『タナバタの夜に 6』
  
 

「すると、なんと言うことでしょう、たちまち巨大な川が二人の間を隔て、ヒコボシとオリヒメは離ればなれになってしまいました。愛し合う二人は、引き裂かれ、自由に会えなくなってしまったのです」

 おそらくは川に見立てているのであろう、長い水色の布が舞台の真ん中を過ぎり、若い男女を離ればなれへと引き離す。引き裂かれた二人は、身も世もないと言った風情でその場に泣き崩れた。

 さすがはプロと言うべきか、その演技に子供達はすっかりと夢中になっているらしく、あちこちからオリヒメやヒコボシが可哀想だの、助けてあげてなどと騒ぐ声が聞こえてくる。
 すっかりと芝居の中に引き込まれ、その世界に入り込んでいるらしい。

 だが、ジャックはそうではなかった。
 孤児達と一緒にタナバタの芝居を眺めてはいるものの、その表情はあまりにも悲痛だった。芝居の中の登場人物に同情しているのを通り越して、本気で嘆き悲しんでいるジャックの表情は葬式に参加しているかのようだ。

 芝居に入り込むと言うよりは、芝居を自分達へと重ねて見ているジャックの目に映っているのは、引き裂かれた恋人達はオリヒメやヒコボシなどではない。
 レナと自分の姿が、重なって見えてしまう。

(レナ……もう、会えないのかな……)

 舞台の上で、向こう岸が見えない程の大河を前に絶望しているヒコボシの心境が、今のジャックにはひしひしと分かる。

 レナがいなくなってから、三日経った。
 あの時、家族の手によって連れて行かれたレナは、あれっきり戻ってこないままだ。挨拶どころか、レナの私物さえ取りに来る気配もない。

 ジャックや神父がパトリオット家に面会を申し入れに行っても、すげなく門前払いされてしまって、連絡一つ取ることは出来ない。まさに引き裂かれた恋人達の悲劇を身をもって味わうジャックは、決してハッピーエンドとは言い切れない伝説の恋人達の結末さえが羨ましく思える。

「こうして、ヒコボシとオリヒメは年にたった一度、タナバタの夜にだけ会うことが許されました。
 ただし、それは晴れている日だけ。雨が降ったのならば、彼らは会うことができずにまた一年に一度の日を待たなければならないのです。
 さあ、皆さんも今年のタナバタが晴れるよう、二人のために祈ってあげて下さい――!」

 ナレーター役の女性の締めくくりの言葉に、孤児達は目一杯の拍手を送る。彼らがヒコボシとオリヒメに感情移入し、応援しているのは明白だ。
 しかし、ジャックは拍手をしようという気にもならず、半ば捨て鉢な気分で物語の中の恋人達にケチをつけてしまう。

(なんだよ、今年会えなくっても来年は会えるんならいいじゃないかよ)

 だが、ジャックとレナは――もう二度と、会えないかもしれない。

(まさか……レナが貴族だったなんて……)

 そんなこと、一度も考えたこともなかった。
 確かにレナが孤児院に来た時は、結構立派な服を着ていた様な記憶がある。だが、当時のジャックも幼かっただけに、彼女が孤児院に来た事情などまでは詳しくはない。

 ジャックが知っているのは、立派な馬車が孤児院にやってきたこと、子供が二人乗っていたのに、年下の子……レナだけを預けていったことだけだ。
 今思い返してみれば、あの年上の子がレナの姉、セーラだったのだろうとは思う。正直言って、何一つ印象に残っていないが。

 だが、幼かったレナが孤児院に打ち解けるまでずいぶん時間がかかったことを、ジャックは覚えていた。
 それは、孤児院ではそう珍しい光景ではない。

 孤児達は、望んで孤児院に来るわけではない。大人の都合ややむを得ない事情で、孤児院に来るしかない場合がほとんどだ。家族と引き離され、今までの生活とは全く違う、知らない人しかいない場所に連れてこられた子供が不安を感じるのは当然の話だ。

