『失われたもの 16』

 
 

「これは……いったい、どういうことなの、ヒュンケル?」

 わずかに息を切らしながら、レオナはきつい口調で問う。
 夜明け頃、ダイの部屋に行ったらすでに彼の姿はなかった。
 開けっ放しの窓でカーテンがはためいているだけの無人の部屋を見て、一行が少しばかり不安になったのも無理はない。

 確かに、ダイはハドラーと決闘に行くはずだったが、出かける前にレオナ達が見送るはずだった。
 その約束を反故にされ、レオナは怒るよりも先に困惑を隠せなかった。

 素直なダイは、他人の好意をやすやすと無視して、勝手な行動を取るような少年ではない。
 それに立会人のはずのヒュンケルが、誰にも何も言わないまま、いなくなったのも不審だった。

 単に、無言のまま一足先に決闘の場に向かったのか、何か予想外のアクシデントがあったのか……事情が分からないまま一行が戸惑う中、レオナの反応は早かった。

 咄嗟に、彼女はとある場所へと向かった。
 走り込んだ地下牢で彼女が見たものは、無意識に助けを求めていた魔法使いではなく、本来ならここにいるはずもない戦士だった。

 当惑と不安の表情を隠せないレオナを前にして、ヒュンケルは落ち着き払った口調で言った。

「見ての通りです、姫」

 確かに、状況は一目瞭然だ。
 ポップのためにと、居心地が良くなるようにと最大限気遣い、手配したはずの地下牢。そこにいたはずのポップの姿はなく……代わりに、ヒュンケルが鎮座していた。

 座り心地のいいはずの椅子に座らないで床に直接座っているのは、すやすやと寝息を立てているゴメちゃんに譲ったからなのか、それとも本来の自分の居場所ではないと遠慮しているからなのか。

 いずれにせよ、律義にもきちんと姿勢を正し、訪れる誰かを待ち構えていたらしい戦士は、スッと檻の外側を指差した。

 彼が指差す先にあったのは、銀色に光る小さな鍵。
 レオナがポップに渡したはずの、地下牢の鍵だった。廊下に転がっている鍵は、檻の中からは手が届かない、だが、目立つ場所に落ちていた。

「ポップに、まんまとしてやられました」

 ヒュンケルにしては珍しく、他者から見てもはっきりと分かる微笑が浮かぶ。

「仮病に騙されて油断した隙に、逆に閉じ込められました」

 悪びれた様子もなくしゃあしゃあとそう言ってのけるヒュンケルに、レオナは柳眉を逆立てる。

「……ふざけないで。なんで止めてくれなかったの!?」

 怒りにも似た感情が、レオナの中に込み上げてくる。
 以前、自分がまんまと騙されてしまったのとは違い、ヒュンケルなら弟弟子の嘘や強がりなど見抜けたはずだ。

 加えて、ポップの無謀な行動を止めることだって、ヒュンケルにはできたはず……それをあえてせず、見逃した彼に対して不満を感じずにはいられなかった。
 だが、ヒュンケルは表情一つ変えはしなかった。

「ポップ自身が、ダイと一緒に行きたいと言いましたので」

 憎らしいほど落ち着いた声で、ヒュンケルは淡々と語る。

「オレは……マトリフ師の話を聞いてから、ずっと考えていました。ポップ自身が記憶を封じたというのなら、ポップがしかけた『鍵』とはなんだろう、と」

「それは……」

 レオナ自身も抱いていた疑問だっただけに、言葉に詰まる。
 自己防衛能力というものは、想像以上に強いものだ。それだけに、無意識に自分で自分にかけた封印ならば、普通は本人の身に危機が迫れば解ける。

 だが、ポップがそう設定したとは、レオナにさえとても思えなかった。
 だいたい、ポップは魔王軍に掴まっていた段階ですでに危険の真っ直中にいたのだ。その条件では、記憶を消したところで即座に復活してしまう。

 今までの様子から見ても、仲間達との再会や、安全な場所への帰還……それが鍵とも思えなかった。

「その答えを知っているのは、ポップしかいない。――ならば、ポップのしたいようにやらせるのが、鍵を取り戻させる一番の早道だと考えました」

「それは……っ、そうかもしれないけど……」

 彼の言い分は、理に適っている。理に適ってはいるが――無茶としか言いようがない。
 それは自分でも判ってはいても、容認できない解決策だった。

 実の所、レオナにその考えが浮かばなかったわけではない。むしろ、普段のレオナならばとっくの昔にその結論に達しただろう。

 しかし、バランとの戦いで味わった悲劇の記憶が、レオナをためらわせていた。
 ダイの記憶を取り戻すために何一つできず、ポップの死を止められなかったどころか、蘇生呪文に失敗した自分――。

