『もう一つの救済 29』

 高く、低く、鐘の音が鳴り響く。
 荘厳でありながらどこかもの悲しい響きを奏でる鐘に、焦りを見せたのはハドラーの方だった。

「お、おいっ、あれを捨て置く気かッ!?」

 全てはおまえの責任だと言わんばかりの非難を込めて、ハドラーはミストバーンに向かって叫ぶ。

 かつてこの地底魔城の支配者だった彼は、最奥の間に設置された鐘の仕組みについては知り抜いている。前奏を聴いただけでも、その鐘の効果を即座に思い出せるのだ。

 ついでに言うのであれば、ハドラーはモルグのことも一応は覚えてはいた。
 知能を持った不死系怪物はそう多くはないだけに、モルグの存在はハドラーの印象には残っている。

 だが、知能は高くともモルグの戦闘力は微弱なものだったし、彼の見せる人間味が気に入らなかったため、特に優遇などしなかったが。
 そのモルグが未だに動いているだけでもハドラーには驚きだったが、彼が正面切って現主人であるはずのミストバーンに反抗したのには更に驚いた。

 不死系怪物が、召還主である主君にこうも昂然と逆らうなど普通ならばあり得ない。少なくとも、自分の配下だった頃のモルグならばあり得なかったはずだ。

 かつての部下への驚きや不満は、現在の彼の主君であるミストバーンへと向けられる。なんとかしろとばかりにミストバーンを睨みつけるハドラーに対して、魔影参謀は落ち着きを崩さなかった。

 ダイと戦っていた身体がフッと消えたかと思うと、次の瞬間には天井に近い位置に現れる。そして、高い場所から死せる部下を一瞥し、その手でモルグを指さしながら重々しい声を漏らす。

「滅せよ……!!」

 その命令に、ハドラーは満足する。
 言葉そのものに、意味があるわけではない。

 しかし不死系怪物にとって、召還主からの拒絶の意思は絶対だ。ハドラーがバルトスに腹を立てて殴りつけたことが彼の存在に致命的な損傷を与えたように、ミストバーンがモルグの存在を否定したことが、彼の息の根を止める。

 そして、不死系怪物の定めに従ってその場で崩れ、灰すら残さずに消え去ってしまうだろう――そう思っていたのはハドラーだけではなく、ミストバーンも同じだっただろう。

 だが、モルグはミストバーンの命令など聞こえなかったかのように、その場に佇んで落ち着き払って鐘を鳴らし続けた。

「なにぃっ!? 馬鹿な……ッ」

 手放しの驚きを見せるハドラー程ではないが、ミストバーンさえもこれには驚きを感じたようだ。普段は闇に浮かぶ小さな光としか見えないミストバーンの双眸が、普段以上の大きさで瞬く。

 それは、ミストバーンが浮かべるものとしては最大限の驚きの表現だ。
 顔を持たず、全てを闇の衣で覆い尽くした謎の男にとってさえ、モルグの行動は信じられない物だったに違いない。

 基本的に、不死系怪物は召還主には従順だ。
 百歩譲って、意思を持つ不死系怪物が召喚主に逆らうことはあるかもしれない。だが、どんな強靱な意志を持つ不死系怪物であろうとも、召還主の魔法力を供給されてこの世にとどまる存在なのには変わりはない。

 召喚主が不死系怪物を拒絶すると言うことは、魔法力の供給を止めると同義――すなわち、完全なる死だ。例えるなら、不死系怪物は油がなければ火を灯せない灯りのような物だ。油を完全に取り払われれば、当然、その火は消えてしまう。

 無のまま、燃え続けるこのできる炎などありはしない。
 なのに、今、モルグはミストバーンから魔法力の供給を断たれてなお、動いていた。有り得ない光景を目の当たりにして、ハドラーは逆上した様に声を張り上げる。