 物心つく頃にはすでに孤児院にいて、両親や家族の記憶を全く持たないジャックは、むしろ幸運な例外と言えるだろう。
 だが、6才の時に孤児院にやってきたレナはそうではなかった。

 しばらくの間は、レナは親が迎えに来るのを待っていた様に見えた。当時のレナはひどく寂しげで、心を閉ざした女の子だった。彼女が何に心を痛めていたのか……
 ジャックは、神父の口から当時は気づかなかった事実を聞かされた。

『レナが、貴族の子だというのはワシは承知しておったよ。
 じゃが、おそらく親元にいない方がいっそ幸せに暮らせるだろう……ワシはそう思ったからこそ、あの子を引き取ったんじゃ』





 
 貴族の家で、庶子を育てるのはそう珍しくはない。実際に引き取って育てるか、あるいは養育費のみを支払って親元で育てさせるかの違いはあるが、両方ともよくある話ではある。

 しかし、その庶子が幸せに暮らせるかどうかは、その貴族の家の考え方によって大きく左右される。残念なことに、庶子であっても実子と区別無く育てられて幸せに暮らせる子はごく少数派だろう。
 そして、神父の判断ではレナは少数派の一人ではなかった。

 あれは、今から15年前。
 孤児院に珍しく、馬車が止まったのが始まりだった。
 些か古びてはいるが、一目で貴族の物と分かる豪華な馬車だったし、乗っている人間も傲慢極まりなかった。

「馬が疲れてしまったんだ。ここで、少し休ませてもらう。馬に水を飲ませてやってくれたまえ」

 迷惑にも孤児院の真ん前に馬車を横付けしておいて、それが当然であるかのように神父にそう命じた。自分では手伝いもせず、ふんぞり返っている貴族の男も男だったが、馬車内にいる女性も挨拶にさえ出てこなかった。
 だが、馬車を通してでも聞こえてくるヒステリックな声が聞こえてきた。

「ちょっと、レスフィーナ! 何をぼうっとしているの、早く水でもくんできてちょうだい、気の利かない子ね。セーラが喉を乾いたと言っているのよ?」

「は、はい、お母様!!」

 馬車から転がり落ちるように出てきたのは、まだ5、6才と見える小さな少女だった。それなりに立派な服を着てはいるが、些かサイズがあっていないところから見てお下がりだと一目で分かる。

 レスフィーナと呼ばれた少女は井戸の方へと走ってきて、その場にあった手桶に水を汲む。小さな子にはなかなか大変な作業で、苦労しながらも水を汲み上げて重そうに馬車へと運んでいったが、気の毒にもその苦労は報われなかった。

 彼女が馬車に戻ってすぐ、外にまで響き渡る罵声が轟いた。
「いやだ、なに、これ!? こんな汚い水桶のまま持ってくるなんて、有り得ないわ!! お母様、こんな子をなんで連れてきたのよ!? 何の役にも立たないじゃない、なのにこの子がいるせいで、馬車が狭いのよ!
 だいたいなんで、この子が旅行に着いてくるのよ!? いつもは留守番しているのに!!」

「仕方が無いでしょう、大叔母様が養女が欲しいとおっしゃったのだから。大叔母様の誕生パーティーのプレゼントには、ちょうど良いと思ったのよ」

「けど、結局、この子、選ばれなかったじゃない! 帰りにはいなくなると思ったから我慢してたのに、ずっと馬車にいるだなんて!」

 聞いている方が耳と心を痛めたくなるような罵りは、そう長くは続かなかった。しばらくしてから、貴婦人がレスフィーナを連れて馬車を降り立ち、神父に向かって傲慢に言った。

