『恋の特効薬 1』

 

 それは、所謂『若気の至り』と呼ばれる類いの失敗であったと言えるだろう。
 深く考えもせずに、一時の熱さに駆られて行ってしまう愚考。
 思い返せば黒歴史にしかならない……というか、いっそ永久に思い出さずに記憶抹消してしまいたくなる思い出。

 だいたいのところ、試すまでもなく結果は見えていた。
 ちょっと冷静になって考えてみれば、あらかじめ結果など分かりきっていたはずだった。 が、それでも勢いに乗ってつい失敗をしでかしてしまうあたりを、若さと言うべきか。


 世界でほぼ最高の英知を備え、二代目大魔道士として名高いポップとは言え、まだまだ若い。
 そう、煩悩真っ盛りの17才の青少年の好奇心が、物事の発端だった――。

 

 


 薬草やら不気味な怪物の干物やら、得体のしれない品々が雑多に散らかる机を前にして、ポップはひどく真剣な表情で薬品を混ぜ合わせていた。
 手書きの古い魔法書と照らし合わせながら様々な材料をせっせと砕いては混ぜ合わせ、時に手から魔法を生み出しては薬品の化学反応を促していく。

 その手際の滑らかさは、まさに魔法のようだった。途切れることなくポップが手を動かすのに合わせ、フラスコの中の液体は色合いを変えていく。
 黒から青へ、かと思うと黄色になり、次は真っ白になると言う、目まぐるしい変化っぷりだ。

 その変化を確かめつつ、ポップは作業を続けていく。
 ガラス棒に伝わせ、慎重に注がれた液体がフラスコの中の液体に触れた途端、鮮やかに色を変える。

 今までと全く違い、きらきらと輝く色合いに変わったのをみて、ポップは目を輝かせてガッツポーズを取った。

「うっしゃ、完成っ! へへっ、おれってやっぱ天才じゃん、一発で成功したぜ」

 まるでプレゼントをもらったばかりの子供の様にはしゃぎながら、ポップは得意げにフラスコを手に取った。
 純粋に実験の成功が嬉しいせいもあるが、このはしゃぎっぷりの一番の要因は徹夜明けのせいだ。

 ここ数日、睡眠時間をギリギリまで削って作業に打ち込んでいただけに、疲れてはいても妙にハイになっているのだ。
 それに、手にした薬の効能が効能なだけに、はしゃぐのも無理もない。

 古代語で書かれおり、ごく一部の人間にしか読めないが、ポップが参考にしていた文献のページはこう記されていた。
 『ホレ薬』と。

 惚れ薬  古今東西を問わず、真贋も怪しい眉唾物の珍品が飛び交う幻の品であり、多くの好事家が大金をはたいてでも手に入れようとしてきた薬である。
 それが実在すると知って、全く興味を持たない人間というのは、ごく少ないだろう。

 実際、ポップも例外ではなかった。
 師匠であるマトリフの自筆の蔵書の中でこの薬のレシピを発見した時は、少なからず胸が躍った。

 もちろん、理屈ではポップも分かっていた。
 人間の感情を、魔法で強引に捩じ曲げるなど決して許されることではない、と。
 たとえ恋愛が成就したとしても、それは相手の心からのものではなく、魔法によって無理やり生み出された疑似的なもの……時間が経てば喜びよりも虚しさの方が強まるだろう。


 ――が、そうと分かっていても、素晴らしいまでに美味しい話にはうかうかと乗ってしまいたくなるのが人間というものである。ましてや片思いの相手がいる思春期真っ盛りの少年が、無関心でいられる代物ではない。

 しかも、その薬はポップには手の届かないものではなかった。
 古代語を解読出来て、薬学の専門的な知識を持ち、遠方に位置する数多くの種類の材料を入手しなければならないという条件は、大抵の人間にとっては難度が高すぎる。

 だが、それら全ての条件を、ポップは見事にクリアしていた。
 アバンとマトリフから高度な知識を叩き込まれ、瞬間移動呪文を駆使して世界中を飛び回ることのできるポップには、この薬作りは困難ではあっても不可能ではなかった。

