『失われたもの 14』 |
空と地平線の境目がうっすらと白みかかったばかりの、まだ、夜が明けきる前。 元々寝起きのいいダイは、夜明けと同時に自然に目が覚める性質だが、今日は尚更だった。 ハドラーとの決闘の日。 それまで眠っていた……と言うよりは、目を閉じて身体を休めていただけ、と言った方が当たっているだろう。 そろそろ戦う準備をする時間かと思ったなら、自然に目覚める。ダイにとっては眠りとは、大抵はそんなものだった。今までは意識したことがなかったが、これが竜の騎士の血なのかと最近になってから思う。 怪物もほとんどがダイと同じで、熟睡しなくても短時間うつらうつらと眠るだけで回復する。 どうやら人間は、ゆっくりと眠らないと疲れはとれないものらしい。おまけに、眠りの深さをコントロールするのは難しいようだ。 ポップに言わせると、朝、早く起きなきゃと思うとかえってなかなか眠れなくなるものだそうだ。 まあ、ダイの知っている人間の中で、ポップが一番睡眠時間が長くて寝坊しがちなのは確かだが、それでもマァムや他の人達もダイよりはポップの方に近かった。 多分、自分の方が基準からズレているのだろう。 (レオナやマァム、ちゃんと眠れたかな?) ひょっとすると、眠らないで起きているのかもしれない――そう思うと、悪いとは思う。しかし、ダイは今回の決闘を譲る気がなかった。 ハドラーの真意は、ダイには分からない。 だが、ハドラーのこの挑戦から逃げるのは許されないと、心の奥で強く思う。 今こそ戦うべき時だと、身体の奥で血が騒ぐ。 ベランダに通じる窓を開けても、まだ日は昇ってはこない。 レオナが安全なようにポップを牢屋に匿ってくれると約束してくれたし、ゴメちゃんもついているはずだ。 だったらきっと大丈夫だと、ダイは自分に言い聞かせる。 (ポップ……眠っていてくれればいいんだけど) デルムリン島を旅だった時のことを、思い出す。 あの日――アバンを失った日、壊れた眼鏡を前にして、ポップは号泣した。 だが、あんな泣き声は、聞いたことがなかった。 というよりも、聞こえてすらいなかったのだろう。 だけど、そんな風に泣いている間は、まだましだった。 魂が抜けてしまったよう――その言葉は、大袈裟でも比喩でもなかった。 もともと、ブラスの家は小さな、こぢんまりとしたものだった。 自分達が家で寝泊まりすれば、ダイやブラスの寝場所に影響を及ぼすと分かっていたから、そうしなかっただけだ。 しかし、あの時のポップはそれさえ気にする余裕はなかったのだろう。 あの夜、ポップがいつ頃眠りに落ちることができたのか、ダイは知らない。あの時も、結局ダイはポップを起こすのが怖くて、様子を確かめられなかったのだから。 だが――あの日のことは、きっと一生忘れられないだろう。 自分の大切な友達や仲間達が、おかしくなるだけではすまされないのだ。 それがダイにとって大切だと思う人……例えば、次はレオナかもしれないと思うと、とてもじっとしてはいられなかった。 その思いがあったからこそ、ダイは旅立ちを決意した。たった一人で行くのは少しばかり心細いとは思ったけれど、ようやくあの悲しみから解放されたポップの眠りを妨げたいとは思わなかったから。 『ふ……ふざけんじゃねえぞ! おれを置いていこうなんて……!!』 怒りながらも一生懸命走って、ダイを追ってきてくれたポップ。 それから、ずっと一緒だった。 どんな時でも、ポップは隣にいてくれるとダイは無意識のうちに信じていた。 それが覆されたのは、あの日……ポップが、ミストバーン達に攫われてしまった日のことだった。 (ポップ……) もちろん、記憶を失ってもポップはポップだ。 