「ここは孤児院でしたわよね。この子を、預かってくださいな」

 あまりに唐突な話に唖然としつつも、それでも神父は貴婦人に向かってそれは良い選択肢とは言えないと諭そうとはした。だが、貴婦人は神父の説諭に迷惑そうに眉を顰め、さも当然のように言ってのけたのだ。

「ですが、わたくしどもはこれからバカンスに向かうので、この子の面倒までみていられないのですわ。まさか犬猫でもあるまいし、その辺に捨てていくわけにもいきませんもの。
 ここに孤児院があったのは、ちょうどよかったですこと」

 今の年齢になって、しかも他人のジャックが聞いてでさえぞっとするほど冷たく、おぞましささえ感じるその台詞を、6才のレナがどんな思いで聞いていたのか――。

(ひどい……ひどすぎらぁ……)

 いつか、迎えに来るとの心にもない綺麗事を残し、貴婦人は去って行った。それっきり何の連絡もしてこない貴婦人一家を、神父は敢えて探そうとはしなかったという。

 元々、レナも幼すぎて、実家の場所や正式な名前すらうろ覚えだった。王都に住んでいたことだけは確かだったが、それとセーラという名前の娘のいる貴族という手がかりだけで探すのは、難しい。

 それに、たとえ探し出したとしても、そんな親元に帰すぐらいならば孤児院で育った方がまだましだと判断した神父の考えを、ジャックも全面的に支持する。
 レナの両親の身勝手さは、今も少しも変わってはいないのだから。

 二度と会わないのなら、その方がまだマシだっただろう。だが、いかなる運命の皮肉か……レナは、自分を捨てた家族と再会してしまった。
 自分達の都合でレナをあっさりと捨てた両親は、今になってから養女が欲しいと孤児を求めた癖に、その途中で偶然出会ったレナに鞍替えした。

 三日前には何が何だか分からなかった彼らの行動原理は、今となっては嫌というほどよく分かる。

「ねえねえ、知ってる? あの噂のレスフィーナ様、明日のパーティで婚約発表をなさるそうよ、素敵ねえ」

 聞くともなく聞いてしまった侍女の娘のはしゃいだ声に、ジャックは心臓を鷲掴まれたような気がした。

「知ってるに決まっているでしょ、お相手の方は彼女のためにとびっきりのダイヤの指輪を用意されたそうよ、まるでシンデレラみたいよね」

 いつの間にか劇はとっくに終わり、見物していた孤児達もいなくなり、劇場の掃除を始めた侍女達の噂話がジャックの耳に飛び込んでくる。
 今やレナの話題はパプニカ城で一番のセンセーショナルなニュースとして、招待客の貴族達だけでなく兵士や侍女達の間でも噂で持ちきりだった。

 なにしろ、恋人達の再会というテーマのイベントで、偶然にも十数年ぶりに再会した生き別れの親子が出現したのだ。この奇跡的な偶然に、大勢の人が興味を持ち、その幸運を祝福するのも当然だろう。

 特に、レナの話は侍女達には大評判だった。
 身寄りの無い気の毒な孤児の娘が、親子と劇的な再会を果たして一躍貴族の娘として迎え入れ、大金持ちの男性と結婚する――おとぎ話のようなサクセスストーリーは、年頃の娘達にとっては憧れの設定と感じられるらしい。

 ――が、レナの両親の身勝手さを知ったジャックには、侍女達が憧れるシンデレラストーリーの裏が見えてしまった。とてもそれ以上聞いていられなくて、ジャックはふらつく足取りで劇場から出て行く。

(ちくしょう……最初から、そのつもりだったんだ……!)

