『竜の定め 4』

「答えろっ!! 答えるんだっ、さあっ!!」

 混乱したように、怒り狂うように、竜が吠える。
 ヴェルザーがなぜ急にこんなにも激昂したのか、その理由がダイに分かるはずもない。そもそも、冥竜王がここまで怒り狂う有様などダイは初めて見た。

 長い年月を生きてきたこの竜について、ダイが知っていることは少ない。基本的にヴェルザーは石となって沈黙していることが多かったとは言え、共に同じ結界内に閉じ込められていた関係上、言葉を交わす機会は何度かはあった。

 地上にひどく拘っているなとは、何度となく思った。だが、基本的にヴェルザーは寡黙で、自分の心を深く押し込めているかのような印象を受けた。バーンのように自分の望みや野望を口にすることなど、一度もなかった。

 ダイの質問にも答えず、たとえダイがヴェルザーを責めたり文句を言ったりしても、飄々と受け流すだけだった。
 その竜が、今、心を隠す余地もない怒りに吠え立てている。通常ならば目につかないはずの逆鱗がはっきりと見えるのが、その何よりの証だ。

 何がヴェルザーをそんなに怒らせたのかダイには分からないが、そんなことよりもポップの方が心配だった。このままではヴェルザーにその気がなかったとしても、ポップを押し潰してしまうのではないかという危惧感がこみ上げてくる。

 どうにかしてポップを助けたいのに、身体がどうしても動いてくれないし、声もろくすっぽ出ない。焦るダイの目の前で、ポップの腕が何度も揺れているのが見えた。

 最初は痛みのあまり藻掻いているのかと思ったが、よく見ると違った。竜の手から突き出た細い腕は、自分の意思で左右に振られている。知り合いに合図を送って注意を引こうとするかのように、ひらひらとポップの腕が揺れる。

「答えろ……ってんなら、少し、は……手ェ、緩めろよ……っ。これじゃ、答えたくっても……、答えられねえぜ」

 途切れ途切れで苦しそうなのに、少しおどけたような声が聞こえてきた。添えを聞いてヴェルザーも少しは正気を取り戻したのだろうか、叫ぶのを止めて姿勢を正す。その際、ポップを持ち直すのが見えた。

 上半身が見える形に握り直された際、同時に力も緩められたのか、ポップがほうっと大きく息をついて身体を動かすのが見えた。
 もっとも、それで身体が自由になったわけではない。

 さっきよりは幾分は楽と言うだけで、動きが封じられている点と、ヴェルザーに捕まっていると言う点では変わっていない。特に、魔法陣の浮き出た手には強い警戒心を持っているらしく、器用にも指と指の間で腕を挟み込んで園生での動きを封じている。

 ポップが呼吸を整えるのを待っていたかのように、ヴェルザーは重々しい声で問いかけた。

「答えろ……! なぜ、その呪文を使おうとした……っ!? 貴様がなぜ、その呪文を知っている……!?」

 怒りを無理に押し殺そうとしても、殺し切れていないその声は、ヴェルザーの強い関心を如実に示していた。答えによってはただでは済まさないぞと言わんばかりの気迫が、傍らから見ているだけのダイにもハッキリと感じととれる。

 文字通り、ヴェルザーの掌中に全てを握られているポップにそれが分からないはずはないのに、彼の顔に浮かんでいるのは開き直ったような笑顔だった。

「なぜもなにも、見てたんなら分かるだろ? おれは、あんたにこの呪文を使おうとしたわけじゃないって」

 それなのに文句を言われるだなんて心外だとばかりに、砕けた口調で言ってのけるポップの言葉に、ダイの心臓がどきんと跳ねる。

(そう、だった……!)

 ポップが呪文を唱え始めた時、ダイはそれがヴェルザーを倒すための魔法だと疑ってもいなかった。初めて聞く呪文だったし、竜の騎士の記憶の中にも存在しない未知の呪文だったが、ダイは自分の魔法使いに絶対の信頼を置いている。

 ポップがヴェルザーに魔法で直接攻撃を仕掛けるつもりなのか、あるいはダイへの援護魔法の一種なのかは分からなかったが、とにかくヴェルザーを倒すための切り札となる魔法だと思っていた。

