『失われたもの 7』

  

「ギギィッ!!」

 一足飛びで距離を詰めようとするダイとクロコダインに、大群のサタンパピー達がメラゾーマを連発して向かえ撃つ。
 それはまるで、炎の嵐。
 生身のままその中に突っ込めば、ただでは済まないだろう。

 だが、二人とも避けようとさえせず、速度を緩めなかった。
 相手が態勢を整える間を、与える気などない。ましてや、ポップを人質に取る時間を与えないためにも、初撃で仕留めたい。

 そのためにも、牽制魔法の防御などにに無駄に剣を放つ気にもなれなかった。

 ダイはただ気迫を高め、竜闘気で浴びせられる豪火に耐える。
 クロコダインもガルーダに魔法弾の対処を任せ、筋肉がはち切れそうな程に腕に力を込めて斧を身構え、攻撃の機会を狙う。

 ぎりぎりまで引き絞った矢が放たれる様に、溜めに溜めた二人の武器は一斉に振るわれた!

「うっ、うわぁあっ!?」

 あがった悲鳴は、ポップの物だった。

(……!?)

 その瞬間、ダイは違和感に似たものを覚える。
 ダイはもちろん、クロコダインも、ポップに攻撃をかすらせるほどヘボな戦士ではない。

 現に、サタンパピーの胴を撫斬りにした太刀筋は、ポップにはなんの危害も加えなかったはずだ。
 だが、ポップの見せた怯えは、まるで自分が斬られそうになった人の見せるものだった。

「ポップ!」

 伸ばしたダイの手が、虚しく空を切る。
 それを見た時の驚きは、ダイが思っていた以上に強かった。

「え……っ? ポップ!?」

 疑ってすらいなかった。
 自分が手を伸ばすと同時に、ポップもまた手を伸ばすだろうと。

 声をかけるどころか、目で合図を送るまでもなく、意思疎通ができて当然の信頼関係。
 それは、確信にも近い思いだった。

 だからこそ、ダイは驚いたのだ。
 手を伸ばす素振りすら見せずに、自分を凝視しているだけの魔法使いを見て。

 ダイの二度目の呼び掛けで、ポップはようやくダイの行動の意味に気づいたのか手を伸ばそうとしたが、それはすでに遅かった。
 ダイがポップを助けようとしたあの瞬間、二人そろって手を伸ばしていれば、間に合っただろう。

 だが、絶好の一瞬を逃したポップの身体は、そのまま重力に引かれて落下していく。
 斬った時の衝撃で、サタンパピーの手はポップの両腕を離したはずなのに、ポップは飛ぼうとはしなかった。

 悲鳴を上げる間もないまま一刀両断された二匹のサタンパピーと一緒に、もつれあう様に海へと落ちていく。

「うわぁあああっ!?」

 悲鳴を上げるポップは意識があるはずなのに、やはり飛ぼうとしない。

「ポップッ!!」

 一瞬、その後を追いかけたダイだが、背後から感じた敵の気配を見逃す程は我を忘れてはいなかった。

「く……っ、邪魔だっ!!」

 身体を捻って炎を避けると同時に、隙を窺っていた敵をナイフで切りつける。数多い敵を放置もできず、ダイは下から派手な着水音が聞こえたのを感じながらも、空で戦い続けるしかなかった。

 このサタンパピーの群れを何とかしなければ、この場からの脱出は難しい。
 知性を全く感じさせない、獣の様な執拗さで襲いかかってくる怪物達は、明らかに異様だった。

 野犬に襲われた場合、リーダーを徹底して叩き、犬達に自分達の不利を悟らせれば、それ以上の戦いは避けようと思うだろう。

 だが、狂犬の群れならば、そうはいかない。
 理性も統合性もない狂犬の群れは、全部を倒さなければどこまでも執拗にくらいついてくる。

 多少無理を押してでも、ここで叩いておかなければ逃げるに逃げられない。
 クロコダインも奮闘しているが、なにぶん敵の数が多い。苛立ちを感じながら、ダイはポップがしびれくらげに引っ張られて陸地に向かうのを目の端で確認し、戦い続けていた――。







