『ときめきの白い日 5』

 

 心臓が凍りつく――その言葉を単なる比喩や例えではなく、紛れもない実感としてジャックは体感していた。
 誰よりも大切に思っている少女が、命の危機に晒されているのだ。

 もし、自分の命を投げ出してレナを救えるのだとしたら、ジャックはその選択に一瞬も迷いはしなかっただろう。

 だが、現実問題としてジャックにはレナを助けるためにできることが、何一つとしてなかった。
 驚きのせいで動きが凍りついた一瞬の間に、馬車は凄まじい地響きを立てて通り過ぎてしまう。

 瞬きをする間に通り過ぎようとする馬車を見て、ジャックはハッとしてその後を追う。 しかし、そのタイミングは完全に手遅れだった。もっと素早く動くことが出来たのなら、ジャックは馬車の前に飛び出していただろう。

 それで馬車を止めることが出来ず、ただジャックが馬に跳ねられる結果に終わったとしても、構わない。それでもせめてレナのダメージを僅かにでも減らせる可能性があるのなら、ジャックは喜んでそうした。

 だが、ジャックが走り出した時はすでに馬車は彼の前を通り過ぎてしまった。後ろから場所を追いかける形で走るジャックに、レオナが「危ない、止まって!」と叫ぶのが聞こえたが、彼は振り返りもしなかった。
 例え尊敬すべき主君の命令だとしても、今ばかりは聞けない。

 より一層足に力を込め、全力疾走を試みる。
 が、人間の足が馬に適うはずもない。
 先を行く馬車が大きく道から逸れるのを見ながら、ジャックは声になりきらない悲鳴を上げる。

 すぐ目の前で起きるであろう惨劇を予測したのは、ジャックだけではなかった。周囲にいた女性を中心に、悲鳴じみた声が一斉に漏れる。
 馬車が向かう先は、大きなガラス窓が売りのおしゃれなカフェだ。客で賑わう店に馬車が突っ込めば、紛れもなく大惨事が発生する。

 和やかな休日を楽しんでいた罪もない人々を巻き込んでの大事故――しかも、その中にジャックの最愛の人も巻き込まれる……!

「レナぁあ――ッ!!」

 再び叫んだジャックの声は、すでに絶望に彩られていた。
 だが、その声を打ち消すように、気合いの入った声が上から響く。

「ベタン!!」

 その声と同時に、奇跡は起こった。
 今まで疾走していた馬車が、ぴたりとその場で止まる。
 それは、穏やかな制止とは程遠かった。巨大な、見えない手で無理やり押しつけられたかの様に馬車に乗せられた荷物がひしゃげ、重荷に喘ぐかの様に車軸や石畳が軋む。

「え……っ?!」

 魔法を思わせる不思議さに戸惑ってから、ジャックはようやくさっきの声の主に思いあたる。
 見上げると、空に彼はいた。

 どこか聞き覚えのある声だと思った通り、見知った人影が空からこちらを見下ろしている。
 普通の人間が空に浮くなど有り得ないが、彼ならばそれも容易いだろう。なぜなら、彼はその名も高い二代目大魔道士なのだから。

「へっ、どうよ、改良版ベタンだぜ。威力を弱めて、ピンポイントに働きかけるようにしたんだ」

 得意げにそう言ってのけるポップの説明は正直、魔法に無知なジャックには良く分からなかったが、それでも彼がなんらかの魔法を使って馬車の暴走を止めてくれたことだけは理解出来る。

 それだけでも、充分すぎるほどだ。
 惨劇を未然に防いでくれた魔法使いを、ジャックは拝みたい気分だった。

(ぁああっ、大魔道士様って本当に大魔道士様だったんですねっ、初めて尊敬いたしましたっ)

 感激のあまりいささか失礼なことを考えてしまったジャックだが、手放しに感激するのはまだ早かった。
 カフェの客達の危機は去ったが、レナの危機はまだ去ってはいない。

 馬車が止まったからこそ、長柄で繋がれている馬もまた止まらざるを得ない。だが、暴走は止められても、馬の興奮までは止めきれない。
 むしろ、前に進もうとしても一向に進めないことに苛立った馬はより興奮したのか、前足を高く揚げて嘶いた。

 馬自身が反っくり返りそうになるその動きに、手綱を握っていた少女が耐えられるはずがない。

「きゃぁああっ?!」

 馬の動きに引っ張られ、荷台から振り落とされかけたレナが悲鳴を上げる。いくら一旦馬車が止まったとは言え、暴れる馬に振り回されて投げ出された少女が無事で済むはずがない。

「レナぁっ?!」

 三度、レナの名を叫びながらジャックは彼女の側に駆けよろうとした。だが、それよりも遥かに素早く、二つの人影が彼女の元へと走る。
 目を疑う早さで荷台へと飛び乗り、荷台に座っていたレナをさらうように抱きとめたのは長身の男だった。