 だからこそあの時、ポップが自分に触れようとしたのを見ても、多少は驚いても避けようとは思わなかった。

 しかし、今になってから奇妙な不安がダイの胸を疼かせる。
 あの呪文は、唱えさせてはいけない呪文だったのではないかと、心のどこかが騒ぎ出す。

 その嫌なざわめきは、胸騒ぎにひどく似ていた。
 身動きのできない身体のまま、ダイが思い出すのは記憶を失っていた間のことだった。

 自分にとっては見知らぬ他人に等しい『お兄ちゃん』が、バランに呪文を唱えていた時に感じた不安が蘇ってくる。
 あの時、ポップが唱えていた呪文は自己犠牲呪文だった――。

「そうだな、貴様はその呪文をダイに使おうとしていたな……! なんのために、そうしようとした?
 竜の騎士の子を、この魔界から永遠に封じるためにか――?」

 地を這うような声だった。
 強い怒りが、ただでさえ低い声をより一層に低い物へと変え、一触即発の緊張感を孕む。

 思いもしなかったヴェルザーの言葉に、ダイは驚く暇すらなかった。すぐに、高めの声が叫んだから。

「違うっ!!」

 それは、さっきまでの口調とは全然違っていた。
 余裕を見せつつ、相手の気を引いて駆け引きしようとしていたおどけっぷりなど、今のポップの声には微塵もなかった。

 それだけは誤解されたくないとばかりの強さで、反射的に叫んでしまった否定は、そのままポップの本心だと信じられる。

 ポップ自身、自分の否定に驚いたように言った後でハッとしたような顔を見せたものの、もう遅い。ダイは、ポップのその一瞬の表情の変化を見逃さなかった。

 ちらっと、ポップはダイの方を振り向いた。だがそれはほんの一瞬で、すぐにヴェルザーに向き直ったポップは、少しばかり言葉を選びながら話し出した。

「えーと……、ああ、そうだ、あんた、この呪文をどこで知った、って聞いてたよな?
 それなら答えてやるよ。おれがこの呪文を見つけたのは、古い記録からだよ。千年か、それとももっと前のものだったかな? 古すぎてよくは分からなかったけど、ある魔法使いの日記帳みたいな文章だった」

 最初こそは不自然でも、すぐに流暢に流れるような説明に変わっていくポップの口調に、ダイは覚えがあった。自分にとって都合が悪い時、相手の気を逸らそうとする時にポップがよくやるものだ。

 マァムやレオナだったら、ポップのその軽口に誤魔化されずに真っ直ぐに問題点を追求するだろう。
 しかし、ヴェルザーの反応は予想外だった。

「――名は?」

「は?」

 ポップにとってもヴェルザーの反応は想定外だったのだろう、驚きに目をぱちくりさせてから答える。

「正式な名前は残ってなかったけどよ、意味合いから言って『輪止双生』って名辺りじゃないか、多分。まあ、もしかすると――」

「術の名など、どうでもいい! その魔法使いの名は!?」

 ポップの説明すら遮って、ヴェルザーが叫ぶ。
 それだけが唯一の望みだとばかりに叫ぶヴェルザーには、今までにない必死さがあった。命乞いよりももっと切実で、脅しというにはあまりに切迫した叫びだった。

 彼がなぜ、そこまでその魔法使いの名に拘るのかなど分からないが、冥竜王の目にめまぐるしく浮かぶ感情の乱舞なら、ダイには手に取るように分かった。
 心から欲して、欲して、どうしようもなく諦めきれなかったものがすぐ目の前にある歓喜。だが、それでいて、それが得られなかった時の悲痛を今から思い浮かべてしまう恐怖。