 下級貴族の娘が、大金持ちの商人と結婚をする――それは、よく聞く有り触れた話だ。貴族の家にとっては莫大な結納金を手に入れることが出来るし、金持ちの商人は家柄の正しい妻と貴族へのコネを手に入れることが出来る。

 典型的な政略結婚だが、おそらくレナの両親は最初からそれを狙っていたとしか思えない。
 彼らが望んだのは、見目の整った年頃の少女だったのだから。

 それが養女でも良いというのなら、当然、庶子であっても彼らは構うまい。レナは明日、両親の選んだ相手と婚約することになるのだ。
 それを思うと、ジャックは目の前が真っ暗になったかのような絶望感を味わう。

(レナが貴族なら……、オレじゃ釣り合わないよなぁ……)

 たとえ庶子であっても、貴族は貴族だ。
 ジャックはこれでも近衛隊の一員だが、身分としては一兵士にすぎない。

 パプニカでは、近年、近衛隊は実力主義へと生まれ変わった。近衛隊での騎士と兵士の割合は半々ぐらいであり、その身分を特に問われることはない。任務においても給金においても、公平に扱われる。

 だが、レオナが始めたこの近衛隊の平等な扱いは、まだまだ一般的には浸透していない。特に貴族にとっては、騎士と兵士の差は歴然としている。

 騎士であるのなら、貴族にとっては一応は結婚候補の対象にはなる。しかし貴族を納得させるだけの財力を手に入れるには、近衛隊長となるぐらいの働きを見せつけないと無理な話だ。

 しかし、明日の夜までにヒュンケル隊長並みの活躍をして、レナの両親を納得させられるぐらいの身分やら財力を獲得できるなんて、ジャックは夢にも思えなかった。

 ぼんやりと、ジャックは空を見上げた。
 すでに日が暮れかけた空は、厚い雲で覆われていて星すら見えない。今にも雨が落ちてきそうなその空が、先ほど聞いた伝説の恋人達の話を思い出させる。

 レナとの距離が手の届かない雲の上にまで離れてしまった様な気分を感じながら、ジャックはそのまま空を見上げていた――。

「ジャック兄ちゃん! 何してるんだよ!!」

 強い口調で声をかけられ、ジャックはようやくそちらを向いた。目の前にいたのは、怒ったような顔で自分を睨みつけている弟分、エースだった。
 いや、よく見れば、そこにいるのはエースだけではない。

 孤児達がほぼ勢揃いしていた。しかし、どの子もこの子もエースに負けず劣らずのきつい目つきでジャックを睨みつけている。その目つきの鋭さに、ジャックは思わずたじろいでしまう。

「どうしたんだ、おまえ達。あ、悪い……食事の時間だったか? 今、手伝うから……」

 最初は、夕食の時間なのに、戻ってこないジャックにしびれを切らせたのだろうかと思った。子供達を世話する役目を忘れきっていた自分に気がつき、ジャックは申し訳ないような気分を味わう。
 が、エースがさも馬鹿にしたように言い返してきた。

「なに言ってるんだよ、兄ちゃん。もう、みんなとっくに夕食は食べたよ。って言うか、兄ちゃんの手伝いなんか要らないよ」

「いや、でも……」

 確かにエースはもう、食事を取るのに手助けを必要とする年齢ではない。しかし、孤児達の中にはまだ小さい子も何人もいる。そんな子達には、手助けはやはり必要だ。
 そう言い返そうと思った時、先手を打って凜とした少女の声が響き渡った。

「ジャック兄ちゃんは、分かってないわ! それにレナお姉ちゃんも……っ。あたしはもう14才だし、この子は12才なのよ。自分の面倒ぐらい見れるし、小さい子の世話ぐらい出来るに決まっているじゃない」

 孤児達の中で、一番年が上の少女とそれにすぐ続く年齢の子が、堂々と言い返す。

 その子らの顔に、ジャックは見覚えがあった。ジャックがまだ孤児院にいた頃からいた子達なのだから、当然だ。しかし、幼い子供という印象しか残っていなかった彼女達は、今や立派な少女として小さい子達の姉代わりとしてそこにいた。