 彼女を抱いたまま荷台を強く蹴った男の身体が、一瞬空を舞う。いまだに空に浮かんだままのポップと違い、魔法などに頼らない普通のジャンプにすぎないが、彼の動きには華やぎがあった。

 鍛え抜かれたバレエダンサーのごとく、見事な滞空時間で空に浮かんで見えた男は、姿勢を整えて危なげなく着地する。
 その動きに、銀髪がキラリと輝くのさえ華麗の一言だった。

 しかもなお驚くことに、男は空中でそこまで姿勢を整えたのかレナをきちんと両腕で抱いていた。所謂お姫様抱っこの姿勢で少女を救った男に対して、周囲から大きなどよめきがあがる。

 その黄色い悲鳴ときたら、さっきの馬車が危険な時に聞こえた悲鳴や、馬車が助かったことに対する歓声を遥かに上回っている。

 まあ、それも無理からぬことかもしれない。
 吟遊詩人の唄う伝承歌を霞ませるような劇的な救出劇を見事に演じただけでも凄いのに、その主役がとびっきりのいい男ともなれば女の子達が目の色を変えるのも無理はない。

 実際、男のジャックの目から見てでさえ、今の彼はかっこよかった。そりゃもう、歯がみをしたくなる程に。

 ほとんど白に近い髪に、風変わりな紫の目。
 これだけ奇抜な目や髪の色がしっくりと様になる、端正な美貌の青年  ヒュンケルはこうして見ると恐ろしいぐらいの美形だ。
 そして、またやることなすことが実に絵になる。

「……怪我はないか?」

 あれだけ凄いことをしてのけたのに、ごく当たり前のように淡々とそう尋ねるその声もまた、実にいい。
 寡黙な上にルックスが目立ち過ぎるから目立たないが、ヒュンケルは実は声も相当にいい。張りのある青年の声でありながら、落ち着きと渋みも備わっている。

 吟遊詩人も羨む様な、女性心を鷲掴みにする美声である。
 この美貌といい、引き締まった長身といい、声といい、剣の腕といい、天は一体何物をこの人に与えたのだろうと、羨ましいを通り越して唖然とするしかない。

 その場にいるだけで女性達の視線と溜め息を一身に集めてしまうヒュンケルに、直接抱きかかえられたレナもまた、当然の様に彼の顔に視線が釘付けだ。

「あ…、は、はい、大丈夫です」

 そう答えるレナの声のしおらしさに、普段の彼女を知るジャックは耳を疑ってしまう。 孤児院の子供達相手にきゃんきゃん怒鳴り散らすおてんばぶりなど想像もつかないしおらしさで、レナは淑やかに礼を言う。

「あの、ありがとうございます、助けてくださって……!」

 そう告げるレナの頬がかすかに紅潮しているのを、ジャックは確かに見た。

(ぅぁ〜〜〜〜〜〜あああぁああっ、な、なにこれ、なにこれっ?! なに、これ、何フラグっ?!)

 さっきとは違う意味で心の底から絶叫をかますジャックの気も知らず、背後からは呑気でのどかな声が聞こえてくる。

「よーし、よーし、いい子だね、だいじょぶだよ、もう怖くないよー」

 ヒュンケルとほぼ同時に荷台に飛び乗り、馬をなだめて落ち着かせているダイも凄いと言えば凄い。
 兵士の訓練の一貫として乗馬も習っているジャックには分かるが、興奮した馬というのは手に負えない。

 人間以上の図体と脚力を持つ馬が暴れだした場合、それを抑え込むのは冗談抜きで命懸けである。
 よほど馬の扱いに慣れていても、早々できることではないのだが、ダイの手際は見事だった。

 ポップの魔法とヒュンケルがレナを救うタイミングに合わせ、一人で二頭の馬の手綱を掴んで宥めているのだから。

 しかもこのわずかな時間でダイは嘘の様に馬を手懐け、落ち着かせるのに成功している。いまだに馬に馬鹿にされ、今一歩乗馬の腕前が進歩しないジャックから見れば神業のような手際だ。

 が、残念ながらというべきか女の子達の視線は一直線にヒュンケルに注がれている。
 なにやら凄い大魔法を使って事故を未然に防いだはずのポップもまた、女の子達の注目は薄い。

「ちぇっ、あいつときたらいっつもいっつも美味しいとこどりするんだからよ〜」

 などとぶつくさとぼやきながら、ストンと地上に降りてきたポップは不満タラタラの様子だが、ダイの方は特に気にした様子もなくニコニコしている。

「でも、ヒュンケルがいてちょうどよかったじゃないか。おかげで馬もあの人も無事だったんだし」

(あの、勇者様、馬とレナを同列にされるのって、なんかビミョーなんですけど〜)

