『マイ・スィート・ディジー 3』 |
その日、ベンガーナの図書室ではちょっとした問題が起こっていた。 目立たず、誰からも邪魔されることのない、古文書の本棚の通路の奥にある日当たりのよい席……そこがポップのお気に入りの場所なのは、図書室に出入りする者には知られ渡っている。 むしろ文官などは、憧れの大魔道士様に声をかける絶好のチャンスとばかりに、そわそわしつつ意味もなく図書室に集まった。 なにせ、大魔道士ポップのいる席にいくための本棚の通路を封じる形で、勇者ダイが番犬よろしく突っ立ち、殺気だった気配を振りまきつつ目を光らせているのだから。
(なんとしても、ポップを守らなくっちゃ……!!) 公然とポップに誘いをかけてくるジュリアーノというライバルのせいで、ダイはすっかりと平常心を失っていた。もはやアリ一匹でもポップには近付けないと言わんばかりの勢いで、無差別に目を光らせている。 そんなダイに対して、図書室にやってきた衛兵はビクッと怯えた様子を見せたものの、それでも勇気を振り絞って彼に小声で耳打ち知る。 「し、失礼します、勇者様。国王様が貴方をお呼びなのですが、少しの間だけで構いませんから王間へ来ていただけないでしょうか?」 「王様が?」 「はい。なにやらお急ぎのご様子でしたが……」 そう言われて、ダイはちょっと考えてしまう。ベンガーナ王に呼ばれたのなら、行かないとさすがに失礼だろう。それに、少しの間でいいと言われたのが、大きな決め手になった。 (ま、すぐに戻ればいいか) ちらっとポップの方を振り返ると、彼は本に夢中でそもそもダイが誰かと話しているのさえ気付いた様子もない。 ちょっとだけ行ってすぐに戻ってくれば、ポップが気がつく前に戻れるだろう。そう思い、ダイは早足で王間に向かう。 本来なら、城に仕える衛兵なら客人を招くように命じられたのなら、伝言だけで済ませるはずがない。 そして、伝言を伝えた衛兵が口許にかすかな笑みを浮かべたまま、ダイが図書室を出て行くのをじっと見つめていたのも、気づくはずもない。
普段、他国にいる間はポップは気を緩めたりはしない。なにせ、他国ではいつ、何が起こるか分からない。 もしポップが何か失敗でもすれば、それはパプニカ王国のミスに繋がりかねないし、そうなればポップとレオナの野望……人間と怪物の共存する世界を作る、という目的が遠くなる。 しかし、今回はダイと一緒にいると思う気持ちが、ポップの気を緩めさせていた。なんだかんだ言って、ダイと一緒にいる時こそがポップにとっては一番、気を許せる時間だ。 ダイと一緒なら、何があっても大丈夫だという安心感が、ポップにはある。 そのダイが、通路の先で踏ん張ってとおせんぼしてくれているのだから、この場所は安心だという思い込みがポップに発生していた。 完全に油断しきっていたポップが自分の背後に迫る人影に気がついたのは、後ろからいきなり抱きすくめられた後だった。 「――?!」 それは、ほぼ一瞬の出来事だった。 とっさに振りほどこうとはしたものの、椅子ごとポップを押さえ付けた相手は、明らかにポップ以上の体格と腕力の持ち主だった。 学者の家系生まれのアバンの教育を受けたポップは、本を大切にしなければならないという思想も刷り込まれている。 得意の火炎系の魔法を放つには不向きな場所に、ためらいを感じてしまった数秒……それが、ポップにとっては痛恨のミスに繋がる。 (まずい……っ、これ、ラリホー草だっ) そう気がついた時には、もう遅かった。 だが、ダイが念を入れてガンを飛ばしていたせいで、もはやこの通路はおろか周辺に近付く命知らずなど存在しなかった。 人払いをされたも同然のこの通路内のわずかな喧騒は、本棚に吸収されて図書室内にいる誰の耳にもとどかない。
