『もう一つの救済 31』 |
高く、低く、鐘の音が響き渡る。 地底魔城の中で聞いた、モルグの持っていた鐘から聞こえた濁った音色と比べれば信じられない程澄み切ったその音は、普段ならばつい耳を傾けるだけの魅力があった。 だが、今はその音色以上に足下を揺るがす鳴動の方が遙かに気にかかる。 その目に映る地底魔城は、素人目にもすでに危ない状況だった。地面の揺れに加え、はっきりと体感できるほど上昇した気温――ここが火山であることを考えれば、不吉な予感が否応なくこみ上げてくる。 「だ、大丈夫なのかのう? まさか、火山が噴火したりはしないじゃろうな?」 「うむ……」 曖昧な頷きとは裏腹に、地底魔城を見据えるクロコダインの目は真剣そのものだった。 バダックにとっての疑問は、クロコダインにとっては口にするまでもない真実だ。獣人特有の直感により、クロコダインは火山の異常をすでに確信していた。 噴火とまではいかないかもしれないが、それに近い災害が起きるのではないかとクロコダインはすでに感じ取っていた。 自分達は、まだいい。 しかし、地底魔城の奥深くにいるダイ達はそうはいくまい。彼らが溶岩に飲み込まれるのではないかという危惧が、拭いきれない。いや、下手をすればすでに、地底魔城の下層にいるはずの彼らの居場所が溶岩の海となっていてもおかしくはない。 まだ脱出できないのだとすれば、手を貸した方がいいのかもしれない……そんな風に思い始めたクロコダインだったが、そんな彼の迷いを見切ったようなタイミングで凜とした声が響き渡る。 「大丈夫よ……! ダイ達は、きっと大丈夫だわ」 強く、そう言い切るマァムだが、その声はわずかに震えていた。しかし、この生真面目な少女は信じると決めたことを翻したくないとばかりに、己の主張を崩さない。 「ポップをお願いって頼んだ時、ヒュンケルは……頷いてくれたわ」 信じると決めたのならば、たとえ少しでもそこに疑念を挟むのが失礼だとでも思っているかのように、マァムは不安をこらえて自分に言い聞かせる様に呟く。 無意識なのか祈るように両手を組み合わせているマァムの肩には、小さな金色のスライムが乗っている。 「ピィ……」 小さな声で可愛らしく鳴くゴメちゃんもいかにも心配そうで、地底魔城から一時も目を離さない。そこから現れるであろう人影を見逃さないようにと、気を張っているマァムとゴメちゃんは、そのせいで背後から聞こえてくる鈴の音に気づくのが一歩遅れた。 「ムッ……!?」 その音と気配に真っ先に気がついたのは、クロコダインだった。咄嗟に斧を手に身構えた彼の動きを見て、やっとマァムやバダックも振り向く。 涼やかな鈴の音と共に、突然、何の前触れもなく一塊となった人影が出現する。それは、紛れもなくダイとヒュンケル、それにポップだった。 「ポップッ!!」 ダイやヒュンケルの帰還ももちろん嬉しいが、一番心配していたのに生死さえ不明のままだったポップの無事が確認できたことに、彼女が一番気を引かれたのは当然だろう。 単に肩に手を置かれているだけのダイと違って、ポップがヒュンケルに支えられてようやく立っているような有様なのも、彼女の慈愛精神を著しく刺激するらしい。 「ポップ、よかった、無事だったのね? 大丈夫?」 ポップに対しては必要以上にきつい口調で話すマァムにしては珍しく、いつになく優しく話しかけた彼女は、素早く彼の様子をチェックする。外見上、ポップが特に怪我をした様子はないのにホッとしたもの、回復魔法が必要な状態かどうか見極めようとして、彼の様子を確かめる。 だが、ポップは戸惑ったような顔で、やけにキョロキョロしているばかりだ。 「え……マァム? ゴメや、おっさんらも……ここは……!?」 「安心して、ここは地上――地底魔城の入り口に当たる場所よ」 ポップの混乱を鎮めてあげたくて、マァムはまずは事実を告げる。