Chapter.3 ベルゼブルの羽ばたき

 

 最初に選んだのは、魔風の谷だった。
 なぜって、不吉な名前ぞろいの魔の領域の中で、ここが比較的安全そうに思えたから。いくら『魔』がついていたって、しょせん風は風にすぎない。

 ……って、考えていたんだけど……。

「インディ、これがたいしたことないだって?」

 ちゃっかりとぼくを風よけにしながら、ミュアがプリプリ文句をつける。
 ぼくだって、ここに来て10秒で自分の考えの甘さを呪いましたともさ!
 なんせ空が見えないぐらいに険しく切り立った谷の合間を、凄まじい風が吹き抜ける。
 まるで獣が吠えるがごとく唸りを上げ、行く手に幾つものつむじ風を作っている。あまりの風の勢いに、息が詰まりそうだ。

「魔物の所に行く前に、吹き飛ばされちゃうよ! どうするつもりさっ」

「分かってるよ、うるさいなっ! 今、魔法で風を鎮めてみせるよっ」

 こんな時にこそ、魔法を使わなきゃ意味がない。それに、さっきから試してみたくて、わくわくしてたもんね♪
 ぼくはロッドをかかげて、声を張り上げた。

「カトゥラタンブーラ、善き精霊シルフェよ、聞け!
 魔術師インディ=ルルクにその加護を!!
 この魔風の谷に、力を現したまえっ」

 …………………。

 だけど、いっくら経ってもなーんにもおきなかった。

「風の精霊を呼び出すのは、確か一番優しいはずなのに……」

 皮肉でも嫌味でもなく、ただ呆然と呟くミュアの言葉がかえってグサッとつき刺さる。
 うっうっ、つまりはぼくの魔力はそこまで弱いと  ああ、落ちこみそう。
 しかし、のん気に落ち込んでいる暇なんかなかった。

 鋭い風はぼくの体を切り裂いて、あちこちから血を滲ませる。一つ一つの傷は浅いけど、このまんまじゃいずれは大ケガしてしまう。

「しょうがないや。じゃあ、これを試してみるか」

 護符つきマントを取り出すと、ミュアはぎゃあぎゃあ騒いだ。

「だったら、なんで最初からそれを使わないんだよっ?」

 だって、魔法を使ってみたかったんだもん。

「えっと……こうかな?」

 肌が露出しないように、フードまでしっかりと被ってからぼくは歩きかけた。

「インディっ、ボクは?!」

 怒ったミュアが足首に噛みつく。

「いてっ、分かった! 分かったってば」

 ぼくはミュアを抱き上げ、マントの内側に入れてやった。

「これじゃあ外が見えないよ! もっと、ちゃんと抱いてくれよ」

 あー、うるさいったら。
 しかたなく、胸の合わせ目のところからミュアの顔が覗くように調節してやる。ミュアにとっては都合はいいだろうけど、これって脇から見るとすっごくかっこ悪いぞ。
 それでも、マントの護符の効力は変わらなかった。

 マントはどんな強い風にもかすかになびくだけで、ぼく達を邪気渦巻く魔風から守ってくれた。
 もう、つむじ風に切り裂かれる心配もいらない。ぼくは難なく谷間の奥へと進むことができた。

 両側の険しい崖はしだいに狭まっていく。そして、風もとぎれた谷間の奥には、岸壁に閉ざされた袋小路だった。

「行き止まりだ……」

「ねえ、あの音……なにか、ぶんぶん言ってる」

 ミュアがピン、と耳を立てる。猫のミュアの方が、ぼくよりもずっと聴覚が鋭いんだ。
 少しの間を置いて、ぼくの耳もその音を捕らえた。
 ――確かに、なにか、昆虫の羽音のような音だ。それがだんだん大きくなってくる。

 虫の大群でも飛んでいるのかと思ったけど、その気配はない。ただ、不快な音だけがますます高まる一方だ。あまりにも高音で振動する音は、頭の奥をつんと刺激して耳を覆いたいほどだ。

 空気そのものが震えているのが分かる。
 そこにじっとしているのに耐えられなくなった時、崖の向こうからそいつが現れた。
   巨大な昆虫の化け物だっ!!