 だが、まだ彼女達には子供達の世話役になるには幼すぎるのではないか……そう思ったジャックの心を読んだ様に話しかけてきたのは、神父だった。

「ジャックや、おまえなら覚えているじゃろう? レナが孤児院のシスター見習いになったのは、幾つの年だったかな?」

 神父にそう問いかけられ、ジャックは思い出す。

「……13才、でした」

 孤児院の子供達の性別は、ならせば半々となるが年によっては微妙な偏りを見せる。ジャックが孤児院を出て行った後で男子の数が減った様に、その前は女子の数が減った時期があった。

 だからこそ、13才のレナが家事を一手に引き受けることになったのだ。通常ならば、それは有り得ない。常に複数の子供達が家事を手助けするし、それでも手が回りきらなければボランティアを募集するか、あるいは人を雇うなどして子供達の面倒を見る態勢を整えるものだ。

 だが、ここ数年、財政難が重なったこともあり、誰かを雇う余裕もないままずっとレナに頼っていたのが現状だった。それをあまりにも見慣れすぎていたから気がつかなかったが、確かにそろそろ次の子供達が世話係になってもおかしくない年まで育っていたらしい。

「ワシがあの孤児院を預かってからと言うものの、あれ程長い間一人の子に家事の仕事を任せたことはない。そろそろ、あの子も世話役から解放されても良い頃合いではないかと前々から思っていたところじゃよ」

 神父の言葉は、ジャックに頭をぶん殴られるに等しい衝撃を与えた。

「そんな……だって、レナは誰よりも孤児院を大事に思っているんですよ!」

 思わず、声を大きくなる。
 レナはいつだって、献身的と言っていいほど孤児院の世話係を熱心に引き受け、頑張っていた。

 その姿を見てきたジャックにとって、よりによって神父がレナのその努力をないがしろにするような言葉を言ったのに、ショックを受ける。
 しかし、神父はゆっくりと頷いて見せた。

「そうじゃな、あの子は孤児院を大切に思っている……だが、それでもいつかは、飛び立たねばならないんじゃよ。
 ワシは、孤児院という物はひな鳥が自分達の翼を育むための巣であるべきだと、思うておる」

 年老いた声に力をこめ、神父ははっきりと言い切った。

「よいか、巣がひな鳥を守るのじゃ。その逆は望まない。
 巣を守るために、ひな鳥が翼を使うべきではないと思うし、そうして欲しくもない。育ったひな鳥には、自分の翼で空へと羽ばたいて欲しいと思っているよ」

 そこまで言ってから、神父は一つ、ため息をついた。そして、どこか芝居めいた様子で問いかける。

「だが、ひな鳥は巣立つどころか、無理矢理古巣へと連れ戻されてしまった。――ならば、どうすればいいと思う?」

 助けたい。

 その言葉が、喉元までついてでる。あと一歩で満ちあふれてしまいそうな思いが、ジャックの中にはある。感情のまま振る舞うことが許されるのなら、しゃにむにレナを助けにいきたい。
 ――だが、ジャックはギリギリでそれを踏みとどめた。

「……でも、オレは兵士だから……それに、オレがヘタな行動を取ったりしたら……孤児院にまで迷惑が……」

 兵士という身分と、孤児院出身という過去を思えば、犯罪じみたことをやらかすわけにはいかないと、ジャックは分別を働かせたつもりだった。
 しかし、やっとのように振り絞った言葉は、頭っから否定されてしまった。

「兄ちゃんは、どこまでバカなんだよ!? 神父様のさっきの話を、聞いてなかったのかよっ」

 年下の癖に、生意気にジャックを怒鳴りつけたエースは、ぐいっと一歩踏み出した。

「兄ちゃん。おれがいくつか、覚えてるのかよ」

 敵を睨むような勢いで睨みながらそう問われ、ジャックは何が何だか分からなかった。だが、簡単に答えられる質問なだけに、反射的に答える。

「覚えてるに決まっているだろ、この前17になったじゃないか」

 それを聞いて、エースは勝ち誇ったように胸を反らす。

「そうだよ。兄ちゃんが孤児院を出て行った年より、もう上になったんだぜ」

「……!」

 言われて、ジャックも思い出す。
 幼い弟分の印象が強く、しかも足を悪くした印象をずっと引きずっていたが、ふと気がつけばエースはずいぶんと成長していた。自分とほぼ肩を並べるまで成長した弟分は、きっぱりと言い切る。