 二度、同じ過ちを繰り返すかもしれない恐れが、レオナの本来の聡明さを曇らせている。

 魔法も使えず、呪いの腕輪という制限を受けたポップに自由行動を許して、もし、何かがあったら……そう考えるのも、恐ろしかった。
 そんなレオナの迷いに背を押してくれたのは、澄んだ少女の声だった。

「レオナ。……信じましょうよ」

 いつの間に追いついてきたのか、マァムがすぐ後ろにいた。武闘家に転職したばかりの少女は、僧侶戦士の頃と全く変わりのない優しさでレオナに微笑みかける。

「私は……正直言って、今回、どうしていいのか分からなかったの。こんな時に、何もできない自分が悔しかったわ。今まで何度も、ダイやポップに助けられたのにね……」

 マァムの鳶色の目が、憂いに染まる。
 それを見て、レオナは自分の考えの浅さを思い知った。
 ダイとポップとマァム――この三人は、冒険の初めから行動していた仲間なだけに、強い絆がある。

 ポップが全ての記憶を失ったせいで、マァムが負った心の傷は、レオナが考えていた以上に深かったのだろう。

 自分の無力さを嘆く気持ちも、ためらいや不安も少なくはなかったに違いない。
 だが、今までそれをおくびにもださなかった少女は、決然と頭を上げた。

「でも、ダイとポップが揃っていれば、きっとなんとかなるって――私には信じられる」

 吹っ切ったような強さを感じさせる、きっぱりとした口調。いかにもマァムらしい言葉は、不安に惑うレオナの胸を打った。

「マァム……」

 この心優しい少女は、記憶を失ったポップに対して常に優しくはあったが、あまり近づかなかった。

 ポップのマァムへの片思いを知っているレオナから見れば、彼女にはもっと積極的にポップに話してほしいと思った。
 マァムの存在がポップの記憶の琴線を揺さぶる可能性は、大いにあると思っていたから。

 しかし、彼女は周囲がやきもきするほどポップとは距離を置き、見守る立場にとどまっていた。

 その行動の根底にあるのは、ダイとポップへの信頼だったのだと、レオナは今になってからようやく気がついた。
 そして、それはヒュンケルも同じなのだろう。

(こういうところがやはりアバンの使徒、というわけなのかしら……)

 一抹の寂しさを感じないでもなかったが、レオナは軽く目を閉じ、深々と息を吐きだした。今までの澱を吐きだすように、深く、ゆっくりと。

 深呼吸と同時に、堂々巡りしていた思考を一度リセットし、自分の気持ちや考えを冷静に見つめ直す。
 鍵を手にしたまま、安全な場所に籠もっているなど、ポップらしくもない――そう思っていたのは、レオナも一緒だ。

 それに、ポップが自主的に動きだすことを内心期待していたのは、自分も同じだったのだと、レオナは思う。

 ポップを閉じ込めておきながら、同時に地下牢の鍵を与えたのは、他ならぬ自分だったのだから――。
 気持ちに整理をつけると、レオナは静かに目を開けた。

「……ありがとう、マァム。おかげで目が覚めたわ。そうね、あたしもそうするわ。ダイ君とポップ君を、信じる」

 南の小島で出会った小さな勇者と、いつの間にか彼の隣にいた魔法使い。
 二人を信じようと、強く思う。
 祈りににも似た想いで、レオナは遠く離れた決闘の地にいるはずの二人に、思いを馳せた――。








「フッ……やはり、ダイが立会人に選んだのはおまえか、ポップ」

 ハドラーの視線を浴びて、ポップは体が震えだすのを抑えきれなかった。
 これほどの強力な魔族を相手に、記憶の有無を問うなど、笑止だ。
 見るだけでも、彼の恐ろしさは伝わってくる。ただ佇んでいるだけなのに、空気がひりつくほどのプレッシャーを感じてしまう。

 本音を言えば、今すぐにでも逃げ出したい。
 だが、ポップはありったけの勇気を振り絞って、ハドラーを睨み返した。

「お、おれだと悪いってのかよ!?」

 明らかに強がりと分かる虚勢に対して、ハドラーはわずかに笑った風に見えた。だが、それが侮蔑には見えなかったのは、意外にもハドラーが返答したからだ。

「いや、別に不満はない。オレの立会人は、ここにいるアルビナスだ」

「私はハドラー親衛隊の女王、アルビナス……よろしく、お見知りおきを」

 貴婦人の優雅さで挨拶を述べてから、鋼の女王は切れ長の目をポップへと向ける。

「もっとも、あなたには初めましてというのは不適切でしょうね。覚えてはいらっしゃらないかもしれませんが、自己紹介をするのはこれで二度目ですから……」

 思わせぶりな言葉と、意味ありげな視線が、ポップを落ち着かない気分に追い込む。

(くそっ、こいつらもかよ……っ!?)