 ここはバーンの王間。
 薄い紗のベール越しに君臨するバーンの他に、魔王軍の重鎮たるハドラー、キルバーン、ミストバーン、ザボエラが揃っていた。

 かつての魔王軍六団長勢揃いを思えば、比べるべくもなく寂しい限りだが、つい最近生み出されたばかりのアルビナスは過去の風景など知るよしもない。
 儀礼的に自分よりも高位に位置する魔王軍上層部に一礼すると、己の主君であるハドラーに向かい、報告した。

「ご報告いたします。QB(キングビショップ)の8……死の大地の東南の海岸地点で、勇者一行が複数のサタンパピーとやりあっている模様です」

 声を殺す気遣いも見せずに冷たい声でそう報告したアルビナスは、その切れ長の目でちらりとザボエラを一瞥する。

 それは、言葉にはしない痛烈な抗議だった。
 サタンパピーと言えばザボエラの配下であり、妖魔士団の一員だと、この場にいる誰もが承知している。

 そして、死の大地の守護の任に就いたのは、ハドラーだ。
 そのハドラーの許可も得ないまま、ザボエラが部下を派遣したやり方を非難しているのは明白だった。
 その話を聞いて、ザボエラはひどく驚いたような表情を見せた。

「な、なんですとっ!? サタンパピーめらが!?」

 そう言ってから、ザボエラは一瞬考える素振りを見せ、大袈裟にガバッと平伏した。

「も、申し訳ありませんっ、どうやら洗脳が不十分だった模様で……! そのサタンパピー達はおそらくはワシの配下、攻撃本能を強めるように洗脳をしようと実験していたものなのですが、そのせいで暴走しやすくなっておりまして」

 あまりにも大袈裟過ぎて、かえって誠意も真実味もない言い訳。
 だが、それを嘘と指摘することも出来なかった。

 ザボエラが配下の怪物を材料に実験を繰り返しているのは、バーンも承知の上のこと。
 集団洗脳実験も、その一つだ。
 本来なら上級怪物に当たるはずの怪物を、単純な命令しか聞けない操り人形となるように洗脳するのは、ザボエラの得意技だ。

 高い知能と人間並みの感情を持つ上級怪物ほど洗脳は難しくなるし、洗脳した場合でも怪物の能力値は著しく落ちる。だが、ザボエラの卓越した技術では、洗脳されたままでも魔法を使える怪物を生み出すことに成功している。
 複数の怪物を一つの群れとして動くように洗脳し、配下とする。

 もっとも、さすがに単純な形でしか魔法を使えないので、洗脳した怪物は本来の怪物よりもパワーダウンしているのには違いない。

 だが、使いようにとっては役に立つ技術ではあるし、ザボエラが研究を進めるのを、誰も反対しなかった。
 時折、洗脳に失敗した怪物が死亡しする危険性や暴走する可能性も、想定に入っている。

「……念のため確認しましたが、確かにザボエラ殿所有のサタンパピーの檻は内側より力ずくで壊された跡がありました」

 アルビナスより一歩遅れてやってきたシグマが、淡々とした口調で言い添える。

 ザボエラに問い質すよりも早く、サタンパピーの身元を即座に確認するその素早さこそが、親衛隊達のザボエラへの信頼度の低さを物語っている。
 他者から軽んじられることを嫌うザボエラは、一瞬、ムッとした顔を見せるものの、バーンやハドラーに対しては彼はどこまでも慇懃だった。

「はっ、もうしわけありません。配下の不始末はワシの手でケリをつけましょうぞ。さっそくバルログ隊を派遣して、サタンパピーめらの沈静に当たりましょう。おっと、そうそう、他に被害が出ていないかも確認しないと」

 さも反省しているかのようにてきぱきと手をうとうとするザボエラに、やんわりと待ったをかけたのはアルビナスだった。

「お待ちを……。ザボエラ殿のお手を煩わらすには、及びません。死の大地の守護は、我らが主が管轄。沈静や確認の手配は、こちらでいたしましょう」

 冷たく、軽蔑しきったかのような銀の女王の眼差しを見れば、それは気遣いとはほど遠い申し出と容易に見抜けるだろう。
 ザボエラに信を置いていないがゆえの、申し出。

 それを聞いて、キルバーンとピロロが目を合わせてくすくすと笑ったのはこの先の騒ぎを予測したからだろう。
 見栄っ張りで癇癪持ちのザボエラは、いくらハドラーの直属の配下とはいえ、たかが人造生命体程度に指図をされて面白く思うわけがない。

