『死なれちゃ後味悪いんだよ』

  
 

 その男を見て、彼が何を考えているか分かる者はいなかっただろう。だが、誰もが思わず目を止めるだけの魅力が彼にはあった。
 賑やかな市場の片隅で、物憂げな顔をして佇んでいる美青年。

 まるで彫刻の様に整った顔立ちや、服の上からでも逞しさのうかがえる引き締まった体付き。
 特に、女性達の視線は釘付けにしていると言っていい。溜め息混じりに彼を見つめ、声をかけようかどうしようか迷う娘達の数は一人や二人ではない。

 しかし、人生の苦悩を一心の背負ったかのような深刻な表情で物思いに耽る彼に、せめて邪魔をしない様にと、未練ありげに遠慮して引き下がるのが常だった。
 まあ、外見はともかくとして、彼は内心はひどく当惑していたし、困ってもいた。だが、彼の悩みは周囲の期待や予測とは大幅に違っていた。

 見た目はどうであれ、今の彼は迷子の心境と大差がなかった。
 なぜなら、とうとうポップに撒かれてしまったのだから――。

 

 


 それは、ちょっとした油断のせいだった。
 ヒュンケルはこれまで、ポップの後ろをきっちり5メートル離れて後を追ってきた。これまでは、その距離で十分だった。

 なぜならポップが進んでいたのは、今まではずっと街道や荒野など、人のいない場所だった。
 そのせいで多少離れていたところでポップを見失う心配はなかったし、護衛をするのにも問題はなかった。

 だが、今回、ポップは初めて町へ入った。
 それが村か、でなければ小さな規模の町だったなら、なんの問題もなかっただろう。
 だが、市場の立っている町はやけに賑やかで、人が大勢集まっていた。正直言って、あまり人込みに慣れていないヒュンケルにとっては、歩くだけでも大変だ。

 しかも、人込みの中では標準よりも小柄なポップはものの見事に人波に紛れ込んでしまう。
 さらにポップは、ヒュンケルがもたついてるのを見て取ると、これ幸いと人込みに紛れこんでそのまま消えてしまった。

(まいったな……ついに、してやられたか)

 元々、ポップはヒュンケルが後をついてくることを、ひどく嫌がっていた。こうやって置き去りにされたとしても、仕方がないとは思う。
 だが、だからと言ってこのままポップをすんなりと諦め、本人の望む様に自由に旅に出させてやるつもりなど毛頭無かった。

 ポップを必ず探しだして、後を追う。
 それはヒュンケルの中では、確定事項だ。少なくとも、自分が生きている限りはそうするつもりだ。

(こうしていても、見つからないか)

 じっとしていても仕方がないだろうと、ヒュンケルは取りあえず動きだす。
 だが、一向に当てはなかった。

 ポップはヒュンケルと話すのさえ嫌がっているし、無口なヒュンケルは自分から積極的にポップに話しかけることもない。その結果、ヒュンケルはポップの行く先さえ聞いていない。

 ダイを探しているという目的は知っているものの、そのためにポップが具体的にどこに向かっているのかも分からないままだ。
 方角的に西に向かっているのは承知しているが、それもあまり当てにはできないと思っている。

 西に向かうふりをしてヒュンケルを撒くつもりがなかったとは、言い切れないのだから。 つまりは手掛かり皆無に等しいのだが、それでもヒュンケルはポップを探そうと歩きだす。

 人の波に目を凝らし、ポップを探してうろつくこと数時間……そろそろ日も沈み掛けた頃になってから、見慣れた色合いの人影が視界をかすめた。

「ポップ!」

 思わずその腕を掴んで引き戻してから、ヒュンケルは間違いに気がついた。
 掴んだ腕は、やけに細い。
 ポップも腕は細い方だが、さすがにここまで華奢ではない。

 掴んだ腕は、明らかに少女のものだった。
 黒髪で、緑色の服を着ていて、髪に黄色の布を巻いている――その条件が揃っていたからてっきりポップだと思い込んでしまったが、よく見れば別人だった。

