『優先順位 4』 |
まるで部屋を染めていく様に、甘い香りを放つ煙が広がっていく。 この部屋にいるポップ以外の誰もが、平然としているところを見ると、おそらくは魔法力を持つ者に対してのみ効力を発揮するのだろう。 身体だってどんどん自由が利かなくなってしまっている。 (じょっ、冗談じゃねえっ) 完全に自由が利かなくなる前にとにかく香炉を叩き落とそうと、ポップは気力を振り絞って手を伸ばす。 いつのまにここまで近付いていたのか、私兵がポップのすぐ後ろにいた。ポップの腕を直接押さえているのは一人だけだが、数名の私兵が油断なく身構えながらポップの周囲を取り囲んでいる。 「離せよっ!」 腕を振りほどこうとしても、私兵は丁寧に力を調節しつつもがっちりとポップの手首を掴み、放す気配すらない。ただ、ポップの抵抗に少しばかり動揺した表情を見せ、答えを伺う様に主君の方に目を向けた。 「驚きましたな。まだ、動けるとは。さすがは大魔道士様と言うべきですか。 私兵達にあらかじめ命令を下したに違いない貴族の男は、身動き一つしないまま平然とポップを見つめていた。 「まったく、残念ですよ。大魔道士様がこちらの話を素直に聞き入れてくださったのなら、こんな香炉など片付けさせるつもりだったのですが、……致し方がありませんな。おい!」 最後の部分だけ、ポップにではなく後方に向かって言うと、私兵達は戸惑いながらも主人の意向に従った。 座り直したせいで確かに姿勢は楽になったが、片手づつ抑えられては動けないという点では倒れているのとまったく変わりはない。 「やめろっ! ……うっ……」 声にさえなりきっていない制止の声や、ろくに動けない身体での抵抗など、何の役にも立つはずがない。 さっきまでのように、かすかに漂うなんてレベルではない。香炉からはっきりと煙が立ち上ぼるのが見えるくらい、盛大に香が焚かれている。 「……う…」 しばらく経ってから私兵達はそっとポップから手を放したものの、その時にはもう、動こうにもまったく動けなくなっていた。 「できるなら、こんな手荒な真似はしたくはなかったのですがね。大魔道士様がお考え直してくださらないとあれば、無力な我々としては自分の身を守るために強硬手段を取るしかありませんからな」 どこまでも自分が正義であり、被害者に近い立場の者だと主張しながら、こんな暴挙を平気で行う――その矛盾には腹が立ったし、言い返したいことは山ほどあった。 だが、誰に迷惑をかけた覚えもないし、許されないことをしているとも思えない。 ――もう、少しだった。 本当に、もう一息で目的は果たされるところだったのだ。 (ダイ……!) 求めてやまない親友の名を、ポップは声にださないまま、呼ぶ。 あれほど無条件に人間を信じ、全てを投げうってでも人間を助けようとしてくれたダイが、今のこの状況を見たらどんなに心を痛めることか。 ポップの正体を知った上で、わざわざ魔法を封じる手段を用意してまで誘拐を企んだこの男が、この先を考えていないはずがない。 思えば、クロコダインが昨夜この館の存在に気がつかなかったという点を、もっと重視すべきだった。 最初から、ポップがいつかあの遺跡の場所を来ると知った上で罠を張っていた……その可能性も考慮しておくべきだったのだ。 「今の話の他にも、あなたには色々とお聞きしたいこともあるのですよ。……かの黒の核晶のことなども、詳しくね」 ごく一部の人間しか知らないはずの爆弾の名を口にされ、ポップは誇張抜きに凍りつくく思いを味わった。 黒の核晶を求めて、自分を狙う人間が現れる可能性。 「この別荘は、あなたのためにご用意した場所です。意気投合していただけたのなら、この客間で最上のお持て成しをする予定でしたが、どうやらそれは叶わないようですね。 どこまでも慇懃な態度を取りつつも、貴族の男の手は乱暴にポップの髪を掴んで、力任せにソファから引きずり落とした。 「…う……っ」 しかし、身体に加えられた痛み以上の苦痛が、ポップを打ちのめす。 無論、屈する気など今でもない。 ポップが狙っているチャンスは、年に一度しか使えない。 そのことが、これから自分に降り懸かるだろう災難以上に、ポップにとっては恐怖だった。 (……ダイ……すまねえ……) ここまでなのかと絶望しかけたポップの目の前で、鮮やかに翻ったのは巨大な刃だった。