あまり考えたくない予想だが、もし、ポップがこのまま記憶が戻らないままだとしても――ダイは、それでもポップが生きていてくれたことを嬉しく思うし、それだけで充分だと思う。 しかし、それだけで満足している思いとは裏腹に、不意にわがままな思いが込み上げてくる。 (ポップなのに……ポップじゃないみたいに思うなんて、さ) 楽しい時は、もちろん一緒にいてくれる。ちょっと落ち込んだ気持ちを掬い上げてくれる、お調子ものに見せかけた明るさも、以前のポップと少しの変わりもない。 だが――戦いの時、一緒にいてくれたポップだけがいない。 それが時々ひどく寂しくて、半身がもがれたように頼りない気さえする。 立会人というのがどんなものなのかダイには分からなかったが、一番信頼できる人を一人だけ選べと言われたなら、真っ先に浮かぶのはポップだ。 もし、記憶を失う前のポップなら、ダイから頼むまでもなく同行を申し出てきただろう。 だが、怖がりながらもポップは引き下がったりしない。弱音を強がりで巧く包み込み、震える足を隠して踏ん張って、ダイの隣に立ち続けていてくれる。 今のポップは、以前の自分のことすら知らないのだから。 もし、ポップに万一のことがあったら――そう思うだけで、心臓を冷たい手で押し潰されたように苦しくなる。 思い出すのは、地面に投げ出されたままピクリとも動かなかったポップの姿――。 と、ちょうどその時、扉が開く音が聞こえた。 それに、この時間に自分を尋ねてくる相手に心当たりがあった。 全員で協議した結果、立会人はヒュンケルに決まった。もし、決闘が罠であった場合を考えれば、戦闘力が高い相棒を連れて行った方がいいに決まっている。 「ヒュンケル? ずいぶん早いね、まだ時間があるからゆっくり眠っていてよかったのに」 声をかけると同時に、部屋の中に明かりが広がったので、ダイは眩さに一瞬目を閉じた。 おそらく、侵入者が手持ちのランプを部屋の中に入れたのだろうが、暗がりに慣れたダイの目には太陽のように眩しく見える。 「え……?」 ランプを手にした人影は、ヒュンケルにしては小柄すぎた。 「ポップ!?」 気づくと同時に、ダイは思わず叫んでいた。 「よっ、ダイ、おはよーさん。そろそろ、決闘に行くんだろ? おれも、一緒に行くぜ」 「な、なんで……っ」 驚くダイの目の前で、ポップは悪戯っぽく笑った。 「へへっ、ヒュンケルをだまくらかして牢屋に閉じ込めて、交替してもらってきた」 「だっ、だまくらかすって……!?」 動揺のあまり思わずどもったダイに、ポップは気楽にぱたぱたと手を振って見せる。 「あ、へーきへーき、手荒な真似とかしてないから。悪いけど、あいつにゃしばらく地下牢にいてもらうさ」 (いや、そんな心配はしてないけど……っ) と、言いかけた文句をダイは飲み込んだ。 彼がその気になれば、生半可な牢屋をぶち壊してでも外に出てくるだろう。それをしないということは――やれない状況に追い込まれたか、でなければ最初からやる気がないか、どちらかだ。 (なんでっ!? なんでだよっ、ヒュンケルッ) とっさに浮かんだのは、この場にはいないヒュンケルへの怒りも似た不満だった。 「だ、だめだよ、ポップ!」 「だから、手荒な真似なんかしてないって。おれって、もしかして信用ない?」 「そんなこと言ってるんじゃないってば! ポップが一緒にくるなんて、危ないって言ってるんだよっ!」 ともすれば迸りそうになる気持ちを抑えながら、ダイはあまり得意とは言えない言葉という分野を駆使して説得しようとする。 「危ないって何がだよ?」 「当たり前だろ! ポップ、まだ腕輪はまったままだし、魔法だって使えないのに……っ!」 「そんなの、知っているって。