 確かに年頃もポップと同じぐらいだろう。
 黒髪を襟足でごく短く断ち切っているから後ろから見れば少年と見えたが、顔を見てはっきりと少女と分かった。
 黄色の布も、ポップのバンダナの様に無造作に結んではいない。

 正面から見れば、鮮やかな黄色のリボンを凝った形に結び、端を長く垂らしているのが分かる。着ている服だって、地味で古い型ではあるがワンピースだった。

「……すまない。連れと間違えた」

 謝罪し、手を離すと、少女は苦笑するように首を左右に振った。

「いいの。こんなみっともない髪なんですもの、男の子と間違えられるのなんて、もう慣れちゃったわ」

 いささか自嘲気味な台詞だが、それが重く聞こえないのは彼女の口調がいかにも明るく、人懐っこい笑みを浮かべているからだろうか。
 どことなくポップに似ているせいか、ヒュンケルはその少女に親しみを感じる。そのせいだろうか――珍しく、ヒュンケルの方から声を掛ける気になったのは。

「いや、髪というよりも、ちょうど君と同じぐらいの背格好の少年で、服装も似ているんだ。ポップという名なんだが、どこかで見掛けなかっただろうか?」

 たいして返事を期待していたわけではない質問。それだけに、戻ってきた返事には驚いた。

「ポップ? 勇者一行の魔法使い様と同じ名前ね」

「知っているのか?」

 意外さに、ヒュンケルは僅かに目を見開く。
 勇者ダイの名は、すでに有名だ。だが、実際に詳しい情報を知っている者は少ない。

「もちろんよ! わたしは、前にパプニカにいたんだもの。勇者様と魔法使い様を、お見掛けしたこともあるのよ」

 少し自慢げにそう言った少女は――不意に黙り込んだ。

「……?」

 じっと自分を見つめる少女に、ヒュンケルはふと疑問を感じた。単に、見つめるなんてレベルではない。まさに凝視するといった強さで、彼女はじっとヒュンケルを見返していた。

 正直、ヒュンケルは他者から奇異の視線を向けられることには慣れている。魔王軍にいた頃は人間と蔑まれ、人間の味方になった後も元魔王軍の者だと複雑な視線を向けられるのは日常だったのだから。
 それだけに、その視線に嫌な予感を覚える。

 少女は信じられないとばかりに、何度もヒュンケルを見返し、瞬きを繰り返す。
 笑顔だったその表情が見る見るうちに強張り、文字通り血の気が引いて震えだす。あまりの変化の急激さに、ヒュンケルは少女が倒れるのではないかと助け手を差し延べようとした。

 が、少女はその手を嫌って、大きく身を引いた。

「いてっ?!」

「おいっ、危ねえぞ!」

 あまりに少女の後退りが大きかったせいか、後ろにいた人達にぶつかってしまったが、彼女は気にさえ止めなかった。

「ねえ、あなた、大丈夫? 真っ青よ、何かあったの?」

 親切な女性が声を掛けるのも、物見高い連中が足を止めて自分達に注目するのにも、少女が気がついてもいなかった。
 ただヒュンケルだけを見つめ、やっとのように掠れた声を漏らす。

「……わたしがパプニカで見たのは……勇者様達だけじゃないわ。怪物達を指揮していた、鎧姿の戦士も見た……!」

 ハッと息を飲んだヒュンケルを見て、少女は確信を持ったようだった。
 震える身体とは裏腹に、語気が強まる。それと同時に、その目に強い光が満ちる。

「兜を外したところを、見たわ……!
 魔王軍の軍団長の顔を、わたしは見たの! 炎に照り返された銀髪の……戦士を――」


 折しも、時は夕刻。
 ヒュンケルの銀髪は、夕日のせいで赤に染まって見えていた。まるで、炎に照らしだされたかのように――。

「え……っ?! ま、魔王軍……っ?!」

「う、うそだろう?!」

 少女の口から飛び出した衝撃な言葉に、その場にいた人の多くが足を止めた。
 カール王国もまた、魔王軍に多大な被害を受けた国だ。一度は滅びかけただけに、戦いの傷跡は色濃く残っている。