 実際、ザボエラは露骨に顔をしかめていた。
 キルバーン達のようにはっきりと態度には見せないものの、この場にいた者は多かれ少なかれ、ザボエラを知っている。

 彼がごねて一騒ぎを起こすのを予測して、それを待ち受ける雰囲気が漂う。
 だが、ザボエラの反応は意外なものだった。

「それはそれは、親切なことで……ヒッヒッヒ、では、お言葉に甘えるとしようかのう」

 それを待っていたとばかりに、ニヤリと笑うザボエラを、意外そうに見やったのはアルビナスも同じだ。
 しかし、文字通り人形のように無機質な表情を持つ女王は、平然とその驚きを押し殺す。

「承知いたしました。それでは、さっそく手配いたします」








「よーしっ、こっちだっ! 早くっ、早くっ」

 やたらと騒がしい声を、ポップはぼんやりと聞いていた。
 ポップはあお向けに浮かんだ姿勢のまま、しびれくらげに引っ張られて岸へと進んでいく。

 もっとも、意識朦朧としているポップには、今の自分の現状を掴めていなかった。

 いくら下が海とは言え、数メートル以上の高さからの落下の衝撃は少なくはない。
 脳震盪を起こしたのか、落下の瞬間の恐怖と衝撃とともに、ポップの意識は一度とぎれた。

 けれども、それはある意味で幸運だったと言える。
 本来、ポップは泳ぎは出来る。
 記憶喪失とはいえ、身体で覚えた技術はそう消えはしないだろう。

 だが、いくら泳げるとはいえ、なんの心構えもなく氷海に突き落とされ、そうそう反応出来るものではない。
 ましてや、服を着たまま泳ぐというのは、想像以上に人間の体力を消耗させるものだ。

 さらに言うのなら、この死の大地の周囲の波は荒く、潮の流れは速い。
 もし、ポップが自力で泳いで助かろうとした場合、距離は短くともちゃんと海岸まで辿り着けたかどうか怪しいものだろう。

 しかし、一時的に気絶したポップはそのせいで溺れることもなく、水も飲まずにすんだ。そして、一見ふよふよと頼りないしびれくらげは、水中では意外なほど動きが活発だ。

 自分よりはるかに大きなポップをやすやすと支え、安全に海岸へと泳ぎ着いた。

「おいっ、聞こえるか!? しっかりしろ、この手に掴まれっ!」

 強い口調で呼びかけられ、ポップはぼんやりとしながらもそれに従おうとした。
 だが、伸びてきた手は人間のものではなく、その姿も怪物に他ならない。

「……っ!? よっ、よるなっ!!」

 咄嗟に叫んで手を振り払おうとしたポップだが、そのせいでかえってバランスを崩して水に沈み込む。

「おっ、おいっ!? どうしたんだっ!?」

 結構面倒見がいいチウが、慌ててポップを助けようと水から引きあげる。

「ゲホッ……ゴホ……ガポ……ッ」

「しっかりしろっ、大丈夫か?」

 激しく咳き込んで少しでも水を吐きだそうとするポップを、チウは助けようとして手を伸ばす。
 が、ポップはその手をふりはらった。

「さっ、触るなっ! 近寄るんじゃねえっ!!」

 その顔に浮かんでいるのは、嫌悪よりも怯えの方が遥かに強かった。
 サタンパピーらに無理やり掴まれ、ここまで連れてこられたポップにしてみれば、見も知らぬ怪物を警戒するのも無理はない。

 だが、まさかポップから拒絶されると思っていなかったチウは、鳩が豆鉄砲をくらったような顔をして、きょとんとする。

「触るなって……何を言ってるんだ? こんな所にいたら危ないだろう、早く隠れないと!」

 頭上で繰り広げられている戦いを気にして、チウはポップを岩影へ連れ込もうとする。だが、ポップは大ねずみに触れられるのを嫌って暴れだす。

「さっ、触るなったらっ!」

「大声を出すなぁっ、あの怪物どもに聞こえるだろうっ!?」

 騒ぐポップとチウの声は、戦っている最中のダイの耳にまで届いた。それは同時に、サタンパピーの耳にも届くということ。

 肉食獣は決まって、群れからはぐれた弱った獲物に狙いを定める。攻撃本能を極限まで高められた怪物もまた、目の前で戦っている相手よりもはぐれた獲物に興味を抱いた。

「ギギィッ!」

 喜びを表す奇声をあげ、数匹のサタンパピーが下降する。

(しまった……!)