「インディ、魔術書! 魔術書だよ、急いで!」

 岩影に飛び込みながら、ミュアが叫ぶ。言われるまでもないっ、こんなの、どうやって倒せってんだ?!
 半ばパニックりながらも、ぼくはロッドで本に触れ、叫んだ。

「エタナアルデリラアム、悪しき蟲の魔物を滅ぼす道を示さん!」

 呪文もそこそこに、ぼくは開いたページをざっと目で追った。

 

 

  第四章
    ☆悪疫をもたらすはベルゼブル

       悪しきもろもろの蟲ども すべてを合わせた姿なり
       羽の黒き斑紋こそ その忌まわしき力の秘密と知れ

 

 

 たっ、倒し方が出ていないっ!
 話が違うと叫びたいところだが、ベルゼブルはすぐ頭上まで迫ってきている。ベルゼブルの大きな影が、ぼくの上をよぎった。

 大きい――。
 あれは虫の大きさをはるかに越えている。超大型の大鷹……いや、小形の竜に匹敵するほどの大きさだ。

 ぎざぎざの棘のある6本の脚、庭師の持つ大ばさみのような口……全体的な形は蠅に酷似している。けど、もっと不気味だ。
 いくつかの節のある触角――あれを手に入れなければ!

 焦るぼくの頭上を、ベルゼブルが何度も旋回しながら往復していく。
 体が大きすぎてここに降りるのが難しいのか、それとも他になにか考えでもあるのか……。どちらにせよ、通り過ぎる際の羽音を聞いているだけで、胸が悪くなる。

 目にも止まらぬスピードで震える羽の唸りには、どうにも不快な力がある。臓物を掴まれ、揺さぶられているみたいだ。
 ぐずぐすしてはいられない。

 だが、どうやって……?
 迷うぼくの手が、無意識にブーメランをつかんでいた。
 結局、これしかないじゃないか。

 ぼくがブーメランを投げると同時に、ベルゼブルの口から液体が吐き出された!
 身を捻って、なんとかそれを躱す。
 が、岩にかかったそれを見て、ぼくはゾッとした。

 ねばねばした嫌な匂いのする黄色い液体は、じゅくじゅくと岩に染み込み、その部分を醜く溶かしていた。――猛毒なんだ!!
 虚しく空をきって戻ってきたブーメランを受け止め、ぼくは唇を噛んだ。

 狙いが狂っていたわけじゃない。ぼくは、きっちり心臓の位置――胴体の真ん中を狙った。なのにベルゼブルの羽の引き起こす空気の流れが邪魔をして、ブーメランの軌道が狂ったんだ。

 精霊の力を借りることができたら……そうは思うけど、でも、分かっている。
 今のぼくじゃだめなんだ。
 どの精霊を呼びだすにも、魔力が足りない。

 つまり、自力で戦うしかないんだ。
 ぼくは再びブーメランを持ち替え、ベルゼブルを見上げた。
 こうなったら、羽の動きに影響を受けない部分を狙うしかない。

 それ自体が生命を持っているかのようにうごめく触角……手に入れるべき封印の鍵に向かって、ぼくはブーメランを投げつけた。

「当たってくれっ」

 願いを込めて投げたブーメランは、触角をかすっただけだった。戻ってきたブーメランをつかむが早いか、再びかまえる。ふん、いまさら一度や二度の失敗でめげるもんか。
 もう一度触角に投げようとした時、ぼんやりとそれが見えた。

 髑髏に似た、不気味な黒い塊が。羽の模様のように広がっている、忌まわしい形の斑紋。
 そういえば、あの本に書いてあった言葉  羽の黒き斑紋こそ、その忌まわしき力の秘密と知れ……つまり、斑紋こそベルゼブルの弱点なんだっ。

「分かった……っ」

 羽音の唸りが、ひときわ増した。くらり、と体がふらつくのに気がついた。
 ベルゼブルの羽音には、邪力があるんだ。見えない手が、ぼくを掴んで揺さぶっている。力が奪われているんだ……!

