『タナバタの夜に 5』 |
『わたしは……いらない子だから……お母様に捨てられたの……』 思い出すのは、膝を抱え込んだ小さな女の子の姿だった。 いつもの気丈さも、明るい笑顔も、今のレナの顔にはかけらもない。孤児院に来たばかりの頃の、怯えきった幼い少女に戻ってしまったように、震えて身を竦ませているだけだ。 「ジェームズ、セーラ! 養女選びはもういいわ、帰りますわよ」 レナの怯えなどまるで気にもとめず、貴婦人は離れた場所にいる男へと声をかけながら歩き出す。 「ちょ……っ、ちょっと待って下さいっ! いきなり、何を言い出すんですか!? レナは、孤児なんかじゃないんですよっ!!」 もっと強い調子でびしっと言いたかったのに、混乱したジャックの口から飛び出したのはそんなどこか間の抜けた制止だった。 当然のごとく、傲岸不遜な貴婦人がジャックのその制止に恐れ入るはずもない。だが、それでも足を止めてくれたのは朗報と言えば朗報だろうか。たとえ、その表情が不作法な青年を見下す様な色合いを含んだものだったとしても、このままレナを連れていかれるよりはましだった。 「あら、もちろんですわ。この娘が孤児などではないことは、わたくし共が一番良く知っておりましてよ。 誇らしげに家名を名乗る貴婦人は、さあどうだと言わんばかりの態度でジャックを見やる。彼女は当然のように、ジャックが貴族の名に驚いて平伏することを期待していたのだろう。 だが所詮は下っ端の近衛兵にすぎないジャックは、貴族の家柄にはあまり……と言うより、全然詳しくはない。それよりも、今まで誰よりも身近に感じていて、誰よりもよく知っていると自負していた彼女の本名が、全く聞きなれないものだったことの方に衝撃を受けていた。 庶民とは違う、姓を持った長くて堅苦しい名前は、ジャックのよく知るレナとは結びつかない。 「えー、レスフィーナなの、この娘が? まあ、相変わらず赤毛なのね。それになんてみすぼらしい服を着ているのかしら」 あからさまな蔑みの声と共に寄ってきたのは、レナよりも少し年上と見える女性だった。彼女の顔立ちや、着ている衣装などは貴婦人によく似ている。 が、貴婦人との唯一にして最大の違いは、彼女の体格だろう。体重ならばたっぷりとレナの二倍はありそうな立派な体格の女性に詰め寄られ、レナはたじろいだように後ずさる。 「お……、お姉……様なの……?」 「いやだ、そんなことも分からないの? 相変わらず、気の利かない子ねー。お母様、こんな子なんかよりも、他にもっといい娘を探した方がいいんじゃない?」 姉とはとても思えない、どこまでも身勝手なその言葉にジャックが呆然としてしまったのはある意味で幸運だった。 そうでなければ、レナをあからさまに馬鹿にする姉に、前後を忘れて詰め寄っていただろうから。だが、幸か不幸か、十数年ぶりのはずの親子の再会は、どこまでもジャックの想像を超えていた。 「いいえ、レスフィーナがちょうどいいわ。 一応問いかける体裁を取ってはいるものの皮肉の要素が強いその言葉に、痩せぎすの紳士は無意味にその場で咳き込んだ。その挙げ句、小声でぼそっと呟く。 「……まあ、その、なんだ。その娘のことは任せるから、おまえの気の済むようになさい」 レナの方を見向きもせず、少し離れた場所に立ったまま近寄りもしない男性に対して、レナは何も言わなかった。だが、大きく見開かれた目や、衝撃を受けたその顔が語っていた。 「ええ、そうさせていただくわ。さあ、あなた、さっさと馬車を出すように命じて下さいな。これから忙しくなるのですからね」 再び、貴婦人がレナを連れて行こうとするのを見て、ジャックは慌てて食い下がった。 「ま、待って下さいってば! レナを連れて行かないで下さい!」 さすがに力ずくで行動に出ようとするほどジャックは短慮ではなかったが、それでも自分にまとわりつく兵士を不愉快に思ったのか、貴婦人が先に切れて声を張り上げだした。 「うるさいわね、邪魔をしないでちょうだいな。ちょっと、誰か! この兵士を止めてくださいな!!」 その頃には、すでにジャック達の騒ぎに他の者も気がつき始めていた。数人の兵士を引き連れて、颯爽とした足取りでこちらにやってきたのはエイミだった。 「これは一体何の騒ぎですか?」 凜とした声を響かせたエイミは、どうやらジャック達のやりとりをある程度は聞いていたらしく、まずは貴婦人を窘める。 「とにかく、その娘の手をお離し下さい。今回のイベントでは養子の話は、段階を踏んで従って頂きますので」 普通の人間なら、イベント会場で主催者から注意されれば自分の非を悟って、引くだろう。少なくとも、ジャックならばそうだ。しかし、貴族の矜持は庶民とはレベルが違うようだ。 「ふん、なんでそんなことをおまえのような小娘に言われなければならないんだ? いいから、責任者を呼べ」 傲慢な口調でそう言ったのは、レナの父親と思しき男だった。