70 勇者一行対バラン戦(9) |
さて、話は前後するが、ここでダイの行動に注目しておきたい。 ナイフを怖がり、嫌がっていたぐらいなのだから投げ捨ててもいいはずなのだが、それだけの気概もないというべきなのか。 しかし、バランがクロコダインとの戦いの中に激昂した頃から、ダイの変調は始まっている。 身体が熱いと言い、紋章から共鳴音を鳴り響かせて苦しんでいるダイの姿を見て、メルルやナバラは驚いているものの何一つ対処は出来ていない。 まあ、こんな事態になることはレオナやクロコダインも予測はしていなかっただろうが、正確な事態は予想できなかったとしても、最低限の対処方法は設定しておくべきだったのではないかと思うのだが。 今回の明らかな変調程強くはなかったとしても、例え距離があってもダイがバランの影響を受けていることはすでに分かっていたことだ。つまり、最悪の場合、ダイ自身が牢屋を脱するために何らかの行動を起こす可能性は考えられたはずだ。 どんな人間でもそうだが、閉じ込められてそれを喜ぶ者はいない。自分で自室にこもって鍵をかけるのはよくても、他人に無理矢理閉じ込められたのなら、人はまずは脱走を考えるものだ。 ダイ自身が軟禁を嫌っているし、接近するバランに対して味方意識を感じていると承知していたというのに、レオナ達にはそれに対する危機感がない。ダイが脱する危惧を全く考えていないし、それゆえに対策も考えていない。 記憶を失って子供帰りしたとはいえ、ダイは肉体的には何らダメージは受けていないのである。戦う気が全くないからこそ無力な子供に見えてしまうが、実際の彼の力が衰えたとは思えない。 もし、ダイが本気で脱走を図ったのならば、メルル達では到底止めきれないのは分かりきった話だ。 だが、レオナもクロコダインもその点までは考えが及んでいない。 その信頼自体は素晴らしいことだとは思うが、自らの意思ではなく、竜の騎士の紋章の力に翻弄されるダイへの危機意識や対策は、心の片隅にでもとめて置いた方がよかっただろう。 ダイへの警戒心を持たず、また、何か異変が起きたらどうすればいいのか指示を受けていなかったメルル達は、ダイの異変に対処し切れていない。 この時は予知や占いの力も感知できなかったようで、彼女達はダイの異変にうろたえるだけで避難すらできなかったし、レオナ達に異変を伝えることも出来なかった。 優れた占いの力があり、日常レベルの危機回避には優れていても、やはり非戦闘員の彼女達は突発事項には弱いようである。 ダイから放たれた光と見えない力をまともに受け、メルル、ナバラ、ゴメちゃんは壁に叩きつけられて、そのまま気絶してしまっている。これは明らかにダイの意思ではない。 と言うよりも、この時のダイには意識はあっても、意思はないような印象を受ける。 それまでは牢屋に閉じ込められても、柵にしがみついて泣くぐらいしかできなかったのに、鉄の柵を握って両手で押し開くという超人的な力を発揮している。だが、自分がそんなことをしたのに驚く様子もない。 『い……行かなきゃ……。だれかが…ぼくを呼んでいる……!』 虚ろな目でそう呟いているダイは、その言葉通りに実行している。地下牢を抜け出したダイは、城の外……バランの元へと向かっている。キョトンとした顔で空中にいるバランを見つめているダイは、無意識に怪力を発揮した時と違って意識はあるようだが、その意識の持ち方は普段の彼とはずいぶんと違う。 なにせ、城の外は激しい戦いの跡があちこちに見受けられる上に、人が何人もばたばたと倒れているのである。本来のダイならば、真っ先に倒れている人間達に目をやり、驚きを感じるだろう。 仲間ならもちろん、それが例え顔見知り程度の知り合いにすぎなくても、ダイならば彼らを心配し、助けたいと望むはずだ。その際、ダイが真っ先に取りそうな行動は、倒れている人達に駆け寄るよりも彼らを倒した相手への警戒だ。 回復能力が無く、また人を手当てする技術の無いダイは、自分が他者を助け起こしてもその後にできることがないと知っている。 この場合にいるのが本来の性格を持ったままのダイならば、たいした知り合いではなかったとしても人間達を守ろうとし、見も知らぬ化け物に警戒心を抱き、相手の態度によっては戦いを挑んだだろう。 しかし、記憶を失うと同時にダイは、人間へ感じていた同族意識をほぼ喪失している。 倒れている人間にも関心を示さないダイは、直接自分に呼びかける人間にも無関心だ。ポップは地上に出てきたダイを見て驚いて呼びかけているし、さらにはダイの足を掴んで城の中に逃げろと強く呼びかけているのだが、ダイは一向にポップに興味を示すことはない。 