『もう一つの救済 30』

「それはどういう意味だ……ッ!?」

 そう問い返すヒュンケルの顔に、戸惑いと怒りが入り乱れているのを見て取り、モルグは嬉しく思う。

 どうせ、すでに自分は死んでいる身だ。だがそれでも、自分の暇乞いを聞いて主君が反応を見せてくれるのは、快い物だ。自分の存在が無価値ではなく、主君にとって意味があるものだったと思えるから。
 だからこそ、モルグは微笑みを絶やさずに答える。

「言葉通りの意味でございます。残念ながら、私にはもうヒュンケル様にお仕えすることはかないませんので」

 その答えを聞いて、傍目から見て分かるほどはっきりと顔色を変えたのは、魔法使いの少年だった。

 短い言葉から即座にその意図を悟るその聡明さに、モルグは感心せずにはいられない。ヒュンケルの目を覚まさせたポップと言う少年は、やはりただ者ではないと実感する。

 ヒュンケルが薄々感じていながら受け入れきれていない不吉な予想を、ポップはすでに現実のものとして確信しているのだろう。

 青ざめ、震えてさえいるポップの姿も、まるっきり分かっていないのかきょとんとした顔を見せるダイの幼さも、モルグにはどちらも好ましいものと感じられた。
 三者三様の反応を見せる三人に対して、モルグは淡々と事実だけを告げる。

「先ほどハドラー様が仰っていた通り、最後の鐘とは全ての死者を永遠の眠りに就かせる効果を発揮します。鐘を鳴らした者も、その例外ではありません」

 そう言いながら、モルグはポケットの中から小さな鈴を取りだした。それが何なのか、ヒュンケルもポップも即座に気がついたらしい。

「それは、思い出の鈴……!」

 どんな迷宮の奥からでも一瞬で脱出することのできる魔法道具は、同じ効力を持つ魔法呪文ほど広く知られた存在ではないが、その名を知っている相手にならば使い方を教える必要はないだろう。
 モルグは思い出の鈴を、ヒュンケルに手渡した。

「もうじき、この地底魔城は溶岩に飲まれて完全に消滅します。その前にお逃げ下さいませ」

 鈴を乗せたヒュンケルの手が、ビクッと強張る。
 その言葉に嘘がないことぐらい、ヒュンケルやポップならば分かるだろう。地底にあるはずの地底魔城を揺らす不気味な鳴動から、危険がごく身近に迫っているぐらい簡単に悟れるはずだ。

 だが、ヒュンケルはすぐにその鈴を使おうとはしなかった。
 見比べるように思い出の鈴とモルグを見つめ、それからようやく口を開きかける。

「……おまえも――」

 来い。
 そう言い切るつもりなのは、口の動きで見て取れた。だからこそ、それが命令として発せられるよりも早く、モルグは強い口調で懇願した。

「重ねてお願いいたします。ヒュンケル様、どうか、お暇を」

 有無を言わせない語気の強さに、何かを感じ取ったのだろうか。
 ヒュンケルの眉間に深い皺が刻まれ、その手は無意識なのか強く握りしめられる。

 鈴が砕けるのではないかと心配になるほど手を強く握りこんだヒュンケルは、苦悩するように何度か瞬きを繰り返す。
 その苦悩に後押しをしたのは、轟音と凄まじい熱気だった。

 ガゴン――ッ!!

 妙に鈍い音と共に扉が開き、むわっとした熱気と共に床にオレンジと赤の混じり合ったねっとりとした川が広がる。

「わ、わわっ、や、やべえよっ、早く逃げねえと……っ」

 溶岩を目の当たりにして、ひどくうろたえたのはポップだった。噴火ならばいざ知らず、溶岩の流れる速度は人間の歩みよりもまだ遅い程度だ。恐れるほどには速くはないのだが、一気に上がった温度の方が彼を焦らせているようだ。

 死者であるモルグには感じられないが、あまりの熱気のせいで周囲の空気が陽炎めいて揺らめいているのが見える。溶岩が床石を溶かしながら、広間を侵食していく。その速度はゆっくりとしたものではあったが、確実にその領域を増やしていた。

