『失われたもの 8』

  

「……っ!?」

 少女の手から水を入れた桶が滑り落ち、病室の床を濡らす。
 だが、看護をしていた少女のその行動を、不作法と見なす者はここにはいなかった。魔王軍との戦いで少なからず傷を負った傷病者ならば、その少女の名や、能力は知っている。

 メルル――遠見の力を持つ占い師の少女は、並外れた予知能力や、感知能力を持っている。

 いたって控え目で献身的な彼女は、わずかに使える回復能力を活かして、怪我人の手当てに当たっていた。
 その最中、不意に顔色を変えて空を見上げたメルルに、周囲の注目が集まった。

 敵の動きをいち早くキャッチ出来る彼女のおかげで助かったことは、何度もある。それだけに彼女が何かを感知した場合、それを重視するのは当然だった。

「なに!? どうしたの、メルル!」

 王女という地位にありながら、やはり率先して怪我人の治療に当たっていたレオナが、メルルに強く呼び掛ける。
 遠方に注意を集中するあまり、半ば意識を飛ばしかけていたメルルは、レオナに揺さぶられてやっと正気に返ったのか、口を開いた。

「何か……何か、嫌な気配がこちらに向かって近付いてきます……! あっちから、飛んで来る……っ」

 頭を押さえ、うわ言のようないそう呟くメルルの言葉に、真っ先に反応を見せたのはヒュンケルだった。
 数日前は一番の重傷患者だったはずなのに、ごく当たり前のように武器に手を伸ばし、ベッドから身を起こす。

「無茶はやめてくださいっ」

 焦ったようにヒュンケルを真っ先に止めたのは、エイミだった。
 戦いの直後に倒れたヒュンケルを、誰よりも熱心に手当てしてきたエイミには、彼の傷が驚くべき早さで良くなったものの、まだ完治しきっていないのはよく分かっている。

 一刻も早く床離れを望むヒュンケルを、まだ治療に専念するようにと押しとどめてきたのは、常にエイミだった。
 しかし今、エイミの制止など気に求めず、ヒュンケルは敵に身構えようとする。それを制したのは、マァムの声だった。

「ヒュンケルはまだ休んでいて。私が行くわ!」

 毅然とした表情を見せるマァムに、ヒュンケルはわずかに苦笑しながらも頷いた。

 その様子に、エイミは胸がズキリと痛むのを感じる。
 ヒュンケルが負傷し、他のメンバーは不在な以上、この場にいる勇者一行はマァムだけであり、最も戦闘力の高いのもまた、彼女だ。

 その上、ヒュンケルにとってはマァムは仲間に当たるのだから、彼女の言葉にしたがっても何の不思議もない。
 理屈では、エイミもそう理解する。

 だが、分かってはいても、自分では止められなかったヒュンケルを、たった一言で止めたマァムに対して、もやもやと落ち着かない感情が湧き上がってくるのは止められない。

 と、その時、マァムがエイミに向かって振り返ったのを見て、心臓が跳ね上がった。

「レオナやエイミさんは、怪我人の避難をお願い!」

「は、……はいっ」

 少しでも邪心を抱いたのが申し訳なく思えるぐらい、どこまでも真っ直ぐな少女。年下ながらも正義感と慈愛に満ちたマァムに対して、エイミは自分を恥じずにはいられない。

(私ったら、何を……! 今は、こんなことを考えている場合じゃないのに……っ)

 気を取りなおし、避難にかかろうとしたエイミだが――それを制したのは、ヒュンケルだった。

「……。……待て。あれは――」

 視力のいいヒュンケルに続いて、戦闘に向けて外へ飛び出そうとしていたマァムもまた、足を止めて空を見つめる。
 一塊になって空を飛んで来る人影……それは、見覚えのあるものだった。

 クロコダインと、ダイ。
 そして、二人に抱きかかえられている、もう一人の少年――。

「ポップッ!?」

 窓から落ちそうな程に身を乗り出し、マァムは少年の名を叫ぶ。
 一瞬にして、部屋は騒然とした雰囲気に包まれた――。








「なんですって……? ポップ君が……?」

 驚きと言うよりは、当惑の表情でレオナはその先の言葉を飲み込んだ。
 剣の捜索に出かけたはずのダイとクロコダインが、突然、ポップを連れて帰ってきた事情について、説明は聞いた。

 だが、聡明であり、誰よりも察しのいい彼女でさえ、戸惑わずにはいられない。

 記憶喪失。
 勇者一行にとって、それは容易に信じられないほど遠く離れた言葉ではない。

 むしろ、逆だ。
 他ならぬダイが記憶喪失になったのは、それほど前のことではない。肝心要の勇者の記憶喪失に、一行がどんなに絶望し、記憶を取り戻させようと必死になったことか。

