『おっぱいクエスト〜狙われた女武闘家〜 2』

(こ、これは神の与えたもうたチャンスなのか!?)

 目眩がしそうなほどの幸運に、ブラムは鼻血を出す寸前にまで興奮していた。
 もはや永久に手が届かなくなると嘆いていた存在が、最後の最後で自分の所へやってきてくれた――これを幸運と呼ばずに、なんと呼ぼう?

 動悸が速まるのを感じながら、ブラムは咄嗟にその辺の茂みに身を隠す。正面切って話しかけるなど、恥ずかしくってとてもできないので、別アプローチをかけるつもりだった。

(よ、よし……っ、この茂みを通り過ぎたところを狙って、後ろから胸を掴めばいいよな……っ!?)

 ――いいわけがない。
 が、妄想の中ではそれこそ何百回、何千回とマァムの胸を揉み続けてきたブラムには、根拠なき自信があった。

 女の子が男にいきなりおっぱいを揉まれたりしたら、恥ずかしがったり嫌がったりするかもしれないとは分かっている。処女ならば尚更そうだろうと、ブラムは思っていた。ついでに言うのなら、ブラムはマァムが処女だと信じ込んで疑ってもいない。
 その上で、ブラムは確信していた。

(最初は嫌がって見せても、要は気持ちよくなればいいんだよなっ!)

 わきわきと指を怪しく蠢かしながら準備体操するブラムの脳内予定では、胸を揉まれるマァムがいとも官能的な甘い喘ぎをあげていた。

『あ……ぁんっ、もうっ、そんなに強くしちゃ……いやぁん……♪』

 口先では咎めるように、だが、その表情も身体もとろとろに蕩けきって甘い声を漏らす姿を想像しながら、ブラムは今か今かとチャンスを狙う。だが、ちょうどマァムがブラムの前を通りかかった瞬間、明るい声が響き渡った。

「おーい、マァム、待てよ〜」

 その声と同時に、頭上の木の葉が大きく音を立てて揺れる。そこからふわりと緩やかに落下してきたのは、マァムとほぼ同じ年格好の少年だった。

「……っ!?」

 危うく声を上げそうになったのを、ブラムはなんとか堪える。
 だが、マァムの方は突然やってきた少年を見て、驚いた様子も見せなかった。その代わり、怒ったような表情が浮かぶ。

「なによ! 今更、何の用なのよっ?」

 そう言ってつんとそっぽを向く仕草に、ブラムはつい見とれていた。
 こんな風に怒るマァムは、新鮮だった。マァムという少女は、いつも親切で優しい少女だ。ずっと後をつけまくっていたブラムは、マァムが買い物で町の人達と会話を交わすところを何度となく見ていた。

 英雄と呼ばれているのが嘘のように、マァムは誰に対しても礼儀正しくて、はきはきした口調の快活な少女だった。そのマァムがこんな風な口の利き方をするだけでも驚きだったが、少年は怒るマァムに馴れ馴れしく声をかける。

「あー、悪ぃ、ホント反省してるって! 遅刻してごめん! もう二度と遅れねえから、勘弁してくれよ〜」

「さぁ、どうかしらね? その台詞、この前も聞いたばっかりじゃない」

「そう怒るなって、ごめん、ホントごめんって! お詫びに、今日はどんな買い物に付き合うからさ!」

 マァムの機嫌を取り結ぼうとしてか、大袈裟に手を動かしたり、表情をくるくると変えながら話しかける少年が、ブラムには気に入らなかった。

 どうにもチャラいと言うか、お調子者っぽい明るさが気にくわない。なのにマァムは自分につきまとうその少年に対して、強い拒絶を示さない。彼女が拗ねていたのもごく短時間だった。
 何度目かの軽い謝罪を聞いて、とうとう耐えきれないようにくすりと笑う。

「もうっ、ポップったら。しょうがないわね、それなら許してあげるわ」

 やけに親しげなその話し方にもショックを受けたが、ブラムは少年の名にも驚きを隠せなかった。

(ポップ!? こいつが大魔道士ポップか!?)