 軍団長の名や強さに対する恐怖は、身に染みている。なにしろこの国はかつて、たった一人の軍団長によって滅ぼされかけたのだから。
 ヒュンケルと少女を中心に、ざわめきがどんどん広がっていく。
 その中で、少女は震えながらも、それでも確認をとろうとした。

「あなた…なん……でしょう? あなたが……パプニカを襲ったのね?!」

 その糾弾を、否定することはそう難しくはなかった。
 少女自身が確証もない様子だったし、パプニカから遠く離れたこの地では、立証はまず不可能だろう。

 素知らぬ顔でしらばっくれれば、それ以上を追及はできまい。
 そうした方が利口だとは、分かっていた。
 だが、ヒュンケルは事実を事実として、受け止めた。

「――そうだ。
 オレは、魔王軍不死騎団長ヒュンケル。かつては、魔王軍の一員だった」

 忘れることのできない昔の肩書きを名乗ると、周囲のどよめきは一層大きくなる。それはたやすく大きなうねりへと変わり、不穏な雰囲気が巻き起こる。
 一触即発の張り詰めた空気  その糸を切ったのは、少女の甲高い叫び声だった。

「……人殺しっ!! 父さんを返して! 母さんを、返してよ!」

 それがきっかけだった。
 平和を取り戻したようには見えても、人々の心には魔王軍への恐怖と憎しみが燻り続けている。

 一吹き息を吹き掛けるだけで燃え上がる熾き火のように、人々の怒りは簡単に燃え上がった。
 人は、大勢集まることで協力し合うこともできる。が  大勢集まることで、暴走しやすくもなってしまう。

「人殺しっ! この裏切り者めっ!」

「魔王の手先など、死ねばいいんだわっ!」

 集団ヒステリーに飲み込まれた人々の口からこぼれる言葉は、激しい飛礫となってヒュンケルを打つ。
 それが実際の石飛礫や暴力に変わるまで、そう時間は掛からなかった。

 気がつくと、ヒュンケルは武器を持った人々に取り囲まれ、リンチまがいの暴力を受けていた。

 もし、ヒュンケルが望めば、彼らを一瞬で切り捨てるなどたやすかっただろう。いくら戦士としては再起不能と言われたとはいえ、数百匹の怪物相手に取り囲まれても勝ち残ったほどの男だ。
 武器を持つのも不慣れな一般人が十数名ほどいたところで、なんの障害にもなるまい。


 実際、ヒュンケルは十数名の敵対する人々を前にして、ごく当たり前の様に彼らを効率よく倒す方法を頭に思い浮かべていた。
 まず、真っ先に倒すべきは、リーダー格になり得る大柄な男だ。

 集団戦闘において、リーダーを真っ先に潰すのは戦いの定石だ。たとえ、それが群れとは言いがたい烏合の衆であったとしても、一番強いと思しき者を徹底して叩くことで、勢いや団結を殺ぐことができる。

 殺傷能力の高い鍬を手にしている彼を真っ先に切り捨て、返す刀ですぐ隣にいる若い男を切ればいい――そう考えてしまってから、ヒュンケルはすぐにその考えを恥じた。
 覚悟なら、とうにしていた。
 いつか、こんな日が来ることがあるかもしれないとは思っていた。

 パプニカ王女であるレオナが許し、道を指し示してくれたことに心から感謝しつつも、ヒュンケルには自分の罪が完全に拭われたなどとは思えなかった。
 いつか、自分を糾弾する者が現れたのなら、その時は抗うまい――そう、ヒュンケルは思い定めていた。

 そうされてもおかしくないだけの罪を、今まで犯してきたのだ。ならば犠牲となった者の憤りや怒りを素直に受け止めるのが、唯一の贖罪だろうと。
 それで死ぬのなら、やむを得まい。

 持っていた剣を投げ捨てたが、その音が周囲の人間の耳に届いていたかどうか。少なくとも、その音はヒュンケルの耳には聞こえなかった。
 ヒュンケル自身を打ちのめす、肉を打つ音に紛れてしまったから。

