『優先順位 4』

  
 

 まるで部屋を染めていく様に、甘い香りを放つ煙が広がっていく。
 煙と共に漂う豊潤な匂い――決して悪い匂いではないが、ポップの想像が当たっているのならこの匂いは厄介としか言い様がない。

 この部屋にいるポップ以外の誰もが、平然としているところを見ると、おそらくは魔法力を持つ者に対してのみ効力を発揮するのだろう。
 すでに魔法が使えなくなっている事実に、ポップは気がついてしまった。

 身体だってどんどん自由が利かなくなってしまっている。
 致死性のものではなさそうだが、魔法を封じられてしまうこと自体が魔法使いにとっては致命的だ。

(じょっ、冗談じゃねえっ)

 完全に自由が利かなくなる前にとにかく香炉を叩き落とそうと、ポップは気力を振り絞って手を伸ばす。
 必死になって伸ばした手がやっと香炉に触れた時、手首をがっちりと掴まれた。

 いつのまにここまで近付いていたのか、私兵がポップのすぐ後ろにいた。ポップの腕を直接押さえているのは一人だけだが、数名の私兵が油断なく身構えながらポップの周囲を取り囲んでいる。

「離せよっ!」

 腕を振りほどこうとしても、私兵は丁寧に力を調節しつつもがっちりとポップの手首を掴み、放す気配すらない。ただ、ポップの抵抗に少しばかり動揺した表情を見せ、答えを伺う様に主君の方に目を向けた。

「驚きましたな。まだ、動けるとは。さすがは大魔道士様と言うべきですか。
 この香炉の匂いを嗅げば、並の魔法使いならば五分と持たずに意識すらもなくなると聞いたのですが」

 私兵達にあらかじめ命令を下したに違いない貴族の男は、身動き一つしないまま平然とポップを見つめていた。

「まったく、残念ですよ。大魔道士様がこちらの話を素直に聞き入れてくださったのなら、こんな香炉など片付けさせるつもりだったのですが、……致し方がありませんな。おい!」
 

 最後の部分だけ、ポップにではなく後方に向かって言うと、私兵達は戸惑いながらも主人の意向に従った。
 別の人間がポップの身体を起こし、ソファに座り直させるようにする。だが、それは親切とはいいがたいだろう。

 座り直したせいで確かに姿勢は楽になったが、片手づつ抑えられては動けないという点では倒れているのとまったく変わりはない。
 乱暴こそはされてはいないが、動きを抵抗を封じられたという点では、今の方が厄介だ。その上、私兵達は香炉の蓋を完全に開け、香の焚き具合を強めた。

「やめろっ! ……うっ……」

 声にさえなりきっていない制止の声や、ろくに動けない身体での抵抗など、何の役にも立つはずがない。
 ましてや、香炉の位置を前よりも近付けられたのだからひとたまりもない。

 さっきまでのように、かすかに漂うなんてレベルではない。香炉からはっきりと煙が立ち上ぼるのが見えるくらい、盛大に香が焚かれている。
 そのせいで、抵抗する声すら奪われていく。

「……う…」

 しばらく経ってから私兵達はそっとポップから手を放したものの、その時にはもう、動こうにもまったく動けなくなっていた。

「できるなら、こんな手荒な真似はしたくはなかったのですがね。大魔道士様がお考え直してくださらないとあれば、無力な我々としては自分の身を守るために強硬手段を取るしかありませんからな」

 どこまでも自分が正義であり、被害者に近い立場の者だと主張しながら、こんな暴挙を平気で行う――その矛盾には腹が立ったし、言い返したいことは山ほどあった。
 自分はただ、やりたいことをやろうとしたまでだ。確かに、厳密な意味では法に反しているかもしれないし、正義とも言えないかもしれない。

 だが、誰に迷惑をかけた覚えもないし、許されないことをしているとも思えない。
 なのに一方的な思惑ゆえに自分を阻む男に対して、怒りを感じずにはいられない。
 だが、貴族の男に対する怒り以上に、ポップの胸を締めつけるのはどうしようもない無力感だった。

 ――もう、少しだった。
 1年半もかけて、やっとのことで今日までに辿り着いた。仲間達に心配をかけながら、魔王軍との戦いの時の縁に縋って各国を留学してまで果たしたかった目的に、もう少しで手が届くところまで辿り着いた。

 本当に、もう一息で目的は果たされるところだったのだ。
 なのにその寸前でこんな風に道が閉ざされるなど、思いもしなかった。しかも、その相手が人間だというのが、なお、無念に拍車を掛ける。

(ダイ……!)