 もう、時間はそうないだろう。
 そう判断し、モルグが再度促しの言葉をかけようとした時のことだった。
 ヒュンケルが、やっと顔を上げて重い唇を開く。

「……よかろう。貴様の望み通り、休みをくれてやる」

 低い声には、全く感情が込められていない。
 だが、だからこそ万感の想いがその言葉の裏に込められているのが、モルグには分かる。彼の顔を見るまでもなく、その声を聞くだけでこれが苦渋の末の決断だと理解できる。

 突き放す、素っ気ない口調がありがたかった。その答えこそが、モルグが心から望んでいるものにならない。
 だが、それを聞いて、ダイに支えられてかろうじて立っている様な有様のポップがくってかかる。

「お、おいっ!? てめえ、何を言い出しやがるんだよっ!? こんな所に、この人を置いていく気なのかよ!!」

 あれ程逃げたがったくせに、怪物を見捨てていくのは嫌なようだ。本気で腹を立てて怒鳴っているポップの言葉を聞いて、モルグは少しくすぐったいような、照れくさいような気分を味わう。こんな形で庇ってもらえるとは思わなかったが、嬉しくないわけがない。

 しかし、その厚意には感謝するものの、ポップのお節介はモルグにはありがた迷惑ではある。
 よろめきながらヒュンケルにつかみかかろうとしたポップを、モルグはやんわりと止めた。

「おやめください、これでいいのです」

「……!」

 その言葉の意味を、ポップが理解できなかったとは思えない。
 一瞬、息を飲んで言葉に詰まった事実こそが、ポップがモルグの現状を理解している何よりの証拠と思えた。
 なのに、ポップは諦めが悪かった。

「だ、だってよ、そんなのあんまりじゃ……ッ、なんか、方法とかあるかもしんないのに……っ」

 今にも泣き出しそうな顔で、しどろもどろに根拠もなく食い下がるその口調の子供っぽさに、モルグは微笑まずにはいられない。

 しかし、モルグは首を静かに横に振って否定の意思をしめした。
 それでもまだ割り切れないのか、ポップはモルグに手を差し伸べようとする。だが、その手をがっしりと掴んだのはヒュンケルだった。

「!! な、何すんだよ、離せよっ」

 藻掻くポップを引き寄せるついでに、ヒュンケルはもう片方の手でダイの肩も掴む。それから、ヒュンケルはモルグに向き直った。

「気が済むまで、好きなだけ休むがいい。オレ達は――先に行く」

 それが、モルグが聞いたヒュンケルの最後の言葉だった。ダイやポップが上げたらしい抗議めいた言葉は、澄んだ鈴の音に掻き消される。その音を聞きながら、モルグは丁寧に礼を告げた。

「ありがとうございます、ヒュンケル様」

 その言葉が、きちんと主君の耳に届いたかどうか。
 思い出の鈴は、その音が鳴り終わる前に効力を発揮した。ひとかたまりになった三人の姿は、鈴の音色が消え終わる前に掻き消えた。寂しげな鈴の音の余韻が消えた時にはもう、モルグの目の前にあるのは無人の広間だけだった。

 だが、モルグは今、目の前に彼らがいるかのようにもう一度丁寧に礼を告げて、頭を下げた。

「本当に、感謝いたします。あなた達に会えたのは、私にとってこの上ない幸運でしたとも……」

 不死系怪物にも、自分の意思や感情は残っている。
 かつての主君であるハドラーも、そして次に主君となったミストバーンも、モルグにとっては理想の主君とはほど遠かった。すでに化け物となった身の上ではあるが、モルグの心は人間らしさが残っている。

 モルグとしては、人間を苦しめるような戦いに参加したくはなかった。記憶にないとは言え、自分の家族や知り合い、もしくはその子供達が被害に遭うかも知れないのだ。そう思えば、魔王軍に荷担するなどとんでもなかった。

 しかし、不死系怪物には自由などない。
 不本意であろうとも、命令には従わざるを得ない。

 ヒュンケルに仕えることも、モルグは最初は嫌で嫌で仕方がなかった。ヒュンケル自身が、嫌だったわけではない。バルトスの養子であり、幼い頃の姿も記憶しているだけに、モルグは常にヒュンケルには保護者意識じみた好意を抱いていたし、同情すら感じていた。

 不快でたまらなかったのは、ミストバーンの――ひいては、大魔王バーンの思惑の方だ。
 ヒュンケル自身は知るまいが、バーンが見込んだのは決してヒュンケルの剣技だけではない。