 鈍痛に連続して襲われる時間が、どのぐらい続いたのかヒュンケルは自覚していなかった。
 意識が薄れる感覚を、ごく当たり前のように無感動に受け入れる。

 ただ、自分がいなくなったのなら……あの魔法使いの少年を見守る者はいなくなる。それだけが、唯一、気掛かりだ。

 今のヒュンケルは単にポップの様子を見ているだけであり、彼を助けることも、止めることもできていない。
 ポップにとっては、自分は何の役にも立っていないどころか迷惑な存在だという自覚もある。

 だが、それでも自分を見つめる目があることで、いくらかでも歯止めにはなるだろうと思った。
 一人になったポップが、無茶な旅をするのではないかというのが、唯一の心残りだった――。

 

 


 ……闇が、優しくヒュンケルを包む。まどろむように緩やかに、死が忍び寄ってくるのを感じていた。
 今まで、何度となく死線を乗り越え、実際に死にかけたことも何度もあるヒュンケルだが、こんなに穏やかな気分のまま死に近付くのは初めてだった。

 このまま静かに、闇に身を溶かしていくのも悪くないと思った。
 だが――閃光が、ヒュンケルを包む。
 闇に慣れた身にはあまりにも眩い、輝かしい光。

 自分とはかけ離れた強さと輝きを持つ光に、目が眩みそうだった。光は闇をたやすく打ち消し、世界は明るさで満たされる。

「ふざけるな! とっとと戻ってこい!」

 強い叫びが、耳を貫く。
 その声に導かれるように、ヒュンケルはゆっくりと目を覚ました――。

「……?」

 最初に目に映ったのは、ポップだった。
 それも思いがけないぐらい近くから、自分を真上から覗き込んでいる。
 ポップの背後にぽっかりと浮かんで見える月が、すでに時間は夜だと教えてくれた。ほとんど満月に近い月は、思いがけないくらい明るく周囲を照らしている。

 怒ったように自分を睨みつける、ポップの表情までもが良く見えた。
 それがなければ、夢かと思ってしまっただろう。
 ポップが自主的に、手を伸ばせば触れられるような位置まで近寄ってくるのは、もしかして初めてなのではないだろうかと考えた後で、ヒュンケルは気がついた。

 ポップの両手は、実際にヒュンケルに触れている。
 横たわったヒュンケルのすぐ隣に座り込み、胸に両手を当てて魔法をかけていた。
 その柔らかい光には、見覚えがある。回復魔法の光だ。

「な…ぜ……だ?」

 それは、二重の意味での驚きだった。
 ポップはヒュンケルから逃げようとしていた。それなら、放っておけばそれでよかったはずだ。

 死ねば、ヒュンケルは二度とポップの邪魔などできない。
 その方がポップにとっては都合がいいと思えるだけに、なぜ彼が自分を助けたのか……本気で不思議だった。

「死なれちゃ、後味が悪いんだよ……っ!」

 悪態をつく口調とは裏腹に、ポップの両手から注がれる光はひどく暖かく、柔らかなものだった。
 その心地好さに思わず身を委ねたくなったが――ヒュンケルはハッとしてポップの腕を掴んで引きはがす。

「痛っ、何しやがる?!」

 咄嗟のことで力を込め過ぎてしまったのかポップが痛がるが、ヒュンケルはその手を緩めなかった。

「それはこっちのセリフだ! 魔法を使うなと言われたのを、忘れたのか?!」

 実際に死にかけた時よりも、背筋が冷える。
 旅立つ前、アバンがポップにかけた忠告をヒュンケルは一言一句足りとも忘れてはいない。

 ポップが魔法を使わないように、見張ることこそが自分にできる唯一のことだと思っていた。
 それなのに自分のためなどに魔法を使わせてしまったという焦りから、つい手に込める力も、語気も荒くなってしまう。