 忙しい執務の合間を縫って、こっそりと材料を集めて作り上げた薬の完成に、ポップははっきり言って浮かれていた。
 期待に満ちた目をフラスコに向けながら、ポップの心は早くも想い人の元へと飛んでいた。

(もし、マァムがこれを飲んだら……)

 ひどくそっけない説明書きには、この薬を意中の相手に飲ませる時、本人が目の前にいるのが条件だと記載されていた。
 よく古い物語に登場する惚れ薬では、飲んで最初に目に入った相手を愛してしまうという効果を発揮するが、この薬もその一種らしい。

 それだけに、ポップの期待はいやがおうでも高まる一方だ。
 マァムはいつだって明るくて優しくて、ポップを見掛けると親しげな笑みを浮かべてはくれる。

 それはそれで嬉しいものではあるが、ポップの恋した少女は慈愛の使徒だ。万人に対して万遍なく、分け隔てのない優しさを与えることの出来る希有な魂の持ち主である。
 だが、村の子供に対するのと同じ慈しみの目で見つめられるだけでは、物足りない。

 他の誰に対するものとも違う目が、自分だけに注がれる――それは想像するだけで身震いする程の歓喜を呼び起こす。
 彼女がヒュンケルを見つめる時の様に、特別な眼差しを向けてくれるのだろうか。ポップ的には、熱情に溢れた色っぽい眼差しというもの捨てがたい。

 強引に薬で相手を操るのは悪いと思わないでもなかったが、この薬には解除方法もきちんとある。

 一定のキーワードを口にすることで、薬の効き目を無効化することができるとも記載されているのだ。
 だからこそ安心して、気楽に楽しい想像をすることも出来た――。

 


「あ……っ?!」

 一口、薬を飲んだ途端、マァムの頬が見る見るうちに赤く染まる。しっとりと潤んだ瞳で熱っぽくポップを見つめながら、彼女はいつになくしおらしい態度で自分の胸を抑える。 だが、それでも動機が抑えられないのだろう。マァムは微かに乱れた吐息混じりに、告白してくる。

「私……っ、私ったら、どうして今迄気がつかなかったのかしら……?!
 私が好きなのは……私が愛しているのは、ポップだったんだわ……!」

 そう言いながら、マァムは大胆にも自分から熱い抱擁を求めてくる――。

 


(へへへーっ、なーんてっ、なーんて♪
 もしかすると、そのままいくところまでいっちゃう効き目があるのかな、これ?!)

 はしゃぐあまり部屋の中をゴロゴロと転げ回りつつ、ポップは鼻の下を伸ばしまくっていた。

 ポップの頭の中では、そうなったらポップもマァムに愛を告げ、あの日、バーンパレスではおふざけで済ませたキスシーンの続きまでが鮮明に妄想出来ていた。――若さとは、実に愚かしいものである。

(でも、告白返しなんかしたら、それで効き目がなくなっちゃうしなー。……ちょっと焦らすなんてのもアリかも)

 この惚れ薬の効き目を解除するキーワードは『術者の相手に対する感情』だ。相手をどう思っているか、言葉にして相手に伝えればそれで薬の効き目は終わる。
 だが、それはいかにも勿体ない気がしてならない。どうせなら、もっともっと恋する可愛いマァムを味わいたいではないか。

 


「ねえ……ポップ、聞かせて。あなたは私のこと、どう思っているの?」

「へへへー、さぁねー♪ そう簡単には教えられないなー」

「もうっ、意地悪……っ! 私はこんなにもポップのことが、大好きなのに……!」

 

 

(いいっ! これ、いいかもっ?!)

