「いってきまーすっ!」
ヤバいっ、遅刻だっ!!
ぼくはパンをくわえたまま、玄関を飛びだして自転車に飛び乗った。学校までは、普通に走らせれば20分。
で、チャイムが鳴るのは……10分後っ!
これは、いくらなんでもヤバすぎる。なんせ、今月に入ってから、もう10回も遅刻してんだ――まだ、月半ばなのにさ。
これ以上遅刻したら確実に親呼び出しをくらった上、部活停止の処分をくらっちゃうっ。冗談じゃないよ、今月は剣道部の対外試合があるってえのにっ!
この瀬川弘幸、2年生とはいえ高校の剣道界じゃちったぁ知られた強者だってえのに、こんな情けない理由で試合に出そこなったら悲しすぎるっ!!
「うわっ、後4分30秒だっ!?」
ええいっ、死ぬ気でぶっとばせばなんとか間に合うっ!
ちらっと腕時計を見て、ぼくはなおさら力を込めて、猛然と自転車のペダルを踏んだ。――その先に、想像もできないような事件が待ち受けていようとは、夢にも思わずに。
交差点を曲がろうとした時、それは起こった。
すごいスピードで、トラックがこっちに迫ってきた――信号は青だったのにっ?!
ぼくは一瞬、自分の目を疑った。そして、その間が命取りになったんだ。 次の瞬間に避けようとしたが、もう手遅れだった。とても避けきれず、自転車の後輪がトラックに引っかかった!
グゥワギャシャッ――!!
凄まじい音と共に、あっけなく後輪が歪み、物凄い勢いで自転車ごと引っ張られる。何がどうなったのかも分からないうちに、ぼくの体は宙に投げだされた。
……ああ、死ぬのかな。
真っ先にそう思った。
地面に叩きつけられるまでの長いように感じたほんの短い時間。
ぼくの考えていたことときたら、今までの人生の走馬灯でもぼくを跳ねたトラックのことでもなんでもなく、結局、学校に遅刻しちゃうんだなっていう、すごくしょうもない思いだけだった。
「ぅうわぁああっ――――!!」
そして、全身を火で焼かれたような熱い衝撃がぼくを襲う。その激痛に、ぼくはひとたまりもなく意識を失った……。
……何か、青っぽい匂いが鼻をついた。
都会育ちのぼくには、あまりかぎ慣れない匂いだけど――でも、なぜか分かる。……これは、草の匂いだ。
ぼんやりと、意識が戻ってくる。
気がつくと、ぼくは草原にうつぶせになって倒れていた。不思議なことに、身体はどこも痛まない。
……ぼくは、助かったのかな?
と、思ってから、ぼくは気づいた。草原があるだなんて……一体、ここって、どこだ?
『おい』
かすかに、誰かの声が聞こえたよーな気もするけど、今はそれどころじゃないっ。
ぼくは半身を起こして、あたりを見回した。
どこか懐かしい、草の匂い。それを運ぶ風が、頬を優しくなでていく。
太陽の光が眩しい。が、それに目が慣れて視界がはっきりしてきた。
果てしなく続く草原に、そのさらに向こうに低い岩山。スモッグのカケラも感じられない、抜けるような青空……。
「な、なんだ、この風景っ?!」
戸惑いながらも、ぼくはなんとか立ち上がり、まじまじと自分の身体を見返し……気がついた。
『おい!』
「な、なんだよ、これっ?!」
ふっ、服が変わっているっ?!
確か、ぼくは間違いなく学校の制服を着ていたはずなのに、見たこともない格好に変わっていた。
動きやすそうだが、麻のような肌触りのゴワゴワしたシャツに、ダボダボのズボン。
……はてしなくダサい上にすっごく古めかしい感じの変な服だけど、まあ、それはいい。だが、問題なのは腰に下げている剣だった。……これじゃあまるで、なんかのアニメとかゲームの主人公が何かのコスプレみたいだ。
戸惑っていると、苛立ったような声が、強く、ぼくを呼んだ。
『おいっ、聞こえないのか?!』
「え?! だ、誰だいっ」
慌てて周囲を見回したが、誰も近くにはいない。見えるのはただ、無人の草原のみだ。にも拘らず、声ははっきりと聞こえてくる。
『何キョロキョロしてんだよ!』
「だっ、誰だよっ?! どこにいるんだっ?!」
回りには誰もいない。少なくとも、目に見える範囲には誰一人として。なのに、声はすぐ耳元に聞こえてきた。
『どこにいるって? そりゃあ、こっちの方が聞きたいよ! なんで、おまえがオレの身体の中に入ってくるんだよ!』
「……オレの……身体ァ?!」
ぼくは慌てて、自分の手を見下ろした。
だが、じっくり見て、違いに気が付いた――これはぼくの手じゃない!