 その時、一番無茶をし、結果的にダイの記憶を取り戻すきっかけとなったのはポップだった。
 よりによってそのポップが、今度は記憶喪失になってしまっただなんて――いきなり、信じられる話ではない。

 いや、信じられないというよりは、信じたくないと言った方がいいのかもしれない。
 レオナのみならず、ほとんどの者の顔に浮かぶのは困惑の表情だ。

 どうしていいのかさえ分からないように、立ちすくむ一同の中、気を失ったままのポップに、回復魔法をかけたのはレオナだった。
 パプニカ一の回復魔法の使い手であるレオナが慎重に魔法をかけるのを、三賢者やバダック、勇者一行の面々は息を詰めて見守っていた。

「……身体に、特にこれといった異常はないわ。少なくとも、あたしには見つけられない。多少のかすり傷を除けば、たいした傷も負ってないようだし――でも……」

 そう言ってレオナは、ポップの左手と少し離れた位置にいるメルルを見比べる。
 ポップがいつもはめている緑色の手袋の上からはめられた、見慣れぬ紅い腕輪。

 細い糸がもつれ合うような形の腕輪は、多少の悪趣味さは感じるものの凝ったデザインであり、決して見栄えの悪いものではない。
 だが、メルルはひどく怯えたような表情でそれを凝視していた。

「……気配の源は、この腕輪です。この腕輪から、禍々しい気配を感じます。まるで、魔物の群れを前にしているような……ひどく、嫌な感じが……」

 未だ小刻みに震えているメルルは、ポップの側にさえ近寄れないでいる。その顔色は青ざめていて、魔物の気配を予知した時の表情のままだ。
 彼女の怯えが真剣なものであるだけに、一同の不安はかき立てられるばかり……だが、一人だけ例外がいた。

「だったら、こんなの外しちゃえばいいんだ!」

 真っ先に動いたのは、ダイだった。
 恐れやためらいもなく腕輪を掴み、ポップの腕から抜こうとする。すぐ近くにいたレオナでさえ止める隙もない程の早業だった。

「こんなのなんかっ」

 腕輪はそうぴったりしたものではない。女性用というよりは、成人男性向けに設定されているのか、繊細な印象のデザインの割には割合に太めだ。
 むしろ、ポップの細い腕には合わない程にぶかぶかの代物だ。

 それにもかかわらず、その腕輪はダイがどう引っ張ろうとも引き抜くことは出来なかった。

「な、なんだよ、これっ!?」

 ポップの手のどこにも引っ掛かっていないにもかかわらず、腕輪は手首から抜けるのを拒否する。
 普通なら有り得ないその現象に、ダイは怯えるどころかますますムキになって腕輪を抜きにかかる。

 ダイにしてみれば、この腕輪こそが諸悪の根源のように思えてならない。
 伸ばした手を、ポップに無視されること。

 そんなのは、考えたことさえもなかった。出会ったばかりの時、気軽に握手を応じてくれたポップは、それ以来いつだってダイの手を拒んだことなどない。

 ダイが手を伸ばした時は、当たり前のようにいつだって、ポップも手を伸ばしていた。
 まるで、怯えるような目で自分を見ていたポップの表情――そんなものは、今まで一度も見たことのないものだった。

 ダイが誰かも分からないように問い掛ける声も、そうだ。
 あれに、ダイがどんなショックを受けたか……できるなら、二度と味わいたくもない。

 ポップが変わってしまった理由は分からないが、ミストバーンに連れて行かれる前までは存在しなかった腕輪は、変化の象徴のようで腹立たしい。
 これさえ取れば元のポップに戻るんじゃないかと期待するだけに、ダイはむきになって腕輪を外そうと、全身の力を込める。

「くそっ」

 外せないならいっそ壊してしまえとばかりに、ダイは腕輪の隙間の両端に無理やり指をねじ込み、渾身の力を込めて輪を引き裂こうとした。

 妙に頑固な腕輪も、竜の騎士の渾身の力には耐え兼ねたのか悲鳴を上げるようにギシリときしむ。
 だが、その途端、腕輪が紅く光り、ポップが苦痛の悲鳴を上げた。

「う……うう……っ!?」

「ポップッ!?」

 慌てて、ダイは手を放した。
 うっすらと目をあけたポップを見て、クロコダインがさりげなくチウの背を押して、音を立てないようにそっと部屋を出て行く。

 全員がポップに注目していたこともあり、その静かな退出に気がついたのはレオナとヒュンケルぐらいのものだろう。
 特にダイなどは、それにまるで気づいた様子もない。

 実際、今のダイはそれどころではなかった。
 自分自身が記憶喪失になった経験上、ダイには覚えがある。
 周囲に誰も見知った者がいず、何も覚えていない気持ちが、どれ程不安で、どんなに心許無いものなのか……。