鼻歌交じりに、ご機嫌でそんなことを言っているジュリアーノに対して、クラウスは至って冷ややかに言った。 「坊っちゃん……いーかげんで、諦めたらどうですか?」 「何を言う! この燃えるような愛を、諦めきれるはずがなかろう?! 人の恋路を邪魔するだなんて、まったく野暮な男だな」 「そりゃ相手もその気だってんなら、別に他人の恋路を邪魔する気なんかありませんがね、ありゃあどう見たって脈がないですって」 と、クラウスは呆れたように肩を竦めてみせる。 ポップは男の趣味はないらしく、ジュリアーノの誘いはきっぱりと断っている。 貴族が庶民の美少年や美青年をこっそりと愛でるのならよくある話だし、そのぐらいならスキャンダルになったところでもみ消すのもたやすい。 まだ年は若いが、彼はとびっきりの政治家でもある。あまり表立って動かないから目立たないものの、貴族階級以上の人間ならば見逃せない暗躍を、彼は見せている。 いくら大貴族の長男とは言え、そんな相手に手を出すのは危険過ぎる。 さらにいうのなら大貴族とて、失脚の恐れもある。……いや、大貴族ならでは、というべきだろうか。 歴代当主の中でも傑物と評判の現当主、ジュリアーノの父親がなまじ評判が高いため、なおさら彼の失脚を望む者は多い。 そりゃあもう、悲しい程に才能がない。 今のところ、ポップの方も事を荒立てたくないのかジュリアーノを無難にあしらうことで、騒ぎを起こさないでいる。が、ジュリアーノがこれ以上しつこくポップに絡むのであれば、向こうもいつまでも黙っているという保証はない。 (そろそろ、様子見などせずになんらかの手を打つべきかねえ?) 熱しやすいが飽きっぽいジュリアーノのことだから、あれだけきっぱりと断れ続けられていれば嫌になるかと思ったが、彼の情熱は高まるばかりだ。 普段なら城に顔を出すのも面倒がるくせに、今回は城に滞在してまでポップを口説き続けているのだから、呆れた執念である。 限られた人しか行けないはずの大魔道士ポップの部屋に、ちょくちょく押しかけてみたり、偶然を装ってお茶や食事を一緒にしたりと、やりたい放題である。 今もクラウスの気苦労も知らず、スキップをせんばかりに浮かれているジュリアーノの背中を見て、ぼやきの一つもでるというものだ。 「……ったく、これだから苦労知らずのボンボンは厄介なんですよね〜」 聞こえよがしな嫌味すら、ジュリアーノの耳には入っていない。 大抵の王宮がそうであるように、このベンガーナにも選ばれた者のみが入れる場所というものが存在する。 王族が主催する茶会や庭で行うパーティにでも招かれない限り、決して入れない聖域の一つだ。 迷路の外周部分辺りをうろつきつつ、少しでも綺麗な薔薇を選りすぐっている彼に、一人の衛兵が近寄ってきて声をかけた。 「ジュリアーノ様、薔薇をお望みならばもっと素晴らしい薔薇が咲いている所へ、ご案内しましょうか?」 そこで一息置いて、衛兵は意味ありげに囁く。 「――一目で心も虜にするような、この世にたった一本しかない薔薇をお目にかけますよ」
「おお、それはいいな。分かった、頼もう」 と、疑うことなく即答するジュリアーノをたしなめるように、クラウスが前に出ようとする。 「ちょっと、坊っちゃん! んな、いきなりな話にノるだなんて――」 主人を引き止めようとしたクラウスだが、別の衛兵の手にした槍が、それを遮る。 「失礼。この先は、従者の方はご遠慮願います」 いっていることは正論だった。 だが、浮かれたジュリアーノは乳兄弟の様子や引き止めに気付くこともなく、王族にしか許されない薔薇の迷路へと踏み込んでいった――。
形としては、浜辺で身体を焼くのに使うような寝椅子じみた物だ。だが、さすがは王宮に置かれる品だけあって、庶民の考える寝椅子とは比較にもならない程の豪華さと丈夫さを兼ね備えた品だった。 そこに、先客がいた。 「マイ・スィート・ディジーッ?!」 薔薇を蹴散らしてポップの側に駆け寄ったジュリアーノは、一目でその様子がおかしいのに気がついた。 「キミ……どうしたんだい?!」 ぐったりと寝椅子に横たわったポップは、目は開けている。だが、その目にはいつもの彼に浮かんでいる強い意思の光はなかった。