「ええいっ、こんなことがあるものかッ!! 
 おい、モルグよ、命令だ、今すぐその鐘を止めるんだっ!」

 いくらハドラーがモルグの元主人だったとは言え、その命令には強制権があるわけではない。今現在、モルグはハドラーの魔法力によって生かされているわけではないのだから。

 だが、さすがは魔王の迫力と言うべきか、ハドラーのその怒声にはつい平伏して従いたくなるような勢いに満ちていた。気の弱い怪物ならば、反射的にそれに応じたとしてもおかしくはなかっただろう。
 だが、モルグは顔を上げてきっぱりと言い放った。

「恐れながら、そのご命令には従えません。私の今の主人は――ヒュンケル様ただ一人でございます」

 その言葉に、ハドラーが怒りの形相を更に濃くする。その瞬間、手が届く範囲にモルグがいたのだとすれば、ハドラーは間違いなく一撃で彼を粉砕していただろう。

 だが、ハドラーの眼前にはヒュンケルがいた。
 鉄壁の防御を誇る壁として立ちはだかるヒュンケルは、ハドラーの怒りを配下に向けさせる隙など与えない。歯噛みをしながら、ハドラーはヒュンケルの相手をし続けるしかない。

 それでもハドラーは憤怒のこもった目を、モルグに向けるのを忘れなかった。
 そして、ハドラー以上の怒りを持ってモルグを凝視するのは、ミストバーンも同じだ。

「…………」

 沈黙を尊ぶ男は、モルグに二度目の命令を発しようとはしなかった。
 思い通りにならぬ部下など必要ないと言わんばかりに、即座に行動に移る。 シャキンと金属的な音が鳴り響いたかと思った時は、すでにミストバーンの手から長い爪が伸ばされていた。

 弓矢よりもよほど速い速度で、高質化した爪は一直線にモルグへと向かう。その攻撃のあまりの素早さに、モルグは避けるどころか悲鳴を上げることさえ間に合わなかった。

 ただ、驚きの表情を浮かべるばかりのモルグに向かって、信じられない速度で伸びゆく爪が襲う。
 その斜線上にいたポップも巻き添えに、爪が彼らを貫くと思った瞬間、子供っぽい声が響き渡った。

「てやぁっ!!」

 その叫びと同時に、伸びゆく爪の軌道がぶれた。軌道のぶれはわずかな物だったが、そのおかげで爪の切っ先は二人の肉体を貫くのではなく、床を穿ったにすぎなかった。

 ぎりぎり顔をかすめて床につき立った爪を見て、ポップがやっと悲鳴を上げる。

「う、うわわぁあっ!?」

 石で出来た床に深々と突き立った爪の鋭さを目の当たりにして、初めて恐怖がこみ上げたらしいポップがその場で腰を抜かすが、爪はそんなポップを無視してすぐさま床から引き抜かれる。

 穿たれた穴の深さから見て、相当に深く刺さっていただろうに軽々と抜かれた爪は、戻るのは一瞬だった。伸びた以上の早さで戻された爪は、再びモルグやポップに向かうことはなかった。

 空中に浮かんだままのミストバーンがその目を向けているのは、ダイに対してだ。

 ミストバーンのように飛ぶことのできないダイは床の上にいたが、彼は身体を一瞬屈めたかと思うとその場から跳躍した。助走もつけずに飛び上がったにもかかわらず、ダイの小さな身体は信じられない様な跳躍力を見せる。

 一度壁を蹴って勢いをつけたダイは、空中にいるミストバーンの高さまで飛び上がって、その勢いのまま彼に切りつけた。
 さすがのミストバーンもダイのこの攻撃は無視しきれないのか、爪を使ってそれを防ぐ。

 ついさっきの攻撃も、そうだった。
 不死系怪物としては異例の行動を取るモルグを、ついでに先ほど魔法力をモルグに与えたポップも殺してしまおうと考えたミストバーンを止めたのは、ダイの体当たりにも似た攻撃だった。

 小柄な身体に似合わぬバネを秘めたダイの跳躍力は、厄介だった。
 足場となる壁が周囲にあり、なおかつ高さが限られているこの空間では、いくらミストバーンが宙に浮いたとしても、ダイは軽々と追いついてくる。