 思い返してみれば、今、目の前にいる黒髪の少年は確かにあの時武道会場にいた少年だった……ような気がする。正直、マァムばかりに目を奪われてよく見ていなかったから記憶があやふやだったが、彼がポップだと分かった瞬間から怒りの感情が蘇る。

 あの時、いきなりマァムの胸をつつくという暴挙に出て引っぱたかれていたので、てっきり嫌われているのだろうと思っていたのだが、意外にも彼はマァムとは親しいらしい。

 並んで歩きだした二人の距離は、やけに近かった。それに、何よりもショックなのはマァムがポップに対しては生き生きとした表情を見せることだ。

 誰に対しても平等に微笑みかける聖母が、一人の少年に対してだけは怒ったり、不機嫌になったり、かと思うと年相応の悪戯っぽい笑みを浮かべたりと、様々に変化する表情を見せる。
 その事実が、ブラムには許せなかった。

(あんな顔……ッ、ボクにも見せてくれなかったくせにっ!)

 ――別に、マァムにはそんな義理などないのだが。
 そもそも、自分とマァムは知り合いですらないという客観的事実すら忘れ、ブラムは苛々しながらも二人の後をついて歩く。

 ポッと出てきたチャラ男に彼女を取られたかのような気分は、これまでのマァムに対する妄想や欲望をこの上なく刺激した。

(ああっ、あんな男とあんなに親しげにしやがって……! 清純派だと思っていたのに、ビッチか!? ビッチなのか!? ボクは騙されていたのかっ、畜生、許せないっ、お仕置きしてやるっ! いや、やらねばっ、やるべきっ!!)

 ぐらぐらふつふつと、ブラムの脳内で淫らな復讐劇が冴え渡る。
 だが、どんなに脳内で勝手なことを考えていたとしても、長年ニートの極みを尽くしてきたブラム一人では実行不可能だったことだろう。
 が――その時、ブラムに声をかけてきた男がいた。

「おや、ブラム様? 失礼ですが、ブラム坊ちゃまではございませんか?」

「……っ!? だ、だだだ、だれだ、ですかっ?」

 たかが声をかけられたぐらいで、ブラムは見ていて笑えるほどに動揺にして振り返る。なにせブラムは故郷ベンガーナ王国でさえ友達もほとんどいなかった、筋金入りのぼっち人生を歩いてきた男だ。コミュ障を拗らせて久しいだけに、不意打ちで話しかけられるだけで動揺するようなメンタルの持ち主である。

 だが、そんなブラムの気も知らず、声をかけてきたタキシード姿の男は、もみ手をしながらペコペコと頭を下げてきた。

「おや、お忘れでしょうか、私はベンガーナデパートの洋品店で婦人洋品売り場の副支配人を任されていたメイカーでございます。今はロモス王国への出店調査のために、こちらに仮店舗を出している次第でございます。
 本国ではいつもブラム坊ちゃまのお母様にはお世話になっておりました、まさかこんな所でお目にかかれるとは思いませんでしたよ」

 ペラペラと長い挨拶をされ、ブラムは顔をしかめる。
 正直言えば、ブラムは男の顔など覚えていなかった。ただ、女性の常でブラムの母親は洋服を買うのが好きで、ベンガーナデパートにも時々行っていたし、それに付き合わされたことも何度かある。

 よくよく見れば、この男――メイカーの後ろには、やけに派手な装飾の洋品店があった。ただ、派手すぎて周囲の素朴な商店からはやたらと浮いて見える。店の派手さとは裏腹に、店内にろくすっぽ客が入っていないのは、パッと見ただけでも窺えた。
 そのせいか、メイカーはやけに必死に言い募る。

「坊ちゃま、よろしければお洋服など一枚いかがでしょうか? 何、他ならぬ坊ちゃまのこと、お安くしておきますですよ! もちろん、他にもいろいろとサービスもさせていただきます、はい、それはもう」

 とりあえず相手が自分にへりくだる立場の人間だと認識した途端、ブラムはさっきまでの弱腰を一転させた。

「いろいろなサービス、ねえ。いいだろう、オレの言う通りにするのなら考えてやろう。なんなら、父上や母上に口を利いてやってもいいぞ」

 ひどく尊大に言い放つブラムは、実際にはもう洋服を買うような余分な金などない。

 ついでに言うのであれば、ブラムを出来損ないの馬鹿息子と見なしている父は彼の推薦に耳など貸してくれないと分かりきっているし、父に比べれば相対的に甘い母もまた、ブラムの美的センスを一切信用していないので、やはり彼の推薦など聞き流してしまうだろう。

 そもそもいい年をして、真っ先に紹介しようとするのが知り合いではなく両親という時点で、既に終わっている。
 だがそんな事情まで知らないメイカーは、顧客を獲得しようととにかく必死だった。

