エピローグ 夜、窓を叩く影 |
日が暮れた直後、ぼくは自分の部屋でのんびりと本を読んでいた。 ぼくにはもう、なんの心配ごともない。 夜にどうやって外にでればいいのか、言い訳に頭を悩まされる心配もない。本当なら大喜びしてここしばらくは読むヒマさえなかった本を、好きなだけ読むところだけど……。
とても本を読む気になれなくて、ぼくは読みかけていた本を放っぽりだした。どうせさっきから何度も同じページを眺めてるだけだもん、意味ないや。 あの文句ばかり言っているリュディガーが、無事とはいえ当分目を覚まさないことも……アンナを怒らせちゃったことも。 ――もしかしたら、もう二度と。 ぼくは枕元に置いておいたプレゼントの包みを見て、溜め息をついた。……これは目に付かない所に、しまいこんだ方がいいのかもしれない。 もう二度と、リュディガーのために窓とカーテンを少しだけ開けておくことはないだろうな、と思いながら。 ……本を読む気もないや。そうやって、どのくらい経ったのか――いつの間にかウトウトしかけていたぼくは、かすかなノックの音に気がついた。 「あ…?」 ドキッとした。 一瞬、逃げだしてしまいたい衝動に駆られたけど……でも、やっぱり、怖いもの見たさの好奇心の方が強かった。ぼくは忍び足で窓に近づいて、こっそりとカーテンの隙間ごしに外を伺った。 「リュディガー?!」 驚いた――なんてもんじゃない。 なんといってもリュディガーは共同墓所の勘当を解かれたばかりで、おまけに冬眠中だったはずなのに。あれから、たった1日しか経っていないのに。 「気をつけて。お父さん達が、家にいるんだ」 窓を開けてリュディガーを中に入れながら、まず、警告をした。 「ふぅん、それでおまえの両親は何をしてんだい?」 ちびっこ吸血鬼は、疑り深い目でドアの方を見た。 「テレビを見てるよ。お気に入りの映画を見てるんじゃないかな」 「ああ、じゃあ、おっきな声をださなきゃ大丈夫ってわけか」 納得したのか、リュディガーの顔が緩む。 「リュディガー……もう起きてて大丈夫なの?」 「ああ、もっちろん。ほら」 と、得意そうにリュディガーは手首をぼくに見せた。そこにあった逆さ十字の痣がきれいになくなっている。 「勘当を解いてもらって飛行禁止を解除してもらったとたん、目が覚めたんだ。オレはその間のことは、まるで覚えていないけどね」 それを聞いて、少なからずホッとした。じゃあ、ぼくが昼間にリュディガーの棺桶を除いたことはバレてないんだ。 「アンナとルンピには、でっかいカリができちまった。当分、あの二人には逆らえないなー」 情けなさそうにボヤくリュディガーがおかしくて、ぼくは声を殺して笑った。アンナやルンピに頭が上がらないリュディガーなんて、考えられない。 でも、それを言ったらリュディガーがツムジを曲げるのは目に見えているから、ぼくは笑いを噛み殺してできるだけ真面目に言った。 「そうだ、リュディガー。君、忘れ物していっただろう」 「忘れ物?」 「うん、ほら、舞踏会のコンテストでもらった商品だよ」 そう言うと、リュディガーは嫌そうに顔をしかめた。 「ああ……あんなの、いらないや」 「いらない? ホントに、いらないの?」 念を押して聞くと、リュディガーは大きく頷いた。 「いるわけないだろ、あんな忌ま忌ましいもの」 ……確かに、歌いたくもないのに歌った記念品なんて、リュディガーにはいらないかも。
