『失われたもの 4』 |
シルエットだけの姿が微かに揺らめき、古めかしい響きの聞き慣れない呪文が響いた。 (――!?) 圧倒的な存在感と比べると、枯れ枝のように細い腕だった。年老いた者特有の、皺の浮いた筋張った手は、スッと虚空を目指して伸ばされ……何もない空間をクッと握るようなしぐさを見せる。 その途端、ポップを閉じ込めていた球が一瞬で砕け散った。ガラスが砕けるような音を立てて一気に消え去った球の行方を不思議がる暇など、ポップには与えられなかった。 「………………っ!?」 悲鳴すら上げられず、ポップはその場に崩れ込む。 自分で自分の体を支えることすらできず、ポップは床に倒れていた。痛みを少しでも和らげたいと、頭を抱えようとしている手は、頭まで届かせることさえできずにピクピク痙攣している。 だが、肉体を苛む苦痛だけならまだマシだった。 (な……なんだ……?) これが走馬灯というものなのかと、ポップは吐き気すら伴う激しい苦痛の最中、ぼんやりと思う。 懐かしい、故郷。 それが一変したのは、アバンと出会ってからだった。偶然やってきた旅人に憧れて、弟子入りしたその日から、ポップの人生は大きく変わった。 (先生……っ!) 懐かしいアバンとの思い出が、次々蘇る。 だが、苦痛の記憶はポップの心情にはお構いなしに、一方的に、暴くように、無理やり記憶を引きずりだす。 (やめろ……っ、やめてくれっ) できるなら、悲鳴を上げたかった。 だが、それでもお構いなしに、記憶は一方的に暴かれていく。 目の前でアバンを失った絶望。 悲しみの記憶が、ポップ自身の心を壊そうとしている。あまりに一方的な記憶の蹂躙は、ポップの一番脆い部分から切り崩そうとしている。 「……ひっ……や……ぁあ……ォ……!」 やっと、ポップの喉から声が漏れ始める。だが、それは苦痛が薄らいだから出せる様になったわけではない。 無意味な、言葉にさえなっていない発声は、言葉にすらなっていない。激しい痙攣が全身に及び、やがて、最後の時が訪れる。 「……う……わぁああああーーっ!!」 断末魔の絶叫じみた叫びが、広い部屋の中に響き渡った。 「――終わったか?」 先ほどまでの騒ぎとは裏腹に、急に静まり返った広間で、バーンが口を開く。 見開かれたままの目は虚ろで光がなく、不自然な格好で倒れた身体には生気すら感じられない。 そんなポップに近寄ったキルバーンは、その生死を確かめる様に、つんつんと爪先で少年の身体をつついた。 「終わったみたいですね。案外、早かったかナ〜?」 そんな扱いに、もし意識があったのならポップはただでおかなかっただろう。かなわないのを承知でも、文句の一つも言うぐらいの気の強さは持っている少年だ。 だが、今のポップは、足げにされても反応を見せなかった。 しかし、バーンはポップのその反応をごく当然のものとして受け止めていた。 「まあ、人間、それも子供にしてはよく持った方だろう」 人間の精神力は、魔族に比べれば脆い。 ましてや子供の精神力は、大人に比べれば成熟度が足りない。洗脳をするなら、大人よりも子供の方がよく効く物だ。 だが、キルバーンは納得がいかないとばかりにわざとらしく首を捻って、不満げに呟く。 「んー、ボクとしてはこの魔法使いクンは、もっと粘るかと思ってたんですがねえ」 「フッ、つくづく、おまえも人間ごときを高く買ったものよ。余としては、この術を受けて生き延びただけでもたいしたものだと評価するがな」 禁呪による洗脳は、いつもうまくいくわけではない。 そんな状態では、どんなに優れた戦士であろうとも、能力値は激減する。戦略性や成長も期待できなくなるし、文字通りの人形になるだけだ。 バーンにとって、この禁呪を相手に施すということは、相手を殺すに等しい。精神的な意味か、あるいは肉体的な意味でかという差はあるが、どちらであってももはやバーンに逆らえなくなるのには違いない。 だからこそバーンは、主要な部下には自らが勧誘の言葉をかけ、自分の意思で配下に加わるように説得に当たってきた。 しかし、ポップはその方法を嫌がった。 「ククク……さて、この駒をどう配置するか。こやつをダイの前に差し向けたら、あいつらはどう反応するかな」 面白がっているような口調でそう言うバーンの目の前で、ポップがビクンと目を瞬かせる。 それは、本来なら有り得ない反応のはずだった。 というより、動けないのだ。 だが、命じられないにも関わらず勝手に動くなど……そんな反応を示した者など、バーンの長い寿命を振り返ってみても一度もお目にかからなかった。 