 敵だと言うのに、彼らは『ポップ』を知っている。
 記憶を失う前の自分を、意識させるような言葉。

 思い出せるものなら思い出してみろと、挑発するかのような言動のようにさえ思えて、ポップの神経を苛立たせる。
 そして、神経を尖らせているのはポップだけではなかった。

「ハドラー! おまえは、立会人は決闘には関わらないって言ったはずだな!? おまえと、戦うのはおれだ!」

 強い口調で言いながら、ダイは一歩前に進みでる。ポップにではなく、自分に意識を集中させるかのように。

「無論だ。受け取れ、ダイ」

 ハドラーが投げつけた一振りの剣は、狙い違わずダイの目前の砂に突き刺さった。
 それは、紛れもなくダイの剣。

「……おい」

 ポップが警戒した声で短く言ったのに対して、ダイは小さく頷いて見せた。
 触れるまでもなく、ダイには分かる。
 こちらから要求するまでもなくハドラーが渡してきた剣が、偽物ではなく本物だと。

 勇者ダイのためだけに作られた世界で一本っきりの剣は、ダイの魂と呼応している。その真贋を見極めるなど、ダイにとっては容易かった。

「そっか……」

 返すポップの声に、わずかに落胆の響きが混じる。
 今のところ、ハドラーの言葉にも行動にも嘘はない。近くに怪物を潜ませているなど、罠の要素もない。
 つまりは、ハドラーの決闘をやめさせる口実がない、ということだ。

「約束は果たした。この決闘……受けてもらうぞ!」

 叫ぶなり、ハドラーがマントを脱ぎ捨てると――驚異の肉体が露わになった。

 その身体は、猛々しかった。
 はち切れんばかりの筋肉の盛り上がる身体を、硬質化した皮膚が鎧のごとく包んでいる。

 強さを追及した先にあると思えるその身体は、不思議なほどに美しくもあった。研ぎ澄まされた武器だけが持てる、実用的な殺傷能力が生み出す造形美、とでも言うべきか。

 魔王というよりも、魔神と呼んだ方が正しいと思えるほど、『強さ』をその身体で体現した戦士。
 それを見たダイの表情が、引き締まる。

「まさか……っ、超魔生物に、なったのか!?」

「な、なんだよ、それ……っ!?」

 ダイの言葉は、ポップにとっては初耳だった。だが、それが良い方向の意味には聞こえなかった。

「察しがいいな、ダイ。そう、その通りだ……オレのこの身体は、超魔生物――全てを捨てて、その代償に手に入れた物だ! おまえも、その覚悟でかかってくるがいい……!」

 ハドラーの肯定も、ポップの不安を掻き立てるばかりだ。
 ダイとハドラーのやりとりから、詳しい事情までもは分からなくても、推測はできる。

 今のハドラーが、ダイの予想していた以上に強い存在になった――その解釈で間違いはないだろう。

(この決闘って、思っていたよりもヤバいんじゃ……)

 不安に、ポップはダイをもう一度止めてみようかと思う。
 姑息な考えかもしれないが、ダイの剣は取り戻したのだ、このまま退却する方がいいのではないかと思えてならない。

 だが、ポップは止めるまでもなく、ダイは行動を開始していた。
 ダイが剣を手にした途端、宝玉が輝く。
 鞘から剣を抜き放つと、銀色の光が目を射る。

「ポップは、離れていてくれ! おれ……全力で戦うから」

 そう言いながら、ダイはポップの返事を待たずに歩きだす。咄嗟に追いかけかけたポップだが、それを止めたのはダイの声だった。

「大丈夫だよ、ポップ。おれ、絶対に負けないから……!」

「…………!?」

 背中越しにかけられたダイの言葉に、ポップは激しく動揺する。
 はっきり言って、追うのを止めたのはその言葉のせいだった。
 しかし、ポップにはその言葉でなぜ、こんなにも落ち着かない気分になるのか、分からなかった。

 ハドラーに集中しきっているダイはもちろん、記憶も失ったポップも気がつかなかったが、その言葉は二人にとっては特別な意味がある言葉だった。

(なんだ? どこかで、聞いたような……)

 本来なら、自分を安心させてくれるはずの言葉が、とてつもない不安を呼び起こす。

 先を見通せないぼんやりとした闇の中に、何か、不吉なものがうっすらと揺らめいているのを見るような不安感が強まる。
 ダイの小さな背中を見つめながら、なぜか違和感が拭えなかった。

(……おれが見ていた背中って、あんなに小さかったっけ?)