つい先ほど、自分の妻に対しては卑屈なまでに低姿勢だったのが嘘のように、がらっと変わって威張り散らしている。 どうやら彼は、強い相手にはとことん下手に出るが、弱い相手には強気に出るという典型的な腰巾着気質の男のようだ。その態度に不快感を抱いたのは、ジャックだけではなさそうだった。 エイミも、眉をひそめたのがはっきりと分かる。しかし、彼女は冷静さを保って毅然と名乗りを上げた。 「責任者は、私です。 エイミが名乗った途端、貴婦人達の顔色が変わる。 「まあ、あなた様が噂に名高い三賢者様でしたの……! 知らぬこととは言えは言え夫がご無礼を致しましたわ、お許しを。 綺麗事で飾られた非の打ち所のない挨拶に、ジャックは怒りを通り越して唖然とするしかなかった。 「この人が……あなた達の娘、ですか?」 さすがに戸惑いを見せるエイミに、貴婦人は畳みかけるように話しかける。 「さようでございます。故あって、昔、この娘をとある孤児院へと預けました。それっきり連絡が取れなくなって心配しておりましたが、まさかこんな所で偶然にも娘に出会えるだなんて、夢にも思いませんでしたわ。 それは、ジャックから見ればありきたりのおべんちゃらにしか聞こえなかった。相手が心酔している人を持ち上げていい気にさせるのは、お世辞の基本中の基本だ。 が、そんなベタベタな手なのにも関わらず、パプニカ王女に絶対の忠誠を誓った若き女賢者は、表情を和らげる。明らかに気をよくした様子のエイミを見て、ジャックは心の中で絶叫せずにはいられない。 (ぁああっ、エイミ様ッ、そんな手に引っかからないでっ!! それ、ただのお世辞だからっ! その女、腹が真っ黒だからっ!) できるならそう耳打ちしたいところだが、相手がポップならばまだしも、いくらなんでも三賢者に対してそんな無礼なことなど言えはしない。 「そう、それはよかったですわね。 「もちろんでございますとも。お調べ頂いても構いませんが、それよりも生き証人にお聞きになった方が早いかと。 勝ち誇った表情で貴婦人が指さした先にいたのは、神父だった。 「……お久しぶりですな、奥方様。またお目にかかれるとは、思いもしませんでした」 今まで、ジャックが聞いたこともないほど険しい表情で、神父は慇懃に貴婦人に向かって挨拶をする。その口調が些か皮肉めいていたことも、驚きだった。ジャックの知っている限り、神父はどんな相手にも穏やかに応対する人だった。それは、孤児達だけではなくその身内に対しても同様だ。 孤児院にいる子供達は、全てが身寄りのない子達とは限らない。 そんな大人達の中には、感心できない者もいるものだ。時にはジャックの目から見てでさえ親として失格ではないかと思えるような親や親類達がやってくる時もある。 だが、ムカムカするほど腹立たしい身勝手な身内が押しかけてきても、神父は決して腹を立てる様子を見せない。その神父がここまで苦々しい表情を隠しもしないのを見たのは、ジャックも初めてだった。 しかし、貴婦人の面の皮はどこまでも厚い。神父の皮肉など気にとめる様子もなく、しゃあしゃあと挨拶をする。 「本当に、久しいですわね。見ればずいぶんと面変わりされたご様子……、あの娘に先に会わなければ、気がつかなかったかもしれませんね」 本気で言っているのか、皮肉を返しているのか分からないか、慇懃無礼さに満ちた貴婦人の言葉を、神父は軽く笑って流した。 「はは、寄る年波には勝てませんからな。しかし、奥方様は少しもお変わりのないご様子……月日も、貴女を避けて通られたようですな」 如才なくそう言ってのけながら神父が痛ましそうにレナの方に目をやるのを、ジャックは見逃さなかった。 (ああ、そうか……分かりさえしなければよかったのに――) 心底、ジャックはそう思わずにはいられない。 その年齢なら家族の顔は覚えている年頃ではあるが、それにしても15年の月日は長い。それだけの月日が経てば子供は成長するし、親の方も年を取る。容貌が大きく変化する可能性は、高い。 月日をおいて再会したとしても、互いに相手が親子だと分からない可能性は十分にあったはずだ。 しかし、身分の高い貴婦人は美容にはやたらと執心するものだ。 その度に女は化け物だと実感させられたが、この貴婦人もおそらくはその類いなのだろう。レナの記憶に残るままの母親の姿だったからこそ、つい、彼女は「お母様」と呼んでしまったのだ。 それさえなければ、この貴婦人はレナに気がつかなかったかもしれないのに。 「お答え願います。この方のおっしゃっていることは、本当なのですか?」 エイミの問いに、神父は深いため息をつく。 「――ワシもこれでも神に仕える身、偽りを口にするわけにはいきませぬな。いかにも、そちらのご夫妻はレナの……この娘の両親です。 