 心が少しも落ち着かず、歓喜と絶望の中を行ったり来たりする気分なら、ダイにも分かる。他でもない、ダイ自身もついさっき体験したばかりだったから。

 ポップが目の前にやってきた時、それが本物か偽物か見定めようとした時のダイの気持ちと同じだ。

 ヴェルザーは、その魔法使いの名を知りたくて仕方がない……それだけは分かる。
 その勢いに推されたのか、ポップが戸惑い気味に答える。

「名前って言っても……術の名前さえ残っていなかったんだぜ、術者の名前なんか尚更残ってねえよ。
 悪いけど、資料には残っていなかった」

 その言葉がヴェルザーに与えた影響は、大きかった。

「…………」

 傍目からは、沈黙し、動きを止めただけにしか見えないかも知れない。しかし、その目に浮かぶ絶望にダイは嫌でも気づかされた。

 すがりつくように求めた答えを得られず、愕然とする竜の姿に哀れみを覚えないでもなかった。だが、傷心の竜には悪いが、それでもダイはホッとせずにはいられなかった。

 ダイにとって怖いのは、ヴェルザーの怒りによって大切な仲間が――ポップが殺されてしまう未来だ。それさえ避けられるのならば、その他のことはさして気にもならない。

 ヴェルザーが戦う意思をなくしてくれるのなら、それに越したことはない。
 そう、思った。
 ――だが、勇者の魔法使いは、そうではなかった。

「確かめる方法なら、あるぜ」

 思いがけなく響き渡ったその声に驚きを感じたのは、ダイとヴェルザーのどちらが上だっただろうか。

「言っただろう、おれもその術を使うつもりだったって。つまり、この術にかけてはおれはエキスパートってわけだ」

 いっそ気楽とでも言いたくなるような軽い口調で言いながら、ポップはまだ魔法陣の浮かぶ手で真っ直ぐにヴェルザーの逆鱗を指さす。

「その魔法円に触れることができるなら、そこに残っている想いのかけらを呼び出せる……はずだぜ」

「……っ!!」

 齢千年を超す古代竜が息を飲む音が、はっきりと聞こえた。

「どんな魔法にも、使い手の意思はこもる。それが儀式魔法なら、なおさらだ。術者の思惑は、魔法陣に強く刻まれる……だいたいこれは、元々そういう魔法なんだからよ」

 ポップの説明を聞いているのかいないのか、ヴェルザーは硬直したように動かない。

 先程まではあれ程までに直裁に表情を変えていた目にも、今は何も浮かんでいなかった。果たして冥竜王の心を大きく占めているのは、歓喜か、怒りか――虚ろに光る目は、何を考えているのかを曖昧にぼやけさせている。

 だが、そんなことなど気がついていないかのように、ポップの声は明るく、お気楽なものだった。

「あんたが望むのなら、呼んでやるよ。ま、あんたがおれに逆鱗に触れるのを許してくれるんなら、って条件つきだけどさ」

 それを聞いた途端、恐怖でダイの全身の毛が逆立つ。
 とても、ヴェルザーの顔色を伺うどころではなくなった。
 ダイの中に眠る竜の騎士の記憶は、竜族特有の逆鱗についても詳細に知っていた。

 竜の喉元にたった一枚だけ逆さに生えている鱗――それが逆鱗であり、竜にとっては最大の弱点となる場所だ。そこに触れられた途端、その竜は手につけられない怒りに荒れ狂うと言われている。

 その怒りの強さは、ダイにも分かる。
 竜の騎士には、逆鱗は存在しない。元々、鱗で身体を覆われていない竜だ、物理的な逆鱗など竜の騎士にはない。
 しかし、竜の騎士の逆鱗は心の中にある。

 バランが最愛の妻、ソアラを失った怒りで我を忘れてアルキード王国を滅ぼしたのがいい例だ。一度逆鱗に触れられた竜の怒りは、本人にさえも止めようがない。

 最終的にその暴走が自分自身を傷つけるとしても、怒りのあまり荒れ狂うしかできない。

 幸いにもヴェルザーの逆鱗は見えているだけで、まだ触れられてはいない。だが、たとえいくらヴェルザー自身が了承したとしても、逆鱗に触れるということはそれだけで地雷を踏むも同じだ。

 攻撃とさえ言えない軽い接触でさえ、激昂してしまった竜の記録は古来より幾つもある。

 逆鱗の名を知っているポップなら、それぐらいの知識は当然あるだろうに、それでも彼はためらわなかった。なんでもないような顔をして、ヴェルザーに協力を申し出る。

 それをどう受け止めているのか、ヴェルザーは沈黙を保ったままだった。
 ポップの言葉を、考える余地のある交渉だと思い巡らせているのか、それともこれも何かの罠だと疑っているのか――。

 だが、ダイには分かる。
 これが、罠などではないことが。術や魔法の理屈などはダイには無縁だが、ポップの言っていることは掛け値無しの本音だとは分かる。

 ポップが何を考えてこんなことを言いだしたのかは分からないが、その分、ダイにはポップの感情はよく分かる。

 その気になれば、ポップは戦いの中で見事に相手を騙すことができる。ダイなどには逆立ちしても追いつかない頭の良さで、敵の弱点や心理的な隙を見事に見抜き、逆転へ導くところを見てきた。

