Act.1 ダルク=ファクトの誘惑 |
ぼくは――ぼくは、断じて、こんな目に会う覚えはないっ。 ひたすらパニックを起こして騒ぎ立てるぼくに、アドルはこんな事態に巻き込まれた奴とは思えないぐらい落ち着いた声で話しかけてくる。 『みっともねえな、少しは落ち着けよ。えっと……名前、なんていうんだっけ?』 「弘幸! 瀬川弘幸っていうんだよ」 『ふぅん、ヒロユキ、か。変わった名前だな』 アドルの発音の仕方で呼ばれると、平凡なはずの自分の名前がちょっと語感が違って聞こえる。なぜか言葉は通じているけど、やっぱりアドルは外国人っていうか、遠い世界の人間なんだって実感させられた。 「アドルはよく落ち着いてられるねっ! 君の方が、ぼくよりもずっとずっと、大変な立場だってえのに」 少なくとも、ぼくが逆の状況だったら、今の倍は騒ぎ立てるぞっ。 『二人してパニッくっててもしょうがないだろ。それに、先にパニックになられちまうと、なんか冷めるしな。騒いだところで、どうにもなんないし』 落ち着いた言い方といい、余裕を残した感じといい、全然負け惜しみには聞こえない。それを聞いていて、なんだかぼくは恥ずかしくなった。 ……考えてみれば、理由が分からないし悪気はなかったとはいえ、ぼくはアドルの体をのっとっちゃったんだよな。 「……ごめん、アドル。ぼくのせいなのに、自分一人だけで騒ぎ立てて」 『いいさ。……ちょっとは落ち着いたみたいだな』 「うん。とにかく、なんとかする方法を考えないとね」 やっと立上がり、ぼくは手足についた埃を払った。考えたところでどーなるもんかは分からないけど、とにかくぼくだって元の世界に戻りたいし、アドルだって自分の体を取り戻したいに決まっている。 『残念だが、のんびりと考えているヒマはないみたいだぜ』 アドルの声が、急に真剣なものになった。 太陽がでていると言うのに、周囲が暗くなっていく。ぼくはわけの分からない恐怖に捕らわれ、逃げようとした。 『動くな!』 アドルの叫びが、ぼくの動きを止めた。 『何かがくる……動くな。分からないのか?』 ぼくはびくっとして、その場に立ち止まった。 それも、ぼくよりもはるかに敏感だ。 でも、ただの闇じゃない。肌にぬめっと絡みつくような、いやらしい感じのする闇だった。 「なっ、なんだっ?!」 ぼくは思わず、叫んでいた。 「アドル! これはいったい……っ?!」 『分からない。ただ、オレ達に好意的なものじゃないってことだけは確かだ!』 アドルがそう答える間にも、霧のようなものは徐々に集まっていく。そこまでが、ぼくの限界だった。 『がむしゃらに逃げたって、だめだ! オレ達は、魔法の結界の中に閉じ込められている』 アドルのその言葉の意味を、ぼくが思い知ったのは数秒後だった。 「えっ、ええっ?!」 霧の塊に背を向けて駆け出した それなのに、ぼくはいつの間にか再び霧の塊を前にしていた。 「なんだよ、これ……。魔法の結界だって……?」 ぼくの声は、周囲の闇に吸い込まれるように消えていく。 『ヒロユキ、っていったよな。腰の剣を抜け!』 アドルの声に、ぼくは反射的に従っていた。 『それは、オレの剣だ。おまえ、戦いの経験はあるか?』 「た、戦い? そんなの、ないよっ。一応、剣道部には入ってたけどさ」 『ケンドウブ? なんだ、そりゃ?』 どうやら、この世界には剣道はないらしい。 『しかし、まいったな。霧から現れようとしている奴が誰であれ、オレは体を動かすこともできない……』 ぼくは体は動かせるけど――なんで、ぼくが戦いなんかに巻き込まれなくちゃならないんだっ?! 