 なにせ、今回の出店はメイカーの今度の出世がかかっている。
 どんなに頑張ったところで、ベンガーナデパートに勤める限りは、現最高責任者である総支配人を超えることなどできない。元々は同期だったのに、気がつけばベンガーナ王に気に入られた総支配人ばかりが出世して、メイカーはと言えば一売り場の担当、しかも副支配人にすぎない。

 その事実にとうとう我慢できなくなったメイカーは、一か八かの賭けにでた。
 ベンガーナ王国での出世が望めないのなら、別の国でトップに立てばいい。

 そう思ったからこそベンガーナデパート支配人の反対を押し切って、冒険的な企画を立ち上げて期間限定のロモスでの出店にまで漕ぎ着けた。
 だが……ギャンブルなんてものは、所詮外れる確率の方が高いものである。

 派手好みのベンガーナでは人気だった流行の服は、質素堅実を良とするロモスでは全くと言っていいほど受けなかった。店舗を広げるどころか、赤字を日々更新している有り様である。このままでは出世どころか、クビになりかねない事態に青ざめたメイカーは、もはやギリギリまで追い詰められてやけっぱち気味だった。

 そして、不幸なことに――ブラムもまた、すでにどん詰まりまで追い詰められている上に、とっくに正気ではない。
 マイナスとマイナスが、ものの見事に掛け合わされてしまった瞬間だった――。







「ああ、そこのお嬢さん、ちょっと足を止めてくれませんか? 今、当店では大セール中なんですよ! なんと、上質の服が驚きの30%引きなんです!」

 そう呼びかけられてマァムが足を止めたのは、彼の言葉に興味を抱いたからではない。恰幅のいい店主がいきなり道を塞ぐように現れてきて、物理的に道が塞がれたからだ。

「いいえ、結構よ。今日は服は要らないもの」

 あっさりと答えて、マァムは店主を避けて先に進もうとした。だが、その店主は妙にしつこかった。

「そ、それではもっと勉強させていただいて……40%引き! 40%引きではいかがでしょう、ベンガーナ最新流行の服を多数用意しておりますよ!」

 そう言われたのがもしレオナだったのなら、目を輝かせて話を聞いたに違いない。だが、マァムは年若い娘としては異例なくらい、服装に無頓着な性格だ。

「いいの、本当に要らないから」

「そ、それでは50%引きでは? あっ、お嬢さん、ちょっとお待ちを!」

 強引に引き留めようとする店主の手をさらりと躱して、マァムはそのまま立ち去ろうとした。だが、すぐ後ろから聞こえた頓狂な声に再び足を止める羽目になる。

「うわっ、なんだよっ、なんなんだよ!?」

「いえ、お客様、本当にお得な話なんですよ、どうか是非、ご試着だけでも! ええ、ご試着だけでも構いませんから!」

 後ろを振り返れば、ポップが店主にしがみつかれていた。……どうやら、魔法使いの彼は武闘家のマァムの様には店主の手を躱せなかったらしい。

「いや、それをおれに言ってどうすんだよっ!? この店、どう見たって女向けだろ!?」

「はい、その通りでございます! だからこそ、あなたからもお嬢様に頼んでいただけませんか!? 本当に、本当に物はいい服ばかりなんですよ、なのにさっぱり誰にも見向きもされなくって……! このままでは国に帰ることも出来ません、せめてご試着頂いて、服の欠点だけでもお教え願えませんか……っ」

 などと、大の男が少年に縋り付き、よよよと泣き出す様はみっともないにも程がある光景だった。実際、縋られているポップ自身はげんなりとした表情を隠しもしない。

 しかし、マァムは慈愛の使徒だ。
 しつこい勧誘ならば突き放せても、涙ながらに縋りつく懇願を無視できるような少女ではない。

「私は服の欠点とかはよく分からないけれど、それでもいいの?」

 幾分か気の毒そうにマァムがそう言った途端、店主は光の速さでつけ込んできた。

「はいっ、それはもう! お買い上げなどとは言いません、ご試着だけでもいいのです! さっ、どうぞこちらへ」

 マァムがその気になったと見るや、店主はニコニコ笑いながら店の扉を大きく開けて彼女を誘い込む。その際も、人質であるかのようにポップの腕もしっかと捕まえたまま離さない。

