『失われたもの 6』

「…………」

 ポップは息を飲んだまま、目の前にある紅い腕輪を見つめていた。それを手にする勇気を持てず、だが、かといってきっぱりと無視することもできずに、困惑した表情のままにじっと固まっている。

 そんなポップに、ザボエラは苛立ちを無理に抑え、猫撫で声を出して誘惑しようとする。

「なにをぐずぐずしておる? さっさとその腕輪をはめたらどうじゃ? なんの記憶もないまま、こんな牢屋の中などで朽ち果てたくはないじゃろう?」

 その言葉に、ポップにちらりと迷いが浮かぶ。だが、ザボエラはそれ以上、重ねては誘いをかけようとはしなかった。

「おっと……そろそろ行かねばならんか。ヒッヒッヒ、じゃあ、死にたくなければワシの言う通りにすることじゃな」

 それだけを言い残すと、ザボエラはそそくさとその場を離れていく。

(な……なんなんだよ、いったい?)

 取り残されたポップは、途方に暮れた様に腕輪を見つめるばかりだ。
 記憶のないポップには、あの魔族が何者かも分からない。だが、それでも持ち前の観察力や判断力まで失ったわけではない。

 初対面の相手として、ポップはザボエラに不信感を抱かずにはいられない。魔族と言う部分を差し引いても、ザボエラはうさん臭い相手だった。
 あの他人を値踏む目付きや、言葉の端々からこぼれ落ちる他人を馬鹿にしきった蔑み、一方的に話を押しつけていく身勝手さ。

 どれ一つをとっても、信用できる要素は皆無だ。
 ポップの思考は罠の気配をひしひしと感じて、警戒信号を発している。
 だが、それでもザボエラが残していった腕輪を、拒絶して放りなげるほどの決心はつかなかった。

 今のポップには、何もない。
 どうしてもここを出なければならない、理由さえない。
 ここから出た方がいいのか、それともとどまっていた方が安心なのか、その判別さえ分からないままだ。

 死にたくない――その一点だけは本能的に感じるものの、そのためにどうするのが最善か、見当もつかない。
 そのままだったら、ポップはなかなか踏ん切りがつかないまま、腕輪を前に悩むだけだっただろう。

 だが、やけに慌ただしく、乱れきった複数の足音が、ポップを正気に戻す。
 魔物の大群が走ってくるのを見て、ポップは文字通り悲鳴を上げて飛び上がった。

「うっ、うわぁっ!?」

 ポップにとって不幸なことは、失われたのは記憶のみだということだ。自分が誰か、とか、目の前にいる人が誰か、などという記憶はすっかりと失われてしまった。

 しかし、知識は全くと言っていいほど消えていない。
 個人的な知り合いの認識はできなくても、怪物の種別判断はできてしまう。

 今、ポップの目の前を通って行くのは、そうそうお目にかかれない上級怪物達。サタンパピー……最高級火炎呪文を使える上に、飛翔能力も持ち、なおかつ魔法使い系怪物にしては異例なほどの頑強さや物理攻撃力を持つ怪物だ。
 ポップ自身も、直接会った経験はない。

 アバンの授業で習ったことがあるだけの怪物――だが、なぜそれを知っているかを忘れてしまっていても、そのだいたいの強さは理解できる。
 そして、理解できるだけに恐怖は大きかった。

「ギギッ!?」

 そのまま通り過ぎてくれと思う願いも空しく、一匹のサタンパピーがきしむ様な奇妙な声をあげ、檻の前で足を止めた。
 ガタガタと震えているポップに目を留めたサタンパピー達は、一斉に奇声を上げながら檻に張りついてきた。

 そして、腕を目一杯伸ばして牢の中に手を突っ込んでくる。一匹や二匹ではない、数十匹はいるサタンパピーがそろってその行動を取ったせいで、鉄製の檻が悲鳴の様な金属音をあげた。