 さすがに無理にも程のある跳躍をしながらの攻撃は防ぐのはたやすいが、ミストバーンの行動を邪魔するタイミングを狙ってくるのが厄介極まりない。

 文字通り、時間稼ぎに徹する気でいるらしいダイは、強力な攻撃を狙うよりも、モルグやポップへの手出しを封じる方を優先した小さな攻撃を繰り返してくる。

 結局、ミストバーンもまたダイに行動を制限されているのには、ハドラーと同じだ。ポップが望んだ通り、時間稼ぎに徹した二人のアバンの使徒の活躍によりモルグは複雑な旋律を鐘で鳴らし続け、広間にかけられた大きな鐘に共鳴させている。
 その音を聞いて、吠え立てるようにハドラーが叫ぶ。

「やめろぉっ、やめろっ、やめるんだっ!! 
 モルグよ、馬鹿な真似はやめろっ!! 他の鐘ならともかく、よりによって最後の鐘を鳴らしたらどうなるのか……貴様は知らんのかっ!?」







(……え?)

 ポップが不吉さを感じたのは、この時だった。
 常に傲慢で他者を見下し切った言動を取る魔王が、どこかしら怯えを感じているように見えたからだ。ハドラーさえも怯えさせる効果を持つ最後の鐘に、ポップは何となく不安を覚える。

 答えを求めるように思わずモルグを伺ったが、かの不死執事は魔王とは対照的に落ち着き払っていた。

「もちろんですとも。
 最後の鐘とは、解放の鐘のこと――自然ならざる生命は、今こそ、解放されるのです」

 その言葉が本当ならば、別に何の問題もないはずだ。それに、モルグが嘘をつくような人物ではないことは、ポップも何となく悟っていた。――だが、それにも関わらず、ポップの心の奥底で警鐘が激しく鳴らされる。

 その不安が最高潮に達したのは、悲鳴じみたハドラーの叫びを聞いた時だった。

「解放だと……!? ふざけるなっ、死者の開放とは、即ち死っ!! 永遠の眠りが待つだけだっ。分かっているのか、おまえ自身も死ぬんだぞ!!」

「ッ!?」

 ギョッとして、ポップは思わずモルグをまじまじと見つめる。顔を見る余裕はなかったが、ヒュンケルもまた息を飲むような音をたてたのが分かった。
 しかし、モルグに驚きは全くなかった。

 気の良いこの不死者は、自分の死を予告されてなお動じる気配すら見せない。

「重々承知しております、ハドラー様。
 元々、この最後の鐘は、城主が城と共に最後を迎える覚悟を決めた時にこそ鳴らすべき鐘でございましたな。15年前にはお使いにはならなかったこの鐘は……今こそ、鳴るべき時がきました」

 落ち着き払った声でそう言った後、モルグは最後に鐘をチリンと小さく鳴らし、それっきり手を止めた。

 それから、モルグは思い出したようにポップの方へと目を向ける。強張った顔のまま動けずにいつポップに向かって、モルグはほんの少しだけ笑いかける。

 何の心配もありませんからと言わんばかりのその笑みは、ポップにとある人の――アバンの、最後の微笑みを思い出させる。

 自己犠牲呪文を唱える寸前のアバンもまた、落ち着き払った態度で優しげな笑みを絶やさなかった。その時のことを思い出すだけで、ポップは胸が切り込まれるような痛みを感じずにはいられなかった。

 言葉をなくしたポップから魔族達に向き直ったモルグは、慇懃に一礼をする。

「この地底魔城は崩壊し、ここにいる全ての者はあるべき姿に戻る……それだけのことでございます。
 いずれにせよ、最後の鐘はもう鳴らし終わりました。さあ、ハドラー様、ミストバーン様、かつての城主として、この城と運命を共にいたしますか? 
 それならばこのモルグ、謹んで冥土までの案内人となりましょう」








 モルグの言葉が終わるのを待っていたかのように、広間の鐘が一際大きく鳴り響く。それは、すでに小さな鐘からの共鳴ではない。もはやモルグの鐘とは無関係に、大きな鐘は独自の旋律を奏でていた。

 そして、その音に合わせるように不気味な鳴動が鳴り響き出す。
 地震のように地面が小刻みに揺れ動くのを見て、ハドラーは大きく歯噛みする。

(忌ま忌ましいゾンビめが……ッ!!)