「いらっしゃいませ〜、どのような服をお望みですかぁ?」

 店に入ると、女子店員があまりやる気の感じられない挨拶をする。

「ああ、こちらのお嬢さんの接客は私が担当するから、君はこちらの方を奥にお通しして、お茶でも差し上げて」

「お茶? いや、別におれは喉は渇いてないんだけど」

 明らかに洋品店としてはおかしなサービスに戸惑ったのか、ポップどころかマァムもきょとんとした顔をする。が、店主は人当たりのいい笑顔で二人を丸め込む。

「いえいえ、これはほんのサービスでございます。試着とは言え、女性の着替えには時間がかかるものですし、じっとそれを待つのはお若い男性にはいささか退屈でしょうから」

 戸惑うポップの腕が、店長から店員へと受け渡される。と、その腕を彼女はしっかりと抱え込んだ。

「はぁ〜い、お茶ですねぇ。じゃあ、こっちに来て下さい」

 接客業にあるまじき態度ではあるが、その娘はなかなかに可愛らしい子ではあった。そんな娘が腕をしっかりと抱え込むということは、女性には付きものの胸の膨らみがポップの二の腕に触れると言うわけで――この攻撃に耐えきれる思春期男子など、そうめったにはいない。

 案の定、ポップはすぐにさっきまでの疑問の棚上げして、デレデレと鼻の下を伸ばしきった顔になる。

「お茶はどんなものがお好みですかぁ?」

「え、え、えー、はははー、いやぁ、ぼかぁなんでも好きだなぁ〜」

 早くも舞い上がりきった少年の後ろ姿を見送るマァムの目に、怒りとも呆れともつかない光が宿っていたのは、言うまでもない。

(もう、ポップったら!)

 こんな状況ならば機嫌を損ねて、拗ねるなり、文句を言う女の子は少なくはないだろう。実際、かなり気の強い部類に入るマァムは、実際にポップに文句をぶつけようとそちらに動きかけた。
 が、店主が素早く行く手を塞いでマァムを試着室へと押しやる。

「さ、お嬢さん、早速ですがご試着をお願いします。この商品はですね、特別製なんです。今度、ベンガーナデパートで社運を懸けて発売しようと考えている品なのですよ」

 そう言いながら男がどこからか差し出してきた服を見て、マァムは驚きに目を見張った。

「え……!?」

 それは、マァムにとってはあまりにも見覚えのありすぎる服だった。
 赤に近い桃色をベースにした、女性の物の武闘着。しかも、胸のマークや肩当てに書かれた文字まで、マァムの持っている服にそっくりだ。

「この服はですね、あのアバンの使徒であり拳聖女として名高いマァム様の服を模したデザインになっているのですよ! 憧れの有名人そっくりの格好をしたいと思う女性は多いでしょうしね、これは売れますよ! お嬢さんもそう思うでしょう?」

「は……はぁ」

 やたらと熱く語られても、マァムとしては曖昧に頷くしか出来ない。
 どうやらこの店主はマァムがそのアバンの使徒のマァムだと、知らないらしい。それは別にいいのだが、自分の普段着と同じ服が世間に売られると聞くのは複雑な気分だ。

 何と言っていいのやら分からない気分で、その武闘着を手に取ったマァムは、あることに気がついた。

「これ……、肩当てとかも布で出来ているのね」

 マァムの武闘着は、言うまでもなく実戦用だ。そのため、肩当てだけでなく手に嵌める手甲や脚絆も皮と金属を組み合わせた頑丈な作りになっている。
 だが、今、目の前にある肩当ての類いは、多少分厚めの素材とは言え、ただの布だった。これでは、防御力など全くないだろう。

 それに少し触って分かったが、この服も『武闘着』ではない。
 形こそは武闘着だが、本来の武闘着は実戦用に厚い布地で作るものだ。だが、これはどうやら普通の布で作られているらしい。

「ええ、これは飽くまでファッション優先の服ですので、上質の絹で作っております! 他にも仕立てに様々な工夫をしていますので、着心地を確かめるためにも試着してご感想を頂けると大いに助かります!
 あ、そうそう、申し訳ないのですが、その服を着る時には下着を脱いで着てはいただけないでしょうか?」

