75 記憶解放 |
ポップが自己犠牲呪文を唱えようとしていた間、ダイが何もしていなかったわけではない。 そのきっかけを与えたのは、八章72で述べたようにポップの叫びだ。親しい人間の心からの叫びは、明らかにダイに影響を及ぼしているのである。 話を見返してみると分かるが、ポップがバランとダイの再会に割り込むまでは、記憶を失ったダイはほぼバランの思惑通りに動いていた。と言うよりも、動かされていたというべきだろうか。 ほぼ白紙に近い状態でいながら、ダイは同族以外には強い興味を抱かないままだった。 クロコダインが言ったように、保護を求めるだけのただの子供ならば相手の種族には拘らないものだ。刷り込みを実証する実験の結果、雛鳥は種族を問わずに一番最初に見た相手を親だと認識し、後を追うようになるが、ダイの場合はそうはなっていない。 記憶を失ってから、ダイが一番最初に見たのはポップ、レオナ、クロコダインなどの仲間達の顔のはずなのに、この段階では刷り込みは行われていないのである。 竜の騎士の刷り込みは、同族でなければ作用しない……バランにはその確信があったのだろう。だからこそ敵と考える人間達のところに白紙状態のダイを残したまま一時撤退し、もう一度刷り込みを行える状況を整えようとした。 ポップが邪魔をしなければ、バランの目論見は九分九厘成功したのではないかと思える。 しかし、自己犠牲呪文をかけようとするポップの姿を見て、ダイはアバンがハドラーに自己犠牲呪文をかけようとした時の姿を、うっすらとだが思い出している。 この記憶は、おそらく感情が刺激されて呼び起こされたものだ。 だが、それでもダイは以前もこんな悲しいことがあったと記憶を強く刺激されている。 レオナにパプニカのナイフを渡された時も、ダイは漠然とだが既視感を感じ、思い出しかけている。 まず、記憶を失う前のダイにとって、ポップやレオナが特別な人間だという事実は動かない。竜の神殿に向かう前、ダイは自分がポップやレオナに嫌われることを恐れていた。しかし、そのダイの不安に対して、ポップやレオナは応えるチャンスを逃してしまった。 バランとの激しい戦いに気を取られたしまったとは言え、ダイの中に生まれた人間への不信感や拒絶されることへの恐れは、そのままだったのである。 自分が人間ではないと自覚し強烈な孤独感を味わったダイは、それを癒し、補完してくれる存在を求めていた。その状態のまま、ダイは記憶をリセットされている。 そのことを考えれば、白紙状態に戻ったダイが記憶回復などそっちのけで保護を求めたのは、不思議でも何でもない。元々、記憶を失う直前からダイは自分自身に対して不安を感じ、拠り所になるものを求めていたのだから。 辛い上に肉体的な苦痛を伴う記憶を追い求めるよりも、自分が本当に欲するものを求めるのは自然な感情だ。 しかし、非常に残念なことに、ダイの記憶喪失に衝撃をうけた仲間達は自分達の衝撃や、目前に迫った強敵に気を取られ、ダイの心の弱さにまで思いを至らせることができなかった。 特にレオナは、人一倍強く、人間対魔王軍の戦いの意義を意識してしまっている。 レオナは、聡明だ。バランに勇者ダイを奪われることが、人間達にとってどれほど致命的で絶望的なことなのか、この時点で誰よりも深く理解している。だからこそ、誰よりも強く勇者を渡さないという意識を強く持ち、その方針を固めることだけで手一杯になっている。 しかし、残念ながら、これではレオナ本人の気持ちが伝わらない。 しかし、レオナは自分の感情をそのまま他者にぶつけるのはいささか不得手だ。 一人の少女として自然に振る舞うよりも、王女として人を導くことを義務づけられたレオナは、良くも悪くも自分の感情のままに振る舞うことは少ない。感情的にどんなに怯えていても、毅然と振るまうことが出来るのが彼女の長所ではあるが、こんな状況では不利に働いてしまう。 現実的な性格で、しかも理性の勝っている彼女は根拠のない感情だけの発言を控えてしまう傾向がある。それでも普段ならば、ダイは持ち前の素直さから発揮される直感力で相手の気持ちを察することができるだろう。なにしろダイは、ものを言わない怪物とでも心を通じ合わせることのできる少年なのだから。 だが、心が弱ってしまっている時は、人は正しい判断ができにくくなる。相手の気持ちを察するどころかごく当たり前の言葉さえそのまま受け止められず、ねじ曲げて受け止めて誤解してしまうことなどよくある話だ。幼い頃のヒュンケルなどがまさにそのパターンだった。 記憶を失い、他人を守るどころか自分が守られることばかりを望むようになった幼いダイが、指導者として振る舞うレオナの、言葉にはしきれない秘めた本音を読み取るのは少しばかり無理がある。 レオナがダイを大切な友達だと考え、彼に好意を抱いているのは疑いようもない。 強大な敵と戦うための手段として、また、人間達の希望の象徴しての勇者の存在を失うわけにはいかないと思う気持ちが強すぎて、ダイ本人を『自分』が強く必要としていると伝えそこねてしまった。 どんなに強く思っていたとしても、それが相手に伝わらなければ意味はない。 だからこそ、あれ程レオナが必死に訴えていたにも関わらず、ダイの記憶はそれ以上は刺激されなかった。その後、ダイは地下牢に、レオナは地上へと別れてしまったから尚更だ。 しかし、ポップには人間達の今後や勇者の存在意義など、どうでもよかった。ダイの正体が何だろうと気にせず、勇者なんて肩書きも必要とせず、友達であるダイを連れて行かれるのをどこまでも拒むポップの叫びこそ、記憶を失う前のダイが心から欲していたものだ。 もう一つ、レオナとポップで差が発生しているのは、共感性だ。 だからこそ、ダイはレオナの悲しみを理解し、それを助けたいと思う気持ちに発展させることはできなかった。 しかし、自己犠牲呪文によって誰かを失う悲しみは、ダイの中に根深く刻み込まれている。この時は忘れていたとは言え、その恐れも、悲しみも、ダイの中に一度は刻まれた痛みだ。 そして、ダイの中にはあの時、もっと早く自分が動いていればアバンを助けられたかも知れないという後悔があったに違いない。 以前、アバンの自己犠牲呪文を前にして指一本動かせなかった過去と現在の光景が重なり、ダイに自分が何かしなければならないという逼迫感を与えている。 この逼迫感こそがダイに最大のストレスを与えつつも、過去を取り戻したいという強い欲求に繋がった。 ポップのバンダナを強く握り占めたダイは、明らかに父であるバランよりもポップの方に心を大きく揺さぶられてるのが見て取れる。すでに、この時点でポップの存在は記憶を失ったダイにとっても無視しきれない大きさになっていた。 父への思慕だけでなく、自分が何かをしたいという自我の芽生えが生まれ、人間に対して強い関心も抱きつつも、どうしていいか分からないまま竦んでいたこの時のダイは、精神的にひどく不安定な状態に陥っている。 この時のダイは、限界以上に空気を詰め込み膨れるだけ膨れあがった風船に等しい。些細な衝撃を受ければ、すぐに破裂してしまう危険性を孕んでいる。 ポップの壮絶な自爆こそが、結局はダイに記憶を取り戻させた。 それだけに、ダイの衝撃は大きい。 |