 違う、という感覚が拭えない。
 ダイの隣にいた時は、あれほどしっくりと馴染んだというのに。無意識にダイの頭を撫でて、それが違うとなんて思ったことなんて一度もなかった。

 むしろ、前にもこんなことをしていたような気がして、安堵感を抱いてさえいた。
 だが、ダイの背中を見るのは……違う気がする。

(違う……!!)

 靄が朝の光に消えていくように、薄れていた記憶がほんの少し見えてくる。
 確かに、背中を見ていた記憶はある。
 誰かの背中を、必死に追いかけた……そんな気がする。
 だが、その相手はダイではない。

(そうだ……もっと、大きかった……)

 見上げていた、背中だった。
 いつも、自分を守るように、すぐ目の前にあった背中だったような気がする。その後ろにいさえすれば世界で一番安全だと、無意識に信じていた。

 ――大丈夫、私は絶対に負けませんから……――

 フッと、優しい声と、それに負けず劣らずに優しい笑顔が脳裏に一瞬だけ浮かんで、消えた。

(今のは……!?)

 思い出そうとすればするほど、輪郭がぼやけて消えてしまう面影。
 それを追いかけたいと思ったが、アルビナスの怜悧な声がポップを現実に引き戻す。

「見なくて、よろしいのですか? 始まりますよ」

 ハッとすると、いつの間にかポップのすぐ隣にいるのは鋼の女王だった。思わず身構えるポップだが、アルビナスは彼に目さえを向けずにハドラーのみを見つめていた。

「余分な心配など、ご無用です。私はただの立会人……あなたに害をなす気もなければ、その命令も受けていません」

 いっそ清々しいとさえ言える冷淡さで、アルビナスはポップに対して全面無視を決め込んでいる。
 彼女が見つめているのは、ただ一人だけだった。

「私に許されたのは、あの方の戦いを見届けることだけですから――」

 アルビナスの視線の先には、距離を置いて対峙するダイとハドラーの姿があった。
 その瞬間、またも既視感(デジャ・ビュー)がポップの脳裏を過ぎる。
 抜けるような青い空が、南国特有の緑の光景が、ポップの記憶を揺さぶった。

 それを背景に、戦う勇者と魔王――初めてみるはずなのに、初めてとは思えない。息苦しいまでの不安感が、どうしても消えてくれない。

(なんで……だよっ!? おれ、ダイを信じようって決めたのに……っ)

 アルビナスはハドラーを見つめるように、ポップもまだダイを見つめていた。

 不安でいっぱいいっぱいになっているポップは、自分自身の身に起きている異変に気づかなかった。
 左手にはめられたままの腕輪が、今までにない光を放ち始めたのを――。

 平穏時なら感じ取れたに違いない、腕のかすかな痛みすら意識していなかった。ただ、ダイだけに意識を集中しきっていた。
 精一杯の闘気を高め、揺るぎのない目で魔王と相対している小さな勇者に。

 その拳が奇妙な光を放っているのを、ポップは見た。ダイの右手に浮かぶ、小さな紋章――だが、そこから膨れ上がっていくエネルギーは莫大だった。

 本来、剣は得意ではないと分かりきっている自分にでさえ感じ取れる、圧倒的なエネルギー。
 ハドラーから感じた化け物じみた気迫と匹敵する……いや、もしかするとそれ以上かもしれない力が、ダイの小さな身体から溢れだしているのを感じる。

(……ダイ……!?)

 思わず喉からでそうになった呼び掛けを、ポップは危うく堪えた。
 その判断は、正しかった。

 丁度、ポップが呼び掛けそうになった瞬間、ダイもハドラーも同時に動きだしたのだから。砂が爆発するような勢いで散ったのは、駆け出した二人の蹴り足がもたらしたものだ。

 期せずして砂が煙幕となり、周囲の視界を奪うが本人達には関係がなかった。

 一瞬で距離を詰めた二人は、違いに凄まじい気迫を撒き散らしながらぶつかりあう。
 激突の瞬間、重い金属音が南の孤島に響き渡った――!! 



                                                      《続く》
 
 

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