「冗談じゃない……っ。た、戦うなんて、できないよ……っ」 『ちっ、だらしねえな、男の癖に』 アドルがさも馬鹿にしたように言うが、そう言われたって平和な日本人の平均高校生に、戦いの覚悟なんてあるわけがない。 『弱気になるな! 戦う前からそんなに弱気で、どうするんだ! そんなんじゃ、このエステリアでは一日と生きていけないぞ!!』 アドルにハッパをかけられ、ぼくはなんとか気力をふり絞った。 「わ、分かったよ、ダメでもともとだ!」 ぼくは剣の鞘を払った。とにかく、相手が人間じゃなくて不気味な闇の塊だというのが、少しは心理的に楽だった。 「うわぁあああっ!」 『ぐ……っ!!』 ぼく逹は、同時に悲鳴を上げていた。 『いってえなあ。オレの体なんだから、もっと大事に扱ってくれよ』 文句を言うところを見ると、アドルも痛みを感じてるみたいだ。 「ご、ごめん。でも、今のはいったい……?」 ぼくは強く打った尻をさすりながら、立ち上がった。 『オレにもよく分からないけど、魔法みたいだ。まだ、完全に姿を現していないのに、こんなすごい力があるなんて……すごいヤツだ。 アドルの声は落ち着いていて、とても頼りになる感じだった。さっきぼくにハッパをかけた時と違って、冷静に戦力を分析する口調は、アドルの戦士としての確かさを証明していた。 『こいつは、オレが今までに見たどんなヤツよりも強いかもしれない。逃げてもいいぜ』 その言葉を聞いた上で、ぼくは少し悩んでから答えた。 「……逃げたくない。――って言ったら、怒る?」 怖いことは、すっごく怖い。 このまま、負け犬みたいに逃げたくはない。 ただ、アドルの体を危険に晒すことになるかもしれないのが不安だったが、アドルは怒りはしなかった。 『よし、分かった。
「う、うんっ」 剣道の試合とは比べ物にならない緊張感を感じながら、ぼくは剣を構えて、その瞬間を待った。 「……あ…」 ぼくは完全に言葉を失い、そこに立ち尽くしていた。 そこに現れたのは、得体のしれない化け物じゃなかった。 長い金髪に、青い切れ長の瞳――男とは思えないほどの妖しい色香さえ漂わせた美貌に、思わず視線を奪われてしまう。ゆらめく金髪から、節くれ立った長い角が生えている、あきらかに人間ではない男。 『しっかりしろ、ヒロユキ! 何をぼやっとしてやがるんだっ』 アドルの声が轟いた。 「そう、急くこともなかろう。剣を下ろしてもらいたいものだな」 静かだが、そこ知れぬ自信を秘めた声……そして、その美貌と同じ様に人を惹きつける美しさをもった声だ。 「見ての通り、私は武器を持ってはいない。丸腰の相手に、話も聞かずに剣を突きつけては、剣士の名折れと言うもの……そうは思わないかな?」 男の言葉に、ぼくは咄嗟に迷いを感じてしまう。 ただ無造作に立っているだけのようでいて、男には全くの隙も見えない。 『ヒロユキ、どうやらすぐに襲ってくるつもりじゃないみたいだ。剣を下ろして、様子をみよう』 アドルの言葉を聞いて、ぼくはやっと剣の切っ先を下ろした。 「そうだ。そうやって素直に私の話を聞くことだ。貴公にとっても、決して悪い話ではないのだから」 黒マントの男は、優しげと言ってもいい口調でそういい、微笑みかけてくる。その笑顔に、つい見とれてしまっている自分に気づいて、ぼくは慌てて首をふった。 「いったい、ぼくに何の用だよ?!」 内心の動揺をごまかすため、ぼくはわざと乱暴に怒鳴った。 「貴公を迎えに来た――私のものとするために」 抑揚のある響きで、男は驚くべき言葉に口にする。 「貴公は、異界より訪れた戦士。