Chapter.4 ブローケルの微笑み |
どこからともなく、よどんだ霧が立ち込めてきた。湿った空気が体にまとわりつくようで気持ちが悪い。 折れ曲がった細長い枝ばかりが、醜く突き出している。 「ふん、このくらいでこのぼくがビビると思われちゃ、困るんだよな」 本音を言えばちょっとは怖いけどさ、でもぼくはもう見習い魔術師じゃない。ベルゼブルを倒して、曲がりなりにも魔法が使えたんだ! ちょっとは自信もついたもんね♪ それよりも厄介なのは、柔らかい地面の方だ。 まるで、雨上がりの泥道を歩いてるみたいだ。地面はもうぬかるみと言うより、水溜まりと言った方がいい。 「インディ!」 ミュアが片足を上げたまま、それを下ろせないままで立ち往生している。これがミョーに間抜けで笑えるったら! 「がまんしろよ」 ぼくだって、ブーツの中ビショビショなのをがまんしてるのに。 「だって、……なんだかこの水おかしいよ。チクチクするんだ」 ミュアにしては、説得力も芸もない言い訳だ。 「またぁー。水がどーしてチクチクするんだよ」 「しているんだよっ! ヤだよ、がまんできないよっ」 「もう! しょうがないな」 足場が悪くてジャンプできないでいるミュアを抱き上げ、肩に乗せてやる。なんだって、急にこんなだだをこねだしたんだか……。 「うわっ?!」 いきなり何の前ぶれもなく膝までずぶっと沈んだんだ、もう少しで泥の中につんのめる所だった。 「大丈夫、インディ?!」 ミュアがやけに熱を込めて、心配そうに聞く。ふむ、けっこういいところもあるんだな。
…………前言撤回。 「……っ?!」 今になってから、ミュアがさっき言った意味が分かった。 これは……水のせいなんだ。 あれほど強力じゃないけど、直接水に浸かっている膝から下は、痺れて感覚が薄れかけている。 「なんとかしろよ、インディ!」 ぼくの様子がおかしいと悟って、ミュアが狭い肩の上でバタバタ騒ぐ。 「なんとかしろって言ったって、どーしろって言うんだよっ?!」 「精霊の力か……そうだ、インディ! キミ、聖水を持っていたんじゃなかったっけ?」
どうやら、水の邪力は消えたみたいだ。 水の抵抗のせいで、自分でもうんざりするほどゆっくりと進んでいると、突然ミュアがぼくの肩を蹴って飛んだ。 「インディ、ボク、ここで待ってるよ」 低い木の枝に見事に飛び乗ったミュアは、さらに木の上の枝の方に駆け登る。 「ちぇっ、ぼくだってそうしたいよ」 ホント、いざって時はまったく役にたたないんだから。 まあ、そんなに遠くまできたはずないから、大声を出せば多分、ミュアにも聞こえるだろう。 しかし、こんな所で迷子になったのがミュアにバレたら、後でなんと言われるか――そう思うと、素直にあいつを呼ぶ気がなくなるよなあ。 「……あれ?」 何か、聞こえたような気がした。 そんなぼくを笑うように、軽やかな忍び笑いは大きくなる。 「え……?!」 色濃く立ち込めていた霧が、いっせいに揺らめいた。 ぼくはぎょっとし、それからとまどった。 長い髪の、目の大きな女の子だ。おかしくてたまらない、と言わんばかりにぼくを見つめてくすくすと笑っている。 でも、なぜかその子が普通じゃない事を感じ取って、ぼくは少しずつ後さずりしながら魔術書を探った。 「遠慮しないで開いてみたら?」 女の子はそう言って、またクックと笑った。顔自体は可愛いのに、なんだかゾッとする雰囲気を持った子だ……。 「エタナアルデリラアム、我に道を示さん……。
第十章 そは、望みに応じてその姿を変えん
ぼくがそのページを読み終わるまで、少女は何一つ邪魔をしなかった。 「そうよ。わたしがブローケル」 謡うようになめらかに、少女が告げる。 「あなたがわたしを封印しようっていうの?」 腰かけた木の枝をぶらんこのように揺さぶりながら、少女が屈託なく笑う。本人の口から聞いたとはいえ、この子が魔物だなんて信じられない……。 「ねえ、それよりいいこと、教えてあげようか……」 ブローケルはことさら声を潜め、ぼくの目を除き込んだ。深い沼のように濃い緑色の目が、妖しく光る。 言葉を囁く赤い唇…絹のようにつやのある髪……すべてが艶やかで、知らず知らずのうちに目を奪う。 「あなたの連れている、あの猫……」 囁きかけられた声の美しさにぼーっとしかけたけど、ミュアのことを思い出してぼくはプルプルと首を振った。 「ミュア?! ミュアに何かしたのか?!」 慌ててミュアの姿を捜したけど、水面のあちこちに突き出た木の枝が邪魔して影も形も見えない。 「あら、心配なんかしなくていいわ。だって、あれはわたし達の仲間なんだもの」 ミュアが――?! 「そうよ。だからあなたをわたしの元に連れてきてくれたでしょう?」 「そんな……」 嘘だ、と言い返したかったけど、なぜかうまく言葉がでてこない。 「思い当たることはない?」 そういえば……ミュアは人間界では一度もしゃべったりしなかったのに、魔界にきてから急に、水を得た魚のようにしゃべりだした。 なぜ、あんなに魔界に詳しいのか。 「嘘だと思うなら、その本をごらんなさいな」 ブローケルはぼくから目を離さずに、顎で魔術書を指す。呪文を唱えた時のように本は自動的には動かなかったけど、ぼくは操られたように、自分の手であるページを開いていた。