驚きを見せるバーンやキルバーン、彫像のように動きごと表情までを止めた親衛隊達に、どこかしら不機嫌そうな表情をしたハドラー。 ポップは、確かに彼ら一人一人と目を合わせながらも、反応を見せなかった。 「……だ、れ?」 それもまた、有り得ない行動だ。 「あんた、誰……? ……おれ……、なんで、ここに? ……?」 顔をしかめ、頭を押さえながら、ポップは独り言の様に言葉を紡ぐ。 「……おれ……、誰、だっけ?」 衝撃に言葉もないバーンに比べ、キルバーンの方が立ち直りが早かった。彼はさも楽しそうに、手を打って笑ってみせる。 「ヒュ〜♪ さすがは魔法使いクン、というわけか。つくづく、一筋縄じゃいかないボウヤだねえ」 「え〜、結論から申しますと、あの小僧めは俗に言う記憶喪失という奴ですわい。恐れ多くもバーン様の洗脳が完了する前に、あやつは自分自身の記憶を封じてしまったんでしょうな」 揉み手をしつつザボエラがそう報告するのをミストバーンは怒りを孕んだ沈黙をもって、キルバーンは笑いを無理に堪えているような表情をもって、聞いていた。 紗のベールに覆われシルエットしかうかがい知れないバーンの表情は、見透かせない。 「あの小僧め、小癪な真似を……」 確かに、理論上は有り得る。 バーンの行った禁呪の洗脳は、その者も最も深い位置に沈む悲しみの記憶を元に、心を崩壊させていく術だ。 今のポップは、何も覚えてはいない。 白紙に近い状態と言っていいかもしれない。 「……つまらぬな。せっかく、ダイとバランを動かせるやもしれぬ駒を手に入れたと思ったのに、無価値になろうとはな」 不機嫌そうに呟くバーンに対し、サボエラは媚びへつらいながら機嫌を取ろうとする。 「いやいや、生きているのならまだ利用価値はありますとも! ヒェヒェヒェッ……、あやつを人質に使えば、今度こそダイめを殺すなぞ造作もないこと」 得意げにそう言ってのけるザボエラは、周囲の空気が冷たく突き放すようなものになっている事実など気がついてもいないのだろう。 バーンの矜持は、ポップが洗脳に抗っただけでも十分に傷つけられている。 決してバーンが頷くはずもない、小物にも程がある作戦を得々と語っているザボエラに対して、ミストバーンが向ける嫌悪感はすでに殺気の域に達している。 だが、ザボエラはザボエラなりに必死だった。 上からの命令や許可を得ないままのこの改造がバーンが機嫌を損ねたのではないかと案じ、ザボエラは少しでも自分の心証をあげようと必死だった。 「もう良い。あの小僧は捨て置く。――おまえも、もう下がるがよい」 (なんじゃっ!? なんじゃというのじゃ、せっかくの名案を無下にするとは……っ) バーンに命じられるまま引き下がったザボエラは、足音も荒々しく回廊を歩いていた。小柄な体付きだけに足音もたいしたものではなく子供の地団太に等しいが、彼の不機嫌さは傍目からでもよく分かる。 実際に、バーンの前では口に出す度胸もなかった不満が、ザボエラの胸の中に吹き荒れていた。 改造ハドラーの予想外の強さを気に入ったのか、バーンは彼にはオリハルコン製のチェスの駒と言う褒美を与え、新たに死の大地の守護という大任を与えたというのに、サボエラには何の賞罰もなかった。 (あのハドラーめを改造したのは、このワシなんじゃぞ! なのに、このワシになんの褒美もないなどど、そんな馬鹿な話があるかっ!?) 罰を与えられなくて幸いだったと考える様な殊勝な思考などは、ザボエラにはない。野心と出世欲に凝り固まったザボエラにとっては、徒労の末、他人の出世の手助けをしただけなどという、愚かな行為を認める気にはなれない。 ザボエラにとって、全ての行動は自分の出世に繋がる様に計算してとっている行為だ。超魔生物の研究も、密かな他者への偵察も、全てはそのためにある。 (見ておれ……、このままでは終わらんぞっ) 手柄が欲しいと、ザボエラは痛切に思う。 そして、そのための最適な手段と思える駒がすぐ目の前にある。にもかかわらず、使用を禁じられた人質の存在が腹立たしい。 もし、それがバレた時のリスクを考えれば、手を出す気にはならない。不興を買わずに、だが、うまくポップを利用する方法はないものか……真剣に頭脳を巡らせていたザボエラは、不意にニタリとした笑みを浮かべた――。
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