この世で最も優れた戦士となりうる可能性を持った、その少年――アドル=クリスティンの体を乗っ取った貴公を、私は心より歓迎しよう。 「……な、なんだって……っ?!」 「世界は、いずれ私の意のままとなる日がくる。それは、そう遠い日の事ではない。貴公は、充分にその恩恵を受けることができるだろう……!」 すべてを知り尽くしたかのようなそいつの言葉は、まるで予言のように強くぼくをうちのめす。それに負けないように、ぼくは必死に心の中で、アドルを呼んだ。 (アドル……ッ!) 助けを求めるための呼び掛け。 『オレに考えがある、よく聞けよ。 分かった、とぼくは心の中だけで思い、アドルに答える。 「――そうだな……従ってもいいよ」 「ほう」 男が、少し表情を緩める。――今だ! 『ヒロユキ、こいつは幻影だ! 魔法で作られた、幻影なんだ!』 混乱する前に、アドルが真実を教えてくれる。が、……魔法だって? そんなの相手に、どうすればいいんだっ?! 『くそっ、魔法じゃどうにもならねえ! どうすりゃいいんだっ?!』 「アドルがそんなんじゃ、ぼくはどうしたらいいんだよ〜っ?!」 『どうしようもない! この場は逃げた方がいいぜ』 さすがのアドルも、魔法にはからっきし弱いみたいだ。 「分かったよ」 悔しいけど、こうなったら逃げるしかないのか そう思った時だった。 「アドル、見えたか?」 『なんのことだ、ヒロユキ』 不思議そうに、アドルが言う――彼には見えていない? 「よしっ、もう一回だけっ!」 『じょっ、冗談だろっ?』 驚いたようなアドルの声がしたが、ぼくは目前の幻に向かって再び突っ込んだ! 「そこだあっ!」 悠然と笑い続ける黒いマントの男を突き抜け、その先の闇に剣を浴びせた。ガチリと、堅い手応えがあったが、剣はあっけなくボキッと折れてしまう。 『間を取れ、ヒロユキ!』 ぼくはとっさに跳びずさった。 「フフ、私の幻覚を見破るとはな……。殺すには惜しい」 ゆとりをにじませた声が、さっきとは違う所から聞こえてくる。
男は、ぼくの突き出した剣の刃を無造作に素手で掴んでいた。どういうわけか、手さえ切れていない。 「下等な生き物にしては、良くやる。 黒マントの男はそう言うと、徐々に姿を消し始めた。 「ま、待て! おまえはいったい、何者なんだっ?!」 「よく覚えておくがいい。私の名は、ダルク=ファクト。いずれは、世界は私に平伏することになるだろう」 ダルク=ファクトの姿は、霧と化して消えていった。同時に周囲の闇が薄れ、世界が明るさを取り戻した。 『カッコつけやがって。いけすかねえ野郎だぜ…』 吐き捨てるように、アドルが言う。その意見にはぼくも賛成だけど……でも、あの男、ダルク=ファクトには奇妙な魅力がある。敵だと分かっていても、気を惹かれてしまうだけの魅力が。 「……怖い、奴だよな」 ぼんやりとしていると、アドルがぼくを促した。 『それはそうと、近くの町に入ろうぜ。宿は取ってあるんだ。オレの体を、そろそろ休ませてやってくれよ』 「あ、ごめん。気がつかなくて」 『それに、あんなヤツに襲われるんじゃ、今の装備じゃ心細い。折れた剣の代わりもいるし、盾や鎧もそろえないとな』 本当に、アドルはしっかりしているというか、頼りになる。 アドルには迷惑かもしれないけど……でも、ぼく一人だったら、何をどうやっていいのかさえ分からなかったに違いない。 「そうだね、とにかく、まず町に行くよ。それからゆっくり、これからどうするか相談しよう」
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