47 ポップ対竜騎衆戦(8)

 

 ヒュンケルの突然の登場に対して、竜騎衆達は驚きを隠せないでいる。
 ヒュンケルの顔を見ても無反応な彼らは、ポップが呼びかけた『ヒュンケル』の名に対して強く反応している。

 バランに呼び集められた時点で、竜騎衆達はヒュンケルとクロコダインの話を聞いていたとは言うものの、これが彼らにとっては初対面だ。

 しかし、名前を聞いただけで三人ともヒュンケルの正体に即座に思い当たりに、竜騎衆達の並ならぬ記憶力の良さと戦いに対する備えの強さが良く現れている。

 なにしろ三人の中では一番軽はずみなガルダンディーでさえ、魔剣戦士ヒュンケルの名はしっかりと覚えているのだ。
 竜騎衆達にとって、バランからの情報や命令がいかに重要なものであるか、窺い知れるというものだ。

 元々、竜騎衆達が揃えられたのは、人間に味方をする厄介な敵――クロコダインとヒュンケルを相手にするための人員として、だ。つまり、ヒュンケルは竜騎衆にとっては本来の意味での敵に当たる。

 予想外の雑魚と認識していたポップと違い、竜騎衆達が本来の敵を前にしていきり立つのも無理はない。中でも、実際に攻撃を食らった上にヒュンケルの強気の発言を聞いたガルダンディーは、怒りに燃えてヒュンケルに挑戦を挑んでいる。

 ここで、面白いのはヒュンケルの反応だ。
 ヒュンケルはガルダンディーにではなく、ポップに向かって戦いを譲ると宣言している。

 この発言に、ガルダンディーは血相を変えて激高している。
 ガルダンディーにしてみれば、この発言は常軌を逸しているとしか思えないのだろう。

 ついさっきまで、ガルダンディーはポップを殺す寸前まで追い詰めていたのだ。大きなダメージを受けている上、羽の効果で魔法力も残り少なくなったポップは、ガルダンディーにとってもはや敵でさえない。

 ガルダンディーの恨みと闘争心は、この時は完全にヒュンケルに向いている。

 この辺がガルダンディーの移り気なところだが、この段階で愛竜を殺された恨みよりも、自分に加えられた攻撃への怒りの方が上回っているようだ。愛竜を殺した悲しみを八つ当たり的にポップにぶつけた時とは違い、自分の自尊心を傷つけたヒュンケルへの腹立ちをガルダンディーは押さえ切れていない。

 もし、ポップへの恨みをまだ持ち続けているのならば、邪魔をしたヒュンケルが公認した形でポップへの攻撃を続けられるのはまたとない機会のはずだ。
 実は、そうしていれば、ヒュンケルにとっては最大の精神的苦痛を与える作戦にもなっていただろう。

だが、ガルダンディーはポップではなくヒュンケルに戦えと迫っている。
 腐っても竜騎衆の一員と言うべきか、ガルダンディーもまた、嗜虐心以上に強敵を求める心があるようだ。

 だが、ヒュンケルはガルダンディーの挑発に応じる気配すらない。
 ガルダンディーでは絶対にポップには勝てないと言い切り、もし万一勝てたのなら自分が相手をするとまで言っている。

 そうまでしてヒュンケルがポップに戦わせたがった理由を、ガルダンディーはろくに考えようともせず、怒りにまかせてポップを殺そうとしている。これはポップへの怒りの現れではなく、ポップを殺すことによってヒュンケルと確実に戦うためだ。

 短気なガルダンディーは考えさえもしなかったようだが、実はここでのヒュンケルの決断は英断と言っていい。

 ヒュンケルがポップに戦いを譲った理由は、決して感情的なものではない。 むしろ、感情的な意味で言えばヒュンケル自身がガルダンディーと戦いたいと望んでいたと思える。

 表面上は冷静さを保っているが、弟弟子であるポップに保護者意識を感じているヒュンケルは、ポップを痛めつけた竜騎衆達に対して怒りを覚えているのは明白だ。
 己の怒りを晴らすためならば、当然、自分で戦った方がいい。