 今現在、何が起ころうとしているのか、誰よりも一番良く理解しているのは、他ならぬハドラーだった。なにしろ彼自身がこの仕掛けを考え、用意させたのだから。

 不死系怪物を管理や制御するために、小さな鐘を管理者に持たせることを考えたのも、その小さな鐘と共鳴する効果を持つ最奥の間の大鐘を設置したのも、かつてのハドラー自身だ。

 鳴らし方により幾通りもの効果が発揮されるが、最後の鐘は特別中の特別だ。その名の通り、本当に最後の最後に使うべき仕掛けだ。

 なぜなら最後の鐘とは、地底魔城に存在する全ての自然ならざる生物達を消滅すると同時に、地底魔城の地下にあるマグマ溜まりを活性化させ、城そのものを崩壊させるための大仕掛けなのだから。

 文字通り、最後の最後、一か八かの時でもなければ使える仕掛けではない。場合によっては、脱出に失敗して自分自身も巻き添えになる危険性のある大がかりな仕掛けだ。

 言わば、自分もろとも敵をも一緒に消滅させるための、自爆行為とも言える仕掛けだった。

 だからこそ容易に使うことが出来ないよう、魔法力を余分に注ぎ込まねば使えないように設定してあった。だが、まさか、不死系怪物が主君の命令に逆らった上に、あの魔法使いの少年が協力するとは誤算もいいところだった。

(あり得ぬっ、あり得ぬことばかりをしおって……ッ!! これだから人間は油断がならんというのだっ)

 不死系怪物は、本来は人間である場合が多い。
 モルグもそうだが、バルトスもそうだった。ハドラーが直々に人間の死体に術をかけ、自分の僕として蘇らせたのだ。

 その際、彼らに意思を持たせたのはハドラーの気まぐれだった。
 従順なだけの普通の不死系怪物を作る方が楽だし扱いやすいが、おしゃれを極めた者が既製服では我慢できずに自分の趣味や身体に合わせた特製品を求めるように、ハドラーもまた、特別な不死系怪物を望んだ。

 意思を持たせることで、通常の不死系怪物とは一味違う強さを発揮するのではないかと期待をかけたのだ。
 その意味では、バルトスは期待以上の出来だった。

 通常の不死系怪物を遙かに上回る強さを持ったバルトスをハドラーは大いに気に入っていたが、それだけにその裏切りは許しがたかった。

 人間味を強く残していたバルトスは、人間の子供を拾って育てるなどという愚行をしでかした。それだけでも許しがたいのに、自分よりも人間の子供を重視して勇者に寝返ったなど、万死に値する罪だ。

 そして、それはモルグも同じことだ。
 モルグもまた、人間時の感情をある程度残すことにより、知能の高さを維持出来るように計算して作った特別製だった。

 だが、モルグの場合は知能こそは高くとも肝心の魔法はほとんど使えず、戦闘的には役に立たないできそこないだとハドラーは判断し、放置しておいた。

 その出来損ないのどこが気に入ったのか、ミストバーンは彼をこの城の執事とし、ヒュンケルに与えた。実は、その話を聞いた時からハドラーはどこか、不満があった。

 不満と言うよりも、不吉な予感と言うべきか。
 ヒュンケルと――人間と接することにより、バルトスは次第に人間らしい感情を取り戻し、ハドラーを裏切った。ならば、モルグが同じ失敗を辿らないと誰に言い切れよう?

 もし、ハドラーがまだ不死系怪物達の召喚主であるのなら、間違いなくその懸念を重視し、バルトス以上の人間味を残すモルグを早々と始末しただろう。

 事実、ハドラーは人間のヒュンケルなど信用ならないと大魔王バーンに進言したように、ミストバーンにも元人間の不死系怪物など早めに処分した方がいいと忠告したことがある。

 しかし、バーンもミストバーンもハドラーの言葉などに耳を貸さなかった。もし彼らが自分の忠告を聞き届けてさえいればこんなことにならなかったのにと思うと、悔しさも倍増する。

(だから、オレは言ったのだッ。そもそもヒュンケルなど生かしておくから、こんなことになったのではないか――!!)

