『失われたもの 8』 |
「……っ!?」 少女の手から水を入れた桶が滑り落ち、病室の床を濡らす。 メルル――遠見の力を持つ占い師の少女は、並外れた予知能力や、感知能力を持っている。 いたって控え目で献身的な彼女は、わずかに使える回復能力を活かして、怪我人の手当てに当たっていた。 敵の動きをいち早くキャッチ出来る彼女のおかげで助かったことは、何度もある。それだけに彼女が何かを感知した場合、それを重視するのは当然だった。 「なに!? どうしたの、メルル!」 王女という地位にありながら、やはり率先して怪我人の治療に当たっていたレオナが、メルルに強く呼び掛ける。 「何か……何か、嫌な気配がこちらに向かって近付いてきます……! あっちから、飛んで来る……っ」 頭を押さえ、うわ言のようないそう呟くメルルの言葉に、真っ先に反応を見せたのはヒュンケルだった。 「無茶はやめてくださいっ」 焦ったようにヒュンケルを真っ先に止めたのは、エイミだった。 一刻も早く床離れを望むヒュンケルを、まだ治療に専念するようにと押しとどめてきたのは、常にエイミだった。 「ヒュンケルはまだ休んでいて。私が行くわ!」 毅然とした表情を見せるマァムに、ヒュンケルはわずかに苦笑しながらも頷いた。 その様子に、エイミは胸がズキリと痛むのを感じる。 その上、ヒュンケルにとってはマァムは仲間に当たるのだから、彼女の言葉にしたがっても何の不思議もない。 だが、分かってはいても、自分では止められなかったヒュンケルを、たった一言で止めたマァムに対して、もやもやと落ち着かない感情が湧き上がってくるのは止められない。 と、その時、マァムがエイミに向かって振り返ったのを見て、心臓が跳ね上がった。 「レオナやエイミさんは、怪我人の避難をお願い!」 「は、……はいっ」 少しでも邪心を抱いたのが申し訳なく思えるぐらい、どこまでも真っ直ぐな少女。年下ながらも正義感と慈愛に満ちたマァムに対して、エイミは自分を恥じずにはいられない。 (私ったら、何を……! 今は、こんなことを考えている場合じゃないのに……っ) 気を取りなおし、避難にかかろうとしたエイミだが――それを制したのは、ヒュンケルだった。 「……。……待て。あれは――」 視力のいいヒュンケルに続いて、戦闘に向けて外へ飛び出そうとしていたマァムもまた、足を止めて空を見つめる。 クロコダインと、ダイ。 「ポップッ!?」 窓から落ちそうな程に身を乗り出し、マァムは少年の名を叫ぶ。
驚きと言うよりは、当惑の表情でレオナはその先の言葉を飲み込んだ。 だが、聡明であり、誰よりも察しのいい彼女でさえ、戸惑わずにはいられない。 記憶喪失。 むしろ、逆だ。 その時、一番無茶をし、結果的にダイの記憶を取り戻すきっかけとなったのはポップだった。 いや、信じられないというよりは、信じたくないと言った方がいいのかもしれない。 どうしていいのかさえ分からないように、立ちすくむ一同の中、気を失ったままのポップに、回復魔法をかけたのはレオナだった。 「……身体に、特にこれといった異常はないわ。少なくとも、あたしには見つけられない。多少のかすり傷を除けば、たいした傷も負ってないようだし――でも……」 そう言ってレオナは、ポップの左手と少し離れた位置にいるメルルを見比べる。 細い糸がもつれ合うような形の腕輪は、多少の悪趣味さは感じるものの凝ったデザインであり、決して見栄えの悪いものではない。 「……気配の源は、この腕輪です。この腕輪から、禍々しい気配を感じます。まるで、魔物の群れを前にしているような……ひどく、嫌な感じが……」 未だ小刻みに震えているメルルは、ポップの側にさえ近寄れないでいる。その顔色は青ざめていて、魔物の気配を予知した時の表情のままだ。 「だったら、こんなの外しちゃえばいいんだ!」 真っ先に動いたのは、ダイだった。 「こんなのなんかっ」 腕輪はそうぴったりしたものではない。