30 立て直せない態勢(2)

 

 ダイの記憶喪失――その事実に勇者一行は強い衝撃を受けている。記憶を失ったダイ本人が意外と平然としているのに比べ、周囲の人間の動揺は大きいのである。

 だが、当たり前と言えば当たり前だが、その傾向はダイと親しい者の方が強い。

 ナバラやメルルが比較的に冷静なのは、ダイとの付き合いが浅いせいもあるだろう。なにしろ彼女達はダイに会ったのはほんの二日前のことであり、竜の騎士という特別な存在だと意識はしていても、個人的に親しい感情を抱いているわけではない。

 大事件に動じず、日常的な雑事を冷静に行えるのもそのおかげだろう。
 記憶を失ったダイと、バランとの戦いでダメージを受けたクロコダインの治療のために彼らはテランの森の中にある小屋へと一時避難しているが、この避難にはメルルの意思が働いている可能性が大きそうだ。

 後にレオナはダイのための避難場所としてテラン城を選択しているのだから、レオナが主導権を握って動いているのだとすれば最初からそちらに行っていたと思われる。

 テラン出身であるメルルやナバラはテラン付近の地理にも詳しいし、とりあえず身を休めるための場所を教えることはできただろうし、メルルにいたっては一行のために買い物にまで行っている。

 ここで注目したいのは、メルルのさりげない気遣いと聡明さである。

 一人で買い物に出かけたメルルは、食料と薬草をメインにその他にも要りそうなものを手に入れてきたと発言している。ただ単に買い物をするだけでなく、何が必要か自分で考えて配慮をプラスすることのできる彼女はなかなかのしっかり者だ。
 
 しかも、彼女は周囲の状況もよく観察している。ポップに事件の影響で大騒ぎになって大変だったのじゃないかと質問され、メルルは今のテランの状態を至って冷静に説明している。おとなしい印象だが、彼女の物の見方はずいぶんと第三者的で冷静だ。

 テランの人々が怯えて家に閉じこもったり、祈っていることを説明するメルルの言葉はどこか自嘲的な響きがある。占いに頼って自分だけ逃げて生き延びる生き方を良しとしなかったメルルは、神に祈るだけしかしないテラン国民に対してかならずにも好意的な感情を抱いているわけではなさそうだ。

 だが、メルルはそんな人々を強く非難しているわけでもない。
 事実をありのまま観察し、感情を交えずに判断するだけの頭脳をメルルは持っている。

 ダイ大の女性メンバーの中ではレオナが聡明さを示すシーンが多いので目立ちにくいが、メルルも標準以上に知性を感じさせる理知的な少女だ。

 だが、聡明ではあっても、メルルには自分から周囲に働きかけようとする積極性は薄い。ダイ達のために細やかな助力を惜しまないメルルだが、気を落としているポップに対して何も言えないままだ。

 この時、ポップはメルルが買い物に戻ってくる時に併せ、ドアを開けて彼女を迎えている。この時は雨が降っている上、メルルがドアに近づくよりもずっと早く戸を開けているので、ポップはメルルが戻ってくるのをずっと待っていて、何度か戸を開けながら彼女の帰りを待っていたのではないかと思われる。

 買い物をしてくれたメルルに感謝したり、国の様子がどうなっているか気にしたりする辺り、落ち込んでいるとはいえポップは他人や周囲への関心を失っていないのが分かる。

 この段階では、一番平常心を失っているのは、実はレオナだ。
 常に現実的で、物事をてきぱきと進めていく彼女にしてはひどく珍しく、この時のレオナは魔王軍と戦っている国の王女だという自覚を失っている。

 ダイの記憶喪失は、ダイの仲間達だけでなくパプニカ王国にとっても死活問題に直結する大事件だ。なにしろパプニカ王国は勇者ダイの助けを借りて、復興し始めたばかりの王国だ。