 そのヒュンケル自身の剣を受け止め、自らも攻撃を仕掛けながら、ハドラーは湧き上がるマグマにも似た怒りに全身を震わせる。
 腹立たしいことこの上ないが、しかし、ハドラーはこの場はどう振る舞うのが得策かを考えるだけの冷静さも残していた。

(ここは、撤退するしかないか……)

 こんな若造や子供達相手に無傷のまま撤退するなど、考えるだけで業腹だが、それでもハドラーの歴戦の戦士としての勘は、それこそが最善策と判断する。

 最後の鐘は、不死系怪物達だけを滅するのではない。
 対象となるのは、自然ならざぬ生物全般だ。かつてのハドラーは人間ごときの反抗などよりも、魔界から未知なる敵が登場するかも知れない可能性の方を、脅威と捕らえていた。

 だからこそ、ハドラーは最後の鐘の対象者を「自然ならさぬ生命」を持つ者と定めた。魔界では、力と引き替えに不自然な術を自分に施すような強者も存在する。そんな連中と敵対した時、一矢を報いるための仕掛けだったが、その意図が今になってから自分に降りかかるとは皮肉な話だった。

 大魔王バーンの力で蘇生を果たしたとは言え、死してもなお強制的に蘇らせられるハドラーもまた、ある意味で「自然ならざる生命」の持ち主だ。

 今、現在はハドラー自身には特にこれと言ったほどの異変は感じられないが、それでも鐘の音にかすかな頭痛を感じている。弱い不死系怪物ならば、すでに動けなくなっているところだろう。

 「自然ならざる生命」の全ての活動を停止させる効力を持つのが、最後の鐘の音だ。まずは身体の運動神経を奪われた不死系怪物達は、今度こそ二度と起こされることのない眠りに誘われる。

 最後の鐘の効果は、時間を置いてどんどん強まっていくはずだ。この地底魔城に存在する自然ならざる生命体が完全に消滅するまで、この鐘の音は鳴り終わることはない。

 そして、ぐすぐずしていればこの地底魔城ごとマグマの海に飲まれる。
 なまじ結末を知っているせいか、早くも気温の変化を感じ取られる気がするのが、また、焦りを誘う。

 しかし、問題は撤退についてミストバーンがどう反応するか、だ。
 ミストバーンの見聞きしたことは、全て大魔王バーンに筒抜けになると考えて良い。忠実なる大魔王の僕は、主に対して何一つ隠し立てなどしないのだから。

 それだけに、自分から撤退を呼びかけるのはハドラーにはためらわれた。たとえそれが最善手だとしても、臆病風に吹かれたものだとバーンに思われるのは耐えがたい屈辱だ。
 しかし、ミストバーンの決断は、意外なものだった。

「…………ハドラーよ、ここは引くとしよう……」

 一際高く飛び上がったミストバーンが漏らした言葉は、いつものように短く、簡潔なものだった。だが、いつもと違ってどこかしら、悔しがっているかのような感情が感じられたのは、ハドラーの気のせいだったのだろうか?

 そして、ハドラー以上に早く撤退するミストバーンの選択は、ハドラーに今まで気がつかなかった彼の秘密を示唆するものでもあった。

(あいつも、「自然ならざる生命体」だというのか?)