 だが、そんな頭の良さを持っている癖に、ポップはどうしようもない甘さがある。
 たとえ相手が敵だと分かっていても非情に徹しきれない、そんな詰めの甘さがポップにはある。

 倒れたハドラーに、つい手を差し伸べてしまった時のように。
 今も、多分、そうなのだろう。どうしてもこの魔法を生み出した魔法使いについて知りたいと願うヴェルザーの切望を、ポップは切り捨てられなかったのだろう。

 ヴェルザーに差し伸べる手には、何の裏も罠もない。相手を助けたいと思ったからこそ、差し出された手だ。
 それがよく分かるからこそ、ダイは恐怖した。

「ポッ……プ……や……、め――」

 痺れきって回らない舌で、ダイはなんとかポップを呼ぼうとする。しかし、口の中でもごもごと呟かれる程度の呟きは、自分自身でさえよく聞こえないような代物にしかならなかった。

 できるのなら、駆け寄ってポップを今すぐヴェルザーから引き離したい。なのに、痺れた身体は立つことすらままならない。無様に藻掻きながら、ダイは最悪の未来が脳裏をかすめるのをどうしても止められなかった。

 ダイには、ポップの真心が分かる。
 ダイが人間でも怪物でもかまわないと言ってくれた親友は、相手が敵だろうと味方だろうと気にしない。相手の言い分が気に入らなければとことんまで抵抗するが、逆に相手に情を寄せれば手を伸ばすことをためらわない。

 だが……それを、ヴェルザーが信じなかったら? 罠だと思われるかもしれない。そうでなかったとしても、竜の逆鱗に触れるのはそれだけで危険だ。たとえ、竜本人が自分を抑えようとしたとしても、我慢しきれずに激昂する可能性は高い。

 相手に情けをかけたからこそ、ポップが殺されるかも知れない……その未来は、ダイを恐怖のどん底へと突き落とした。
 いっそ、ヴェルザーがポップを信じずに突き放してくれればと思ったが、その思いは叶わなかった。

「……つくづく呆れた人間だな。よりによって、逆鱗に触れさせろと言ってのけるとは。死ぬのが怖くはないのか?」

 苦笑が、ヴェルザーの口から漏れる。

「オレが、おまえを殺さないとでも思っているのか?」

 短い言葉には、切り込むような鋭さが秘められていた。しかし、ポップは怯みさえしなかった。

「思っているね。
 あんたは……どうしても、会いたい奴がいるんだろ?」

 問いかけの体裁を取ってはいても、それは断言に等しかった。答えを確信したかのような笑みを浮かべる魔法使いの少年に対して、冥竜王は軽く目を閉じて首を逸らす。

「いいぞ。その条件を、飲もう」

 そう言いながら、手の力を緩める。
 ヴェルザーの手の上とは言え、自由になったポップは逃げるつもりなら即座に逃げられたはずだった。あるいは攻撃するつもりなら、これ以上のチャンスはなかった。

 ヴェルザーは急所でもある逆鱗を無防備に晒し、目を閉じているのだから。
 卑怯だとは承知していたが、ダイは一瞬、ポップが攻撃に転じてくれないかと思わずにはいられなかった。だが、そんなことなどあるはずもないことも分かっていた。

 軽く目を閉じたポップは、魔法陣の浮かぶ手をもう片方の手で握り占めて意識を集中させる。

 その途端、車輪の輪は嘘のように消えた。
 その代わりにポップの手に集まるのは、仄かな緑色の光だった。ポップの魂の色そのままの明るい光は、魔界の薄闇の中では一際鮮やかだった。

 輝きに満ちた緑の手を、ポップはゆっくりとヴェルザーへと伸ばしていく。
 ポップが最後の術のためにとっておいた魔法力が、冥竜王の逆鱗に触れる。その途端、銀色の光が爆発的に広がった。

「っ!?」

 反射的に身構えそうになったダイの上にも、光は広がる。放射状に伸びた光が巨大な銀の車輪を描くのが、はっきりと見えた。ヴェルザーを中心にして銀の車輪が浮かび上がり、回り出す。

 幻とはとても思えない鮮やかさで回る車輪が、周囲の景色を霧のようにぼやかせ、夢幻へと誘い込む。初めて見る魔法に驚くダイの耳に、どこか幼げに聞こえる竜の咆哮が木霊した――。 

                                                                                                             《続く》

  

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