ぼくの手はこんなに筋肉はついていないし、こんなに日に焼けてもいない。それに、こんなに傷だらけの手じゃなかった。
確かに、剣道の稽古のせいで生傷やかすり傷は耐えない方だったが、それでもこんなにひどい傷など負った覚えなんかない。
手だけじゃない、筋肉の付き方や身体付き自体が、すでに違う!
ひょっとして……変わってるのって……服じゃなくて、ぼくなのか?!
『そうだよ、それはオレの身体だよ!! なのに、身体がオレの思い通りに動かなくなっちまったじゃねえか!』
「な、なんだってっ?」
この身体は、ぼくの思い通りに動く。
けど――ぼくは不安に駆られて、近くの木立ちに見える小さな泉に駆けていった。
泉の水は、波一つなく澄み切っている。その水面を鏡にして、ぼくは覗きこんでみた。
「なんだ、こりゃあ! ぼくの顔……じゃない!」
この顔!
よく日に焼けた、彫りの深い顔立ち。
やや長めにさえ思える伸ばしっぱなしの髪は、茶色がかった黒。
そして、目――目が青く見えるっていうのが、こんなに人をかけ離れた人種に見せるってことに、ぼくは今までまったく気づかなかった。
はっきりいってぼくよりもずっとハンサムというかかっこよかったけど、でもこれはぼくじゃない!
16年間ずっと慣れ親しんできた、自分なりに愛着を感じている顔じゃなかった。
『だから、オレの身体だって言ってるじゃねえか!』
再び、耳元に声が聞こえる。
「だ、誰なんだよ、君は……?」
『オレはアドル。アドル=クリスティンだ』
「アドル……? ……い、いったい、どうして、なにがどーなったんだ?」
外国風の名前を名乗ったアドル――おそらくこの身体の本来の持ち主は、さっきよりはずいぶんと落ち着いた口調で、ゆっくりと説明してくれた。
『どうして、こんなことになったのか、オレだって知りたいくらいだ。オレは旅人で、この草原で一休みしていただけなのに……突然、変なショックがあったんだ。まるで、雷にでも打たれたみたいな……それで、オレは気絶した』
トラックに跳ねられて気絶したぼくと、なんか、似ている。
『そして、気がつくと、おまえの意識がオレの身体を支配していた。
オレの意識はあるけど、身体の自由がまったく効かなくなってるんだよな。……おまえは、自由に動けるのか?』
「……う、うん、動けるよ」
つ……つまり、ぼくは、いつの間にやら、本人の意識を押し退けて、アドルの身体を乗っ取っちゃったってこと?!
そんなの……そんなのって、ありかよ〜?!
まさか、マンガやドラマでもめったにお目にかかれない様な、こんなバカなことが現実に起こるだなんて!
しかも、ここはどう見たって、日本じゃないっ。
「アドルッ、ここは?! ここはどこなんだっ?!」
パニックを起こす寸前のぼくに比べると、アドルはやけに余裕のある声で応対してきた。
『ここはエステリア。有名な『呪われた島』だよ』
「え、えすてりあぁ?」
ぼくの混乱は、いっそう深くなる。
そんな地名――ぼくは聞いたことも見たこともないっ! まさかとは思ったけど……ここはやっぱり、日本どころかヘタすると地球でさえないのではっ?!
『なんだ、知らないのか? ここは、はるか昔はイースと呼ばれた楽園だった。だが、いつのまにか、ここは呪われた島と呼ばれ、エステリアという地名に変わったんだ。
ここには、数々の冒険がうずまいていると聞いて、ここまでやってきたんだが、まさか来たそうそうにこんな目に合うとは思わなかったな』
苦笑じみた笑いが、声に混じっているけど――んな、笑っていられるような状況なのかっ、これってっ?!
「こっ、これからどうすりゃいいんだよっ?!」
『さあ? オレにも、よく分からん』
開き直ったようにあっさりと言われて、ぼくは頭を抱え込んでその場にへたりこんだ。だが、それでも一声、叫ばずにはいられなかった。
「な、なんで、こうなるんだよ――――っ?!」 《続く》
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