 その瞬間、ハドラーの胸を焼いたのは後悔に近い思いだった。
 大魔王バーンに誘われるままに、ハドラーは自分の施した最後の仕掛けを使わぬまま、我城を手放した。

 だが、ミストバーンの正体が「自然ならざる生命体」だとすれば、もしかしてバーンもそうではないのだろうか。ならば、ハドラーは彼らに対して最強の切り札となるはずだった城を、自ら手放してしまったことになる――。

 思わず、ハドラーはミストバーンの様子を確かめようとそちらに目を向け
る。

 が、その時はミストバーンの身体は、すうっと溶けるように消えていくところだった。そのせいで、跳躍して切りかかったダイが途中で目標を失い、バランスを崩すのが見えた。

 それに気を取られたのか、ヒュンケルがわずかにそちらに目を向けた隙を、ハドラーは逃さなかった。腕を一際大きく振るい、ヒュンケルを突き飛ばすような勢いで自身も後ろへと飛ぶ。
 剣の間合いを外したのは一瞬だったが、それだけで十分だった。

「逃すかっ!!」

 当然、ヒュンケルはすかさず追撃を仕掛けようとする。彼ほどの戦士の前で背を向けて逃げ出せると思うほど、ハドラーは愚かではない。
 身体を反転させる代わりに、ハドラーは片手を大きく突き出して得意とする呪文を放った。

「メラゾーマ――ッ!!」

 炎の塊自体は、そう大きいものではなかった。
 だが、不吉なまでに赤黒い色合いの塊は、目的へと光の速さで打ち出される。それがもし、ヒュンケルに向けて放った魔法ならば、魔法を弾く鎧を纏った魔剣士は恐れも見せずに切りかかってきただろう。

 だが、ハドラーの狙った魔法の先にいたのは、未だに腰を抜かしている魔法使いの少年と、そのすぐ側にいるゾンビだった。瞬時にそれに気がついたヒュンケルは、剣で切りかかるのを止めて両手を大きく広げて二人の前に立ちはだかる。

「うわぁっ!?」

 甲高い悲鳴はポップのものだが、それが致命的な絶叫にはならないことなど、ハドラー最初から予測済みだった。
 ヒュンケルが文字通り盾となって二人を庇ったおかげで、火炎系呪文は直撃を免れた。

 しかし、ハドラーの炎系呪文は、地獄の炎だ。
 一度燃え始めたら、そう簡単には燃え尽きない炎から後方にいる仲間を庇うため、ヒュンケルも火が完全に消えるまでは身動きもとれまい。

 現にヒュンケルは、全身を炎で焼かれながらも、それでも両手を広げて仁王立ちの姿勢を崩さなかった。

 いくらあの鎧が魔法を防ぐとは言え、全く熱さや痛みを感じないわけではないのに、それでもヒュンケルは後ろの仲間を庇い通すのだとばかりに、微動だにしない。
 予想通りの結末を見て、ハドラーはニヤリと笑った。

「ふははははっ、おまえもやはりアバンの弟子だなっ!!」

 アバンも死ぬ直前に、同じことをしたのだと教えてやりたい気分だった。敵への攻撃のチャンスも捨て、弟子達の命を守るためにその身を盾にしたのだと言ってやったのなら、ヒュンケルはどんな顔をするのだろうとちらりと思ったが、そんな余裕などはない。
 この絶好のチャンスを、脱出のために使う時だ。

「おまえの命は、次に会う時までは預けておいてやろう! だが、次はないぞっ!!」

 その言葉を最後に、ハドラーは身を翻して脱出路へと向かう。
 と、後ろから強い叫び声が聞こえた。

「それは、こちらの台詞だ!! 覚えておけ、次がないのは貴様の方だっ!!」

 ヒュンケルのその言葉を、ハドラーは意外なぐらい快く聞いていた。

(オレを仇と見定めたか――それもよかろう)

 バルトスを殺し、アバンを殺したハドラーはヒュンケルにとっては、紛れもなく仇だ。

 だが、これまでのヒュンケルはハドラーに敵対心や反抗心を抱きながらも、それを敢えて押さえ込もうとしていた。アバンこそがバルトスの仇だと誤解したままのヒュンケルは、アバンへの復讐に心を奪われてハドラーを二の次としていたからだ。