 バーンが真に気に入ったのは、ヒュンケルの複雑な生い立ちと復讐心だ。
 師匠に対する愛憎を抱え込み、誤解からアバンや人間を憎もうとする一途な青年の心理が、バーンを引きつけた。バルトスを父と慕う人間の青年の葛藤を、バーンはまるで見世物であるかのように楽しんでいた。

 実際、バーンにとっては見世物感覚だったのだろう。
 真実を知らないまま自らの手で人間達を滅ぼそうとするヒュンケルの復讐劇を、バーンは存分に楽しんでいた。その芝居に無理矢理荷担させられながら、モルグは常にもどかしさを感じ続けていた。

 モルグは、何度思ったことだろう。
 ヒュンケルに、魂の貝殻に込められたあのメッセージを聞いて欲しい、と。モルグが魂の貝殻を見つけ、そこに込められたメッセージを聞いたのはヒュンケルに仕えるよりも前の話だった。

 あれは十年以上は前の話だろうか。
 ハドラーからミストバーンに地底魔城ごと不死系怪物達が譲渡された際、モルグには執事役が命じられた。今思えばあの時からミストバーンは、いずれヒュンケルに地底魔城を与える心づもりがあったに違いない。

 城を人間が暮らせるように整えておけという命令を受けた。
 その命令に従い、来る日も来る日も城の整備に明け暮れていた頃、モルグは偶然、隠し部屋を見つけた。

 いや、それは偶然とは言い切れないかもしれない。
 バルトスやその養子を気にしていたモルグは、意図的に彼らの痕跡を探していたのだから。

 ヒュンケルがかつて暮らしていた部屋を記憶していれば、隠し部屋を探すのは造作もなかった。なにしろ、ヒュンケルがかつていた部屋の奥にこそ、隠し部屋はあったのだから。

 ヒュンケル自身は認めようとはしなかった、気絶したポップをこっそりと寝かせておいたあの小部屋こそが、かつてヒュンケルが暮らしていた部屋だ。
 そこで見つけた魂の貝殻により、モルグは真相を知った。

 だが、それをヒュンケルに直接伝えることは、モルグにはできなかった。そもそも伝えたくともあの頃、ヒュンケルの行方をモルグは聞かされてはいなかった。

 本当はその時期にはすでにヒュンケルはミストバーンの弟子として魔王軍入りしていたのだが、その当時はモルグはヒュンケルはアバンに連れて行ってもらったのだろうと思っていた。モルグはアバンを噂でしか知らないが、彼の勇者としての名声は高い。

 その上、バルトスが息子を託そうとした男だ。
 それならばきっと、ヒュンケルは人間の世界で幸せに暮らしているだろう……そう思うことは、モルグにとっても唯一の慰めになった。

 それだけに、二年前の再会は驚きだった。
 ミストバーンが今日から地底魔城の城主だと紹介した戦士は、見るからに荒んだ目をした青年だった。幸せなどとはほど遠い、ひどく冷たい目をした青年がヒュンケルだと名乗るまで、モルグは彼の正体に気がつかなかった。

 よくよく見れば、幼い頃の面影は残っている。
 ごく珍しい、ほとんど白に近い銀髪や紫色の目などは確かに、あの時に見た幼子と同じだ。――だが、15年の月日は、ヒュンケルからあまりにも多くのものを奪っていた。

 笑顔も、明るい声も、すでにない。
 無邪気な目で、不死者であるバルトスを父と慕っていた幼子は、もういなかった。

 そこにいたのは、アバンを憎むあまり人間全てまでも皆殺しにしようと考えている復讐鬼だった。

 あまりにも様変わりしたヒュンケルの姿に、モルグはどんなに心を痛めたか。かつて地底魔城の不死系怪物達の希望であり、光そのものだったような子供は、素直さを失って歪んだ復讐心に囚われていた。いや――巧妙に、歪められたと言うべきなのか。

 皮肉な復讐劇を楽しみたいと望むバーンの意思が、ヒュンケルの運命を大きく狂わせていた。

 それをなんとか直してやりたいと思っても、モルグには何も出来なかった。ヒュンケルがかつての自分の居住していた部屋に気づかずに通り過ぎ、的外れな復讐だけに心を奪われているのを黙って見ているしかなかったのだ。