女性用というよりは、成人男性向けに設定されているのか、繊細な印象のデザインの割には割合に太めだ。 それにもかかわらず、その腕輪はダイがどう引っ張ろうとも引き抜くことは出来なかった。 「な、なんだよ、これっ!?」 ポップの手のどこにも引っ掛かっていないにもかかわらず、腕輪は手首から抜けるのを拒否する。 ダイにしてみれば、この腕輪こそが諸悪の根源のように思えてならない。 そんなのは、考えたことさえもなかった。出会ったばかりの時、気軽に握手を応じてくれたポップは、それ以来いつだってダイの手を拒んだことなどない。 ダイが手を伸ばした時は、当たり前のようにいつだって、ポップも手を伸ばしていた。 ダイが誰かも分からないように問い掛ける声も、そうだ。 ポップが変わってしまった理由は分からないが、ミストバーンに連れて行かれる前までは存在しなかった腕輪は、変化の象徴のようで腹立たしい。 「くそっ」 外せないならいっそ壊してしまえとばかりに、ダイは腕輪の隙間の両端に無理やり指をねじ込み、渾身の力を込めて輪を引き裂こうとした。 妙に頑固な腕輪も、竜の騎士の渾身の力には耐え兼ねたのか悲鳴を上げるようにギシリときしむ。 「う……うう……っ!?」 「ポップッ!?」 慌てて、ダイは手を放した。 全員がポップに注目していたこともあり、その静かな退出に気がついたのはレオナとヒュンケルぐらいのものだろう。 実際、今のダイはそれどころではなかった。 それが分かるだけに、ポップが心配で心配でたまらない気持ちと、忘れられてしまった不安がごちゃまぜになってダイを襲う。 結果、何を言っていいのかも分からないまま固まっているダイを、庇うように優しく押し退けたのはレオナだった。 「気がついた? 気分は、どうかしら?」 「え……あ、ああ。気分は悪くないよ、うん」 戸惑い顔ながらも、ポップは自力で起き上がり、落ち着きなく周りを見回す。 「あんた達が、おれを助けてくれた……のか?」 「ええ、そうよ。一応、怪我は手当てしたけれど、どこか痛むところとかは、ある?」 「……いいや、別に」 「それは、良かったわ。――ねえ、ところで、あたしが誰だか、分かる?」 ポップはまじまじとレオナの顔を見つめたものの、その表情に変化はなかった。 「……? えっと? どこかで、会った……っけ?」 ポップのその返事に、一番ショックを受けたような顔をしたのは、ダイの方だった。 だが、程度の差はあれ、ショックを受けたのはその場にいる全員と言っていいだろう。今のポップの言葉は、ポップの記憶喪失が一時的な混乱ではなく、決定的な事実だと証明したのも同然なのだから。 ただ一人、レオナの表情は落ち着いたものだったが、他の者はともかく彼女を幼い頃から見続けてきたバダックや、三賢者には分かる。 王女として、内心はどうであれ表面上は常に平静を装うことを義務づけられてきたレオナが、無理に平気なふりをしているだけだと。 「ここがどこかは、分かる?」 それは、本来のポップなら即座に答えられる質問だ。 「いや……悪いけど、覚えがないんだ。そのさ、変な話なんだけど、おれ……全然、前のこと、思い出せないんだよ。今までどこにいたのかとか、何をやっていたのか、とか。 ポップのその質問にレオナが少しばかりたじろいだのは、ダイの記憶喪失を味わった経験があるからだろう。 それが良い兆しなのか、それともかえって問題のもとなのか判断がつかないが、少なくとも表面上は、レオナは落ち着き払った態度を崩さなかった。 「ええ、あたし達は、あなたの仲間よ。今まで、ずっと一緒にいたの。……なにか、思い出せることはない? たとえば、自分の名前とか」 その質問に、ポップは少しためらってから、返事をした。 「おれの名前は、……ポップ……だろ?」 「思い出したのっ!?」 一瞬、喜びかけたダイだが、その歓喜は他ならぬポップ自身の言葉によって塗り替えられた。 「そうじゃないよ。