「わっ、わわっ!?」

 思わず、牢屋の奥の壁にぴったりと張りついてしまうのは、少しでも距離を取りたいという恐怖ゆえか。
 3メートル四方あまりの牢屋は、柵の隙間から手を伸ばしたぐらいでは中の囚人まで手が届かないと分かっているのに、理屈よりも恐怖が勝る。

 ましてや、怪物の力のせいで柵が見る間に歪んでいくのを見ては、なおさらだ。

「ギギッ、ギギィイッ!」

 怒りの声を上げ、乱暴に鉄の柵を力任せに揺さぶるサタンパピー達は、目が血走っており、凶暴さをむき出しにしている。
 本来なら人型の怪物は人間並みの高い知能を持っているはずなのに、言葉すらしゃべれないまま、獣の様に振る舞っている姿は恐怖を誘う。

 普通の状態ではないと分かるだけに、恐ろしかった。
 あまりの恐怖に手を握りしめたポップは、自分が無意識に腕輪を握り込んでいたことに気がついた。

 ――助かりたかったら、その腕輪を手にはめることじゃな――

 ザボエラの言葉が、耳に蘇る。それとほぼ同時に、興奮し、猛り狂ったサタンパピーらはついに鉄製の扉を破った。高い金属音を立てて押し破られた扉から、ドッと狭い牢屋内に入り込んできた怪物を見て、ポップは今まで以上の悲鳴をあげる。

 だが、それはサタンパピー達の喚声にあっさりとかき消された。
 我先にと手を伸ばして襲いかかってくる怪物らを前にして、ポップの恐怖が最大限に膨れ上がる。

 死を間近に感じさせる恐怖に、今のポップが縋りつけるものはただ一つ、目の前にある腕輪だけだ。
 今までのためらいや不審も捨てて、ポップは藁にも縋る思いで腕輪に手を滑り込ませる。

 その途端、サタンパピー達の動きが止まった。
 今にもポップを引き裂かんばかりに伸ばされた手は、寸前でぴたりと止まる。

「え……」

 怪物達の雰囲気は、一転していた。
 ついさっきまでの、今にもポップを食い殺しかねなかった凶暴さはなりを潜め、全員がそろってじっとこちらを眺めている。

 それはそれである意味不気味には違いないが、命拾いしたことには間違いがなかった。

「ギイッ」
 一匹が短く
声をあげると、サタンパピーらはぞろぞろと列をなして牢屋から出て行く。そして再び、一方向に向かって歩きだす。

(た……助かった?)

 しかし、安堵の息を吐くのはまだ早かった。
 サタンパピーらは、全員がすんなりと出て行ってはくれなかった。最後に出て行きかけた数匹らは、ペタンと座り込んだまま動けないポップを振り返った。

「……ギギィ?」

 問い掛けるような声にさえ、殺気が消えたせいか、どこか愛嬌すら感じさせる間抜けさが感じられる。
 とはいえ、サタンパピーが再び近づいてきて手を伸ばしてくるのを見ては、余裕などすっ飛んでしまう。

「うわあっ!?」

 逃れようとしても、無駄だった。サタンパピーらは抵抗するポップの腕をあっさりと掴まえる。
 そのまま引き裂かれるのかとヒヤリとしたが、サタンパピーらはポップの両腕を掴んだまま歩きだす。

「は、離せよっ!?」

 騒ぐポップを無視して、サタンパピーらは彼を両脇から抱える様にして無理やり立たせ、ほとんど引き摺りながら歩きだした――。







「くそおっ、離せっ、離せぇえっ! ……って、うわっ、やっぱ離すなぁっ!?」

 矛盾した叫び声を上げながら、ポップは暴れた方がいいのか、少しでもおとなしくしていた方がいいのか決めかねて、身震いする。

 今のポップは、両手をそれぞれ別の人に預け、空中に引き上げられた体勢だ。両親に挟まれた幼い子供が、歩きながら時折そうされるのならば、問題はないだろう。

 だが、怪物にそうされながら、高い空の上を飛んでいるというのは、全く別問題だ。

 あの後、サタンパピーに引きずられるままに廊下を歩かされたポップは、奇妙な光る渦のある場所へと連れて行かれた。
 初めて見る物だったが、ポップの知識は正確にその正体を察知する。

