Chapter.3 ベルゼブルの羽ばたき |
最初に選んだのは、魔風の谷だった。 ……って、考えていたんだけど……。 「インディ、これがたいしたことないだって?」 ちゃっかりとぼくを風よけにしながら、ミュアがプリプリ文句をつける。 「魔物の所に行く前に、吹き飛ばされちゃうよ! どうするつもりさっ」 「分かってるよ、うるさいなっ! 今、魔法で風を鎮めてみせるよっ」 こんな時にこそ、魔法を使わなきゃ意味がない。それに、さっきから試してみたくて、わくわくしてたもんね♪ 「カトゥラタンブーラ、善き精霊シルフェよ、聞け! …………………。 だけど、いっくら経ってもなーんにもおきなかった。 「風の精霊を呼び出すのは、確か一番優しいはずなのに……」 皮肉でも嫌味でもなく、ただ呆然と呟くミュアの言葉がかえってグサッとつき刺さる。 鋭い風はぼくの体を切り裂いて、あちこちから血を滲ませる。一つ一つの傷は浅いけど、このまんまじゃいずれは大ケガしてしまう。 「しょうがないや。じゃあ、これを試してみるか」 護符つきマントを取り出すと、ミュアはぎゃあぎゃあ騒いだ。 「だったら、なんで最初からそれを使わないんだよっ?」 だって、魔法を使ってみたかったんだもん。 「えっと……こうかな?」 肌が露出しないように、フードまでしっかりと被ってからぼくは歩きかけた。 「インディっ、ボクは?!」 怒ったミュアが足首に噛みつく。 「いてっ、分かった! 分かったってば」 ぼくはミュアを抱き上げ、マントの内側に入れてやった。 「これじゃあ外が見えないよ! もっと、ちゃんと抱いてくれよ」 あー、うるさいったら。 マントはどんな強い風にもかすかになびくだけで、ぼく達を邪気渦巻く魔風から守ってくれた。 両側の険しい崖はしだいに狭まっていく。そして、風もとぎれた谷間の奥には、岸壁に閉ざされた袋小路だった。 「行き止まりだ……」 「ねえ、あの音……なにか、ぶんぶん言ってる」 ミュアがピン、と耳を立てる。猫のミュアの方が、ぼくよりもずっと聴覚が鋭いんだ。 虫の大群でも飛んでいるのかと思ったけど、その気配はない。ただ、不快な音だけがますます高まる一方だ。あまりにも高音で振動する音は、頭の奥をつんと刺激して耳を覆いたいほどだ。 空気そのものが震えているのが分かる。 「インディ、魔術書! 魔術書だよ、急いで!」 岩影に飛び込みながら、ミュアが叫ぶ。言われるまでもないっ、こんなの、どうやって倒せってんだ?! 「エタナアルデリラアム、悪しき蟲の魔物を滅ぼす道を示さん!」 呪文もそこそこに、ぼくは開いたページをざっと目で追った。
第四章 悪しきもろもろの蟲ども すべてを合わせた姿なり
たっ、倒し方が出ていないっ! 大きい――。 ぎざぎざの棘のある6本の脚、庭師の持つ大ばさみのような口……全体的な形は蠅に酷似している。けど、もっと不気味だ。 焦るぼくの頭上を、ベルゼブルが何度も旋回しながら往復していく。 目にも止まらぬスピードで震える羽の唸りには、どうにも不快な力がある。臓物を掴まれ、揺さぶられているみたいだ。 だが、どうやって……? ぼくがブーメランを投げると同時に、ベルゼブルの口から液体が吐き出された! ねばねばした嫌な匂いのする黄色い液体は、じゅくじゅくと岩に染み込み、その部分を醜く溶かしていた。――猛毒なんだ!! 狙いが狂っていたわけじゃない。ぼくは、きっちり心臓の位置――胴体の真ん中を狙った。なのにベルゼブルの羽の引き起こす空気の流れが邪魔をして、ブーメランの軌道が狂ったんだ。 精霊の力を借りることができたら……そうは思うけど、でも、分かっている。 つまり、自力で戦うしかないんだ。 それ自体が生命を持っているかのようにうごめく触角……手に入れるべき封印の鍵に向かって、ぼくはブーメランを投げつけた。 「当たってくれっ」 願いを込めて投げたブーメランは、触角をかすっただけだった。戻ってきたブーメランをつかむが早いか、再びかまえる。ふん、いまさら一度や二度の失敗でめげるもんか。 髑髏に似た、不気味な黒い塊が。羽の模様のように広がっている、忌まわしい形の斑紋。 「分かった……っ」 羽音の唸りが、ひときわ増した。くらり、と体がふらつくのに気がついた。 早くブーメランを投げなければと意識だけは焦るのに、体から力が抜けていく。立ちくらみを起こしていたぼくを巨大な複眼がジロリと見下ろし、再び毒液を吐きかけた。
