。

「ところで、ここはいったい……なんで私はここに?」

 そこは、男にとって今まで見た事も無い場所だった。ひどく古くて、粗末な家だというのが第一印象だった。目の前に居る女性も、当然知り合いではない。

「おやおや、覚えてないのかい? あんたは道端でぶっ倒れていたんだよ。死体かと思ってビックリしたけど呼吸はちゃんとあったし、とりあえず主人が家に運んで手当てしようって言い出したんだよ」

 そう言われて、初めて男は女性の隣に男性がいることに気づいた。……普通だったらもっと早くに気がつきそうなものだが、彼は幼少時から女性にばかり目がいく性質だった。

 壁の花としてぽつんと片隅に佇むどんな女性も見逃さないのに、すぐ隣にいる男性は王族であっても気がつかないというスカポンタンぶりに、呆れられたことも多い。貴族としては致命的な欠点だが、画家としては問題ないので、男としては気にしたことも無かったが。

 まあ、男女に対する関心度が大幅に違うとは言え、さすがに相手を認知し、さらには自分を助けてくれた相手を無視するほど無礼はしない。

「それはそれは……では、貴方が助けてくださったのですか」

 農民らしき男は女性以上にたくましい身体付きをして、よく日に焼けている。髪も髭もボサボサで山賊さながらの風貌だったが、彼は気さくに話しかけてきた。

「もう、ダメかと思ったんだけど、見捨てるのも寝覚めが悪いからなあ。けど生っ白い都会の坊ちゃんかと思っていたら、なかなかどうしてたくましいじゃないか!」

「お褒めいただき、光栄です。そして、心からの感謝を告げさせてください!」

 熱と敬意を込め、男は一礼する。
 貴族として、人に頭を下げる者ではないと教えられてきたが、彼にはそこに拘泥はなかった。

 元々身分に拘る性格でも無かったし、画家になると言って家を飛び出した今は、尚更身分差など気にはしない。
 しかし、画家は困ったように顔をしかめる。

「本来ならお礼をしたいところなのですが……生憎、今の私は持ち合わせが無くて……」

 たとえでもなんでもなく正真正銘、彼は一文無しだ。
 手持ちの絵の具の類いは、農村部では『なんか気持ち悪いからタダでもいらない』と、物々交換すら拒否された。

(そして、画家としても――)

 前回の肖像画描きに失敗し、城を追い出された記憶が蘇り、心がズン、と重くなる。ついさっきまでは助かった幸運に感謝したというのに、そのことを思い出すと心は鉛のようだった。

「ん? どうしたんだい、あんた? なんか、よっぽどのことでもあったのか? 力になれるかどうか分からねえが、なんなら話を――」

 農家の男が心配そうに声をかけてくれるが、それも右から左へと聞き流されていく。
 いっそ、あのまま果てていた方が良かったのではないか――ちらりとそんな考えが頭をよぎった時のことだった。

「ホギャア、ホギャアア、アアアーッ」

 唐突に、部屋の隅から泣き声が聞こえてきた。
 それを聞いた途端、女性が弾かれたようにそっちへと駆け寄っていく。

「ああ、どうしたんだい? よしよし」

 部屋の隅に置かれていた揺り籠から、女性は小さな子供を抱き上げる。まだ赤ん坊と言っていい子をさも大切そうに抱き上げて、優しく声をかけながらゆらゆらと揺さぶる。
 その姿を見た瞬間、画家は目をカッ開いた!

「――――ッ!!」

 まるで、雷に撃たれたかのような衝撃に、身体がわななく。その様子は傍目から見ても異様だったのか、農家の男が心配そうに声をかけてきた。

「え、おい、どうしたんだよ、マジで? あんた、大丈夫な――」

「荷物はっ!?」

 心配してくれている農家の男に対して、画家は首を絞めんばかりの勢いで喰い気味に喚く。

「私の荷物はどこですっ!?」

「へ、荷物? 荷物なら、そこに……」

 戸惑いつつも、農家の男はベッドの下に寄せてあった荷物を指さす。礼を言う余裕もなく画家はベッドを飛び降りて、見慣れた自分の荷物から紙とデッサン用の鉛筆を引っ張り出した。
 そして、画板を用意する間も惜しんで、床に直に紙をあてて描き出す。

「おいおい、あんた、いったいなにを――」

 心配しているような、うろたえているような農家の男の言葉など、耳に入ってこない。

 画家は今や、全神経を絵に集中させていた。
 あの一瞬に得た衝撃――落雷にも似た感動の一瞬を、そのまま描き出すために。出来る限りの早さで手を動かし、白い紙に線を重ねていく。色を塗ることなど、頭を掠めもしなかった。

 ただ、ただ、今、脳裏に焼き付いた美を形にすることだけで一杯だった。
 この衝動の前には、他のことは全く気にならなかった。普段なら光線の入り方が気に入らないだの、画板の質が悪くて線が歪むだの、果てはモデルの些細な身動きにすら注意するなど、細かなことばかりが気に障るというのに。

 今は、そんなことなどどうでもいい。
 脳裏に浮かんだこの感激を、なんとしても形にしたい――それだけだ。

 鉛筆も砕けよとばかりの勢いで、紙の上を走らせる。迸るこの情熱を全て叩きつけるつもりで、腕を踊らせる。それがどのぐらいの時間だったのか……絵に集中しきっていた画家は、自分の限界のことなど忘れていた。