「いてっ、いてえって、離せよっ!」

 騒ぎ立てるその声よりも、やっとポップの手から淡い魔法の光が消えたのを見てから、ヒュンケルは力を緩めた。
 その途端、ポップは素早く腕を引っ込めてしまう。

「痛えじゃねえか、この馬鹿力っ! ちったぁ手加減しろよっ」

 いかにも痛そうに手首の辺りを擦るポップを見て、悪かったと思う気持ちはもちろんあった。
 だが、口からついて出たのは、気になって仕方がないことの方だった。

「それより、身体は平気なのか?」

「平気だよ! 攻撃魔法と違って、回復魔法なら反動もたいしてねえんだっつーの!」

 怒りに満ちて言い返してくるポップを、信じていいものかどうか、ヒュンケルはしばし迷う。
 ポップは、あまり素直とは言えない。
 意地っ張りな性格のせいか、強がりを言って無理をすることは珍しくもない。

「だからといって、なぜこんな真似を……っ」

 仮にも助けてくれた相手に対して随分な言い様だという自覚は、ヒュンケルにもあった。だが、そんな理性よりも感情の方が先走る。

 よりによって、自分を助けるために無茶をしたポップに対して、感謝よりも憤りの感情の方が強く込み上げてくる。
 だが、その怒りに水を差したのは、固く強張った少女の声だった。

「……私が頼んだからよ」

「……?!」

 今までポップに気をとられて過ぎていて気がつかなかったが、少し離れた所に佇んでいるのは、紛れもなくあの少女だった。
 目が合うと、彼女はゆっくりと近付いてくる。

「わたしは……あなたを、許していないわ」

 その言葉が嘘ではないと、一目で分かった。
 固く強張った表情でヒュンケルを睨みつける少女は、明らかに彼を許してはいないのだろう。

 彼女は、小刻みに震えていた。
 だが、その理由が寒さのせいとはとても思えない。
 燃え立つような瞳の中には、明確な憎悪の色が浮かんでいた。

「魔王軍のせいで、父さんは死んだわ……! 父さんはね、兵士だったの……っ! 王国を守るためなんだっていって、国境警備の任務に旅立っていった。
 それから、半月もしないで町が襲われたわ」

 堰を切ったようにまくし立て出した少女を、ヒュンケルもポップも止めなかった。
 正確に言うのなら、ポップが何か口を開こうとしたのを、ヒュンケルは敢えて止めた。 ポップならば少女をなだめることができるかもしれないと思ったからこそ、そうさせたくはなかった。

 目線だけでポップを制して、彼の後ろにかばうような位置で立ち上がる。
 ヒュンケルには、分かっていた。
 今、目の前にいる少女は手負いの獣も同然だと。

 年若い少女とは思えないほどの気迫が、彼女にはあった。死を前にして、全力で戦いを挑みかかってくる獣を思わせる気迫が。
 ならば、それを受け止めるのが自分の責任だとヒュンケルは考える。
 自分こそが、パプニカを一度は滅ぼしたのだから――。

「覚えているわよね? それとも、忘れてしまったの? パプニカの城下町では多くの人が怪物に襲われたし、多くの家が燃えたわ。
 この髪もね、その時に焼け焦げたの。どうしようもないから、短く切るしかなかった」
 

 少女の手が、髪に巻いたリボンを軽く撥ね除ける。身に染み付いた癖となって残るその仕草は、おそらくは無意識のものなのだろう。

 失った髪の毛を、払いのける必要などない。
 それに気がつかずに無意識のうちに自分の髪を求める少女の手を、哀れまずにはいられなかった。

「すまな……」

 思わず口から零れた謝罪の言葉を、少女の甲高い声が遮った。

「謝らないでっ! こんなこと、謝ってもらう価値もないわっ。だって、髪なんかたいしたことじゃないもの。
 パプニカの町では、多くの人が亡くなったの。近所の人も亡くなったわ。友達でもっとひどいケガをした子だっている……わたしの家だって燃え落ちたわ」

 畳み掛けるような彼女の言葉を、ヒュンケルは黙って聞いているしかなかった。
 贖罪の気持ちはある。
 だが、謝罪の言葉すら拒否をする少女は、今、ヒュンケルが何を言ったとしても受け付けてはくれないだろう。