だけどよ、立会人ってのは別に決闘に参加するわけでもないし、ただボーッと突っ立って見ているだけなんだろ?」 「え……。そ、それはそうかもしれないけど」 厳密に言えば、違う気がする。 「なら、別にあのヒュンケルって奴じゃなくて、おれでもいいじゃないか。見物人に、危ないもなにもないし」 (あぁああああっ、なんか違う気がするのに言い返せないっ。ってか、ポップ、ずるいやっ、記憶ないのに言葉はいっぱいしゃべれるなんて!) いっそ頭を抱えたい気分で、ダイは小さく呻く。 ポップのわがままさも、ダイは嫌いではない。だが――今だけは、譲るわけにはいかなかった。 「ほら、問題ないだろ。分かったら、さっさと出発しようぜ」 ポップが差し延べてくる手を前にして、ダイの心に一瞬とは言え、嬉しさが込み上げる。 自分の心の誘惑を振り切ろうと、ダイは一際強い口調で、叫んでいた。 「だめだよ! ……ポップは覚えてないと思うけど、ポップ、前に一度、死んじゃったんだ!」 「……!?」 さすがに、ポップが息を飲むのが見えた。 「戦いの中で、おれを守ろうと無茶して……っ! あんなのはもう二度と……嫌だっ。だから、だから……おれは……っ」 込み上げる思いが、喉を塞ぐ。 無造作で、撫でるというよりもかき混ぜるような乱暴な仕草なのに――そのくせ、泣きたくなるぐらい優しい手が。 「ああ、そんなのは思い出せないな。思い出せねえけど……一つだけ、はっきり分かることがあるんだ」 よほど強い確信があるのか、自信たっぷりのポップの声がまだ暗い部屋に静かに響き渡る。 「ここでもし逃げ出したら、おれは……後で絶対に後悔する。それだけは、確かなんだ」
戸惑うような、驚いたような顔をしたダイが顔を上げたのを見て、ポップは少しばかり安堵する。 さっきまでは、ダイはポップの言葉など聞こうともしなかった。 ここが正念場なのだと、ポップは自覚していた。 「思い出せないのは、嫌なんだ。 ポップの言葉を、ダイは大きく目を見開いたまま聞いていた。即座に反論してこないのは、その言葉に同意する気持ちがあるからだろう。 「けど、今のポップは……」 不安そうに口ごもるダイの目が、ポップの腕輪に落とされる。 「分かっている。この腕輪のことは、さ」 マトリフは腕輪の効力以外は詳しくは説明しなかったが、ポップには予想がついていた。 記憶はなくても、ザボエラに対して感じた第一印象や認識は、そう外れてはいまい。 自分にとって都合のいいタイミング……つまり、勇者一行には不利に働くタイミングでポップを利用するつもりなのだろうと、容易に予想ができる。 「分かっているけど……この腕輪が怪物を呼ぶんなら、どこにいたって危険な上に回りに迷惑をかけるのは一緒なんだ」 マトリフの説明を聞いたレオナが、ポップを守るためとはいえわざわざ牢屋を選んだ理由も、ポップには見えている。 ザボエラが腕輪を通して周囲を監視しているのだとすれば、ポップが得る情報は少なければ少ない程よい。 牢屋に閉じ込められたとはいえ、ポップはレオナのその聡明さと優しさに感心こそすれ、恨みや不満など無かった。 (……優しすぎるぜ。いっそ、放り出してくれても、よかったのによ) 記憶を一切合切失った上に、いまやただの役立たずになってしまった仲間を、ここまで守ろうとしてくれる配慮には、心から感謝している。 だが――あいにくと、ポップはそれにあまんじる気はなかった。 自分が、失ってしまったもの。 逃げ隠れしたままでは、絶対に取り戻せないもの――ポップが失ったものは、きっとそんなものだったと思えたから。 だが、そこまで分かっていたのに今まで動けないでいたのは……多分、勇気が足りなかったからだ。 みんなに、迷惑をかけるのが怖かった。 