ポップがもう助かったのだと、伝えてあげたかったのだ。 まず、ポップが安全な場所にいることを教えてあげて、それから仲間になってくれたクロコダインやバダックのことを告げたい。 ポップに会うまでは、こんなにも心配をかけてばかりくれた彼に対して言いたいことが山ほどあったが、実際に顔を合わせた今となっては安堵や嬉しさが先にこみ上げてきて、文句などは消し飛んでしまう。 (あ、でも、それよりもポップを先に休ませてあげた方がいいのかも) ポップはひどく顔色が悪いし、立っていることさえ辛そうだ。マァムの答えを聞いて、落ち着くどころか尚更顔色が悪くなったように見えるポップを心配して、マァムは手を伸ばそうとした。 だが、ポップはマァムの手などまるっきり見えていない様子だった。地底魔城を見下ろしたかと思うと、ものすごい勢いでヒュンケルを振り向く。 「ポップ!?」 突然のポップの行動に、マァムはもちろんダイやクロコダイン達も驚いたように彼の名を呼ぶ。特に、マァムの声音には言外に非難の響きが込められていた。 出会いが出会いだったとは言え、ヒュンケルはポップを助けるために力を貸してくれたはずだ。なにより、今の今までヒュンケルに支えられていたのに、その手を引っぱたくように撥ねのけるなんて、いくらなんでも失礼すぎるのではないか――そう思ったのだ。 だが、ふらつきながらもポップのヒュンケルを見る目は、敵を見るそれだった。 「なんでっ、勝手に……っ! なんで、あそこからおれを連れ出したりしやがったんだよ!?」 怒りに満ちた叫び声を、マァムは理解できなかった。
マァムは何とか窘めようとするが、ポップの怒りは治まらなかった。肩で息をしているくせに、息の全てを吐き出すかのような勢いで怒鳴りつける。 「なんで……っ。なんで、あのモルグって奴を見捨てたんだよっ!?」 「え……?」 マァムが、その言葉の意味を理解するまで一拍の時間を要した。 何度見返しても、三人しかいなかった。 モルグのヒュンケルへの忠誠ぶりも併せて考えれば、それはいかにも不自然だった。 「ヒュンケル……! モルグさんは……どうしたの?」 ポップの叫びにもそうだったように、震えがちのマァムの問いにも、ヒュンケルは顔色一つ変えなかった。 ちょうどその時赤い溶岩がボコリと湧き上がり、地底魔城の入り口を塞ぐのが見えた。そのまま溶岩の海が広がっていくのを見て、マァムは胸が潰れるような痛みを感じる。 ――まだ、彼があそこにいるのだとすれば、助かるわけがない。 だが、こんな足場の悪い場所で、ただでさえふらついているポップがそうするのは明らかに無理がある。うっかり足を滑らせそうになったポップの腕を掴み、引き戻したのはヒュンケルだった。 「よせ。――もう、おまえが行っても意味がない」 感情を切り捨てたように淡々とした言葉だったが、ポップを引き留めた腕にマァムはヒュンケルの優しさを垣間見る。ぶっきらぼうではあるが、明らかにヒュンケルはポップを心配して引き留めたのだから。 「なんだよ、その言い草はっ!? てめえ、よくそんなことが言えるなっ!!」 声を荒げ、ポップはヒュンケルに向き直って殴りかかろうとした。その動きが見えないわけでもないだろうに、ヒュンケルはじっとしたまま動かない。 あたかもポップのその怒りが正当な物で、自分にはそれを受け入れるべきだとでも言わんばかりに無言で佇んでいる。 「やめて、ポップ」 「なんだよ、マァム!? おまえ、こいつを庇うのかよ!?」 憤慨したように叫ぶポップに、マァムは静かに首を振った。 もし、ポップが全力でヒュンケルに殴りかかったとしても、完全武装した彼にダメージを与えられるとは思えない。 ヒュンケルは避けようとさえしなかったが、それでもむしろ、殴ったポップの方が手を痛めるだけではないかと思える。 「そうじゃないわ。