「次に仕送りをするのは、おれの番だよ。もう、仕事も見つけたんだ」

「え!? いつの間に!?」

 エースの早業に、ジャックは素から驚かずにはいられない。

「もちろん、城に来てから見つけたに決まっているだろ。劇の演奏者達のところに頼み込んで助手にしてもらったんだ。給料は安いけどちゃんとした仕事だし、何より楽器も教えてもらえるんだ」

 どうやら、エースはただ就職しただけでなく、ちゃっかりと自分の特技を活かせる職業を選んだらしい。その抜け目のなさがいかにもエースらしかった。ジャックよりもやり手の弟分なら、たとえ給料が安かったとしてもやりくりの算段もつけて仕送りもすることだろう。

「分かるじゃろう? もう、おまえ達だけに頼ることはない。
 孤児院の世話を長くやらせてしまったのは、レナだけではなくおまえもだったな、ジャック。確かにおまえの仕送りには、ずいぶんと助けられた。……だけど、もう、いいんじゃよ。
 おまえは、おまえの好きにしなさい」

 神父の言葉は、ジャックにとって初めて聞く言葉ではなかった。
 孤児院で育った子供達は、成長してから返礼も込めて孤児院のために尽くす。女の子は大抵はレナのように家事や子守りを引き受け、男の子は孤児院を出た後で仕送りという形で援助することが多い。

 特に強制されるわけではないが、成人間際から成人後までにかけて、2、3年程度そうするのが慣例だ。
 だが、それ以上に長引くことはない。

 その前に、神父がもういいと止めるからだ。そのお金は自分の人生を生きるために使いなさいと、神父は巣に拘る孤児達の背を最後に一押しする。
 そして、今、神父はジャックの背を押してくれた。それだけではまだ足りないと思ったのか、エースがすかさず追い風をくれる。

「そうだよ、ジャック兄ちゃんもレナ姉ちゃんも、好きにしていいんだ……!! 心配すんなよ、兄ちゃん。おれらは姉ちゃんや兄ちゃんがいなくっても、ちょっと寂しくてもなんとかやっていけるから! でもさ……」

 と、エースの顔に悪戯っ子めいた、ニヤリとした笑いが浮かぶ。

「でも、ジャック兄ちゃんはレナ姉ちゃんがいないと、なんにもできないじゃないか。飯も食えなくなるし、仕事もしなくなるし、もーダメダメもいいところだったぜ。
 認めちゃいなよ、兄ちゃん。ジャック兄ちゃんには、レナ姉ちゃんが必要なんだよ」

 小生意気なその言葉を、ジャックは最初は呆然と聞いていた。だが、次第に口元に笑いが浮かんでくる。
 切り札の名を持つこの弟分は、いつもジャックの頼みの綱だ。

「――ああ、全く、その通りだよな」

 親しみと感謝の思いを込めて、ジャックは頼りになる弟分の頭をぽんと叩く。
 その時には、もう、ジャックには決心がついていた――。






「隊長! 隊長、いらっしゃいますか!?」

 ヒュンケルの部屋に押しかけたジャックは、いささか乱暴に、だが失礼にならない程度には気をつけて扉を叩く。だが、なかなか返事は戻らなかった。

(変だな……いないはずは、ないんだけど)