「できた……ッ!」

 そう思って筆を止めた瞬間、フッと意識が遠のく。

「おっ、おい、あんたっ!? しっかりしろっ!?」

 農家の男の声を聞いたのを最後に、画家は再び、今度は家の中で行き倒れることになったのだった――







「もう、旅立つのかい? 遠慮なんかせず、もっと居てくれていいのによ」

 数日後。
 相変わらず人のいい笑顔でそう言ってくれる農家の男に、画家は大きく首を横に振った。

「いえいえ、もう充分にお世話になりましたから! 旅の支度も、こんなにたっぷり頂きましたし」

 二度目に倒れたのは単に空腹が限界に達したせいだったので、食事をキチンと取れるようになれば問題ない。元が若くて健康なだけに、回復は早い。面倒見が良く親切な農家夫婦のおかげで、わずか数日ですっかり元気になった。

 それに、旅支度として旅用の簡易食や保存食も驚くほど大量に持たされた。これ以上贅沢を望む気など、画家には無かった。

「それでいいのかい? こんな素晴らしい絵と引き換えに、たったそれっぽっちじゃ見合わないんじゃ……」

 どこか心配そうに、だが、手放しがたそうな様子で、女性は手に握りしめた絵を見つめる。

 それは、画家があの時に描いた物だった。
 画家の感覚で言えば『絵』と呼べるほど立派な物ではない。ただのデッサンと言った方がいいような、簡単な品だ。
 しかし、画家は満足感に満ちた目で自分の描いた絵を見やる。

 描かれているのは、農家の女が赤ん坊を抱きあげている図だ。描き出された女性は、造作的には決して美女とは呼べないだろう。若い娘と言うにはいささか年を経ているし、出産を経験したせいか体型もやや崩れている。

 画家の視点から厳しく言ってしまえば、目鼻立ちのバランスや比率がいささか悪く、美点よりも欠点の方が先に目につく

 だが――それを上回る美が、その絵には溢れていた。
 我が子を見る女性の、まるで聖母のような微笑み。我が子が可愛くて可愛くて溜まらないと、口にせずにも伝わってくる。蕩けんばかりのその微笑みこそが、有り触れた女性の姿を聖母へと変貌させていた。

 それは、理想のモデルにポーズを強制させて描いたとしても、決して再現できないと思える表情だった。

 わずか瞬き一瞬ほどの間に隠された、その女性ならではの魅力――あの一瞬に画家が見いだしたのは、それだった。
 そして、一瞬の美を見つけたからには、それを描かずにはいられなかった。

 こんなにも絵に集中したのは、いったいいつぶりなのか――そして、久々に自分でも満足のいく絵が描けたと自負している。それだけでも充分に満足なのに、モデルがその絵を気に入ってくれたとなれば、画家としてこれ以上の望みはない。

「いえいえ、充分以上ですよ! その絵がお気に召したのなら、どうかお手元に置いてください」

 思えば、本来の画家の望みはそれだけだった。
 自分の絵を評価されたい――その気持ちは、確かにある。だが、思えば世間に広く知られたかったわけでも、有名な人から高く評価されたかったわけでもない。

 自分が描いた絵を、誰か一人でも喜んで見てくれたらいい――。
 初めて描いた時のことを思い出し、画家は苦笑する。

(いつの間にか、すっかり贅沢になったものだなぁ……)

 初心を、忘れかけていた。
 高い理想を掲げすぎて、焦りに駆られて足元すら見えなくなりかけていた。だが、転んだおかげか、思いも掛けずに大切な物を取り戻せた気分だった。

「絵は、これからも何枚でも描けますから!」

 あの時の燃えさかるような高揚感も情熱も、ちゃんと画家の男の中にある。
 後は、女性の中から一瞬の美を見極めさえすればいい。その一瞬を逃さなければ、再び、あの時の高揚感のままに絵を描き出せる……その自信が、男にはあった。

 今度は、モデルになる女性を厳選するなんて愚かな真似もしない。
 どんな女性にも、あの衝撃的な一瞬はあるのだろう。思えば、前回の肖像画のモデルとなった少女には、気の毒なことをした。

 ろくに知りもしない画家の男につきまとわれ、あれこれポーズを命じられたからと言って、素晴らしい表情を浮かべられるはずもない。
 農家の女性がそうだったように、大切な人に自然に向ける一瞬の笑顔――それを探し出せば良かっただけの話だ。

 しかし、もう、二度と同じ間違いは繰り返さない。画家は、農家夫妻に大きく手を振って歩き出した。

「お世話になりました! では、またどこかでお会いできることを願って……オー・ルヴォアール!」
 







 これより数年後、無名だったこの男は美人画の巨匠として名を馳せることになる。
 これは、その絵の素晴らしさと変人ぶりで名高い、ムッシュ・カタールの若き日の物語である――。 END  


《後書き》

 行き倒れ記念企画の一つ、ムッシュ・カタールの行き倒れ話です。
 ……っていうか、記念企画が年単位でずれ込んでいますよっ(笑) 半ば忘れかけていたのですが、フォルダ整理中に書きかけで止まっている物語を発見したので、この際だから仕上げておくことにしました。

 もう、アンケートに協力してくださった方もとっくに忘れているかもですが(笑)、うちのサイトのモットーはマイペース主義♪ 書きたくなった時が、書き上げ時です。

 せっかくだから仕上げとこうと思い直し、後4つ、どういう組み合わせで書こうかなと、改めてフォルダを捜索中です。

 ところで冒頭のムッシュの台詞は、実は歴史上の偉人の最後の言葉として有名な台詞です。でも、画家じゃなくて、暴君として有名だったローマ帝国のネロのお言葉なんですけどね(笑)
 

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