……ヒュンケルが一番、辛い思いをしているはずよ」 ポップに責められるまでもなく、ヒュンケルは心中、辛い思いをしている……それを、マァムは確信していた。 なぜなら、マァムは知っている。 正気を失い、敵へと寝返ったモルグに対してでさえ情けを見せたヒュンケルが、無意味に彼を見捨てたりはしないと、マァムは自信を持って言える。 そして、止めるのはポップ自身のためでもあった。 だが、あの人の良い不死系怪物は、ポップを本気で心配していた。 実際、ポップはモルグの死にひどくショックを受けている。きっと、ポップの感じている悲しみやショックは、マァムの感じているそれよりも大きいに違いない。 彼がヒュンケルに突っかかり、憤りをぶつけるのは、悲しみの裏返しにすぎない。――ちょうど、ヒュンケルが父バルトスの死を受け入れきれず、アバンに怒りを感じ、憎しみをぶつけようとしたように。 そんな風に間違った方向で怒りを八つ当たりしては、いけない。 ここで無抵抗のヒュンケルをなじり、殴ったとすれば、後で悔やむのはきっとポップの方だ。 「マ、マァム!?」 なぜかポップが焦ったように藻掻くが、マァムは手を緩めなかった。しっかりとポップの身体を抱きしめながら、訴えかける。 「間違えないで、ポップ。モルグさんだって、ポップがそんなことをしてもきっと喜ばないわ」 ハッと、ポップが息を飲むのが分かった。 もう、ポップにはヒュンケルに突っかかるだけの気力もなさそうで、マァム的にはホッと出来たのだし、見守っている立場のクロコダインやバダックなども安心したように見える。 なのに、ヒュンケルだけがただ一人、そうではなかった。 そんなヒュンケルに対して、マァムは何か言葉をかけてあげたいと思った。しかし、彼女がヒュンケルに一歩踏み出すよりも早く、彼に近づいたのは小さな勇者だった。 「あのさー、ヒュンケル。あのね、これ……モルグさんに、後でヒュンケルに渡してくれって頼まれたんだけど……」 そう言いながらダイがポケットから出したのは、掌にのるぐらいの大きさの貝殻だった。 (なぜ、あんな物を?) 疑問が、マァムの脳裏に浮かぶ。 渡しているダイ自身も、モルグに頼まれて実行している感がありありだ。なぜこれを渡さなければいけないのか分かっていない感じで、戸惑っているのが分かる。 しかし、その貝殻を前にしてヒュンケルは凍りついた様に動かなくなった。信じられない物を見つめる様な目で貝殻を見るヒュンケルの態度からすると、重要な意味がある物らしい。 戸惑いながら成り行きを見守るマァムのすぐ隣で、聞き慣れた声が呟かれる。 「魂の貝殻、だ」 今にも倒れ込んでしまいそうなところを、手で身体を支えてなんとか座り込んでいる状態ながら、ポップの目はしっかりとその品に向けられている。 「前に……、アバン先生から習ったことがある。魂の貝殻は、死に逝く者の魂の声をメッセージとして封じ込める魔法道具だって。 その問いにヒュンケルは答えなかったが、その沈黙こそが答えになっていた。だが、それでも彼は貝殻を受け取ろうとはしない。 「ダイ、それ、どこにあったんだ?」 「えっと、ポップが閉じ込められていたっていう部屋の奥の、隠し部屋の宝箱 「あの宝箱か!? つーか、おまえ、あんな怪しげな宝箱、開けたのかよっ! もしミミックかなんかだったら、どうする気だったんだよ!?」 自分の無茶を棚に上げてダイの無謀さを毒づいてから、ポップはヒュンケルに向き直った。 「まあ、いいや。ヒュンケル、それ、聞いてみろよ。それには多分……」 そう言いかけてから、ポップは首を軽く振って言い切った。 「いや、絶対におまえの親父さんの言葉が入っているはずだから」 (……父さんの……?) 強い驚きに、ヒュンケルは目を見開く。 だが、なぜ分かるのかとポップに問いただす気さえ起こらなかった。自分でも不思議だが、説明を聞く前にポップがそう言うのならそうに違いないと、すんなりと納得する気持ちが生まれている。 