神父の言葉を聞いた瞬間に、貴婦人の顔に再び勝利の笑みが浮かぶ。 「ほら、おわかり頂けましたか? 「え? え、ええ……、それは、そうかもしれないけれど……」 だが、孤児ではなくその世話役が、しかも実の親子が15年ぶりに再会したらどうすればよいのかなんて、考えたこともなかったのだろう。 (あぁああっ、エイミ様っ、しっかりっ!!) 以前、ジャックは先輩の古参兵から聞いたことがあった。 単調で根気を必要とする日常の業務に関しては、彼らの真面目さは信用がおける。しかし、非常時には三賢者はいささか対応に鈍いところがあるため、緊急時や突発事項に対しては大魔道士や姫の方が頼りになるのだ、と。 その話を聞いた頃は、ジャックは特に何とも思わなかった。 こんな時には、三賢者はどうにも頼りない。 ついさっきまでは、レオナやポップが自分達の前に不意打ちで出現するのをあれ程恐れていたが、今となってはあの二人にすがりたい。身勝手だとは分かっていても、彼らが今すぐ来てくれればと思わずにはいられなかった。 面白がって物事を引っかき回すこともあるが、ポップやレオナが抜きんでた機転と判断力を持っているのは事実だ。揉めごとを起こす割には、それをうまくまとめる技術にも長けている。 口も達者なあの二人なら、エイミのように貴婦人の口車に乗せられて黙り込むなんてことはあり得ない。 (お願いですッ、今、レナを助けてくれるのならもう、大魔道士様が朝ご飯抜きで寝坊しても、隊長に内緒でこっそり城を抜け出しても文句を言いませんしチクりませんし、姫様が無茶を言い出してもなんでも従いますからっ!!) 心の底からの祈りだった。 「そうでございましょう? さすがは三賢者のエイミ様は、賢明でいらっしゃること。では、わたくし共はこれで失礼いたしますわ。なにせ、15年ぶりの家族水入らずを過ごせるのですからね」 心にもない言葉をさも最もらしく言う貴婦人に、制止の言葉を投げつけたのは神父だった。 「お待ち下さい、奥方様。確かに親子の再会は喜ばしいことはありますし、家族でお過ごしになりたいと思う気持ちも理解できます。 おっとりとしている様に見えて、神父はこれでなかなかに老練だ。 「そ、そうです、そんな、一方的にも程がありますよ! レナの意思も聞かないで、勝手に連れて行くだなんて……っ!」 神父の言葉に力づけられ、尻馬に乗る形でジャックは必死に言い立てる。神父を援護してレナを引き留めたい一心での言葉だったが、彼がそう言った途端、貴婦人の目がジャックに向けられた。 「そこな兵士、よいことを言いますわね。 鼻先で軽く笑い、貴婦人はレナに向き直る。そして、どこか芝居がかった優美な仕草で彼女をやんわりと抱きしめた。だが、その抱擁が親子のものと見るには些か不自然なのは、貴婦人が直接はレナの身体に触れないように気をつけながら、形ばかりの抱擁を行っているせいだ。 レナには決して触れないように気を遣いながら、貴婦人は彼女の耳元に何かを囁きかける。その言葉までは聞こえなかったが、それを聞いてレナが身を強張らせたのがはっきりと見えた。 「さあ、レスフィーナ、皆さんにあなたの口から、ちゃんとおっしゃなさいな。あなたの本当の気持ちをね。 どこまでも優美で、それでいて裁判官のように厳粛で公平さを感じさせるその言葉を聞いた時、ジャックはホッとしていた。 いかにこの貴婦人が傲慢でも、自分の口からこうまで言った言葉をすぐさま前言撤回することなんてできないだろう。ましてや、この場には三賢者であるエイミがいるのだ。 「ええ、もちろんです!」 その瞬間、貴婦人の顔に再び勝ち誇った笑みが浮かび上がった。同時に、神父の顔には不安そうな色合いが浮かぶ。だが、レナに気を取られていたジャックは、うかうかとそれを見逃していた。 青ざめ、小刻みに震えながら、レナは俯いたまま小さな声を振り絞る。やっと聞こえる程度のその声は、ジャックにとっては信じられない言葉を告げた。 「私は……、やっと会えたお母様達と、家に帰りたいです……!」 「レナッ!?」 唖然として、ジャックはレナの名を呼んだ。 「お聞きになったでしょう? これは本人の希望でもありますわ、エイミ様。これならば何の問題もございませんわよね。神父やそこの兵士も納得が出来たでしょう? どこまでも朗らかにそう挨拶すると、貴婦人はレナを連れて馬車へと向かう。 「レナお姉ちゃん!? どこに行くの!?」 「レナ姉ちゃんッ、行かないでよっ! ねえ、これってどういうことなの!?」 「ジャック兄ちゃん、何やってるんだよ!? レナ姉ちゃんが連れて行かれちゃうじゃないか!!」 泣きそうな子供達の声は、普段だったらジャックだけでなくレナにとっても捨て置けるものじゃない。 しかし、今のレナは子供達の声を聞いても振り向かなかった。 《続く》 |