 今の彼女は、火の中に投じられた栗のようなものだ。
 切れ目を入れないまま熱せられた栗は、限界まで膨れ上がり、大きな音を立てて弾ける。
 荒れ狂う感情の出口を今まで見つけられなかった少女が、激情を溢れさせるというのなら、それを無理に抑えるべきではないだろう。
 そう思ったからこそ、ヒュンケルは彼女の言葉を遮らなかった。

「でも、あの時は思ったわ。父さんさえ戻ってきてくれれば、なにもかもうまくいくだろうって。
 だけど、……一ヶ月後にはもう死亡通知が来たのよ! 死体どころか、遺品すらろくに戻ってはこなかったわ!」

 容赦なく突き付けられる不幸の連続は、聞いているだけで心を痛める。ならば、それを実際に自分の身で受け止めた衝撃はいかほどのものだったのか――。

「父さんの死にショックを受けたから、母さんも流行病なんかであっさり死んじゃったのよ! 魔王軍がいなかったなら、父さんも母さんもきっと生きていた!」

 もはや泣きながら、少女は叫ぶ。
 だが、溢れ出る涙は彼女の叫びや怒りを少しも減じなかった。

「あなたを許さないし、許せない……! きっと、一生許せない――」

 激しい興奮と、大声を出し続けた疲れのせいか、少女は息を切らしていた。
 まるで全力疾走した直後のように息を荒げ、それでもまだ足りないとばかりに自分を睨みつける少女を、ヒュンケルは少しの間待った。

 だが、言いたい言葉はすべて言い尽くしてしまったのか、彼女はもう何も言おうとしない。
 それでも、それで気が済んだわけではないのだろう。

 何か言いたげに、だが口を引き結んで自分を睨みつける少女に向かって、ヒュンケルは静かに言った。

「ああ。許せとは、言わない」

 華奢な少女の身体に耐えきれないと思えるような不幸と悲しみが、立て続けに彼女を襲った。
 彼女の怒りは、そのまま悲しみの深さを現している。

 平和で幸せな毎日や、掛け替えのない家族……それらを彼女は一気に失ってしまった。ならば、その要因をもたらした者に恨みを持つなとは言えはしない。
 少なくとも、ヒュンケルは決して言わないだろう。
 だが、疑問を口にせずにはいられなかった。

「だが……それなら、なぜ、オレを助けた? オレが、憎いのだろう?」

「ええ、私はあなたを一生許さない」

 迷いのない早さで、少女は強く言い返す。
 だが、その次の言葉が彼女の口から出てくるまで、しばらくの時間が掛かった。

「だけど……っ、あんなやり方は間違っているもの」

 やっと、押し出された言葉は、ひどく震えていて不明瞭に響く。あまりにも辛そうな様子に、もういいと止めたくなるほどだった。
 だが、これを言うことこそが自分の義務だとばかり、彼女は言葉を続ける。

「間違っているって分かっていることを、やりたくはない……。でも、どうしても許せない者が存在するのを見ているのは、苦しいの……っ! 苦しくて、苦しくてたまらなくなる……!」

 喘ぐように、少女は自分の胸を強く押さえる。心の痛みを実際に身体の痛みとして感じているのか、呼吸さえも苦しそうだった。
 浅い呼吸をせわしなく繰り返しながら、彼女は耐えきれない苦痛に身を震わせる。

「なんで……っ、なんで、あなたが生きていて、父さんや母さん達が死ななければならなかったのっ?!」

 叩きつけるような激しい糾弾に、ヒュンケルは答えられなかった。
 その答えなどヒュンケルにも分からなかったし、答える資格など自分には無いと思えた。だが、ヒュンケルの沈黙は、彼女をより怒らせただけだったらしい。

「あなたの顔なんて、もう見たくないわ! 二度と、わたしの目の前に姿を表さないで!」
 

 それが、最後の言葉だった。
 そう言い捨てると、彼女はこれ以上ヒュンケルと一緒にいることさえ耐えきれないとばかりに、駆け出していった。

 黄色のリボンが鮮やかに翻った一瞬を、ヒュンケルは見た。
 その動きがあまりに美しかっただけに、それが彼女自身の髪ではなかったことを、かすかに悔やむ。

 だが、そう思った端から、後悔が込み上げる。
 多分、それを悔いる資格さえ自分にはないのだろう。だからヒュンケルは無言のまま、遠ざかっていく少女を見送っていた――。