 とっさに追おうとするダイだが、サタンパピー達の方が早かった。一斉に放った炎が、ポップとチウ目掛けて襲いかかる。

「ポップ――ッ!?」

 叫ぶダイの脇を、光速の塊が駆け抜けた。
 それは、瞬間移動呪文に似た光を放つ軌跡。激しい落下音を立て、地面にいきなり突き立ったのは、銀色の円柱。

 一瞬周囲を染めた赤い色を、銀色の柱はものともしなかった。
 ほぼ人間大の大きさもあるそれを、クロコダインやダイばかりでなく、ポップやチウまでもが目を丸くして見ているばかりだ。

「な、なんだ、これ……?」

 丸い円を上に乗せた、柱の形をした置物。
 それは、ダイにとっては初めて見るものだったが、ポップにとっては違っていた。

 ガタガタと震えているチウに庇われ、やはり小刻みに震えているポップは、それでも目を見張りながら呟いた。

「ポ……ポーン?」

 記憶はなくても、一般知識は残っている。
 形こそ巨大でも、この形式はチェスの基本に忠実だ。
 チェスの中でもっとも弱い駒、ポーンを思わせる巨大な駒。

 メラゾーマ数発分の炎をいともたやすく跳ね返し、傷一つ負っていないそれは、次の瞬間、光り輝きだした。
 それと同時に軽快な金属音を立てながら、変形していく。
 チェスの駒から、人の姿へと。

 まばたき数度の間に、それは成人男性を遥かに上回る、長身の男へと変化する。だが、それは明らかに人間の姿ではない。

 鎧を思わせる皮膚は金属で出来ていて、銀色の輝きを見せつけている。どこか、威厳すら感じさせる目付きの鋭い戦士に、サタンパピー達が怯えたように羽ばたいた。

(敵……なのかっ!?)

 今、戦士はポップ達を庇った。それはありがたいことだが、だからといって即、味方だとは言い切れない。
 膨れる疑問を、ダイはストレートに口にした。

「おまえは、誰だっ!?」

 叫んだダイに、戦士はゆっくりと目を向け、堂々と名乗った。

「オレの名は、ヒム。ハドラー様の忠実なる兵士(ポーン)だ」

「ハドラーの……っ!?」

 チェスの駒の名を知らないダイにしてみれば、その点が一番引っ掛かる。なにより恐怖なのは、ヒムがポップ達のすぐ側にいることだ。

「……おれと、戦いに来たのか!?」

 手にしたナイフを、ダイは微妙に力を込めて握る。
 全力をだせばナイフが耐えきれずに砕けてしまうが、ダイの本能は目の前の敵が波ならぬ相手だと感じ取っていた。
 そんな敵を前にして、ダイが感じているのは恐怖ではなく焦りだった。

「それとも……また、ポップになにかする気なのか!?」

 焦りから、ダイは叫ばずにはいられない。
 自分の目の前でむざむざとポップを攫われてしまった時の絶望感は、未だにダイの中に強く残っている。

「……ふん。この魔法使い、逃げていたのか」

 ヒムはちらりと、ポップを見下ろした。
 その鋭い視線に射竦められ、ポップはビクッと身を強張らせたが、その時間はそう長くはなかった。
 すぐにヒムは、地面を強く蹴って飛び上がった。

「!?」

「……っ」

 ダイとクロコダインが、そろって息を飲む。
 勢いよく飛び上がったヒムと擦れ違ったサタンパピーの群れが、落下する。
 常人には銀の光が閃いたとしか思えない早さで、ヒムの拳が素早く怪物達を打ちのめしていた。