さっきっからおまえが、何度もおれのことを『ポップ』って呼びかけていただろ? だから、それがおれの名前なんじゃないかなーって、思ったんだ」 「…………」 思い出したわけではない。 しかし――手が、ぽんと頭の上に乗せられた。 びっくりしたダイが顔を上げると、じっとこっちを覗き込んでいるポップと、目が合った。 「まだ、返事、聞いてないよな?」 「え?」 ポップが何を言い出したのか分からなくて、ダイはきょとんとする。 「おれ、聞いたじゃないか。『おまえは誰だ』って」 そう言われて、ダイはやっと、ポップが気を失う直前に言った一言を思い出す。さっき聞いた時は、絶望のどん底に突き落とされたような気がした、言葉――。 「教えてくれよ。それに、そんなシケた面してられたんじゃ、礼も言えないじゃないか。助けられた有り難みだって、半減しちまうぜ」 記憶もないのに、いかにもポップらしい憎まれ口には変わりがないせいか。 ――内容的には同じことを聞かれたはずなのに、今は全く違う意味合いに聞こえた。 「おれ……っ、おれ、ダイだよ。ダイって言うんだ」 勢い込んで答えるダイに少し苦笑する風を見せながらも、ポップは大きく頷いた。 「そっか。ダイ、助けてくれてありがとうな。それに、他の人達も……」 もう一度ゆっくりと周囲を見回したポップは、再び、ダイに問いかける。 「あのよ……さっき、ごっつい斧を持ったリザードマンと、しゃべる大ネズミがいたろ? あいつらは、どこにいるんだ?」 「あれっ? そう言えば、いなくなってる……?」 キョロキョロと不思議そうに首を傾げるダイは、今、始めてそれに気づいたらしい。 「じゃ、どこにいるか、教えてくれよ。さっきはいきなりだったから、ついビビッちまったけどさー、あいつらもおれを助けてくれたんだろ? 礼ぐらい、言っときたいじゃないか」 ごく当たり前のようにそう言うポップの言葉に、誰よりも安堵したのは恐らくはレオナとヒュンケルだろう。 二人だけは、事情を悟っていた。 だからこそ、クロコダインは目覚めたポップをこれ以上混乱させないように場を外したのだ。 そして、記憶を失ったとはいえ、ポップがポップらしさを失っていないことも、嬉しい驚きだった。 ダイとポップの今のやり取りのおかげで、不安と困惑で意気消沈していた一行の空気が、ガラリと変わった。 「じゃあ、おれ、捜してくるよ! ちょっと待っててね、ポップ!」 見違えるほど元気になったダイの顔には、数日ぶりに満面の笑みが浮かんでいた――。
「これは一応、お返しする。まあ、半分ぐらいは勇者一行にやられていたから、回収できなかったがな」 「へへっ、それはどうも……。わざわざ、ご苦労じゃったのう」 へりくだっているようで、上の立場からの礼を言うザボエラに、ヒムはムッとしたような表情を見せる。 なにしろ、この食えないにも程がある老魔道士は、責任逃れは妙に長けている。 それどころか、ポップの脱走に気がついたのに手を打とうとしなかったヒムを責め、都合よくも責任転嫁を図るというなりふりの構わなさだった。 「それでは、ワシはこれにて失礼させて頂きます、ヒッヒッヒ……」 挨拶して退出するザボエラに対して、誰も見送る言葉をかけない辺りに、周囲の彼へ対する評価が伺える。 その合間、玩具の様に軽く放り投げては受け止める仕草を繰り返しながら、ザボエラは手にしているサタンパピーの処分を考えていた。 そもそも、最初から使い捨てる予定の怪物だった。半数でも戻ってきたのは、正直計算外だ。 だが、ザボエラはそれをありがたいとさえ思わない。 攻撃本能を極限まで高めたため、進行途中にいる生き物には攻撃を仕掛けるが、死の大地の海岸へ向かう様にとかけた暗示が、二度役に立つことはないだろう。 ならば、ゴミも同然の怪物などに情けを掛ける気など、ザボエラにはなかった。 (さて……あの腕輪をいつ使えば、一番効果的かのう?) ほくそ笑むザボエラを見ている者は、誰一人としていなかった――。 《続く》 |