 勇者ダイが博愛精神に満ち、人間も怪物にも同様に接する純真さを持ち主であるという逸話を思い出しつつ、ジャックは力なく心の中だけで突っ込む。
 噂としてその話を聞いた時はさすが勇者様だと感心したものだが、現実に目の当たりにすると……博愛精神というのも感心できる一方というわけでもないようだ。

「そうよ、文句を言うことないじゃない。ポップ君だって、ヒュンケルの活躍も計算に入れた上で魔法を使ったくせに」

 いつの間に来たのか、くすくす笑いながらそう言ったのはレオナだった。暴走騒ぎの時は安全な場所にいたはずだが、もう大丈夫と見て取った途端にちゃっかりとこちらに来たらしい。

「ふん、誰が! あいつなんか、馬に蹴飛ばされちまえばよかったんだよ!!」

 不貞腐れたような顔でそう言うポップに、ジャックも不遜と思いつつも同感したいと思ってしまう。
 やっとお姫様抱っこから下ろされたレナが、いまだにヒュンケルにうっとりとした視線を送っているともなれば、特に。

 しかし、ヒュンケルの方はそんな視線に気がつく様子もなく、ようやく城からやってきた兵士達に事件のあらましを話しているところだった。

(あ……、おれも手伝った方がいいかな)

 町に事件や事故が起きた場合、それに対処するのも兵士の役割だ。いくら非番とは言え、目の前で起きた事件である。

 同じ非番のはずのヒュンケルが活躍しているというのに、下っ端であるジャックが何もせず、しかも事件後ものんびりと知らん顔を決め込んでいるのは気が引ける。
 そう考えたジャックは、傷心をとりあえず置いといてヒュンケルに声をかけた。

「隊長、自分も何か手伝いましょうか?」

 その声に、やっとレナはジャックの存在に気がついたらしい。

「あ、ジャックもいたの?」

(いたのって、そりゃあんまりじゃ……)

 なにやらガックリと脱力するのを感じながらも、ジャックはまずレナの無事を確かめる。


「レナ、怪我は? どこか、痛いところとかはないか?」

 ジャックのその問い掛けに、レナはヒュンケルに対してそうした様に頬を赤らめて嬉しそうに頷……いたりはしなかった。

「あたしは平気よ。でも荷物は大丈夫かしらっていうか、この馬車、壊れちゃったの? これってどうなの、弁償代を要求されたりしない?」

 などと言いながらジャックの方をろくに見もせず、心配そうに馬車の方ばかりをジロジロと見ている。
 ヒュンケルの時とは露骨に違う差に、ジャックが棚上げしていた傷心がさらに傷つくのを感じる。

(ううっ、ひ、ひさしぶりの再会なのに〜)

 そんなジャックを見て苦笑したのは、現場を仕切っている副隊長だった。

「へえ、その娘がおまえの言っていた例の孤児院の娘かい?
 なら、現場検証が終わるまでそっちのカフェで休んでもらっていたらどうだ。お嬢さんもショックを受けているだろうし、おまえさんだって久しぶりに会うんだ、つもる話もあるだろう?」

 非番なんだから仕事はいいよと笑いながら行き届いた気配りをしてくれる副隊長の心遣いに、ジャックは顔をパッと明るくし、逆にレナは顔を曇らせた。

「あ、いえいえ、大丈夫です、あたし、ショックなんか受けてませんし! それに、帰りの馬車の手配やら王宮に書類を届けなきゃだし、休んでなんかいられませんわ!」

 やけにムキになってそう言うレナの心境を、ジャックは簡単に察することが出来た。

(あ、お茶代の心配しているんだな)

 外食なんて勿体ない、家で食べれば実費のみで食べれるのだからと言い切るレナは、外食はとことん嫌がる傾向がある。

「あの、お茶代ぐらいオレがだすから……」

 と、こっそりとジャックが囁くと、レナは目を見開いて反論してきた。

「なに言ってんのよっ、ジャックだってそんな贅沢なんかしてる場合じゃないでしょ?!
給料だってまだまだ安いんだし、ローンだって残っているくせに、贅沢は敵よっ!」

 囁いているつもりなのだろうが、その声は割と周囲にだだ漏れだったようだ。
 副隊長が笑いを噛み殺しつつ、近衛隊とは思えないざっくばらんな口調でひょいと割り込む。

「あ、お嬢さん、カフェで待って欲しいってのはこちらの要望なので、その間に注文していただいた品は経費で落ちますぜ。
 どうぞご遠慮なく」

「あ、それならいただきます」

 経費と知るや否や、あっさりと主義を引っ込めてちゃっかりとカフェに行く気になったレナに、副隊長は今度は噛み殺さない笑みを浮かべる。

「はいはい、どうぞ、どうぞ。
 それにこちとら一応城の役人なんで、王宮に提出する書類の受理なら引き受けますしね。それにお嬢さんはどうやら、運悪く荷馬車の暴走に巻き込まれた被害者のようですし、帰りの馬車の手配ぐらいは援助しますよ、ご安心を」