それは、あまりにも突然の出来事だった。 その鎌を持つ手だけは見えているのに、本体は裂け目の奥に隠れていて見えない。 「え、ええいっ、何をしておるっ?! あの化け物を倒せっ!」 主人の命令を受けた私兵が一斉に攻撃に転じるが、巨大な鎌の動きは信じられないぐらいに素早かった。
「……に……げ…ろ……」 必死で呼び掛けようとした声も、彼らには届かない。ゆえに、彼らが真実に気がついたのは手遅れになってからだった。 「う……うわぁああっ?!」 「あああああーーっ!!」 貴族や私兵達が武器を取り落とし、悲鳴を上げながら倒れ伏すまで、ものの数分とは掛からなかった。 だが、ポップにだけは分かっていた。 派手に動いていた分、私兵達には効果絶大だった様で、彼らは一人、一人と倒れていく。残ったのは、最初から床に倒れ、動けなかったポップと、戦おうとすらしなかった貴族だけだった。 呆然とする貴族の目の前で、奇妙な裂け目が広がっていく。鎌と手だけではなくそれを操っていた腕が、身体が、ぬうっと現れた。 「な、なんだっ、貴様はっ?! 大魔道士の配下のものか?!」 唾を飛ばしながらもその詰問に、暗黒の道化師――キルバーンは悠然と笑う。 「残念、大外れだね、全然違うよ。ボクはその魔法使いクンの味方なんかじゃない……ま、どっちかというと、敵かなあ?」 ふざけたような口調でそういったかと思うと、キルバーンは手にした大鎌を大きく振りかざした。 「そんなことより、身に余る火遊びはやめておいた方がいいよ。第一、アレは人間ごときに扱える玩具じゃないしね」 その言葉と同時に、無造作に大鎌が振り下ろされる。 「ひぃ……っ?!」 ぐらりと傾いた身体が、ゆっくりと崩れ落ち、ポップと同じように床に倒れる。 もっとも、香のせいで首すらろくに動かせない有様では、それほど意味はないが。 「やあ、いい格好だね、魔法使いのボウヤ……! やれやれ、せっかくさっき忠告してあげたのに、油断しすぎじゃないのかい?」 嘲笑うキルバーンを、ポップは無言のまま睨み返す。 蹴られるままにゴロンと身体の向きが変えられ、仰向けにひっくり返ることになってしまう。 「おやっ、やけにおとなしいと思ったら、この香炉のせいか。ま、それはそれで好都合だけど、その減らず口が聞けないのはつまんないね」 そう言いながら、キルバーンは香炉の蓋に手を伸ばし、煙の量が減るように調節する。が、完全に煙を消さない上に、またポップの近くに置き直す辺りが悪辣だ。 「……なに、しにきやがった……っ?!」 「あらら、相変わらず可愛げのないことで。せっかく、絶体絶命のピンチを助けてあげたのにさ」 「ふざけんな……っ。てめーに、助けられるぐらいなら、……こいつらに、掴まったままの方がましだったよ……!」 本心から、ポップはきっぱりと言い返す。 さっきまで以上の身の危険を感じこそすれ、助けられた安堵感など微塵も沸くはずもない。その上、もう一つ別な不安が増えてしまった。 「おい……っ、こいつらを、殺したのかよ?!」 少なくとも、ポップから見える範囲では私兵や貴族は怪我を負わされた様には見えない。だが、相手が相手なだけに、もしかしたらという不安は消せない。だからこそ聞いた質問に対して帰ってきたのは、失笑だった。 「おやおや、自分を捉えようとした相手を心配するだなんて、本当にキミは甘いね」 ギラリと光る刃が、身動きのできないポップの喉元に迫る。 「それよりも、キミはもっと心配しなきゃならないことがあるんじゃないのかな……?」
「――命乞いは、しなくていいのかい?」 弾む様な声音には、朗らかと言っていい響きがあった。 「勇者クンに会う前に、死にたくはないだろう? 嘲笑う声と共に、仮面の奥から酷薄な光をたたえた目が瞬いた――。 |