「え!?」

 その要求に、さすがにマァムはギョッとする。
 だが、店主は真面目腐った顔で立て板に水とばかりにまくし立てた。

「ああ、ご心配は要りません、下着と言っても上だけで結構です。
 先程も申し上げたようにその服は絹で作られておりまして、感触や肌触りも大きな売りとなっております。
 その感触と肌へのフィット感を確かめてもらうため、最初は肌に直接着て頂いた後で、二度目には普通に下着を身につけて着直して頂きたいのです。もちろん、最終的に試着した服を見せて頂くのは、二度目に着直した後でございますので心配はいりません。ご感想だけ聞かせて頂ければ、それでよいのです」

 手間をかけさせてしまうようで恐縮ですが……と申し訳なさそうに何度も頭を下げる店主が気の毒に見えて、マァムはつい頷いてしまった。

「まあ、それなら……」

 いくらマァムでも、タンクトップ抜きでこんな胸を強調する服を着て人前にでるのは躊躇うが、試着室で試し着するだけならば問題はない。

「おおっ、ありがとうございます! では、早速、ささっ、どうぞ!!」

 ほとんど背を押されるように試着室に押し込まれたマァムは、一つ、ため息をついた。

(なんだか面倒なことに巻き込まれちゃった……)

 正直に言ってしまえば、それがマァムの本音だった。
 だが、どうしても拒否するほどに嫌なわけでもないし、一度引き受けたことを投げ出すのは彼女の主義ではない。面倒なことはさっさと済ませてしまおうとばかりに、マァムは手早く服を着替えた。

 なにせマァムの持っている武闘着そっくりの服だ、着替えるのに手間は要らない。
 しかし、完全に着替え終わると、その差は歴然としていた。

(うーん……この服、なんか頼りないわね)

 当たり前と言えば当たり前だが、素材の差のせいで今のマァムの防御力は低くなっている。普段ならば手甲や脚絆を身につけると、身が引き締まる思いがするものだが、形ばかりを真似した布地ではそうはいかなかった。

 攻撃のことなど全く考えていそうもない手袋だって、そうだ。
 マァムの手袋は自分の拳を痛めないよう、布地の中に僅かだがクッションを入れてある。しかし、今、手にした手袋はただの布だ。これでは、冬場にはめる毛糸の手袋の方がまだマシだと思う程に頼りない。

 ――と、並の女性ならば問題にもしないところばかりを気にしているマァムだったが、武闘着の肌触りそのものには不満はなかった。
 かろやかで、肌をくすぐるような感触は悪くない。

 絹の特徴は、何と言ってもそのしなやかさだ。
 独特の光沢と同時に、綿や麻とは比べものにならないしなやかさをもつ布は、女性の身体のラインをこれ以上ないほど美しく際立たせる。

 傍目から見れば並の武闘着を着ているよりもずっと、今のマァムの服装は女性らしさを強めていた。

「お嬢さん、最初の着替えは終わりましたでしょうか?」

 試着室の外から、店主の声が呼びかけてくる。その声が少し遠く感じられるのは、文字通り彼が試着室から遠ざかった位置にいるせいだろう。

「ええ、終わったわ。肌触りがすごくいいのね。じゃ、これから着替え直すから――」

 言いながら今脱いだばかりのタンクトップに手を伸ばしかけたマァムだが、その手が届く前に床がぱっくりと二つに割れた。

「……っ!?」

 悲鳴を上げる暇すらなかった。
 試着室という極めて狭い空間で足場が消失してしまっては、いかな武闘家といえども逃げ場はない。全くの不意打ちだっただけに、そのまま真下に落下する。

 落下の恐怖に、とりあえずなんとかダメージを殺そうと身体が反応していた。猫のようにしなやかに身体を丸めたマァムだったが、思いもかけず柔らかなものの上に落ちる。

「きゃっ!?」

 意外すぎて小さく悲鳴を上げてしまってから、マァムは自分が巨大なクッション状の物の上に落ちたことに気がついた。そのおかげでケガはなかったが、立ち上がろうにも柔らかすぎてずぶずぶ身体が沈んでしまう。

「なっ、なんなの!? これはどういうこと!?」

 とりあえず上に向かって声を張り上げたのは、当然のごとく店主に対しての呼びかけだった。
 だが、思いもかけず、ごく近くからボソボソとした声が聞こえてくる。

「おっと、忠告しておこう。それ以上叫ばない方がいいよ。おとなしくしていれば、キミに危害は加えない」

 ハッとしてそちらを向くと、そこにいたのは黒髪ロン毛の痩せぎすな男だった。そのついでに周囲を見回すと、どうやらここは地下室のようだ。

 おそらくは倉庫なのか、あちこちに大きな包みが置かれている。油紙で丁寧に包まれた大きな包みの数々には、船便特有の判子がベッタリと押されていたるのが見て取れる。

 マァムの落ちたクッション状の物も、そんな包みの一つだった。
 そんな風に周囲に注意を払っているマァムの沈黙を、男は好意的に受け止めたらしい。男は尊大に頷いて見せた。
「うんうん、それでいい。そうやってボクの命令に従ってさえいれば、悪いようにはしないよ、マァム」
 馴れ馴れしく名前を呼ばれて反射的にムカッとするものを感じたが、それでもマァムは冷静さを掻き集めて問いかけた。