 少し拗ねた様に、上目遣いに自分を見上げるマァムの顔を想像しつつ、ポップはより一層ごろごろと部屋を転げまくる。  まことに、若さとは暴走するものなのであった。

「………………何をやっているんだ、ポップ?」

 呆れた様な声が降ってきて、ポップははたと転がるのを止めた。慌てて跳ね起きると、ドアのところで無表情に突っ立っているのは見慣れた兄弟子の姿だった。

「もしかして、気分でも悪いのか?」

 ひたすら真顔でそう問われると、かえって居心地が悪いというか、いたたまれない恥ずかしさが込み上げてくる。

「な……っ、なんでもねえよっ?! それより勝手に人の部屋にはいってくんなよっ!」

 噛み付く様に文句を言うポップに対して、ヒュンケルは素直に謝罪する。

「すまん。
 ノックはしたが返事がなかったから、緊急事態かもしれないと思い踏み入った」

 どうやらはしゃぎまくっていた自分がノックを聞き逃したせいらしいと分かっても、兄弟子に対する苛立ちといわれのない反感の方が先に立つ。
 おまけに、今ごろ込み上げてきた徹夜明けの疲れのせいも手伝って、ポップは不機嫌に言った。

「で、何の用なんだよ?! 言っておくけどな、おれ、今、すっげー眠いんだよ! くだらねえ用事だったら、ぶっ飛ばすからな」

 半ば本気で、ポップは真っ先に牽制をはる。
 もっとも牽制は口にしても、ポップはヒュンケルの持ってきた用事なら多分、引き受けることになるとは思っていた。

 宮廷魔道士見習いとは名ばかりで、実質宰相を勤めているポップの元に持ち込まれる用事や相談ごとは多い。

 基本的にポップは、人の頼み事を調子良くホイホイと受けてしまう傾向がある。そのせいで仕事が増えてオーバーワークになるのを案じて、自室にいる際には兵士達が気遣って面会を制限してくれる。

 特に、兵士達を束ねる立場にいるヒュンケルはその面会制限には強い権限を持っていて、ポップが許可を出してもいいと言った面会まで勝手に断ることもしばしばある。
 自分を気遣っての行為だとは分かるのだが、それがなんだか子供扱いされて庇われている気がして、面白くない。

 そのヒュンケルが、ポップが休日と分かっている日にわざわざ自室までやってくるということは、彼でも断ることの出来ない相手からの用事を持ってきたのだろう。
 ヒュンケルが頭が上がらない相手なんて、どうせこの国の当主であるレオナぐらいのものだ。彼女の命令なら、嫌でも従わなくてはならない。

 まあ、それはポップも同じ立場だったりするし、どうせ聞かなければならない命令だ。 だが、素直に引き受ける前に少しばかりごねて兄弟子を困らせてやろう  そんな心積もりでわざと不貞腐れた態度を見せるポップを、ヒュンケルはまじまじと見つめる。
 そして、軽く首を左右に振ってあっさりと引き下がった。

「……いや、たいした用事じゃない。疲れているなら、おまえは休んでいるといい。
 姫やマァムにはオレから説明しておく」

 そう言ってそのまま引き下がろうとする兄弟子を、ポップは焦って引き止めた。

「待ていっ?! 今、姫さんはともかく、マァムって言ったか?」

「ああ。言った」

 慌てる様子もなく、ヒュンケルは淡々と言ってのける。

「さっき、久しぶりにマァムがパプニカに来てな。姫がみんなを集めてお茶会を、と所望された。
 だが、その顔色では無理をすることは……」

「バッカ野郎、なんでそれを早く言わねえんだよっ?!」

 それこそ飛び上がらんばかりの勢いで、ポップは慌ててタンスへと飛び付いた。

「マァムが来てんなら、早く言えよ! 今すぐ支度するから待ってろ!!」

 

 


「あ、ポップだ! それに、ヒュンケルも! 見て見て、これマァムが持ってきてくれたんだよ!」

 ポップとヒュンケルが連れ立って部屋には言った途端、ダイが嬉しそうに声を上げる。 ここは、パプニカ王家の者が私的に使っている客間の一つだ。レオナのごく親しい人間しか入ることが許されない、プライベートルームである。

 彼女の趣味に合わせ、繊細で美しいが華美ではない家具が置かれた、こじんまりとした印象の部屋だ。
 テーブルの上に土産物を広げながら、ダイ、レオナ、マァムの三人が楽しそうに笑っている。