熱湯を浴びせられたような激しい痛みに、ぼくは悲鳴を上げて転げ回った。けど、その痛みのせいで、意識がしっかりとする。 「インディのバカ! 羽だよ、羽の模様を狙うんじゃないか!」 ミュアがぎゃあぎゃあ騒ぐ声も聞こえる。くそ、自分は安全なところに隠れているくせにっ。 痛みを堪えて、ケガしていない方の手でブーメランを投げた。渾身の力を込めて、羽の斑紋を狙って!! 「インディ、危ないっ!! もういいから、逃げろっ」 ミュアが叫ぶが、それは無視! だいたい、逃げたりしたらこいつに勝てっこないじゃないか。 大ばさみに似た口が、もの欲しげに開いたり閉じたりしている。その先端は、針のように尖っていた。 棘のある脚は、ぼくを手に入れるのが待ち切れないように、さしだすように伸ばされている。あれらに触れた途端、ぼくの体なんか紙のように八つ裂きにされてしまうに違いない。 それを思うと自然と体が震えるけど、そんなのは意思の力でなんとか押さえられる。押さえられないにしても、逃げるなんて論外だっ! 「もっと……もっと、近づけ。もっとだ…」 呪文のように言葉を繰り返し、ぼくは大きくなってくるベルゼブルの恐怖に耐えた。普通の昆虫と違って、知性の輝きを見せる複眼がどんどん迫ってくる。 「ギギギギギギィイィイイイッ!!」 悲鳴とも破壊音ともつかぬ声が、谷間に響き渡った。 だがもう力を失っていることは明らかだ。 「インディ、ロッドでとどめだ!」 ちゃっかりと、ミュアが岩陰から飛び出してきた。 魔力の籠ったロッドを軽く当てるだけで、ベルゼブルの体は砕けて粉微塵に崩れ去った。体がなくなると、風のうねりは地に吸い込まれるように消えていった。 残骸の中から、ぼくは触角を選んで拾い上げた。それだけは不思議と、無傷だった。 「もーお、ハラハラしちゃったよ。危なっかしいったら」 保護者面したこのご意見に、カチンときましたねー、ぼくは。 「なら、少しは協力したらどうなんだよ、なんにも助けてくれなかったくせに。ああしろ、こうしろって言うだけでさ」 けど、ぼくのもっともな反論も図太いミュアにはこたえない。 「ボクにブーメランを投げろってのかい? ふん、そんなもの。ボクはキミより魔力があるんだ。アザゼル先生の一番弟子だし、それに猫だからね」 あぁああ、そうですか。 「ボクは実戦より、頭脳労働に向いているんだよ。キミに助言するのがボクの役目ってものさ。ボクの忠告はちゃんと聞いた方がいいよ」 やれやれ。 ペロペロと毛並みを整えるミュアに、言いたい文句は山ほどあるけど悔しいことに口ゲンカじゃ勝ち目がない。何か強烈な悪口はないかと必死で頭を巡らせていると、ミュアが鋭い爪で護符付きマントの裾を引っ張った。 「何すんだよ、ミュア?!」 「早く、戻ろうよ。そのケガ、ほっといていいの? 早く再生の川の水を浴びて手当てしないと、治るものも治らないよ」 そういえば、すっかり忘れていた。 「だから、早く街に帰ろうって言ってるのに。どう、ボクの助言は役に立つだろ?」 ミュアは得意げに水色の目をきらめかせた。
街の周囲をぐるりと巡る再生の川。 浅瀬を選んで、のんびりと水をすくっては体にかける。それを繰り返すと、本当に気持ちがいい。体の疲れがスウッと抜けて、代わりにふつふつと力が込み上げてくるみたいだ。
「元気になったみたいだね……ふうん」 ジロジロと、ミュアはぼくをいろんな角度から見つめる。 「なんだよ、ミュア」 「うん、ちょっと魔力が上がったみたいだね。自分で分からない?」 「え……?」 言われてぼくは自分の掌を見てみたけど そんなとこ見たって、魔力の上昇が分かるわけないっ。 「カトゥラブーラ、善き精霊シルフェよ、 ロッドの先端が光ったかと思うと、ぼくが望んだ通りの柔らかい風が吹いてきた。水から上がったばかりのぼくの体を乾かすように、暖かく、そして心地のよい風が。 「魔界では、強い相手と戦って勝つと、相手の魔力の何割かを吸収して強くなるのさ。だから、普通の修行するよりもずっと早くレベルアップするんだ」 「へえー、そうなの」 合理的と言えば合理的、便利と言えば便利だけど、それってなんか間違ってるよーな気もする。 ぼくはずっと先生がまともに修行をつけてくれないのが不満で、本音を言えば楽して魔術師になりたいと思っていたけど、でも、こうして望みが叶ってみてもさほどうれしいとは思わない。 他人を犠牲にして伸ばした魔力で、ぼくは魔術師だと堂々と胸を張って言えるだろうか――? 「インディ、何を考えてるんだい」 ミュアに声をかけられて、ぼくは正気に戻った。 「……いや、たいしたことじゃないよ」 そう、こんなのたいしたことじゃない。ぼくが今考えなきゃいけないのは、魔界を封印し直すこと。それだけだ。 「次はどこへ行こうかなって、考えてたんだ。でも、もう考えるのはやめた。運を天に任せるよ」 ぼくは手にしたロッドを軽く上にほうり投げた。クルクルっと回転したロッドの先端は、妖水の沼の方向を指していた。 「決まりっ! 次の目的地は、妖水の沼だ」
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