 その誤解を、ハドラーは敢えて解こうとはしなかった。
 元々そんな気はなかったし、バーンからも事実は伏せておくようにと言う厳命があったからだ。

 しかし、今、真っ向から憎しみをぶつけられてきて、ハドラーが感じていたのは爽快感に近い感情だった。ある意味で、期待と言い換えてもいいかもしれない。

 アバンは、死んだ。
 だが、アバンの技を受け継ぎ、アバンの志を受け継ぎながらも、アバンとは全く違う、憎しみに囚われた戦士がいると思うのは愉快だった。久しく忘れていた、強敵を前にした時に感じる高揚感が胸を振るわす。

 もはや、ハドラーの胸には、大魔王バーンやミストバーンの正体への疑惑や、かつての我城への未練などかけらもなかった。撤退の途中だという現実さえ、ともすれば忘れそうになる。

 今の彼の胸を占めるのは、かつて、勇者アバンを迎え撃とうとした時の不思議なほどの胸の高鳴りだった。自分を倒そうとやってくるこしゃくな勇者を、まるで待ち焦がれた恋人を待つかのように、どこか楽しみに待っていた日々を思い出す。

(いいぞ、アバンの使徒どもめ。いつでも、来るがいい――!!)

 かつての己の城である地底魔城を脱出するハドラーの足取りは、撤退を余儀なくされた者のそれではなく、凱旋将軍であるかのように堂々としたものだった――。








 まとわりつくように、執拗に燃え続けていた炎が完全に消えるまで、ヒュンケルは身動き一つしなかった。炎を纏った彫像であるかのようなその後ろ姿を、ポップは呆然と見ているしかできなかった。

 変な話だが、その姿は美しくさえあった。
 全身を鎧で覆われた異形の姿でありながら、ヒュンケルの魔鎧には独特の機能美が感じられる。それが炎に包まれているのは、違和感がなかった。

 もし、最初からこの姿を見たのならば、炎に包まれたデザインの鎧なのだと納得したかも知れない。

 しかし、どんな炎も永遠に燃え続けることはできない。
 炎が完全に消えてしまうと、ヒュンケルは剣を翳した。その途端、鎧装備が一瞬で解除され、その姿が大きく切り替わる。魔剣を手にした長身の戦士が、そこにはいた。

 その姿さえ、彫像のようだとポップは思う。
 たぐいまれな造形美に恵まれた戦士は、振り向く仕草さえ様になっていた。

「……大丈夫か?」

 そう尋ねられて、ポップがすぐに返事を出来なかったのは大丈夫でなかったわけではない。
 怒りも見せず、また、無表情を装うこともなくヒュンケルに話しかけられたのは初めてだっただけに、戸惑っていたのだ。

(こいつ……こんな顔もできたのかよ……)

 穏やかに話しかけられて初めて、ポップはヒュンケルが超絶ものの美形だと再確認する。思わずぼうっと見とれてしまったポップをいぶかしく思ったのか、ヒュンケルが眉を寄せて問いかけてくる。

「動けないのか?」

 それにポップが答える前に、いきなり体当たりするような勢いで誰かが抱きついてきた。

「ポップ、どっか痛いとか、ケガとかしたの!?」

 心配そうなダイに呼びかけられ、ポップはやっと正気を取り戻した。

「ちげーよっ、平気だって!!」

「でも、さっきから座り込んだままじゃないか。やっぱ、ケガした!? 痛いの、隠してない?」

「ケガなんかしてねえって! ちょっと、魔法力切れなだけだよっ」

 ダイのしつこさについ本当のことを白状してしまってから、ポップはしまったと思って、ついヒュンケルの方を見やる。

 なにやら、苦笑じみた表情を浮かべているのも腹が立つが、ヒュンケルは敢えてそれ以上何かを言おうとしなかった。――その態度がなんだか馬鹿にされているような気がして、これまた癪に障るのだが、とにかくポップはダイにすがりつきながらなんとか身を起こす。
 と、それを待っていた様に、モルグが丁寧に一礼してから言った。

「皆様、ご無事で何よりです。
 そして、ヒュンケル様……今まで、長い間お世話になりました。勝手ながら、このモルグ、今日、この場でお暇をいだたきたいと思います」 

                                   《続く》 

 

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