 

 


「……よー。おまえ、いつまでそうやってぼーっと突っ立ってる気なんだよ?」

 不貞腐れきった口調でポップがそう話しかけてきたのは、ずいぶんと経ってからだったように思う。
 ぶっきらぼうな言葉ではあったが、ヒュンケルはそこにポップの思いやりを見た。

 少女が面罵したのは、ヒュンケルだ。
 同じ場に居合わせたとはいえ、ポップにはなんら関係のない話だ。
 そもそも、ポップには自分を助ける理由もない。


 自分には関係ないと、ヒュンケルを置き去りにして好きな所にいくのも、彼の自由だ。
 だが、ポップは何も言わず、急かしもせず、ただ黙ってヒュンケルの側に座り込んだままだった。
 それだけでも、感謝を感じる。

 これ以上を望むのは甘えと思ったが、それでもポップの優しさに縋るように、ヒュンケルはあの少女には尋ねることができなかった疑問を口にする。

「……オレは…………どうすればいい……?」

 何度も自問自答して、それでも答えを得られなかった問い。
 まるで迷宮に迷い込んでしまったかのように、堂々巡りしてしまって答えは見い出だせなかった。
 だが、ポップはすぐさま明確な答えを返してきた。

「簡単だろ。あの娘がいつか、おまえを許せる気持ちになるまで、生きていればそれでいい」

 閃光が、眼裏に弾けたかと思った。
 それは理想とも言える、眩い回答。闇に引きずられがちなヒュンケルには、決して思い付きもしない『正解』と思えた。
 だが、それだけにヒュンケルは首を左右に振ってしまう。

「……それは……無理な話だろう」

 理想は、理想。
 現実では手が届かない位置にあるからこそ、理想と呼ばれるものだ。
 だが、正解が見えていたとしても、誰もがそれを選べるとは限らない。

 あれほど強い憎しみを自分にぶつけてきた少女が、自分を許せるとはヒュンケルには到底思えなかった。
 彼女の怒りは、正統なものだとヒュンケルには思える。

 罪を犯した自分が生きていて、大切な家族がいたはずの彼女の両親が死ななければいけないなどとは、不公平にもほどがある話だ。
 彼女が自分を許すなど、有り得まい。
 だが、ポップはかぶりを振った。

「おまえに死んで欲しいなら、あの娘は何もする必要はなかったんだ。自分の手を汚す必要さえない……ただ、黙って成り行きを見ていれば果たせたんだ。
 でも、そうしなかった」

 ポップの口調は、慰めを口にするためのものではなかった。
 ただ、有りのままの事実を語る口調で、淡々と言う。

「あの娘は、わざわざおれを探しだして頼んできたんだ。『おまえを助けてくれ』って。 息を切らして、汗でビッショリになっていたよ。そんなに必死になってまで、あの娘はおまえを助けたいって思ったんだ」

 ポップの説明に、ヒュンケルはわずかに目を見開く。
 その際、俯きがちだったヒュンケルは、ようやくポップと目が合った。
 地べたに胡座をかいて座り込んだまま、自分を見上げている魔法使いの少年。

 彼は、いつものように不機嫌な表情でヒュンケルを睨み付けてはしなかった。そこに浮かんでいるのは、静かで、穏やかな表情。
 人の思考までも見通し、最善の道を見極めるような目は、大魔道士の名に相応しいものだった。

「おれは、アバン先生の仇だって思ってたけど……それでも、ハドラーを許せたぜ」

 ま、結局、先生ってば死んではいなかったけどな、と付け加えてポップが笑う。
 軽い口調や笑顔――だが、それがそう簡単なことではなかったのを、ヒュンケルは知っている。