 早くブーメランを投げなければと意識だけは焦るのに、体から力が抜けていく。立ちくらみを起こしていたぼくを巨大な複眼がジロリと見下ろし、再び毒液を吐きかけた。
 とっさに飛びのいたつもりだったが、よけ切れずに肩に毒液が降り懸かってしまった。


「うわあああっ!!」

 熱湯を浴びせられたような激しい痛みに、ぼくは悲鳴を上げて転げ回った。けど、その痛みのせいで、意識がしっかりとする。

「インディのバカ! 羽だよ、羽の模様を狙うんじゃないか!」

 ミュアがぎゃあぎゃあ騒ぐ声も聞こえる。くそ、自分は安全なところに隠れているくせにっ。
「分かっているよ、見ていろっ!!」

 痛みを堪えて、ケガしていない方の手でブーメランを投げた。渾身の力を込めて、羽の斑紋を狙って!!
 だが、今まで闇雲にぼくの頭上を旋回していたベルゼブルは、急にその動きを変えた。ブーメランを軽くかわし、一度高く飛び上がってから降下しだした!

「インディ、危ないっ!! もういいから、逃げろっ」

 ミュアが叫ぶが、それは無視! だいたい、逃げたりしたらこいつに勝てっこないじゃないか。
 ぼくは戻ってきたブーメランをつかんで、しっかとベルゼブルを見据えた。

 大ばさみに似た口が、もの欲しげに開いたり閉じたりしている。その先端は、針のように尖っていた。

 棘のある脚は、ぼくを手に入れるのが待ち切れないように、さしだすように伸ばされている。あれらに触れた途端、ぼくの体なんか紙のように八つ裂きにされてしまうに違いない。

 それを思うと自然と体が震えるけど、そんなのは意思の力でなんとか押さえられる。押さえられないにしても、逃げるなんて論外だっ!
 奴が近づくだけ近づくのを待って、羽の斑紋にブーメランをたたき込む  ベルゼブルの羽を打ち抜くには、これしかないんだから。

「もっと……もっと、近づけ。もっとだ…」

 呪文のように言葉を繰り返し、ぼくは大きくなってくるベルゼブルの恐怖に耐えた。普通の昆虫と違って、知性の輝きを見せる複眼がどんどん迫ってくる。
 長いような短いような悪夢の一瞬を経て、ベルゼブルの吐く息を髪に感じた時、ぼくは身を投げ出すような勢いでブーメランを投げた!

「ギギギギギギィイィイイイッ!!」

 悲鳴とも破壊音ともつかぬ声が、谷間に響き渡った。
 ぼくのブーメランは、黒い斑紋を打ち抜いたんだ。
 突風が吹き荒れ、耳障りな羽音がぼくの頭上で荒れ狂う。

 だがもう力を失っていることは明らかだ。
 6本の脚をてんでに踊らせながら、巨大な昆虫の形をした魔物は落ちてきた。

「インディ、ロッドでとどめだ!」

 ちゃっかりと、ミュアが岩陰から飛び出してきた。
 風が断末魔の唸りをあげ、地上をのたうつベルゼブルの動きは鈍っていく。
 呪文さえ必要なかった。

 魔力の籠ったロッドを軽く当てるだけで、ベルゼブルの体は砕けて粉微塵に崩れ去った。体がなくなると、風のうねりは地に吸い込まれるように消えていった。
 そうか……この魔風の谷の風と、ベルゼブルは何らかの形で繋がっていたんだ。だから、ベルゼブルを倒せば、風もやむってわけだ。

 残骸の中から、ぼくは触角を選んで拾い上げた。それだけは不思議と、無傷だった。
 肩の傷が疼くけど、気分だけはやたらといい。――ぼくはベルゼブルを倒して、魔風の谷を封じたんだ。
 でも、その得意な気分にミュアが水をかける。

「もーお、ハラハラしちゃったよ。危なっかしいったら」

 保護者面したこのご意見に、カチンときましたねー、ぼくは。

「なら、少しは協力したらどうなんだよ、なんにも助けてくれなかったくせに。ああしろ、こうしろって言うだけでさ」

 けど、ぼくのもっともな反論も図太いミュアにはこたえない。

「ボクにブーメランを投げろってのかい? ふん、そんなもの。ボクはキミより魔力があるんだ。アザゼル先生の一番弟子だし、それに猫だからね」

 あぁああ、そうですか。

「ボクは実戦より、頭脳労働に向いているんだよ。キミに助言するのがボクの役目ってものさ。ボクの忠告はちゃんと聞いた方がいいよ」

 やれやれ。
 肝心な時に自分が岩の下にうずくまっていたことは、きれいさっぱり忘れてるんだから。――それとも、覚えてても忘れたふりしてるのかな?