 ここに来る前、ジャックは近衛隊控え室に寄って、各自の勤務状況を確認してきた。もしヒュンケルが任務中だったら、直接そこに尋ねようと思ったからだ。

 だが、ヒュンケルはすでに勤務明けの時間帯だった。並の兵士ならば仕事が終わった気晴らしを兼ねて、城外に飲みに行くなどして羽を伸ばしてもおかしくはないが、彼は至って真面目な男だ。

 城内部で大がかりなイベントを行っている際、ヒュンケルは決まって自由時間を自室で待機にあてている。いざ、何かあった時に即座に対応するためだ。呆れるほどに真面目で、融通の利かない男なだけに、今日に限ってその習慣を変えるとも思いにくいのだが――。

(どうしよう……隊長がダメなら、もっと上の人のところへ行くしかないのかな)

 懐に入れた、さっき書き上げたばかりの書状に手を当てながら、ジャックは迷う。

 ヒュンケル以上の高位の人間と言えば、ポップにレオナ、三賢者が思い浮かぶが、その誰のところに行けば良いのやらジャックは迷う。だが、幸いにもヒュンケルが扉を開けてくれた。

「……こんな時間に、何の用だ。公務なのか?」

 いかにも不機嫌そうに見えるその目つきと、セールスを警戒するかのようにわずかにしか扉を開けない態度に、いつものジャックならば怯んでいたかもしれない。
 だが、今のジャックには恐れるものなどない。

「いいえ、私用です。お休みのところ申し訳ありませんが、大事な話があります。聞いていただけますか」

 ヒュンケルが、ちらりと室内を振り返る仕草を見せる。

「……ならば明日、一番に聞こう」

 そう言って扉を閉めようとしたヒュンケルに、ジャックは食い下がった。閉められそうになった扉に無理矢理手をかけ、頼み込む。

「いいえ、今! お願いします、お時間は取らせませんから!!」

 ジャックにしてみれば、必死だった。
 とてもじゃないが、明日まで待ってなどいられない。今すぐ、ヒュンケルと話す必要があるのだ。
 ため息を一つつき、ヒュンケルは扉を開けてくれた。

「入れ」

 ヒュンケルの部屋は、殺風景な程にがらんとした部屋だった。私物らしい私物がほぼないせいで、宿屋の一室でもあるかのような無個性さが漂っている。ジャックが内心思っていたように、独身男の常で部屋が散らかっていて急な客人を入れにくいという事情など、微塵も感じられない。

 他人を部屋に招き入れたヒュンケルは、お茶を勧めるなどという社交辞令を見せる様子もなく、単刀直入に切り出してきた。

「それで、何の用だ?」

 促され、ジャックがゴクリと唾を飲み込んでから、思い切って懐の書状をヒュンケルに差し出した。
 『辞職願』と書かれた、書状をヒュンケルは顔色一つ変えずに受け取る。

「――兵士を、やめたいというのか」

 そう問われて、ジャックは反射的に首を横に振りそうになり、そんな自分に苦笑する。

 辞めたいなんて、思うはずもない。
 努力して、苦労を重ねて、やっと勝ち取った近衛兵としての役割に、ジャックは心の底から満足しているし、できるのならこのまま一生働きたいと思っている。

 だが、その願いを投げ捨ててでも叶えたい願いが出来た……それだけの話だ。

「はい。申し訳ありませんが、たった今、オレを除隊してください!! そうすれば……隊長や近衛隊にご迷惑をかけずに済みます」

 きっぱりと、ジャックは宣言する。そんなジャックの決意を計るかのように、ヒュンケルはじっと彼を見据える。

「何をする気だ?」

「オレは……レナを、取り返しに行きます」

 それこそが、ジャックが朝まで待てなかった理由だった。
 貴族の家に押しかけ、その家の娘を連れ出す――これは、どう考えたところで誘拐罪だ。たとえレナがジャックに賛成し、協力してくれたとしても、傍目から見れば犯罪そのものである。

 もし、パプニカ近衛隊に籍を置いたまま、ジャックがそんなことをした日には、一大スキャンダルへと発展すること、疑い無しだ。だから、その前にきっぱりと近衛兵からは縁を切っておきたかった。

