『視線が絡む』 |
ふっと、視線が絡む。 ヒュンケルが歩く時は、常に先を行くポップの様子に気を配りながら移動する。当然、ヒュンケルの意識や視点の中心はポップにある。 だが、それはほんの一瞬だ。確かに合わさったはずの視線は、すぐにぷいっと逸らされてしまう。 それも、ゴキブリかゲジゲジでも見つけたとでも言わんばかりに露骨に顔をしかめ、わざと大袈裟に顔を逸らされる。
ただ、苦笑混じりにそう思ったのみだ。 普段から足がそう早い方とは言えないが、今日は一際ペースが遅かった。足を止める度に気になるように後ろを見ては、不機嫌に目を逸らす。 (別に、こっちを気にしなくてもいいんだがな) ヒュンケルは、ポップについていくために旅をしているだけだ。 ポップの歩行ペースは、元々ヒュンケルよりも格段に遅い。ついていくのには、別に不自由はない。 だが、ポップの方は違うらしい。 ポップが休憩をとるのは、珍しいことではない。魔法使いの常で体力に欠けるポップは、定期的な休憩を挟みながら無理のない速度で先に進もうとする。 旅の目的地がどこかはヒュンケルはまだ知らないが、ポップがダイを探しているのは間違いはない。そして、ポップはそのために最大限の努力を惜しまない。 しかし、それをポップに言う気はなかった。 目を瞑り、木にもたれかかっているポップが動きだすまで、待つつもりだった。 適当な場所に腰でも下ろそうかと周囲を見回した時だった――妙に重い、苦しそうな咳き込みが聞こえてきたのは。 「ポップ?!」 胸を押さえ、激しく咳き込むポップはヒュンケルに返事をするどころか、自分の身体を支えるだけの力さえなかった。 激しい咳に苦しむポップを少しでも助けようと、背を擦ってみたが効き目があるようには見えない。 一瞬ぎょっとしたが、単に気絶しただけのようで、か細く、不規則な浅い呼吸を繰り返している。 さっきまで必死になって自分の口許を押さえていた、ポップの両手。その手のひら部分に赤い染みが、滲んでいた。緑色の手袋を赤く染める染みは、ほんのわずかなもの。 あの日――ダイがいなくなった直後のように大量の喀血というわけではないが、旅立って以来始めてのポップの具合の急変は、ヒュンケルを不安のどん底に陥れる。 (とにかく、手当てをしなければ……) 動揺する自分を叱咤しながら、ヒュンケルは完全に気絶したポップを抱き上げた――。
「気がついたのか?」 安定していた寝息のリズムが、微妙に変わる。 目覚めたポップは、すぐには状況が掴めなかったらしい。 「…………ここ……どこだ?」 「昨日、泊まった町の宿屋だ。ここが一番近いから、引き返してきた」 ヒュンケルが説明したのはそれだけだったが、ポップは枕元のサイドテーブルに置いてある薬の入った袋を見て、察したらしかった。 「薬師か、医者に診せたのか。……じゃ、バレちまったんだな」 そう言ってポップは、笑った。
病気に関しては、回復魔法はあまり効き目は期待できない。やっと見つけた医者の元へ駆け込んで、真っ先に言われたのがその言葉だった。 それでも旅を続ければどうなるかと問いかけたヒュンケルの質問に対して、医者はしばしの間をおいて答えた。 それを聞いて以来、ヒュンケルはその事実をどうポップに伝えればいいのかと、悩んでいた。 口下手な自分にできるだろうかと危ぶみながら、アバンの教えを思い出しつつ幾通りかのパターンを考えていた。 教えるまでもない。 「……どうも、中身がやられちまったみたいでさ、ここんとこ妙にしんどかったから……今朝起きた時は、自分でもまずいなって思ってたんだ」 喋る口調こそは、明るい。 ポップの体調が、以前より悪化していることに。 大きな魔法を使った後、苦しそうにしているのは見掛けたことはあったが、それでも戦いの最中はポップの様子に変化は見られなかった。 旅を始めた頃と比べたって、そうだ。 特に、眠る時間は格段に増えてきている。 口には出さなかったが、ポップ自身はずっと前から自分の体調の変化に気がついていたのだろう。 「でもよ、ちょっと休めば良くなるんだ。確かに苦しい時もあるけどよ、そんなに長くは続かないしさ。 こともなげに言う口調が、空々しく聞こえる。 魔法を使わなければ、平気だと――。 『差し当たって命の危険があるわけではない』 アバンは、そう言ったのだ。そして、レオナはポップのために静養できる部屋を用意すると言っていた。 魔法を使わなかったとしてもポップの体調では無理は禁物であり、安静を必要とするものだと、なぜ、今迄気がつこうともしなかったのか。 「……熱が完全に引くまでは安静にしろと、医者は言っていた。宿屋も、数日泊まれるように手配済みだ」 今回、ポップが倒れたのは基本的には風邪のせいだと、医者は言った。 普通の人ならば、問題にもならないただの風邪……だが、体力が落ちているポップにとっては、それは命取りになりかねない危険を孕んでいる。 健康な若者がかかるならほんの数日で治る風邪が、抵抗力の衰えた老人がかかれば命取りになりかねないのと同じだ。 「ああ……分かったよ。しばらくはおとなしく寝ている」 拍子抜けするぐらいあっけなくそう言ったポップは、本当にそうした。 普段のポップの頑固さを考えれば、嘘のように素直な反応だった。 「カーテン……閉めないでくれないか」 うつらうつらと眠りかけていたはずのポップを気遣って、そっとカーテンを閉めようとした時にそう言われた。 カーテンは遮光と保温の効果がある。あまり立て付けの良くない窓は、どうしても透き間風が付き物だ。 それに下弦の月とはいえ、今夜の月は随分と明るかった。その光が眠りの妨げになるのではないかと思ったが、ポップは頭を枕に埋めながら微かに首を振る。 「……もう少し……月を見ていたいんだ」 弱々しい声での重ねてのわがままを、ヒュンケルは拒めなかった。 それがひどく大事なことでもあるように、必死に自分に頼むポップの願いを、どうしても突き放せなかった。 「……分かった」 そう頷くとポップはホッとしたような表情を浮かべ、窓越しに見える月の方へと目を向けた――。
だが、あれからずっと起きていて、ポップの様子を見ているヒュンケルにとっては、その月明りは不吉なもののように見えた。 月明りに照らされた顔には、痩せた頬や顔色の悪さが目立つように見えて、無性に不安を駆り立てられる。 だが、ポップが旅を続ける限り、危険は常に付きまとう。 危険とすぐ背中合わせのそれは、例えるのなら綱渡りのようなものだ。 だが、些細な油断が、あるいはふとした突風が、予測外のアクシデントが一つでも起こればたちまちバランスを崩し、奈落の底まで落ちてしまう――。 最近、ポップとやけに視線が合う気がする――そう気がついていたのに、その意味を深くは考えなかったことが、悔やまれる。 だが、体調の悪化……それをヒュンケルに気づかれていないか確認するために、ポップは何度となく振り返るようになったのだろう。 だからこそ、視線が絡んでいたのだ。 眠っているポップの枕元で彼を見下ろしながら、ヒュンケルはそのまま長い間、動かずに佇んでいた――。 《続く》 《後書き》 |