 魔王と戦う勇者に希望を感じたからこそ、人々は自分達の国を立て直してもう一度やり直そうとする気概を取り戻した。実際の実力以上に勇者という存在そのものが人々に希望を与え、活気を生んでいるのだ。

 これは、レオナの手柄と言えば手柄だ。
 バルジ島に避難していた時から、レオナは周囲の人達に勇者ダイの存在を印象づけ、彼さえくれば大丈夫だと人々を励まし続けてきた。言わば、レオナはダイを旗印に掲げて戦ってきた将軍なのだ。

 だが、象徴的な意味合いでも、実際的な意味合いでも一番の武器だったはずの勇者は、この時点で無力化してしまった。普通の子供になってしまったダイには、今までの戦力として数えることはできない。

 それを考えればレオナはパプニカ王国を率いる王女として早急に態勢の立て直しを図り、今後の対策を考えていなければいけないところだ。

 しかし、この時のレオナは衝撃の方が強くて他のことに気が回っていない。
 自分達のために買い物に行ってくれたメルルに労いの言葉を一つかけるでもなく、ダイにばかり気を取られてしまっている。

 クロコダインがひどく冷静にダイの記憶喪失の原理を考えたり、バランの襲撃が予想されるのに戦う上でこれがいかに不利かなどと実際的なことを考えているのに対して、レオナはただ単に、ダイの記憶が失われたことを嘆いている。

 取り乱して、必死にダイに思い出を語りかけ、自分のことを思い出せないのかと訴えるレオナは王女と言うよりも、ただの一人の少女だ。

 しかし、このレオナの必死の説得は逆効果にしかなっていない。
 失った記憶に固執することなくゴメちゃんと無邪気に遊びたがっているダイにとっては、記憶を取り戻したいと思う動機すらない。

 ダイに忘れられてしまったことに焦るレオナは、ダイの気持ちを思いやる余裕さえなくしてしまっている。今のダイにとっては、自分は初対面の相手も同然だと認めることができないのだ。

 必死になる気持ちは理解できるが、それがダイにとって好印象を与えないであろうという当然の発想さえこの時のレオナにはない。小さな子供は自分に対して優しく接してくれる相手に懐くものであり、どんなに真剣にすがりつかれたとしてもそれで心を動かされはしない。

 だが、なまじ外見的には今までと全く変わりがないだけに、レオナは記憶を失ったダイをただの小さな子として扱うことができていない。

 レオナにとってダイは、ただの年下の少年ではない。自分を助けてくれた勇者であり、大切な思い出を共有している相手だ。だからこそレオナは性急にダイに全てを思い出してほしいと願い、訴えずにはいられない。

 だがレオナにとっては非常に気の毒な気がするが、彼女との思い出はダイにとっては心を強く動かされるものではなかったようだ。

 レオナが簡略的に語ったダイの思い出に対して、ダイが反応したのは「デルムリン島」と「勇者」という単語の方だった。ダイにとってはその二つの方が、よほど強く心の琴線を動かすものだったようだ。しかし、それを呟いた途端にダイは頭を痛がり、額の竜の紋章から血を流している。

 前項で触れた通り、ダイが自主的に記憶を取り戻さないようにこの痛みが制限をかけてしまっているのだ。
 この安全弁は、レオナにも作用している。

 考えようにとっては、この反応を利用すればダイの記憶を揺り動かすのは可能だ。

 しかし、ダイを大切に思っている彼女は、ダイに苦痛を与えるなどの無理強いは望んでいない。ダイの記憶を追求するために、もっと強い問いつめや手段を使おうとは思わないのである。

 驚いたように身を引いたレオナは、ダイへの説得を諦めて俯いてしまってる。この時になってからようやく、レオナはダイが記憶を失ったこと、そしてそれを取り戻すのは自分にはできないのだと認めたのだ。
 勝ち気な彼女にしては珍しい、沈んだ表情が印象的なシーンだ。
 

 

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