 更に言うのなら、ダイを守るためには余計な時間をここで費やすべきではない。その意味でも瀕死寸前のポップよりも、ヒュンケル自身が戦った方が時間のロスも少ない。

 しかし、ヒュンケルは自分の感情や戦況以上に、ポップの決意や行為の方を重要視している。だからこそ、ヒュンケルはポップに決意を貫き通す機会を与えているのだ。

 何かに失敗をした時点で物事を投げ出す――これは、成長を望んでいるのならば決してやってはいけないことの一つだ。

 スポーツ選手などの経歴を見れば一目瞭然だが、なんらかの怪我や挫折が原因でそのスポーツから遠ざかった者は、なかなか復帰できなくなる。
 そのスポーツへの印象全体が失敗した時の記憶のまま固定され、負のイメージが大きく膨らんでしまうからだ。

 いい例が大相撲などだろうか。
 力士の大半は、怪我や故障を抱えながらも無理を押してでも土俵に上がろうとし続ける。

 素人考えでは怪我を負った者は手厚く労り、体調が完全に戻るまでは無理をしない方がいいのではないかと思うのだが、力士達はそうは考えない。負け癖がつくのを嫌い、気合いが削がれることの方を厭うのである。

 同様の例として、筆者は昔、鳶職の体験談として似た様な話を聞いたことがある。
 鳶職というのは高い場所に登るのが商売だが、それだけに常に落下の危険と隣り合わせだ。

 そして、落下を経験した鳶には恐怖心が生まれる。一度、落下を経験してしまうとその恐怖が骨身にしみてしまい、落下を知る前のように無邪気に高い場所を飛び跳ねることができなくなってしまうのである。

 その恐怖を拭うためには、どんなに恐ろしくても自力でまた高いところに登るしかない。

 しかし、これが面白いもので、時間を置けば時間を置くほど恐怖が強まり、怖じ気づいてしまってなかなか高所に登れなくなるものだそうだ。だからこそ、ベテランの鳶達は新入りが落下した場合などは、怪我の手当よりも先に再び高い場所に登るようにけしかけるのだという。

 失敗を即座にやり直させることで負のイメージを消し去り、苦手意識を払拭させる――荒療治ではあるが、これも確かに一つの考え方だ。

 ヒュンケルがここでポップにさせたことも、これに近い。
 もし、ここでポップを庇ってヒュンケル自身がガルダンディーと戦ったのだとすれば、ポップのしたことは意味をなくしてしまう。

 ポップは単身強敵に挑み、敗北したところで話が終わってしまうことになる。

 ポップの命を助けると言う意味なら、別にそれだけでも良かったはずだが、ヒュンケルはポップの命を守っただけでは満足してはいない。ポップのやろうとしたことを全面肯定するからこそ、彼の決意を尊重もするし、それに意味を与えたいと望んだ。

 ポップのさらなる成長を望み、それを手助けしようとしているのである。
 この結論は、そう簡単にだせるものではない。
 自分でやれば簡単にできることをあえて他人に任せるのには、寛大さと同時に相手への信頼感がなければ不可能だ。

 これには、ヒュンケル自身の過去の体験があるせいかもしれない。
 アバンに敗北した直後に川に流され、再挑戦がかなわなかったヒュンケルは、戦いたいと望んだ相手と戦わぬままで終わってしまう苦痛を知っている。だからこそ余計に、ポップの再挑戦を強く後押ししたいと思ったのかも知れない。

 ポップとガルダンディーの戦いの最中、ヒュンケルが戦いの成り行きなどみる価値すらないと言わんばかりに目を伏せ続けている姿が非常に印象的だ。

 実際に言葉通りポップの勝利を確信しているからこそ目を向けないのか、実は内心は不安を感じて、それを押し殺すために敢えて目をそらし続けているのか、みようによってはどちらともとれるところが気に入っている。

 ところで考察から離れた余談になるが、筆者に鳶職の体験談を語ってくれた人は、失敗もしたこともないようでは、半人前。落下の恐怖を知ってなお、それでも高い場所に登れるようになってこそ鳶としては一人前だと言っていた。

 これは、戦場における戦士の心得としても言い換えられる言葉ではないかと、筆者は密かに思ってる。

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