 『旅の扉』

 中に入ると、一定の場所から一定の場所へと自由に行き来できる、瞬間移動呪文に似た効果を持つ魔法道具だ。
 現在は失われた魔法道具の一つで、ポップもお目にかかれるとは思いもしなかっただけに驚いていると、サタンパピー達は次々とその中に飛び込んだ。

 もちろん、ポップを掴まえたままの二匹も例外ではなく、一瞬の目まいの後、気がつくと海の上へと移動していた。
 空中にいきなり出現したサタンパピー達は、戸惑う様子もなく全員が同じ方向に向かって飛び出した。

 当然、ポップもそれに引きずられているのだが、翼のない人間には空中は落ち着ける場所ではない。
 牢屋の中に閉じ込められた時以上の、身に差し迫った恐怖を感じる。

 いくら下が海とはいえ、この高さから落ちて無事で済むとも思えない。おまけにこんな氷山がゴロゴロ浮いているような海では、なおさらだ。
 やけに寒く感じるのは、氷海を吹き抜ける風のせいだけではあるまい。

「ちくしょうっ、どこに行くんだよっ!?」

 いくら話しかけたところでサタンパピー達が答えないと分かってはいても、とても黙ってはいられなかった。
 サタンパピー達は興奮した声を上げながら、真っ直ぐに岩山だらけの大地の一角へと向かっている。

 荒涼とした、何もない大地。
 だが、そこに一人の少年と巨体の怪物が立ちはだかっているのに、ポップは気がついた。

「……!?」

 迫りくるこのサタンパピーの大群が見えないはずはないだろう。なのに、逃げる素振りも見せず、じっとこちらを見上げている。
 そして、ある程度まで近寄ってくると、少年は真っ直ぐにポップを見上げながら叫んだ。

「ポップーーッ!」

 ポップは、自分の名は忘れている。
 だから、それは初めて耳にするはずのただの叫び声にすぎない。
 なのに、なぜか不思議に胸に響くその声に戸惑うポップの目の前で、その少年は飛び上がってきた。

 力強い飛翔は、明らかに体力で行うジャンプとは違う。飛翔呪文の効果により、少年は勢い良く飛び上がってくる。
 両肩を鳥型の怪物に掴ませた巨体のリザードマンもまた、地面を蹴って空に飛び上がってきた――。







 時は、少しだけ遡る。

「……気づいたか?」

 押し殺した声で問うクロコダインに、チウはまるで気付きもしないままでその辺をうろちょろしていたが、ダイは力強く頷いた。

「うん」

 どこからか飛んで来る、飛行怪物の群れ。
 今はまだ、鳥と見間違えるほど遠くにいるが、彼らはアッという間に追いついてくるだろう。

「ここは無理に戦わず、引き上げるか」

 クロコダインの意見にも、ダイはこっくりと頷いた。
 目的を果たさないままとはいえ、今回は武器の奪還のためにきたのだ。

 最初から、見つけられなかった場合は無理をせずに引き上げるのを優先するようにと、念を押されてきた。
 無闇に戦ったところで、得る物はない。

「サタンパピーか……ザボエラの妖魔士団の上級怪物だな。まともに戦うのは、厄介だな」

 クロコダインの話を聞いて、ダイは一瞬で決断を下す。

「クロコダインは先にチウと一緒に、帰って。おれは少し時間を稼いでから、ルーラで帰るから」

 サタンパピーは、勝てない相手ではない。
 ダイやクロコダインの実力から言えば、雑魚といっても差し支えのない敵だ。さすがに数がいれば厄介だが、かといって自分達の優位さは変わるまい。

 だが、背後にいるであろうザボエラが厄介だ。からめ手を得意とするあの男が、力押しの大群を放ってくるとも思えない。
 なんらかの足止めを狙っているとしか思えないし、そうでないにしてもザボエラの思惑にみすみす乗せられるのは危険だ。