 求めてやまない親友の名を、ポップは声にださないまま、呼ぶ。
 騙し討ちにも等しいこの卑怯なやり方を、もしもダイが知ったらどう思うかと、胸が切り裂かれるような気がした。

 あれほど無条件に人間を信じ、全てを投げうってでも人間を助けようとしてくれたダイが、今のこの状況を見たらどんなに心を痛めることか。
 歯がみをしたい様な悔しさの後、一歩遅れてこの先への恐怖が込み上げてくる。

 ポップの正体を知った上で、わざわざ魔法を封じる手段を用意してまで誘拐を企んだこの男が、この先を考えていないはずがない。
 ただ、ポップの行動が気に入らないからという理由だけで、ここまで大掛かりな真似をするとは思えない。

 思えば、クロコダインが昨夜この館の存在に気がつかなかったという点を、もっと重視すべきだった。

 最初から、ポップがいつかあの遺跡の場所を来ると知った上で罠を張っていた……その可能性も考慮しておくべきだったのだ。
 心底当たって欲しくないと戦慄した予感は、最悪の形で当たった。

「今の話の他にも、あなたには色々とお聞きしたいこともあるのですよ。……かの黒の核晶のことなども、詳しくね」

 ごく一部の人間しか知らないはずの爆弾の名を口にされ、ポップは誇張抜きに凍りつくく思いを味わった。

 黒の核晶を求めて、自分を狙う人間が現れる可能性。
 こんな未来が待ち受けていることを、予想していなかったわけではない。だが、予想したくはなかっただけだ。

「この別荘は、あなたのためにご用意した場所です。意気投合していただけたのなら、この客間で最上のお持て成しをする予定でしたが、どうやらそれは叶わないようですね。
 ですが、ご心配なく。頑迷なあなたの気も変わる様な、特別の趣向を凝らした持て成しや特製の部屋も用意してございますよ。
 まずは、そちらにご案内しましょうか」

 どこまでも慇懃な態度を取りつつも、貴族の男の手は乱暴にポップの髪を掴んで、力任せにソファから引きずり落とした。
 床の上に落とされた痛みと、頭皮に感じた痛みに、ポップは呻く。

「…う……っ」

 しかし、身体に加えられた痛み以上の苦痛が、ポップを打ちのめす。
 覚悟は決めていたはずなのに、裏切られたかのような絶望感が強く込み上げてくる。いざそんな時が来たなら、どんな拷問や脅しを受けようとも決して屈するものかと思っていたはずなのに、現実は想像以上に過酷だった。

 無論、屈する気など今でもない。
 しかし拷問とかそれ以前に、本当にそんな人間が現れたという事実こそが、心を折る。なによりダイまでもう一歩の所までこれた距離が、無になろうとしていることが辛かった。

 ポップが狙っているチャンスは、年に一度しか使えない。
 今、ここで邪魔が入るということは、ダイを助けるまでにまた一年、時間がかかってしまうという事実に等しい。

 そのことが、これから自分に降り懸かるだろう災難以上に、ポップにとっては恐怖だった。
 たった一人で、魔界にいるはずの親友を想うと、胸が潰れてしまいそうだった。

(……ダイ……すまねえ……)

 ここまでなのかと絶望しかけたポップの目の前で、鮮やかに翻ったのは巨大な刃だった。


「なっ、なんだっ?!」

 それは、あまりにも突然の出来事だった。
 亀裂が入る様に空間に裂け目が入り、巨大な鎌が部屋の中に忽然と現れて、クルリクルリと回転する。

 その鎌を持つ手だけは見えているのに、本体は裂け目の奥に隠れていて見えない。
 目を疑う様な異様な光景に誰もが怖じ気づいたが、貴族が声の限りに命を下した。

「え、ええいっ、何をしておるっ?! あの化け物を倒せっ!」

 主人の命令を受けた私兵が一斉に攻撃に転じるが、巨大な鎌の動きは信じられないぐらいに素早かった。
 遊びの様に揺らめき、回転しているだけの様に見えて、的確に私兵の攻撃を躱していく。


 その動きにムキになって追いかける私兵達は、鎌の奏でているかすかな笛の音に気づいていなかった。
 鎌が空を切る度に、自然に奏でられる微妙な音階――その恐ろしさに気がついていたのは、皮肉にも身動き一つできないポップだけだった。

「……に……げ…ろ……」

 必死で呼び掛けようとした声も、彼らには届かない。ゆえに、彼らが真実に気がついたのは手遅れになってからだった。

「う……うわぁああっ?!」

「あああああーーっ!!」

 貴族や私兵達が武器を取り落とし、悲鳴を上げながら倒れ伏すまで、ものの数分とは掛からなかった。
 彼ら本人は、何が起こったのか分からなかっただろう。

 だが、ポップにだけは分かっていた。
 人間の耳に聞こえるか聞こえないかの音を発し、それにより聞く者の五感を狂わせる――死神の鎌に隠された特殊効果の一つだ。

 派手に動いていた分、私兵達には効果絶大だった様で、彼らは一人、一人と倒れていく。残ったのは、最初から床に倒れ、動けなかったポップと、戦おうとすらしなかった貴族だけだった。