 ポップがハドラーを許したのは、アバンの生存を知る前だった。つまり、ポップにとってあの時のハドラーは、敬愛する先生の命を奪った仇のままだったのだ。
 だがそれでもポップは、ハドラーの生き方を認めた。武人として、どこまでも強さを求めたハドラーを仲間と認め、許すことができた。

 それがどんなに難しいことか……安易に復讐に走ったヒュンケルは、よく分かる。
 誰もが皆、ポップのように強く、優しい心を持つわけではない。

 憎しみや辛さに引きずられるままに、闇に落ちる者も少なくはないだろう。……ヒュンケル自身も、そうだったように。
 しかし、そうではない人間もいるのだと、ポップが思い出せてくれた――。

「さて、と。……おれはもう行くぜ。先を急ぐからよ」

 ポップのその言葉が掛け値なしのものだと、ヒュンケルは知っている。
 ダイを探すために無理を押してまで旅立ったポップが、休む間も惜しんで旅をしているのをずっと見てきたのだから。

 数時間とはいえ、自分などのためにそれを妨げてしまったことに罪悪感を感じたからこそ、ヒュンケルはすぐには動かなかった。

 ここはどうやら町外れで、しばらくはポップは荒野の方へ行くつもりらしい。それならば、いつもよりも距離をおいてついて行こう……そう思っていたのだが、歩きだしたばかりのポップが、ぴたりと足を止めた。

「2メートルだ」

 背中を向けたまま、唐突に言われたその言葉を理解しかねて、ヒュンケルは沈黙する。 と、ポップが苛立ったように、怒鳴る。

「そこまでなら、ぎりぎりで許してやるよ。けど、それ以上近寄ったりしたら承知しねえからな!」

 その言葉の意味を理解して――ヒュンケルは破顔していた。
 憎まれ口でありながらも、それはヒュンケルを容認する言葉に等しい。

「ああ……、承知した」

 ヒュンケルの返事に、ポップは返事をしないままで再び歩きだす。2メートルの間を開けて、ヒュンケルもそれに続いた。
 自分を振り返ろうとしない、小柄な背中を見つめながら、ヒュンケルは思う。

 ポップの頑なさを思えば、決して自分との旅を許さないだろうと思っていた。だが……そうではなかったようだ。
 まだ全面的に許されたとは言えなくとも、ポップはヒュンケルを拒絶はしなくなった。距離は、少しずつ近付いているのかもしれない。

 ――ならば、そんな心境の変化があの娘にも起きないと、誰に断言できるだろう。
 父母を失い、自国を離れ、それでも一生懸命生きようとしていたあの娘は、あれだけの怒りをヒュンケルに叩きつけながらも、決して道を踏み外さなかった。

 怒りや、他者の扇動に惑わされず、自分自身が犯そうとした過ちを許さなかった。
 己の感情と正義を秤に掛け、迷いながらも正義を選んだあの娘の心は、信じるに値するものだ。

 あの少女が自分を糾弾したのは、事実。
 だが、助けてくれたのも、また事実なのだ。
 相反する大きな矛盾に揺らいでいたからこそ、彼女は苦しんでいた。

 その苦悩は、ヒュンケルにも覚えがあるものだ。アバンを恨み、正義や人間に絶望し、それでも心の奥底で、人間への思いを残していた。
 心が正反対の方向を望み、葛藤する苦悩をヒュンケルは知っている。
 そして、それから開放された時の安らぎや、感謝の念も、忘れはしない。

 ならば、同じ安らぎや感謝が、彼女にも訪れることを願う。
 名前も聞かなかったあの少女の髪が再び伸び、心の傷が癒える日が早く訪れることを願い、ヒュンケルは生きるだろう。

 死だけが、贖罪なわけではない。
 あの娘が自分を許してもいいと思う気持ちになった時、彼女が罪の意識に苦しまずにすむように。
 そのために、生き延びるのも悪くないと思えた――。
                                                 《続く》


《後書き》

 ヒュンケルを仇と思う人間って、結構多いんじゃないかと思っているんですが、原作では一度も触れられてなかったので気になっていました。
 重いテーマになるだろうとは思っていましたが、前々から挑戦したかったんです。
                                                         
 

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