ダイの関心は、バランのみに向けられている。 バランが自分を呼んでいた相手だと理解し、相手が何者か知りたがっているのである。すでにこの時点でダイはバランを同族と認識し、他の人間達とは比べものにならない親しみを感じているのである。 鳥の場合、卵を温めている親鳥と卵内にいる雛が卵の殻を破る前からすでにコミュニケーションを取っている事実が明らかにされている。雛鳥が鳴くと、それにあわせて親が鳴き返す鳴き交わしと呼ばれている反応がある。 作品中でもクロコダインを通して語られたように、鳥が卵からでて初めて見たものを親と認識する刷り込みは有名な話だが、刷り込みの前段階としてこの孵化前の鳴き交わしもまた、親子の認識を強める行為であるとされている。 ダイやバランの場合は、竜の紋章による共鳴がこの鳴き交わしに当たるのではないかと、筆者は推測する。人間には意味の通じない鳥の囀りも、鳥にとっては大切なコミュニケーションであり、確かに相手が同族だと判断する材料だ。 竜の騎士は本来、同族を持たない一代生物ではあるのだが、竜の紋章の共鳴により相手を敵か味方か判断する能力が備わっているのだろう。推測にすぎないが、筆者はこの能力は本来は聖母竜や神の眷属によって発揮される能力ではないかと考えている。 いずれにせよ、バランは竜の紋章の共鳴の力を遺憾なくダイに向かって利用している。 ところで、バランが記憶を失ったダイに対して、説得方法を大幅に変更しているのが実に面白い。 相手の質問に対して、端的に事実のみを答えるという基本方針は変わっていないものの、バランは記憶を失ったダイに対しては自分達の血の繋がりを強調している。 最初にダイに会った時は、自分が魔王軍の一員であり人間を滅ぼすために協力することを最大限に主張し、逆らうのなら力尽くでとさえ言っているのだが、二度目の勧誘の際にはそんなことは一切触れていない。 ダイに対して名前や身分も名乗らず、真っ先に自分が父親だと告げている。 その上で、自分はおまえの父さんだと告げて、息子を迎え入れるかのように両手を広げている――これらの説得方法は、実はヒュンケルの提案そのものだ。 復讐の無意味さを説くヒュンケルの説得をあれ程拒絶しながら、我が子を可愛いと思うのなら、まず人の心で接するべきだとの言葉の部分だけはしっかりと利用し、その通りに実行しているのである。 これは、部分的であれ、バランがヒュンケルの言葉の正しさを認めている何よりの証拠だ。表面上は反発心を強く感じているとはいえ、バランは心の奥底ではヒュンケルの説得の正しさを認めている。 ただ、その説得がバランを引き留めるどころか、ヒュンケル達にとっては何に変えても守りたいと願ったダイを奪われる方向性に利用されてしまったとは、皮肉としか言いようがない。 もし、ここでバランが最初の時と同じように、自分の目的を最優先に押しつける態度を取ったのならば、戦う覇気を無くしたダイが拒否する可能性が少なからずあった。 今は無力化したダイはバランに力尽くで連れて行かれても抵抗は出来ないだろうが、その場合、精神的な意味でダイがバランに好意を抱き、彼の目的に協力する可能性は低くなっただろう。 しかし、バランは今回、自分の目的に対しては全く触れず、ダイに自分を父親だと認めさせることに専念した。これは、バランの中でダイ――息子の大きさが大きくなっていることを意味している。 これまではソアラを失った悲しみを晴らすために、人間への復讐を遂げることが第一だったバランだが、実際に息子と出会ったことで心の動き方が変わったのだ。 現にヒュンケル達との戦いの最中だというのに、バランは息子を取り戻すことを最優先している。また、初回に自分の意思を押しつけすぎて拒絶された経験は、明らかにバランに影響を与えている。 息子に拒絶されたくはないという感情があるからこそ、バランはヒュンケルの忠告に従ってまでダイに最大限に優しく接し、親子としての絆を取り戻そうとしている。 その作戦は、見事に成功している。 父さんと呼びかけ、ダイは吸い込まれるようにバランへと近づこうとしている。 ほぼ全てのほ乳類と鳥類において、親子関係の確立は親が子を庇護対象と認め、子が親の保護を認めて接触を持つことで成り立ち、強化される。人間の幼少時の情操教育において、抱っこがその子に大きな影響を与えるように、接触コミュニケーションは否定しきれない強さを持つものだ。 バランを父親と認めたダイが抱擁をうけることで、刷り込みは完全な形で完了するはずだった。その場合、彼らは十数年ぶりに互いを親子だと確信し合い、絆を強めたことだろう。 |