 それでも、元近衛兵の犯罪ともなれば、多少なりとも迷惑をかけてしまうことは否めない。
 ある意味でとんでもない打ち明け話をしているジャックだったが、それを聞いて顔色一つ変えないヒュンケルもまた、大物だった。

「あの娘の話は、聞いている。だが……あの娘は、望んで自宅に戻ったのではないのか?」

「いいえ! レナの望みではありません!!」

 強く首を振って、ジャックは否定した。
 親と再会した時のレナの強張った顔が、全てを物語っていた。レナが、あの親と一緒に行きたいと思うはずはない。

「レナは……脅されたんです。間違いありません」

 貴婦人に何かを囁きかけられ、態度を急変させたレナを思い出しながら、ジャックは唇を噛みしめる。もし、ジャックがもっと利口だったのなら、あの時におかしいと思って問いただし、レナを救えたかもしれない。そう思うと、自分の気のきかなさが悔しくてたまらない。
 だが、ジャックは後悔だけで終わらせるつもりはなかった。

「だから……、オレ、どうしてもレナを助けたいんです! 隊長には迷惑をかけてしまいますが――どうしても、レナだけは……!」
 
 思いが強すぎて、言葉が途中で途切れる。しんと、部屋が静まりかえった瞬間、大きな音を立ててタンスがいきなり開かれた。 

「話は聞かせてもらったわっ!!」

 その叫びと共に、タンスの中からすっくと姿を現した少女を見て、ジャックは冗談抜きで腰を抜かしていた。ここでもし、タンスから怪物が出てきても、この半分も驚かなかっただろう。

 だが、よりによってパプニカ王女の思わぬ登場に、ジャックは口をはくはくさせてしまう。

「は、話は聞かせてもらったって、いったいいつから……っ」

「もちろん、最初っからに決まってるじゃん」

 と、返した声はレオナの物ではなく、男の子の物だったし、聞こえてきたのも正反対の方角からだった。ハッとして振り向くと、窓の外側にフワフワと浮いている人影が見える。頭を下にした不自然な格好で浮いている姿には、見覚えがアリまくりだった。

「だっ、大魔道士様っ!? なにやってんですかっ、あんたわっ!!」

「仕方ねえだろ、姫さんがさっさとタンスの中に隠れちまったから、他に隠れる場所がなかったんだよ。ったく、ヒュンケルももう少し家具ぐらいおけばいいのによー」

 全てはヒュンケルが悪いとばかりにそういうポップの意見には、なにやら色々と間違っている気がして、ツッコみたい気分は色々あった。が、どうやら人間、驚きが度を過ぎるとツッコミなんか出来なくなってしまうらしい。

 唖然とするばかりのジャックの前で、レオナは部屋に一つしか無い椅子にちゃっかりと腰を下ろし、ポップも勝手に部屋に入り込んでくる。その様子にもヒュンケルが少しも驚いたところを見せないところを見ると、彼は知っていたのだろう。

(……そういや、隊長、扉を開けるのに時間がかかったっけ……)

 色々と脱力しつつ床にへたり込んだジャックに対して、レオナは元気いっぱいだった。今にも踊り出しそうなほど、活き活きとしている。

「ちょうどよかったわ。レナの話を聞いて、ポップ君やヒュンケルと相談していたところだったんだけど、あなた、今、良いこと言ったわね! いいわね、今の言葉をレナに聞かせてあげたかったわ」

 目をこれ以上ないと言うほど輝かせながら、レオナはどこまでも優美に小首を傾げてみせる。

「でも……いくら恋のためとは言え、優秀な兵士を失うのはパプニカには痛手だわ。見せ場を奪う様な野暮はしたくないんだけれと、一人で無茶をする前に、この件は私に預けてはもらえないかしら?」

      《続く》

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