 呆然とする貴族の目の前で、奇妙な裂け目が広がっていく。鎌と手だけではなくそれを操っていた腕が、身体が、ぬうっと現れた。
 仮面をつけた漆黒の道化師が、完全に姿を見せるまでそうは時間はかからなかった。

「な、なんだっ、貴様はっ?! 大魔道士の配下のものか?!」

 唾を飛ばしながらもその詰問に、暗黒の道化師――キルバーンは悠然と笑う。

「残念、大外れだね、全然違うよ。ボクはその魔法使いクンの味方なんかじゃない……ま、どっちかというと、敵かなあ?」

 ふざけたような口調でそういったかと思うと、キルバーンは手にした大鎌を大きく振りかざした。

「そんなことより、身に余る火遊びはやめておいた方がいいよ。第一、アレは人間ごときに扱える玩具じゃないしね」

 その言葉と同時に、無造作に大鎌が振り下ろされる。
 その勢いのせいで、ポップのところにまで一陣の風が届く。それから一歩遅れて、貴族の男のくぐもった悲鳴が聞こえていた。

「ひぃ……っ?!」

 ぐらりと傾いた身体が、ゆっくりと崩れ落ち、ポップと同じように床に倒れる。
 ポップの視界をほぼ塞いでいた貴族の男という障害物がいなくなったせいで、やっと周囲の様子が見える様になった。

 もっとも、香のせいで首すらろくに動かせない有様では、それほど意味はないが。
 それに、様子を伺うまでもなく、キルバーンの方からポップの方へと近付いてくる。
 無様に床に横倒しになったまま、何一つできずにそれを見ているしかないのは、恐怖を通り越した恐ろしさがあった。

「やあ、いい格好だね、魔法使いのボウヤ……! やれやれ、せっかくさっき忠告してあげたのに、油断しすぎじゃないのかい?」

 嘲笑うキルバーンを、ポップは無言のまま睨み返す。
 そんなポップを面白そうに見下ろすキルバーンは、確かめる様に軽くポップを蹴る。別に痛みを感じるほど強くそうされたわけではないが、まったく抵抗できない今のポップではそれに抗することさえできなかった。

 蹴られるままにゴロンと身体の向きが変えられ、仰向けにひっくり返ることになってしまう。
 無理やりソファから引きずり落とされた不自然な姿勢よりはずっと楽とはいえ、真上からキルバーンに覗きこまれるように見下ろされるのはどうにも落ち着かない。

「おやっ、やけにおとなしいと思ったら、この香炉のせいか。ま、それはそれで好都合だけど、その減らず口が聞けないのはつまんないね」

 そう言いながら、キルバーンは香炉の蓋に手を伸ばし、煙の量が減るように調節する。が、完全に煙を消さない上に、またポップの近くに置き直す辺りが悪辣だ。
 それでも立ち込める香の匂いが薄らいだおかげで、ポップはなんとか口を開くことができた。

「……なに、しにきやがった……っ?!」

「あらら、相変わらず可愛げのないことで。せっかく、絶体絶命のピンチを助けてあげたのにさ」

「ふざけんな……っ。てめーに、助けられるぐらいなら、……こいつらに、掴まったままの方がましだったよ……!」

 本心から、ポップはきっぱりと言い返す。
 今の状況では、とても助かったなどと思えない。
 さっきまでが蜘蛛の巣にかかった様なものだとしたら、今はもっと大きな蜘蛛の八本足に直接掴まったのも同然だ。

 さっきまで以上の身の危険を感じこそすれ、助けられた安堵感など微塵も沸くはずもない。その上、もう一つ別な不安が増えてしまった。

「おい……っ、こいつらを、殺したのかよ?!」

 少なくとも、ポップから見える範囲では私兵や貴族は怪我を負わされた様には見えない。だが、相手が相手なだけに、もしかしたらという不安は消せない。だからこそ聞いた質問に対して帰ってきたのは、失笑だった。

「おやおや、自分を捉えようとした相手を心配するだなんて、本当にキミは甘いね」

 ギラリと光る刃が、身動きのできないポップの喉元に迫る。

「それよりも、キミはもっと心配しなきゃならないことがあるんじゃないのかな……?」


 歌う様に言いながら、刃は絶妙の力加減でポップの喉にくいこんだ。ちょうど、これ以上力を入れれば血が噴き出るというギリギリの具合で喉を圧迫する刃が、ポップの細首に当てられる。
 その重みと、喉に感じる鋭い刃の感触に、ポップは意識せずに息を飲んでいた。

「――命乞いは、しなくていいのかい?」

 弾む様な声音には、朗らかと言っていい響きがあった。

「勇者クンに会う前に、死にたくはないだろう?
 ボクだって鬼じゃないんだよ?
 キミとは長い付き合いなんだし、涙ながらにすがりつかれれば、気が変わるかもしれないのにね」

 嘲笑う声と共に、仮面の奥から酷薄な光をたたえた目が瞬いた――。
                                    《続く》
 
 

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