 それだけに今回のアバンの使徒との戦いには、モルグは不安とある種の期待感を抱いていた。
 もしかすると、彼らならばヒュンケルを救うことができるのではないか、と――。

 その期待は、裏切られなかった。
 まだ少年の魔法使いも、幼い勇者も、あの淡い赤毛の娘も、例外ではない。彼らは確かにヒュンケルを救ってくれたのだ。

 しかし、バーンやミストバーンは予定外の演出は好まなかった。
 だからこそミストバーンはヒュンケルが真相に気がついた段階で、いち早く幕を下ろそうとした。

 あの鐘の音――不死系怪物達全ての理性を奪ったあの鐘が鳴り響いたあの瞬間、モルグがどんなに絶望したことか。

 知っていたはずの知識をヒュンケルに伝えることも許されぬまま、自分の意思に反してヒュンケルを殺さなければならないと知った時の恐怖感は、今も忘れられない。

 しかも、悲惨なことにモルグには凶暴化してしまっても、意識は残っていた。

 自分の身体が全く思い通りに動かないのに、それでもモルグの目は目の前の光景を見ていたし、自分が何をしているのか自覚もあった。ヒュンケルに襲いかかりながら、モルグはただ、ひたすら願っていた。

 救われることでも、ヒュンケルを救うことでもない。モルグが願っていたのは、自分の死だった。こんなことのために使われ続けるぐらいなら、せめて一刻も早く、真の意味での死を迎えたいと望んだ。

 だが、そんなモルグに与えられたのは、『奇跡』だった。
 今、思い返しても、何が起こったのかモルグには分からなかった。召還主の意思により理性を殺されたモルグは、もう二度と正気には戻れないと覚悟していたのに、なぜ正気を取り戻せたのか。

 ヒュンケルの想いが、奇跡を呼んだのか。
 僧侶の娘の慈愛に、特別な力があったのか。
 それとも、あれが勇者の力だったのか。

 色々と思い浮かべるモルグだったが、あの場にいた小さな金色のスライムのことまでには思いは至らない。
 
 モルグに分かったのは、ヒュンケルの声を聞いたあの瞬間、自分がミストバーンの部下からヒュンケルの部下へと移り変わったことだけだった。
 いったいどんな奇跡が起きて、自分の主君が変更されたのか……それは、モルグには分からなかった。

 だが、それがどんな神のもたらした奇跡だろうと、あるいは悪魔のもたらした罠だったとしても、構わない。モルグにとっては、ミストバーンの支配から逃れ、名実ともにヒュンケルの配下になれたのは望外の僥倖だった。

 ヒュンケルの部下となれたからこそ、ミストバーンの命令に逆らうことができた。ごく短い間だったとは言え、自分自身の意思で自分の選んだ主君に仕えることのできる幸運を、モルグは存分に噛みしめた。

 しかし――だからこそ、モルグはヒュンケルの部下で居続けることはできない。

(あの少年が、あまり気に病まないでくれるといいのですが)

 ヒュンケルにくってかかっていた魔法使いの少年を思い浮かべながら、モルグは苦笑する。

 彼には、心から感謝している。
 ヒュンケルが真相に気がつけたのは、ポップの助力があったからこそだ。あの魔法使いの少年の言葉がなければ、ヒュンケルは真相に気づかぬまま、作り上げられた舞台の上で自覚もないまま見世物となり続けていたことだろう。

 驚くほど頭が良いのに、同時にあの子は呆れるような子供っぽさや人の良さも持ち合わせているようだった。
 それだけに彼が自分で自分を責めるのではないかと、モルグは少しばかり心配だった。

 最後の鐘をならすのは、ある意味では不死系怪物にとっては自殺と同じことだ。

 あの人の良さと若さでは、他者の自殺に関わって平然と過ごせるとはとても思えない。たとえモルグ本人が望んだこととは言え、最後の鐘を鳴らす手助けをしてしまったことをポップは悔いているかもしれない。

 だが、そんな心配はしなくてもいいと、出来るのならば伝えてやりたいと思う。

(どうか、気になさらないで下さい。最後の鐘が鳴ろうと鳴るまいと、同じことだったのですよ)

 不死系怪物とは、穴の開いた船のようなものだ。
 本来ならば穴から水が入り込めばあっさりと限界を超え、水没するのが相応しい末路だろう。しかし、強い魔法力を持つ魔族ならば、その限界を超越することができる。