 ペロペロと毛並みを整えるミュアに、言いたい文句は山ほどあるけど悔しいことに口ゲンカじゃ勝ち目がない。何か強烈な悪口はないかと必死で頭を巡らせていると、ミュアが鋭い爪で護符付きマントの裾を引っ張った。

「何すんだよ、ミュア?!」

「早く、戻ろうよ。そのケガ、ほっといていいの? 早く再生の川の水を浴びて手当てしないと、治るものも治らないよ」

 そういえば、すっかり忘れていた。
 自分で見るのもいやなほどただれた傷は、もうさほど痛みはないけど、ケガをした手が痺れたみたいで、ろくに動かせやしない。このまま手がきかなくなったら、大変だ。

「だから、早く街に帰ろうって言ってるのに。どう、ボクの助言は役に立つだろ?」

 ミュアは得意げに水色の目をきらめかせた。

 

 

 街の周囲をぐるりと巡る再生の川。
 遠くからは薄紫色に見える水は、手にすくって見ると普通の水と同じように透明な色をしている。

 浅瀬を選んで、のんびりと水をすくっては体にかける。それを繰り返すと、本当に気持ちがいい。体の疲れがスウッと抜けて、代わりにふつふつと力が込み上げてくるみたいだ。


 ひどい火傷を負った肩も、水の力できれいに直っている。新しくはった薄皮が、いかにも新品って感じのピンク色で、触るとちょっと痛いのを除けば、もう完全回復!
 ぼくが元気になったのを見計らって、水が絶対にこないところで(ミュアってば水が大嫌いなんだ)日向ぼっこしていたミュアが、伸びをして起き上がった。

「元気になったみたいだね……ふうん」

 ジロジロと、ミュアはぼくをいろんな角度から見つめる。

「なんだよ、ミュア」

「うん、ちょっと魔力が上がったみたいだね。自分で分からない?」

「え……?」

 言われてぼくは自分の掌を見てみたけど  そんなとこ見たって、魔力の上昇が分かるわけないっ。
 試すとしたら……魔法でだ。
 ぼくは服を着るのもそこそこに、ロッドを手にとった。

「カトゥラブーラ、善き精霊シルフェよ、
 魔術師インディ=ルルクにその加護を!
 優しき風を、わが元に!」

 ロッドの先端が光ったかと思うと、ぼくが望んだ通りの柔らかい風が吹いてきた。水から上がったばかりのぼくの体を乾かすように、暖かく、そして心地のよい風が。
 驚くぼくに、ミュアがしたり顔で説明する。

「魔界では、強い相手と戦って勝つと、相手の魔力の何割かを吸収して強くなるのさ。だから、普通の修行するよりもずっと早くレベルアップするんだ」

「へえー、そうなの」

 合理的と言えば合理的、便利と言えば便利だけど、それってなんか間違ってるよーな気もする。

 ぼくはずっと先生がまともに修行をつけてくれないのが不満で、本音を言えば楽して魔術師になりたいと思っていたけど、でも、こうして望みが叶ってみてもさほどうれしいとは思わない。

 他人を犠牲にして伸ばした魔力で、ぼくは魔術師だと堂々と胸を張って言えるだろうか――?

「インディ、何を考えてるんだい」

 ミュアに声をかけられて、ぼくは正気に戻った。

「……いや、たいしたことじゃないよ」

 そう、こんなのたいしたことじゃない。ぼくが今考えなきゃいけないのは、魔界を封印し直すこと。それだけだ。

「次はどこへ行こうかなって、考えてたんだ。でも、もう考えるのはやめた。運を天に任せるよ」

 ぼくは手にしたロッドを軽く上にほうり投げた。クルクルっと回転したロッドの先端は、妖水の沼の方向を指していた。

「決まりっ! 次の目的地は、妖水の沼だ」
                                 《続く》

 

4に続く→ 
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