「……私をどうするつもりなの?」

 もう、さすがのマァムにもここに落とされたのが店主の悪意であること、そしておそらくはこの男が黒幕だと言うことは薄々察していた。だが、それでも焦りや恐怖を感じないのは、マァムが普通の女の子ではないせいだ。

 勇者一行の武闘家であるマァムから見れば、目の前にいる男の身のこなしが戦士系のそれではないことなど一目瞭然だ。一発ぶん殴るか、蹴飛ばすかすれば簡単に倒せる。

 その余裕があるからこそ、マァムは怯えもしない。ただ、立ち上がる間までの時間稼ぎのためにたいして重要でもない質問をぶつけたに過ぎない。立ちさえすれば、男を吹っ飛ばしてさっさとこの地下室から出て行こう――そう思っていたマァムの目の前に、男は得意げにヒラリとした布きれを突き出して見せた。

「それは……っ!?」

 初めてマァムの顔色が変わる。
 鮮やかな黄色の、細長い布きれ。一見しただけではリボンに見えるそれは、紛れもなくポップのバンダナだ。

 ポップがいつも大事にしていて、大戦中もその後もずっと頭に巻き続けているバンダナは、そうめったなことでは外さない。なのに、なぜ、目の前の男がそれを持っているのか――。

 しかも、よく見ればバンダナにはなにやら赤っぽい染みが点々と散っている。血を思わせるそれを見た途端、マァムは冷静さを失った。

「ポップに何をしたの!?」

 叫び、マァムは一気に男に詰め寄ろうとした。実際、男の襟首を掴んでそのまま引っぱたくぐらいのことはしてやるつもりだった。
 だが、及び腰で後ずさった男の悲鳴のような叫びが、マァムを止めた。

「やっ、やめろっ! ボ、ボクになにかしたら、あの魔法使いがどうなっても知らないぞっ!!」

「…………っ」

 その叫びを無視して殴りかかるなど、マァムには出来なかった。マァムの動きが止まったのを見て、男は早口にまくし立てる。
 
「そ、そうだっ、そうやって大人しくしていればいいんだ、それならあの魔法使いには手を出さないでおいてやるよ。でも、少しでもボクに逆らうようなら、どうなるか……分かるだろう?」

 その脅しに、マァムは目も眩むような怒りと焦りを味わう。
 こんな卑怯な手を使う男に対する純粋な怒りは、今にも臨界点を突破しそうだった。しかし、それを辛うじて押しとどめるのは、ポップへの心配だった。

(ポップ……!)

 マァムの知る限り、ポップほど強い魔法を使う魔法使いはいない。頭の回転も速く、戦いの時だけでなくどんな時でも頼りに出来る仲間だと思っている。

 しかし――しかしである、それでいてなお、マァムにとってポップほど危なっかしく見える男の子はいない。

 その気になればどこまでも強くなれるくせに、どこか抜けているところと言い、目を離すと何をしでかすか分からない無鉄砲さと言い、危なっかしくてとても放っておけない。

 自分が目を離した隙に、ポップがなにかとんでもない失敗をしでかすんじゃないかと思う気持ちは、未だにあるのだ。

 ついさっき、女の子にデレデレして油断しまくっていたポップの姿が、またマァムの心配を煽る。元々お人好しのポップは、可愛い女の子にはほぼノーガードと言っていいぐらい無防備な面がある。

 そこを突かれて不意打ちされれば、あっさり捕まることだってあり得る。何と言っても、魔法使いは肉体的にはただの人間と変わりがない。魔法を使う前に気絶させられれば、それで終わりだ……。

「さあ、どうするんだい、マァム。ボクの命令に従えるね?」

 ねっとりとした口調で念を押され、マァムは握り占めていた拳を解いた――。            《続く》
 

3に続く
1に戻る
地下道場に戻る
 

inserted by FC2 system