 貰ったばかりの焼き菓子を嬉しくて堪らないように見つめているダイの隣に座っていたレオナは、やってきた二人に向かって軽くウインクを飛ばす。

「あら、やっと来たのね。
 特にポップ君、お久しぶりね。やっと引きこもりを止めてくれたとは、嬉しいわ」

 些か皮肉にそう言ってのけるレオナに、ポップは肩を竦めて言い訳を試みる。

「ちぇっ、人聞きが悪いなぁ。
 引きこもりっつー程のもんじゃないだろ、師匠じゃあるまいし。ほんの数日じゃないかよー、それに仕事はちゃんとやってたろ?」

「あら、でも食事を取る時間も惜しんで部屋に引きこもっていたじゃない? いったい、何をしていたの?」

 皮肉や当て擦りのついでに、的確に知られたくないことに探りを入れてくるレオナの勘の鋭さにヒヤヒヤしながらも、ポップは何気ない風を装って話を逸らす。

「別にたいしたことじゃねえって。それよりさ、せっかくみんなが集まったんだ、たまには珍しいお茶でも飲まないか?
 アバン先生に習った、とびっきりのお茶の入れ方があるんだ」

 テーブルのすぐ隣に置かれたワゴンには、すでにお湯のたっぷりと入った水差しやら紅茶道具一式がそろってはいるが、それらはまだ伏せられていた。

 全員がそろってからと思っていて、待っていてくれたのだろう。本来ならお茶を入れるのはホスト  この場ではレオナの役割なのだが、彼女はポップの申し出を快諾してくれた。

「あら、ポップ君のお茶なんて珍しいのね、それはぜひご馳走になりたいわ」

「はいはい、お任せを」

 などと調子良く言いながらポップは茶道具の乗せられたワゴンの所に立ち、手際良く支度を始める。

 武道百範が自慢なアバンは、それと同程度の自信を持って家事に関しても芸の多さを誇っている。あまり熱心にアバンの教えを受けたとはいいがたいポップだが、弟子入りしていた期間が長かったため師匠の料理上手をそこそこは受け継いでいる。
 はっきり言って、アバンの使徒の中で、一番料理上手なのは彼だろう。

 お茶には一家言を持っていたアバンの影響で、ポップの手並みは見事なものだ。実際に美味しいお茶を入れるために手間を掛けるかたわら、ポップはこっそりとポケットから小瓶を取り出した。
 それこそ、ポップが精魂込めて作った『ホレ薬』入りの小瓶だ。

(こ、これをばれない様にこっそりとマァムのお茶に入れれば……っ)

 ドキドキと胸が高鳴ったが  残念ながらのっけから邪魔が入った。

「ポップ、そのちっちゃい瓶、なに?」

(ダイめっ、余計なものに目を止めてんじゃねえよっ!)

 一瞬、親友の目の良さを恨めしく思ったものの、良く考えればヒュンケルにしてもマァムにしても戦士としては超一級品だ。彼らの目を盗んでこっそり、というのは虫が良すぎるだろう。
 だからこそ、ポップは開き直った。

「こ、これか? これは、お茶の香りを良くするための香料だよ。ほんの少しだけお茶に混ぜると、香りが増すんだ」

 とっさにそう言いながら、ポップは調子良く手持ちの小瓶を見せびらかす。

「へー、そうなんだ」

 ダイを初めとした戦士連中は、疑いもせずにその言葉に素直に頷く。実際、その言葉はまんざら嘘と言うわけでもない。

 マァムに味の変化を悟られない様、ポップは惚れ薬の小瓶の他にももう一種類、香料入りの小瓶も持ってきた。
 そちらの方は、以前、アバンから貰った薔薇を元にした香料だ。

「なんでも、フローラ様が薔薇が好きだからってわざわざ薔薇の香りのするエキスを特別に作ったんだってさ。先生も、気障なことするよなー」

 アバンから聞いたままの説明に感想を加えた言葉に、レオナが興味津々で食いついてくる。

「あらっ、それはぜひ飲んでみたいわ! 薔薇の香りのお茶なんてロマンチックよね〜。 それにしても、あたしはてっきりポップ君が変な薬でも作って、あたし達を実験台にでもしようとしているかと思っちゃったわ」