 それが生半可な実力でできることではないのは、その寸前まで戦っていたダイ達にはよく分かる。
 いくらダイ達が残り数匹まで数を減らしていたとはいえ、サタンパピーはそうそうたやすい相手ではない。

 だが、それをあっさりやってのけたヒムは、驚くダイ達に向かって不敵な笑みを見せる。

「見くびってもらっては、困る。オレはハドラー様により命を授かった、誇り高きハドラー親衛隊の一員! 不意打ちなど、しかけたりはしない。ましてや、人質をとるような真似など、するものか!」

 疑われたのさえ心外とばかりに声を張り上げ、ヒムは落下するサタンパピー達に向かって、手にした筒状の物を向けた。
 筒の中央に配置されたボタンを押すと、筒は光り輝いた。

「ウギイッ!?」

 一瞬の悲鳴を上げ、それまで残っていたサタンパピー達が一斉に消失する。

「き……消えた?」

 今度はポップがぽかんとした表情を見せるが、ダイには分かっていた。
 怪物を自由に出し入れできる魔法道具、魔法の筒。
 ダイが知っている物とは少しばかり形も効果も違うが、大本は違っていないだろう。

「オレが受けた任務は、暴走したこの怪物の鎮圧と回収だ。それ以外の用は、今のところはない。……もっとも、おまえ達があくまで魔王軍に弓を引くというのなら、いずれ戦うことになるだろうがな……!」

 無表情に見えたヒムの目が、好戦的にギラリと輝く。今すぐ戦うのが望みと言わんばかりの覇気を撒き散らしながら、しかし、ヒムは悠然とダイ達を見下ろしたまま、高く浮き上がっていく。

「勇者ダイ――ハドラー様が、おまえとの戦いをお望みだ。その時は、おまえの仲間達と戦うのは、我ら親衛隊の役目……再びまみえるのを楽しみにしているぞ!」

 その言葉と同時に、ヒムの身体は瞬間移動呪文の光と変化して一瞬で飛び去った。

「ハドラー……親衛隊だと?」

 クロコダインが重々しく呟くのを、ダイは聞いていなかった。
 今は新たに現れた謎の戦士よりも、ポップの方がはるかに気にかかる。

「ポップ!」

 呼びかけ、ダイはやっとポップの側に舞い降りた。ぼんやりとヒムが消えた方向を見ていたポップは、ダイの呼び掛けに振り向きさえしなかった。

「ポップ、無事か?」

 ダイより一歩遅れ、地響きを立ててクロコダインが下り立ったの時に、ポップはようやくこちらを向く。
 途端にポップは悲鳴を上げて、後ろに逃げようとした。

「う、うわぁあっ!?」

「ポップ、どうしたんだよ?」

 そう呼び掛けながら手を伸ばしかけ――ダイは途中で、その手を止めた。
 目をいっぱいに見開いて、怯えるその表情。
 異様なものをみるかのようなその目は、ダイには見覚えのあるものだった。

 忘れようにも、忘れられない。
 ベンガーナで、人々を助けた時に向けられた視線だ。人間ではない自分を思い知らされた時の目に、そっくりだった。

 見知らぬ人々から向けられるその目は、ダイにとっては辛いものだった。だが――今の衝撃は、その比ではない。

「ポッ……プ?」

 足元から世界が崩れ落ちていくような恐怖感が、込み上げてくる。
 押さえようとしても、身体が、声が、自然と震えた。

「ポップ……なんで……なんで、おまえが……おれをそんな目で見るんだよ……?」

 他の誰が、自分を嫌ったとしても良かった。
 目の前にいるこの少年だけは、自分を受け入れてくれるとダイは信じていた。

 それを覆され、ダイの目に涙が込み上げてくる。
 じわりと滲んだ光景の中で、ポップが戸惑うように何度も瞬きをするのが見えた。

 その揚げ句、ようやく開いた口から聞こえたのは、信じられない一言だった。

「…………おまえは、誰、だ?」

「え?」

「思い出せないんだ……何も……」

 それだけを言うだけでも、今のポップにはやっとだったらしい。
 その言葉と同時に、ポップの身体が力なく崩れ落ちる。

「ポップ!?」

 ダイはとっさに伸ばした手で受け止めたものの、その時にはポップは完全に気を失っていた――。


                                                             《続く》
 
 

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