(こ、このままチューぐらいしちゃっても……っ) ぐらりんと、理性と本能の天秤が揺らぐのを感じたものの、それでもジュリアーノとてこれでも一応は紳士だ。 「お、おいっ、しっかりっ?! どうしたんだっ、大丈夫なのかいっ?!」 その呼び掛けが聞こえたのか、焦点があっていなかったポップの目が、曲がりなりにもジュリアーノの方に向けられる。
遠い意識の下で、ポップはぼんやりと思う。 ひどく熱っぽく、それでいて焦れったい感覚が身体を支配している。身体を疼かせるその甘い感覚は、ポップにとって覚えのないものではなかった。 身体が勝手に刺激を求め、暴走しそうな感覚から逃れようと、ポップは小さく首を振ってそれを振り払おうとした。 次にポップが思い付いたのは、欲望を開放させることだった。自分で自分を慰めさえすれば、それで楽になれる。 服の飾り紐やボタンを外そうと、必死になって自分の服に指を這わせるのだが、それは単に撫でているだけの動作にしかならなかった。 ほんのわずかばかりの刺激は、気休めにもなりはしない。むしろ、余計に欲望を掻き立てるばかりで、いっそうに辛くなる。 ジュリアーノがポップの側に近付き、助けようと声をかけてきたのは。 ポップの意識下では、目の前にいるのは金髪の青年貴族などではなかった。 (ダイ……ッ) 言葉にならない声で呼びながら、ポップはダイに縋ろうと手を伸ばす。 そして、恋人の手を借りなければこの疼きからは逃れられないという思いが、ポップにはあった。
気持ちがいいことは気持ちがいいのだが、もう身も蓋もなく恥ずかしかったり、焦らされるのが辛かったりと、ポップ的には嬉しいことではない。 さんざん追い詰められ、焦らされたまくった時のように身体が疼いている。 そうねだりたいのに、うまく声がでない。 今なら、ダイに何をされても拒むつもりなどない。 『ね、ポップ。アレを、とは言わないからさ、せめて指を舐めてくれない?』 いつだったか、ダイがそんな風に誘いをかけてきたことを、フッと思い出す。 『ポップ、指を舐めてよ。おれの指を、濡らしてみせて』 ポップよりも年下なのに、ポップよりも大きくて太い指が目の前に差し出されたことを、覚えている。 そんな幼さの名残を見せる手で、疑似的なフェラチオを要求されるのは奇妙な背徳感を誘ってゾクゾクしたものだ。 『ね、舐めてよ。 実際にダイにそんな風に誘われた時は、ポップはその場で「調子にノッてんじゃねえ、このエロガキッ!!」と怒鳴りつけ、魔法をぶっ放したものである。 たった今、ダイにそう言われたかのように、自分の頬を撫でる手を捕らえ、その指を口へと運ぶ。 「……んっ……」 思ったよりも長い指は、口に含むと意外なくらい大きく感じてしまう。 「あ、……ふ…、あ……ん」 キスをしているのとはまた違う刺激を感じながら、ポップは舌をその指に絡めようとする。 (……こんな風で、いいのかな? よく、分んねえけど……) ことの最中、あまり積極的に動かない上に、受け身な立場でしか他人と肌を重ねた経験のないポップには、他人の指を舐める行為がどんな意味をもたらすのかよくは理解出来ない。
神に仕える者の証しでもある賢者の衣装を身にまといながら、欲情の色合いを浮かべた表情で男の指を舐める少年。 その合間、ポップは確かめるように何度もジュリアーノを見る。熱に浮かされたように潤んだ目が、上目遣いに男を見上げる度に、何とも言えない色香が零れ落ちる。 もともとさして多くもなかったジュリアーノの理性がぷっつんと切れ、紳士の誇りや躊躇などあっと言う間に消え失せた。 当然、今まであんなにすげなく断ってきたポップがいきなりなびくことを怪しむとか、こんなに都合のよい据膳が用意されていることに不審を抱くなぞ、脳裏をちらりともかすめない。 むしろ、ノリノリの勢いでポップの顎に手を掛け、キスをしやすいように角度を合わせる。 「……いけない子だね、マイ・スィート・デイジー。こんなに可愛い顔をして、自分から男を誘うだなんて」 そう囁きかけながら、ジュリアーノは情熱的なキスを『恋人』に与えた――。 |