 それが分かるだけに、ポップが心配で心配でたまらない気持ちと、忘れられてしまった不安がごちゃまぜになってダイを襲う。

 結果、何を言っていいのかも分からないまま固まっているダイを、庇うように優しく押し退けたのはレオナだった。
 ポップが目を開けるのを待ってから、落ち着いた声で話しかける。

「気がついた? 気分は、どうかしら?」

「え……あ、ああ。気分は悪くないよ、うん」

 戸惑い顔ながらも、ポップは自力で起き上がり、落ち着きなく周りを見回す。

「あんた達が、おれを助けてくれた……のか?」

「ええ、そうよ。一応、怪我は手当てしたけれど、どこか痛むところとかは、ある?」

「……いいや、別に」

「それは、良かったわ。――ねえ、ところで、あたしが誰だか、分かる?」

 ポップはまじまじとレオナの顔を見つめたものの、その表情に変化はなかった。

「……? えっと? どこかで、会った……っけ?」

 ポップのその返事に、一番ショックを受けたような顔をしたのは、ダイの方だった。

 だが、程度の差はあれ、ショックを受けたのはその場にいる全員と言っていいだろう。今のポップの言葉は、ポップの記憶喪失が一時的な混乱ではなく、決定的な事実だと証明したのも同然なのだから。

 ただ一人、レオナの表情は落ち着いたものだったが、他の者はともかく彼女を幼い頃から見続けてきたバダックや、三賢者には分かる。

 王女として、内心はどうであれ表面上は常に平静を装うことを義務づけられてきたレオナが、無理に平気なふりをしているだけだと。
 しかし、内心の動揺などおくびにも見せないまま、レオナは質問を続けた。

「ここがどこかは、分かる?」

 それは、本来のポップなら即座に答えられる質問だ。
 共同の病室がわりに使用されるこの客室は、ポップ自身も寝泊まりした経験があるのだから。
 だが、今のポップは心許無い表情で周囲を見回し、わずかに首を振った。

「いや……悪いけど、覚えがないんだ。そのさ、変な話なんだけど、おれ……全然、前のこと、思い出せないんだよ。今までどこにいたのかとか、何をやっていたのか、とか。
 あんた達は、もしかして――おれの知り合いだったのか?」

 ポップのその質問にレオナが少しばかりたじろいだのは、ダイの記憶喪失を味わった経験があるからだろう。
 自分が記憶喪失だという自覚もなかったダイに比べると、ポップの方がはるかに今の自分の実情を正確に把握している。

 それが良い兆しなのか、それともかえって問題のもとなのか判断がつかないが、少なくとも表面上は、レオナは落ち着き払った態度を崩さなかった。

「ええ、あたし達は、あなたの仲間よ。今まで、ずっと一緒にいたの。……なにか、思い出せることはない? たとえば、自分の名前とか」

 その質問に、ポップは少しためらってから、返事をした。

「おれの名前は、……ポップ……だろ?」

「思い出したのっ!?」

 一瞬、喜びかけたダイだが、その歓喜は他ならぬポップ自身の言葉によって塗り替えられた。

「そうじゃないよ。さっきっからおまえが、何度もおれのことを『ポップ』って呼びかけていただろ? だから、それがおれの名前なんじゃないかなーって、思ったんだ」

「…………」

 思い出したわけではない。
 だが、ちゃんと自分の呼び掛けを聞いていてくれていた。
 その事実を悲しんでいいのか、喜んでいいのか分からずに、余計に頭が混乱してしまう。目と鼻の奥がつーんとするような、泣きだしたくなる衝動を覚えて、ダイは咄嗟に俯いた。

 しかし――手が、ぽんと頭の上に乗せられた。
 いつもに比べると、ちょっと遠慮がちに乗せられただけの手。
 だが、手袋越しに感じる、温かい手の感触は変わらない。それは、ダイにとっては馴染みのあるものだ。

 びっくりしたダイが顔を上げると、じっとこっちを覗き込んでいるポップと、目が合った。
 目が合うと、ポップは悪戯っぽくニッと笑う。

「まだ、返事、聞いてないよな?」

「え?」

 ポップが何を言い出したのか分からなくて、ダイはきょとんとする。

「おれ、聞いたじゃないか。『おまえは誰だ』って」

 そう言われて、ダイはやっと、ポップが気を失う直前に言った一言を思い出す。さっき聞いた時は、絶望のどん底に突き落とされたような気がした、言葉――。

「教えてくれよ。それに、そんなシケた面してられたんじゃ、礼も言えないじゃないか。助けられた有り難みだって、半減しちまうぜ」

 記憶もないのに、いかにもポップらしい憎まれ口には変わりがないせいか。
 怯えの表情ではなく、笑顔を浮かべているせいか。
 それとも、まだ頭に乗せられたままの手の温もりのせいか。