今まで、ポップの指摘に間違いはなかった。何も知らない癖に、それでも驚くほど見事に真実を看破する魔法使いの目を、いつの間にか信じていた。気がつくとヒュンケルは自然に手を伸ばし、その貝殻を耳に当てていた。 『……ヒュンケル……我が子よ……』 それは、懐かしくも新鮮な驚きをもたらす声だった。 そもそも、ヒュンケルはバルトスの声を忘れていた。なにしろ、バルトスと死に別れたのはヒュンケルがまだ幼い子供の頃の話だ。せいぜい6つか7つ……そのぐらいの年齢だっただろう。ぼんやりとしたイメージや思い出は残っているものの、細かい部分の記憶は時の風化に晒されて薄れてしまった。 特に、魔王軍に入ってからは尚更だ。 復讐心だけが研ぎ澄まされるのと引き替えに、皮肉にも大切にしたいと思っていたバルトスの思い出はどんどん薄れていった。 しかし、記憶とは薄れるものだ。消えはしない。 厚い雲の覆う日には、うすらぼんやりとしか見えない影が、真夏の日差しを浴びればくっきりと地面に黒々とした形を作るように、きっかけがあれば記憶も鮮明さを取り戻す。 今のヒュンケルも、そうだった。 (そうだ……父さんの声は、こんな声だったのだな) 骸骨の身体から出ているとは信じられないぐらい、生気に満ちた声だった。今にして聞けば、意外と若々しく感じられる声だ。 『我が最愛の息子、ヒュンケルよ……』 大仰な言葉が少し気恥ずかしく、それでいて胸が熱くなる。 だが、それでも父もまた、自分を息子と考えていてくれたことを実感できるのは、思いがけないほどの喜びだった。 『おまえに真実を伝えたいがゆえに……ここにワシのメッセージを残す……』 バルトスの声が、15年前の真実を語る。 悲痛なはずのバルトスの最後の一日だったが、魂の声が刻み込まれたメッセージの声音は、終始穏やかだった。 そして、それらの話を聞くヒュンケルの心もまた、凪いでいた。 驚きや疑問に胸を泡立てさせる時は、すでに過ぎ去っていた。ポップでは予想しきれなかった部分もあったし、ハドラーの視点では知らなかったであろう部分もあるため初耳の話もあったが、それでもヒュンケルはバルトスの語る真相をそのまま受け入れることができた。 真相に反発することなく、バルトスの思い出を辿りながら亡き父の声を聞き取ることだけに専念する。 『ヒュンケルよ、どうか人間らしく生きてくれ……そして、アバン殿を決して恨んではならぬ……』 意識せず、ヒュンケルは目を瞑っていた。 どこまで愚かなことかと、ヒュンケルは自嘲する。 (いや……、オレは、オレを恨む) アバンのせいではなかった。ましてや、バルトスのせいでもありえない。 弱かったからこそ、安易に復讐へと心を流した。怒りに目を眩ませ、何も見えなくなった――いや、見ようとはしなかった。きちんと真実を追究しようという気持ちを少しでも持っていれば、いつだって真相はすぐ近くにあったのに。 真実を知りながら、アバンはずっとヒュンケルを見守ってくれていた。 だが、それらの真相からヒュンケルは常にずっと、目をそらし続けていた。 (父さん……、すまない) 深い悔恨が、ヒュンケルの胸を焼く。 もし、今の自分の姿を見れば、父も呆れ、自分を見限るだろう――そう思った時のことだった。 『だが、ワシは幸福だった……』 声音に、明るさが満ちていた。 ヒュンケルが密かに恐れていた失望感など丸ごと包み込むような包容力で、自分は幸せだったと感謝の言葉を告げてくれる。 『……最後に、もう一度だけ言わせてくれ……。……思い出を……ありがとう……!』 それは、ヒュンケル自身も覚えているバルトスの最後の言葉だった。その言葉を最後に、メッセージは途絶える。だが、それでもヒュンケルは貝殻を耳に当てたまま、動けずにいた。 自ら発する音の消えた貝殻は、未だに鳴り響く最後の鐘の音を反響させ、潮騒のように響いていた――。 《続く》 |