 本来なら、全員で一緒に瞬間移動呪文で逃げた方がいいのは分かっている。
 しかし一度に移動させられる質量は、本人の魔法の制御能力に左右される。魔法が苦手なダイには、自分以外の人間を一人、移動させられればいい方だ。

 とても巨体のクロコダインやガルーダ、チウまで、一緒に移動させられるだけの能力がない。
 ならば先にクロコダイン達を逃がし、多少の時間を稼いでからダイも逃げる……それが、最善策だろう。

「うむ、無理はするなよ」

 気遣ってくれるクロコダインに頷いて見せてから、ダイは素早く大地の上に上がり、身構える。

 海の上で戦うのは、不利だ。
 ダイの剣こそないが、レオナからもらったパプニカのナイフがあれば護身程度の戦いには充分だ。

 そのまま、連中が来るのを待ち構えようとして大群を見やったダイは――ギョッとして目を見張った。
 暗黒色の怪物の中に、見覚えがあり過ぎる程ある緑色の人影が見えたからだ。

 両腕をそれぞれ別のサタンパピーに掴まれ、吊り下げられていながら、少しもじっとせずに暴れている人間の少年――。

「ポップ!?」

 思わず叫んだダイとほとんど同時に、クロコダインもまた、それに気づいたらしい。

「なんだとっ!?」

 逃げる、なんて予定はその瞬間、ダイの脳裏からすっぽりと消えていた。
 罠だろうとなんだろうと、ポップがいるのを見てこのまま逃げられるはずがない。咄嗟に飛び出しかけたダイの肩を、クロコダインのがっしりとした手が押さえつけた。

「待てっ、ダイ。焦るな!」

「でも……っ!!」

 苛立って、ダイはその手を振りほどこうとした。
 ポップよりも、剣の捜索の優先を決断した世界会議の結果を聞いた時の理不尽さが、一瞬蘇る。

 だが、クロコダインは武器をしっかりと構え直して、ニヤリと太い笑みを浮かべてみせた。

「もっと引きつけてからでも、遅くはない。そうだろう?」

 その言葉に驚き――そして、一歩遅れてからその意味を悟ったダイは満面の笑みを浮かべた。

「……うんっ!」

 落ち着きを取り戻したダイは、改めて身構える。そのすぐ隣に並んで立つクロコダインの肩に、呼ばれる前にガルーダが飛んで来る。

「え、えっと?」

 だが、飛ぶ手段のないチウはおたおたと空を見上げているばかりだ。それに気がついたダイが、チウに声をかける。

「チウは隠れて海を見張っててくれ! もし、ポップが落ちたら頼むよ!」

 それは、ダイにとっては計算して言った言葉ではなかった。
 ただ漠然と、敵におとなしく掴まっているポップを見て、魔法力が尽きている可能性を案じて、手の空いているチウに頼んだにすぎない。

 だが、この場合は最適の指示だった。
 実力は置いておくとして、プライドの高さでは勇者一行でも一、二を争う程に高いチウは、庇われ、ただ隠れるだけの立場になど甘んじはしなかっただろうから。

 しかし、ポップの救出のためという名目が与えられたことで、チウはシャキッと背筋を伸ばして返事をする。

「お、おうっ、任せたまえっ! あの未熟者は、ぼくがちゃんと面倒をみてやるから、心置きなく戦ってくれたまえ!」

 えらそうにそう言い切ってから、チウはこそこそと岩影に隠れる。さっきから行動を共にしていたしびれくらげとなにやらごにょごにょと交渉を開始しだしたが、ダイはそれ以上、そっちを見てはいなかった。
 見ているのは、ポップの姿だけだ。

「オレは左を狙う」

「分かった! おれは、右をやるよ」

 互いの顔を見ずに正面を向いたまま、ダイとクロコダインは短く打ち合わせを済ませる。やがて、目的とするサタンパピー達が間合いに入ってきたのを確認すると、ダイは行動を開始した。

「ポップーーッ!!」

 無意識に叫んだ自分の声に、ポップが反応する。ひどく驚いたような顔をしてポップが目を見開いたのが、ダイの目にははっきりと見えた――。


                                  《続く》
 

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