 ――内容的には同じことを聞かれたはずなのに、今は全く違う意味合いに聞こえた。

「おれ……っ、おれ、ダイだよ。ダイって言うんだ」

 勢い込んで答えるダイに少し苦笑する風を見せながらも、ポップは大きく頷いた。

「そっか。ダイ、助けてくれてありがとうな。それに、他の人達も……」

 もう一度ゆっくりと周囲を見回したポップは、再び、ダイに問いかける。

「あのよ……さっき、ごっつい斧を持ったリザードマンと、しゃべる大ネズミがいたろ? あいつらは、どこにいるんだ?」

「あれっ? そう言えば、いなくなってる……?」

 キョロキョロと不思議そうに首を傾げるダイは、今、始めてそれに気づいたらしい。

「じゃ、どこにいるか、教えてくれよ。さっきはいきなりだったから、ついビビッちまったけどさー、あいつらもおれを助けてくれたんだろ? 礼ぐらい、言っときたいじゃないか」

 ごく当たり前のようにそう言うポップの言葉に、誰よりも安堵したのは恐らくはレオナとヒュンケルだろう。

 二人だけは、事情を悟っていた。
 直接の表現を避けて、言葉を濁して語ったクロコダインだが、記憶を失ったポップが怪物を恐れた素振りを見せたのは、容易に読み取れた。

 だからこそ、クロコダインは目覚めたポップをこれ以上混乱させないように場を外したのだ。
 その気遣いがこんな形で裏切られたことを、嬉しく思う。

 そして、記憶を失ったとはいえ、ポップがポップらしさを失っていないことも、嬉しい驚きだった。

 ダイとポップの今のやり取りのおかげで、不安と困惑で意気消沈していた一行の空気が、ガラリと変わった。
 その恩恵が一番大きかったのは、言わずものがなだ。

「じゃあ、おれ、捜してくるよ! ちょっと待っててね、ポップ!」

 見違えるほど元気になったダイの顔には、数日ぶりに満面の笑みが浮かんでいた――。








 バーンの間。
 主君であるハドラーに対して報告を済ませたヒムは、素っ気なくザボエラに魔法の筒を手渡した。

「これは一応、お返しする。まあ、半分ぐらいは勇者一行にやられていたから、回収できなかったがな」

「へへっ、それはどうも……。わざわざ、ご苦労じゃったのう」

 へりくだっているようで、上の立場からの礼を言うザボエラに、ヒムはムッとしたような表情を見せる。
 だが、口に出さないのはバーンやハドラー達の目の前だというせいと――なによりも、効き目がないと分かっているせいだろう。

 なにしろ、この食えないにも程がある老魔道士は、責任逃れは妙に長けている。
 アルビナス達がポップの脱走が発覚したと報告しても、ヒムがポップがダイ達と合流したと報告したのに対しても、ぬけぬけと部下の不始末のせいにして責任追及を逃げ切った。

 それどころか、ポップの脱走に気がついたのに手を打とうとしなかったヒムを責め、都合よくも責任転嫁を図るというなりふりの構わなさだった。

「それでは、ワシはこれにて失礼させて頂きます、ヒッヒッヒ……」

 挨拶して退出するザボエラに対して、誰も見送る言葉をかけない辺りに、周囲の彼へ対する評価が伺える。
 だが、ザボエラはそれを気にした様子もなく、飄々と自分の研究室へと向かって戻っていく。

 その合間、玩具の様に軽く放り投げては受け止める仕草を繰り返しながら、ザボエラは手にしているサタンパピーの処分を考えていた。
 せっかく返してもらったものを、粗末に扱っては悪いなどという思考など、ザボエラにはかけらもない。

 そもそも、最初から使い捨てる予定の怪物だった。半数でも戻ってきたのは、正直計算外だ。

 だが、ザボエラはそれをありがたいとさえ思わない。
 ポップを逃がすためだけに強制洗脳をかけた怪物は、もう使い道がないからだ。それは、レミングにも似た暴走――仲間と一緒に決められた場所へと進むように暗示をかけた。

 攻撃本能を極限まで高めたため、進行途中にいる生き物には攻撃を仕掛けるが、死の大地の海岸へ向かう様にとかけた暗示が、二度役に立つことはないだろう。

 ならば、ゴミも同然の怪物などに情けを掛ける気など、ザボエラにはなかった。
 それよりも、気にかかるのはもう一つの仕掛け……ポップに与えた腕輪を、どのように活用するかの方だった。

(さて……あの腕輪をいつ使えば、一番効果的かのう?)

 ほくそ笑むザボエラを見ている者は、誰一人としていなかった――。

                                                   《続く》
 

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