 そう言ってのけるレオナの口調はどう聞いても冗談半分なのだが、ポップはギクリとせずにはいられない。
 ある意味では、まさにその通りなのだから。

「な、なにいってんだよ、姫さん。冗談きついなぁ〜」

 などとごまかしつつもあまりのレオナの勘の良さに動揺したせいか、ポップはポットをカップに勢い良くぶつけてしまった。幸いにも壊すまではいかなかったが、上質の茶器はごく薄く作られているせいかほんのわずか欠けてしまった。

(やべっ、姫さんに怒られるぞっ)

 なにしろレオナが普段使用している茶器は、王室御用達の特別製品という奴である。値段を聞けば、目が飛び出す様な金額の品も珍しくはない。
 まあ値段はともかくとして、大事にしている茶器を壊されてあのレオナが黙っていてくれるはずがない。

 前にダイとポップがお茶会でふざけて茶器を壊してしまった際、レオナをカンカンに怒らせてしまったことはまだ記憶に新しい。それを思えば、なんとかごまかしたかった。

「ところでマァム、今、カールの方ではどんなスィーツが流行っているの? 城下町に評判のケーキ屋ができたって、噂で聞いたんだけど」

 運良く、噂話に夢中になっているレオナやみんなは、カップのぶつかる音を聞かなかったらしい。それにホッとしつつ、ポップは素早くお茶を入れた。もちろん、マァムの分にだけは例の薬を仕込んだのは言うまでもない。 
そして、そそくさとそれを仲間達に一つずつ手渡す。

「ほら、できたぜ。熱いから、気をつけろよ」

 そう言いながらポップは真っ先に、ヒュンケルの目の前にカップを置く。――ちょっぴり欠けてしまった物を。
 壊した茶器を兄弟子のせいにしてやろうという気、満々である。

 そのまま時計回りにダイ、レオナ、マァムに渡し、ポップは割り込む様にマァムとヒュンケルの間に座り込んだ。

「ちょっと、ポップ、狭いのにわざわざここに座らなくても」

「そうだよー、おれの隣だって空いてるのに」

 ダイとマァムが細やかに文句を言うのは、当然無視だ。
 なにせ、薬の効き目のためにはマァムのすぐ近くに座っていなければならないのだから。
 

「さ、さあ、冷めないうちに飲もうぜ!」

 勢い込んで誘うポップに水を差したのは、お子様味覚の勇者様だった。

「あ、待ってよ、ポップ。おれ、ミルクとお砂糖入れるから」

「なんだよ、まだミルク抜きじゃ飲めないのかよ〜。しょうがねえな、今、入れてやるから待ってろ」

 呆れつつもポップはワゴンの所に戻って、ミルクと砂糖を持ってくる。いつもなら自分でやれと突き放す所だが、ダイ本人にやらせるとロクなことにはならない。

 無敵の力を持つ竜の騎士様は、日常生活ではとんと不器用なのだ。ミルクや砂糖と入れようとしてお茶をこぼしたりなど、日常茶飯事である。
 ダイ本人にやらせるより、ポップがやった方がよほど確実だし手っ取り早い。

「ありがと、ポップ!」

「あー、いいって、いいって。じゃ、待たせたな」

 そそくさと用を済ませると、ポップは元の席に戻って乾杯でもする様にカップを高く掲げて見せる。
 それに応じて、5つのカップも同じように持ち上げられ、軽く触れ合って済んだ音を響かせた。

「美味しい……! それにいい香りよねえ、さすがアバン先生ご自慢のフレーバーよね、うっとりしちゃうわ」

 レオナの手放しの称賛の声に続いて、ちょっと不思議そうなダイの疑問の声が続く。

「う〜ん? いい匂いはいい匂いだけど、なんか食べものって気がしなくて変な感じだね」


 薔薇の芳香も、無人島育ちの野性児には『食べ物じゃない匂い』にすぎないようである。
 だが、今のポップにとってはレオナの感想もダイの感想も、どうでもいいというレベルでは似た様なものだ。
 ポップの関心は、マァムにだけ注がれていた。

