29 立て直せない態勢(1)

 

 

 バランの精神攻撃により、ダイは記憶を失う。
 この記憶喪失の状態のダイの反応は、なかなか面白い。記憶喪失という症例は日常生活ではそうそうお目にかかれるものではないのだが、ダイの記憶喪失は通常の症例に比べるとかなり違っている。

 記憶を失ったダイの反応や行動を見ていて疑問を感じる点は、二点。時折、額に竜の紋章が浮き上がり出血すること。
 もう一つは、一人称そのものが変わっていることだ。

 この場合、一人称の方は実際の記憶喪失というか記憶障害でも見られる例だし、説明もしやすい。
 ダイの記憶喪失は、単純に現在の記憶を失っただけでなくおそらく記憶退行も混じったものだ。

 ダイ自身が思い出した過去の記憶で、ゴメちゃんと出会ったばかりの幼いダイの一人称は「ぼく」だったことを考えると、彼の精神年齢はその程度まで戻っていると思っていいだろう。口調や態度が全体的に幼くなっていたことも、この推理の裏付けになる。

 人間の記憶というものは、過去の方が根深く残っているものである。幼児性は成長と共に記憶の奥底に沈むものだが、別に消えるわけではない。とある心理学の本で、人間の記憶というのは引き出しがいくつもあるタンスのようなものだとたとえた本を読んだことがあるが、なかなか面白い例えである。

 普段は人間は自分の意思の力でその引き出しにしまってあるもの――つまり、記憶を自由に出し入れできる。だが、どの引き出しに何を入れたか覚えていなければ、当然だが探すのに手間取るものだ。
 まして、その引き出しに鍵をかけてしまったのではなおさらである。

 人は時として、思い出したくないと思った記憶を心の深いところに押し込め、決して開けられないように鍵をかけてしまうことがある。
 この時のダイは、まさにその状態だ。

 新しい記憶をしまっておいた引き出しに鍵がかかって開かなくなり、古い部分の引き出しだけが開いている状態なのである。
 しかも、この鍵のかかり方がタチが悪い。

 本来記憶喪とは、脳に直接損傷を負う場合を除けば、本人の心理的な問題で発生するものだ。

 本人がどうしても忘れたい、あるいは受け入れがたいと思っている記憶があり、それを処理できない場合にその記憶を封じ込めることで自らの心を守ろうとする。本人の無意識下の意識が行う、本人の心を守るための防衛本能の一つなのだ。

 だが、ダイの記憶喪失は本人の無意識がしたことではなく、バランによる意図的なものだ。
 作品中でクロコダインが的確に説明しているが、バランは竜の紋章の力の共振を利用してダイの記憶を消し飛ばしてしまった。

 この共鳴を利用した記憶の消去の説明は、非常に興味深い。理論としては、音叉の共鳴に似ている。

 二つの音叉のうち片方を鳴らすと、もう片方も音叉もその共鳴を受けるというのは有名な話だ。その際、固有振動数が同じでないと共鳴しないとのだが、これも竜の騎士という共通点を持つダイとバランのみが反応し、他の者にとっては不快な音にしか聞こえなかったという点が特に似ている点だ。

 しかもこの竜の紋章を利用した記憶操作には、後々までバランにとって有利に働いている。
 ダイが何かを思い出そうとすると頭痛を感じ、竜の紋章から出血するという現象などその最たるものだ。

 人間だけでなく生き物は原則的な本能として痛みや苦痛を避けようとする傾向があるので、これをすれば苦痛を感じると学習したことには容易に手を出さなくなる。

 思い出そうとすると頭痛がするから、思い出したくない――その原則に素直に従う幼児化したダイには、記憶を取り戻す理由がない。
 この作為的に思える頭痛の与える影響は、深刻だ。

 通常、記憶喪失の人間に無理に記憶を取り戻すように仕向けると、精神的な不安から体調に良くない影響を与える症例は少なくない。

 本人が記憶を取り戻したいと思っていても、無意識下で不安を感じ、記憶を取り戻したくないと考えている場合が多く、その心理的矛盾が葛藤を招き、肉体に影響を与えるのである。

 だが、それは本人の心の矛盾が生み出す苦痛なだけに、本人の望みが記憶を取り戻したいと強く願い、また、心がそれに耐えられる強さを身につければ、葛藤は次第に弱まり記憶の扉はまた開かれるようになる。

 しかし、ダイの場合は本人の無意識がかけた鍵ではないだけに、本人の意思で開け閉めできる可能性が低い。更に言うのなら記憶を失ったダイは、記憶を取り戻したいと思う熱意がない。

 精神的に幼くなったせいかもしれないが、ダイが求めているのは大人の保護のみだ。
 記憶を失ったダイにとって自分の周囲にいるのは見知らぬ人ばかりなのは当たり前なのだが、それよりも問題なのはダイが周囲に対して積極的に働きかける意思をなくしていることだ。相手のことを知りたいとは思っていないし、自分自身の過去を知りたいとも思っていない。

 実際、記憶喪失中のダイは他人が自分について話しているのを聞いていても、ろくすっぽ反応らしい反応を見せない。ゴメちゃんと遊びたがるぐらいのもので、仲間達同士の会話など人ごとのように聞き流している。

 周囲への無関心ぶりは、直接話しかけられても同じだ。
 レオナが必死にすがりつき、自分を思い出してくれるように訴えかけても、その反応は頼りない。

 バランによって強引に記憶を消されたダイにしてみれば、今の状態から抜け出したいと思う気持ちすら浮かばないのだ。無理に何かを思い出そうとすれば頭痛がして額から出血もするし、積極的に動きたくないのも無理はない。

 それに幼児に戻ったダイの視点から見れば、自分に対して大声を上げて迫ってくる年上の人達に対していい印象がないのも無理はない。
 子供にとって、大人は保護を与えてくれるものだ。

 甘やかされた育った子供が自分の親だけでなく、周囲の大人に対しても警戒心を抱かずに無邪気に甘えるように、記憶を失ったダイも周囲に対して甘えの感情を抱いている。

 幼児にとっては、何もしなくても愛されるのはむしろ当たり前のことなのだ。
 だからこそダイはポップに怒鳴られたり、武器を手にとれと要求されても、怯えるばかりで実行しようとはしない。

 また、この時に迫ったのがポップで、実際にダイに対して攻撃を仕掛けなかった辺りも不運としか言いようがない。確実に殺気を感じさせ、本気で戦いをしかけてくるような相手だったのならば、ダイ本人の意思とは無関係に竜の紋章の力により反応を見せたかもしれない。

 だが、竜の紋章は持ち主の肉体的な危機には反応するが、精神的な問題には全く効果がない。現にテランに来る寸前、ダイが自分の正体について悩みに悩んでいたのに、全ての答えを知っているはずの竜の紋章の記憶は少しもダイに力を貸してはくれなかったのだから。

 だからこそポップによって追い詰められたダイは、並の子供と大差のない反応を見せている。

 剣を放り出して逃げ出し、一番庇ってくれそうな存在――レオナにすがりついてただ泣いているだけだ。自分に一番構ってくれている女性に甘えるのは、保護者を求める幼児としてはごく自然な行動ではあるが、今までのダイとはあまりにもかけはなれている。

 記憶を失ったことで、ダイは勇者として磨いた力だけでなくその心のあり方まで一変してしまった。勇者に強い憧れを抱き、自分もそうなりたいと思っていたはずの心はすでにない。

 ひよっこ勇者として旅立ち、戦いを重ねて敵からも味方からも勇者と認められつつあったダイが、卵以下の子供に戻ってしまったのである。

 

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