だからこそ地下牢におとなしく閉じ込められたものの、自分で納得して従ったわけでは無いだけに、迷いは消えてはくれなかった。 「それに――おれ、ヒュンケルから聞いたんだ。どーせ、おれって前から弱かったんだろ?」 「違うよ、ポップは弱くなんかなかったよ!」 ムキになって否定するダイに、ポップは思わず苦笑していた。 「いいって。弱いって聞いて、かえって気が楽になったんだしさ」 今のポップには、前の自分がひどく大きな壁に思えていた。 しかし、あの口下手そうな、だが誠実な印象を与えてくれた銀の髪の戦士が保証してくれた。 以前と今の最大の違いは、魔法が使えるかどうかなどではない。 「だって、そうだろ? 元から弱かったんじゃ、おれがついていったって、ついていかなかったって、あんまり変わらねえじゃねえか」 記憶がない。 そんな言い訳ばかりに縋って、本心を裏切って逃げ隠れなどしたくはない。 思ったままに行動してみようと、やっと決心がついたのだ。 「分からないのかよ? おれは、おまえを選んで迷惑をかけるつもりだって言ってんだよ」 ポップよりもずっと背の低い、小さな勇者。 勇者と呼ばれるに相応しい力や勇気、行動力を持っている――だが、それでもダイは、やっぱりまだ子供だとポップは思う。 自分とたいして年も違わない、元気が良くて底抜けに人のいい少年。 ダイが危険な場所に行こうとしているのに、それを黙って見送るなんて我慢できない。 それがダイにとって迷惑なことだろうと遠慮できないし、そのせいで自分の身に危険が及ぼうとも構わない。 「置いていこうったって、置いていかせたりなんかしねえからなっ!」 無茶にもほどのある理屈だと、分かっている。 「………………ポップ。おまえって、ほんっとにわがままだなぁ」 年下の子供からのその言われ方に、不満がないわけではなかった。が、ダイが浮かべたちょっと困ったような笑顔と、あっさり告げられた言葉が、些細な不満などを吹っ飛ばす。 「……うん、わかった。いいよ」 「え? マジで、いいのかよ? んな、無茶でわがままな話……っ」 自分で言い出したことながら、こんな虫の良い上に一方的な話を、こんなにすんなりと受け入れられるとは思わなくて、今度はポップの方がきょとんとする番だ。 「だって、ポップって前からわがままだし」 さらりと聞き捨てならない言葉に、突っ込みをいれなかったのは……ダイがどことなく嬉しそうな顔をしていたせいだった。 「そりゃ危険だから、今のポップには安全なところにいて欲しいとは思うけど……。 受け入れられたのは有り難いが、そこまで手放しに喜ばれると、なんだか面映ゆいというか、申し訳ないような気がする。 「あ〜……なんか、期待されてるみたいなとこ悪いけど、おれ、魔法も使えないし、おまえに迷惑をかけるって点では、変わらないと思うぜ」 「そんなの、関係ないよ! ポップが魔法力を使い果たしてヘロヘロになった時だって、ポップがおれを置き去りにして一人で逃げちゃった時だって、おれ、一緒にいられて嬉しかったし、ずっと頼りにしてたんだよ!」 力一杯そう力説するダイだが――その本気さは認めるにしても、全くフォローにはなっていないが。 「…………うわぁ。おれ、そんなこともしてたのかよ? なんか、そーゆー話を聞くと記憶を取り戻したくなくなってきたぜ〜」 そりゃ、弱い上に無茶だと言われるわけだ――と、すとんとポップは納得してしまう。 色々と突っ込みどころ満載だし、問題もアリアリな気がするが、だが、もう空が白じんで来たのを見て、ポップは気を取り直した。 「行こうぜ」 どちらからともなく伸ばされた手は、全く同じタイミングだった。 パァンと響く、小気味のよい音。 《続く》 |