「本当にいい香りよね」

 カップを両手で包む様に持ち、軽く目を閉じたマァムは飲む前にその香りを存分に楽しんでいるようだった。
 いつになく女の子らしく見えるその表情にもドキドキするが、ポップとしては一刻も早く紅茶を飲んでほしいと思わずにはいられない。

 艶やかな唇がカップに当てられ、こくりと喉が動くまでの時間が、ポップにはやけに長く感じられた。

「ど、どうだ?! うまい、か?」

 そう尋ねると、マァムの目がぱっちりと開けられる。話しかけてきたポップを真正面から見つめながら、マァムはにっこりと笑った。

「ええ、美味しいわよ、ポップ。ありがとう」

 いつものようにそう笑うマァムを前にして、ポップが次の言葉を思い付くまで十数秒ほどかかった。

「………………えっと。それ、だけ?」

「それだけって?」

 かえって不思議そうに、きょとんとした表情を見せるマァムはいつもとなんら変わるところが見られない。
 肩透かしを食らったような気分で、それでもポップは小声で尋ねてみる。

「えっと……あのさ、おれを見て、いつもと違う感じがしないか?」

「いつもと違う?」

 不思議そうに瞬きを2、3度繰り返し、マァムはふと眉を潜めた。

「そういえば――ポップ、また少し痩せたんじゃない? ちゃんとご飯を食べているの? レオナやダイも心配していたけど最近睡眠不足なんですってね、夜はちゃんと寝ているの?」

(……なんなんだよっ、母親かよっ?!)

 恋の告白どころか、実の母親と会う度に聞かされるのと同じような説教に、ポップは意気消沈せずにはいられない。
 せっかく心血を注いで作った薬だったけど失敗だったのか……そんな風にがっかりするポップは恨めしくマァムのカップを見つめ  ふと、目を見開いた。

「マァム、それ……っ?!」

 マァムの手にしているカップは、よくよくみれば欠けていた。それは間違いなくポップがさっき壊して、ヒュンケルに押しつけたはずのカップだった。

「それっ、ヒュンケルの持ってた奴じゃ……っ?!」

「ああ、これ? ちょっと壊れているみたいだったから、口を切ったりすると危ないかなって思って取り変えたのよ。幸い口を付ける前だったし、私は慣れているもの」

 それは、いかにもマァムらしい思いやりと言える行為だった。
 たとえば、数人分のお菓子があったとすれば、彼女は他人を思いやって自分が一番小さなものを選ぶだろう。

 同じように、数人分の食器の中で一つだけ欠けていたなら、彼女は進んで自分がそれを取ろうとするのは想像に難くない。
 茶器の細かい傷でも大袈裟に気にするレオナと違い、マァムやポップは一般庶民の出身だ。

 あまり裕福とは言えない村で生まれ育ったマァムにしてみれば、その程度の壊れたとも言えない程度の軽い傷の食器は平気で使う習慣がある。

 ついさっき、ポップがダイのミルクを取るために席を外したちょっとの隙の間に、マァムはヒュンケルの茶器が欠けているのに気付き、取り替えたのだろう。
 そこまで思い至ってから、ポップは背筋がゾクリとするのを感じた。

(ま、待てよっ、待ってくれよっ?! マァムがヒュンケルのお茶を飲んでるってことは、肝心のマァムのお茶を飲んだのは――!!)

 今のポップは、マァムの視線が間違ってもヒュンケルに向けられない様に、彼女と彼の間に割り込んで視線を遮る位置にいる。
 ……と言うことは、逆にヒュンケルから見れば、その視線に映っているのは――。

「ポップ……!!」

「う、うわぁっ?!」

 それは、どちらも不意打ちだった。
 不意に耳元に掛けられた低い声に、同時に肩に置かれた手。
 びっくり仰天して振り向いたポップが見たものは、いつになく熱っぽく目を輝かせている兄弟子の姿だった――。
                                 《続く》

 

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