 その後押しに、レナもやっと安心したらしい。
 ホッとしたようにレナが頷くのを確かめてから、副隊長は今度は見物人達の方に向き直った。

「ところで、事故の原因やその他をお聞きしたいんですが、見物していた方の中でご協力いただける方はいますかい?」

「あ、はぁい」

 明るい声と同時に、白くすんなりとした腕が高くあげられる。

「あたし、最初から最後までばっちりと見てました。たまたま買い物に来たらこんな事故に遭遇しちゃって、もう、ホントにびっくりしちゃいました〜」

 ジャックから見ればいささかわざとらしさを感じてしまうレオナのそのセリフに、別になんの反応も見せないのは経験の浅い一般兵に違いない。

 ギョッと動揺したのは、おそらくはレオナの顔を知っている古参の兵士なのだろう。隊長であるヒュンケルさえわずかに眉を潜めているのに、副隊長はさすがだった。
 顔色一つ変えず、済ました顔で応じて見せる。

「あー、そうですか、たまたま、ですか。そりゃあ、ご災難でしたねー。で、そちらの緑の服を着たお兄さんと、青い服を着たボウヤもお嬢さんのお連れ様で?」

 動揺するどころか、こそこそと見物人の影に隠れようとしているダイやポップも見逃さない眼力はさすがとしか言い様がない。

「なら、後でついでに事情聴取しますから、あなた達もここの二人と一緒にそこのカフェで待っててくださいや。
 お急ぎかもしれませんが、勝手にどこかに行っちまうってのはナシですぜ?」

 軽く釘を刺しながら、どこかおどけたウインクを送る。含みを感じるそのウインクに、逃げられないと悟ったのかダイとポップがしぶしぶとレオナの方へと出てくる。
 三人そろったところを見て、レナがパッと目を輝かせた。

「え……あっ、ポップさん?! ダイ君、エイミさんもっ?! わあっ、こんなところで会えるなんて思わなかったわ! クリスマスの時は本当にありがとう!!」

 はしゃいでそう声を上げるレナは、レオナに抱きつかんばかりだ。どう贔屓目に見ても、ジャックとの再会以上の感激ぶりである。
 特に、レナはレオナとの再会が嬉しいのか、一際はしゃいでいた。

「まさか、エイミさんにもう一度会えるなんて思ってもみなかったわ! 実は、せっかくここに来るのならあなた達にもばったりどこかに会えないかなって思ってたけど、パプニカの城下町って思ったよりもずっと広かったし、諦めてたの。
 でも、偶然ってすごいわねー。これも神様の思し召しかしら」

 素直に偶然に感動するシスター(見習い)の少女に、ジャックは内心突っ込まずにはいられない。

(いや、それ、偶然じゃないからっ! 意図的だからっ!! 神様の思し召しじゃなくって、単に王女様のわがままだしっ)

 たとえこの事故がなかったとしても、レオナのあのノリノリっぷりから見て、なんだかんだ言ってジャックとレナの再会に対して興味津々に関わっていたのは疑いようもない。 が、レオナの正体も性格も知らないレナに、そんなことをいきなり打ち明けても意味がない。

 なにより、素敵な偶然だと手放しに喜んでいるレナの笑顔に水を差したくはなかった。 ……とは言え、恋する青少年の心は複雑だった。

「あ、こんなところで立ち話もなんだから、カフェに入りましょうよ。ここのケーキセットって、すっごく美味しいのよ」

「わあ、すごい、エイミさんってこのお店の常連なの? あたし、こんなおしゃれなお店って初めてだから緊張しちゃって、なかなか入れなかったの」

 ジャックが誘った時はいきなりしかりつけたくせに、レオナの誘いにレナはあっさりと乗った。

「あ、ポップさんやダイ君もどうぞ、うふっ、何を食べようかしら?」

 などと嬉しそうにはしゃぎながら店へと入っていくレナは、どうやらジャックに声を掛けるのさえ忘れている様だ。

 取り残され、やけに身に染みる風の冷たさを感じながら、ジャックはわなわなと震えていた。
 それは、決して寒さが原因ではなかった。

(た、隊長だけならまだしも、姫様やポップさん達にまで出し抜かれてるっ?! オレの存在価値って……っ?!)

 なにやらクリスマスの時と同様の……いや、もしかするとそれ以下の不吉な予感を感じつつ、ジャックは置いてきぼりにならないように急ぎ足で彼らの後を追ったのであった――。                                  《続く》

 

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