「いいぜ。あんなのが欲しいならな」 リュディガーの許可をもらって、ぼくは内心喜んだ。吸血鬼のプレゼントなんて、めったにない。お母さんは不気味がっていたけど、いいコレクションになるだろう。 「でもさ、リュディガー……。君、ドロテー叔母さんに見つかる心配はないの?」 「もちろん、あるさ。でも、オレはアンナの使いで来たんだ」 悪びれもせずにケロリと答えるところが、いかにもリュディガーらしい。 「アンナの使い?」 不意に聞かされたアンナの名に、ぼくは自分の顔が赤くなったのが分かった。 「うん。アンナに、どうしてもアントンに礼を言ってこいって、言われたんだ」 「礼? いったい、なんのためにさ?」 顔がますますほてってくる。きっと、今のぼくの顔は真っ赤っかになってるぞっ。 「それはおまえがとっても親切にしてくれて、おまえの家の地下室にオレを居させてくれたからさ」 「ああ……そのことか」 ようやく事情が分かって、今度こそぼくはホッとした。 でも、リュディガーはそれについてはなんにも知らないみたいだ。 「そんなの、当然だろ。君だってぼくの立場だったら、まったく同じようにしただろう?」 でも、わがままで自分勝手だけど、リュディガーはぼくを裏切ったりはしない。ぼくが危ない時は、必ず助けてくれる。 「もちろんさ。おまえはいつだって、オレの助けを期待していいよ」 リュディガーがちょっと言葉を切って、考え込むようにぼくを見た。 「おまえが吸血鬼でさえあれば、オレは――」 ぼくが吸血鬼? 冗談じゃない。 「ぼくは吸血鬼になんか、ならないよ」 「ならない? アンナのためでも?」 リュディガーの目に、ぼくを試すような、そんな光が浮かんでいた。 「ああ。それに、アンナとはケンカをしてるんだ」 なんでもないことのようにしゃべりたかったけど、ぼくの声は腹が立つほどひどく震えて聞こえた。 「知ってるよ」 顔が、かあっと赤くなるのを感じた。 「アンナが君にしゃべったの?」 「へえ? おまえだったら、アンナとケンカをしたことを、オレにしゃべるのかい?」 からかうようなリュディガーの言い方で、ぼくは遅まきながらやっと気づいた。 ぼくはそんな有り得ない可能性を、一瞬でも信じた自分を呪った。 「……アンナから無理に聞きだしたんだろ」 ついつい咎める口調で言ったのに、リュディガーは一向に気にしなかった。 「いいだろ、そんぐらい。アントンだって、オレの二つ名の由来をアンナから無理に聞きだしたくせに」 いきなり忘れかけていた話を持ちだされて、ぼくは詰まった。 「あれは……ちょっと気になったから」 「何が? たとえば、オレがおまえを無理やり吸血鬼にするつもりがあるかとか?」 「そんな――!」 言い返そうとして、リュディガーのニヤニヤ笑いに気がついた。本気で言っているわけじゃないんだ。 「ま、強情っぱりのリュディガー様は、本人が望まないなら人間を吸血鬼にするつもりなんかないさ。 やけに大きな声で言うから、ぼくは居間にいる両親に聞こえるんじゃないかとビクついたが、テレビがよっぽどおもしろいのかかすかな笑い声が聞こえるだけだ。 「リュディガー、あんまり大声出さないでよ」 「あっ、そうそう。そういや、アンナからおまえに聞いといてくれって言われたことがあるんだ」 ぼくの言葉をまるっきり無視して、さも、たった今思い出したと言わんばかりにリュディガーはポンと手を叩いた。 「ぼくに?」 「うん。おまえがまだ、アンナを怒っているかどうか、オレに聞いといてくれって」 それを聞いて、大声で笑いだしそうになった。――ぼくがアンナを怒っているか、だって? 「怒ってないよ。アンナを怒ってなんか、いられるもんか」 叫ぶように言ってから、気持ちがホッと軽くなるのを感じた。 「本当に?」 リュディガーが念を押すのに、ぼくは自信を持って頷いた。 「本当さ」 「それなら、いいさ」 そう言って、リュディガーはトコトコ窓に向かって歩くと、気取った手つきでカーテンを開けた。 「聞いただろ、アンナ。オレの言った通りだろ? アントンはおまえを怒ってないってさ」
ぼくをまんまとひっかけたリュディガーを、睨みつけてやろうと思った。でも、顔が勝手に緩んで、赤くなっていくのをどうしても止められなかった。 「万事オーケー。入ってきていいよ、でもそっとだぞ!」 まるで自分の部屋であるように、リュディガーが言う。 「こんばんは、アントン!」
|