 召還主の魔法力によって無理矢理にその穴を塞ぎ、沈みそうな船を維持し続けることができる――そう考えていい。

 だが、それはあくまで応急処置に過ぎない。一度、死んだ肉体を完全に元に戻すことなど、どんな魔族にも不可能だ。それは、神にのみ許された奇跡なのだから。

 魔族の与える命はあくまで擬似的なものであり、かりそめの生にすぎない。主君からの魔法力が途絶えてしまえば、当然、再び船に穴が開く。
 そうなれば本来の運命通り船には、水が溢れて沈むだけの話だ。

(……それでいいのでごさいますよ、ヒュンケル様)

 ヒュンケルには元々、魔法力がない。
 彼を主君と崇めることに何の躊躇いもないし、むしろ喜びを感じるが、不死系怪物の維持という点から見れば、ヒュンケルは最悪の主君だ。魔法力のないヒュンケルから、魔法力が与えられるはずもない。

 魔法力の供給がなくなれば、不死系怪物は活動を停止するしかない。
 モルグにわずかに残った魔法力――ミストバーンから供給されていた残存の魔法力を使い切れば、それで終わりだ。最後の鐘の音色を聞く前から、モルグの中の魔法力の量は自覚していた。

 ヒュンケルと共に地底魔城を脱したとしても、自分に残された時間がごくわずかなのは、モルグ自身が一番良く分かっている。

 魔法力の高い人間や魔族を生贄とし、無理矢理魔法力を奪い取るという方法がないわけではないが、モルグはそんな道など望みもしないし、また、ヒュンケルにそんな方法を選択して欲しいなどとは夢にも思わない。

 だからこそ、モルグはこの地底魔城から脱出しない道を選んだ。ヒュンケルの部下のままで、この地底魔城で眠りに就きたいと望む。
 すぐ足下まで迫ってきた溶岩を前にしながら、モルグは逃げようとさえしなかった。

 もっとも、逃げたいと思ったところでもう、身体は動かなかった。目も機能しなくなってきたのか、周囲がよく見えない。身体の動きが鈍ってきたのは最後の鐘の効力なのか、それとも残りわずかな魔法力がとうとう尽きたせいなのか分からないが、どちらにせよ残り時間は長くはないだろう。

 だが、それでもモルグは目を瞑りたいとは思わなかった。
 ギリギリの時まで、見届けたいものがある。

(バルトス様……お喜び下さい)

 赤子だったヒュンケルを拾い、育てたあの男ならば、今のモルグの気持ちを理解してくれるだろうと思う。
 バルトスの自慢の息子が、正しい道に向かって歩き出した――それが、自分のことのように嬉しい。

 あの魔法使いの少年のおかげで、ヒュンケルは過去の真実を見ることが出来た。魔族の卑劣さを知り、真の仇の正体を知ったヒュンケルは、この先はもう二度と道を踏み誤るまい。

 かつてバルトスが望んだように、ヒュンケルはこの薄暗い地底魔城を抜け出して、太陽の光の下に人間として生きていく。そして、それは孤独なものではあるまい。

 彼の側には、同じ師に教えを受けた兄弟弟子達がいる。
 ヒュンケルと同じように、怪物に育てられた経歴を持つ勇者とは、きっと分かり合えるだろう。あの慈愛に満ちた優しい少女は、モルグを救ってくれたのと同様に無償の優しさをヒュンケルにも注いでくれるに違いない。

 そして、あの魔法使いの少年の、真正面から喧嘩を売るあの態度さえ、ヒュンケルには決して悪いものではあるまい。遠慮無しに本気をぶつけてくるあの少年こそが、ヒュンケルにきっかけを与えてくれたのだから。

(ヒュンケル様――!!)

 モルグは、大きく上を振り仰ぐ。
 彼の目は、崩れてくる天井や流れ落ちる溶岩など見ていなかった。すでに霞んでいた彼の目が映していたのは、姿をしかとは覚えていない家族の幻だったのか、それとも忘れることのできない最後の主君だったのか。

 いずれにせよ、その直後、マグマの奔流がモルグもろとも広間を覆い尽くす。

 ――そして、鈴の音がチリンと小さく鳴った。        

                                    《続く》  

 

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