第十二章
かすれた文字が、目の前をちらつく。 なにか――なにか、重大な勘違いをしているような気がするのに、それを思い出せない。まるで、夢の中に迷い込んだみたいに、何もかもが霧で覆われていく……。 「かわいそうなインディ。あなたは、ずっと騙されていたのよ」 ブローケルの優しい声が、ぼく自身の考えのように心に染み込んだ。 「ぼくは……騙されていた」 「そうよ。ミュアは、サタンの使いだったの」 「ミュアは…サタンの使い……」 バカみたいに、ブローケルの台詞をなぞるぼくに、彼女は優しく手をさしのべた。 「さあ、インディ、ここに来て……」 甘い声が、抗いがたい魅力を持ってぼくを誘う。美しい緑の目が、じっとぼくを見つめていた。 「どうしたの? ほんの数歩、足を前に出せばいいのよ?」 わずかに口端をあげた赤い唇が、なまめかしい。 「さあ、歩いていらっしゃい。自分から、わたしの元にね」 「…歩いて……」 目の前にいる、この世のものとも思えないほど美しい少女を目指して、ぼくは無意識に足を踏み出した。 「ギャアアアアッ!!」 ブローケルの悲鳴と跳ね返った水飛沫で、ぼくはハッと我に返った。 その背中に、ミュアが爪を立ててしがみついている。 「インディ、ぼんやりしている場合じゃないぞっ。こいつの邪力がキミを……」 早口に叫ぶミュアが、ブローケルともつれあったまま水の中に転がり落ちた。 「ミュアッ?!」 水面から泥の塊が跳ねた……あれは、ミュアだ。何かに放り出されたミュアは、それでも爪を突き出た枝にひっかけ、なんとか体を引っ張りあげて這い上がる。 だが、水面が不気味に揺らいでいる。膝まである水に、うねりが起きるのを感じた。 ブローケルだ!!
「くっ…」 水が重くまとわりついて、ろくすっぽ動けない……! 『水の精霊の加護を得よ』 本の言葉を思い出したぼくは、ロッドをかかげてその呪文を叫んだ。 「カトゥラタンブーラ、善き水の精霊オンディーヌよ、聞け! ロッドが輝き、そこからほとばしった光がぼくを包んだ。水の精霊が、ぼくの呼びかけに応じてくれたんだ。 後は、自力でこの水蛇を倒すまでだ! だが、襲いかかろうと鎌首をふりあげたのを少しくじいただけで、なんのダメージも与えてはいないっ。 でもほかに方法はない。 大きいだけに、ブローケルはこの沼の周囲を取り囲む木の枝が邪魔になり、ろくに身動きができないでいる。 一ヶ所に止まらず、ぼくは兎のように動きまくり、何度も何度もブーメランを投げつけた。 よく見れば、眉間から青い血が滴り落ちている……効いている証拠だ。それに力づけられて、ぼくは腕が抜けそうになるほど強く、ブーメランを投げ続けた。 「シヤアアアアアアッ」 威嚇するように、ブローケルが鎌首をふりたてて吠える。
アッという間に、ぼくは強い力で叩きつけられ、撥ね飛ばされた。木の枝がいくらかはクッションになってくれたとはいえ、しばらくは息もできない。 攻撃に夢中になり、頭に注意を奪われ過ぎていた。だから、水面下の尻尾に気づかずにはね飛ばされてしまったんだ。 ブローケルは誇らしげに、そして踊りを踊るようにゆっくりと鎌首をもたげていた。 すぐにとどめをささなかったのは、木の枝が邪魔にならない所までぼくをはね飛ばした余裕から……らしい。座り込んでいるぼくを、ブローケルはさぞ勝ち誇った気分で見下ろしているだろう。 「…でも……まだ、諦めないぞ」 自分に言い聞かせるために、ぼくは小さく呟いて右手を握り込んだ。 ブローケルが動き回ったせいで、すっかり泥で濁った沼は、ほんの浅瀬でさえ見ることはできない。ぼくが手に握っているブーメランも、手を水に浸けている限り見えっこない。 ――そう、外見は違っていても、性格まで変わっているわけじゃない。言葉でぼくを翻弄したあの少女のように、ブローケルは獲物を弄ぶことを楽しんでいるんだ。 ブローケルの緑の目を見つめながら、荒い呼吸を静め、タイミングを計る……。 「インディ――っ!!」 ミュアの叫び声をきっかけとして、ブローケルがぼくに襲いかかる! 水面が激しく踊り、その勢いで大きくはね飛ばされる。 「ブローケル……」 ブーメランは鋭い棘のように、ブローケルの二つの目の間に深々と刺さっていた。 「ウラームアライーム、 ロッドが触れると、水蛇の姿が見る間に縮んで少女の姿へと変化する。だけど、もう騙されないぞ。 「ウラームアライーム」 もう一度呪文を唱えると、ロッドが白い輝きを放ち、にわかに水面が泡だった。 「こんなボウヤにしてやられるとはね…! あなたを見くびるんじゃなかったわ、インディ=ルルク」 足から水に沈み込みながら、ブローケルはなおも言葉を続ける。 「ご褒美にいいことを教えてあげる。あの猫に気をつけなさいな。あのコは、あなたの行動を邪魔するだけ……そして、必ずあなたを裏切るわよ」 「嘘だ」 きっぱり、ぼくは言い返した。 「ぼくは、もう惑わされないぞ」 少女の姿をしたブローケルが、一瞬微笑みを浮かべる。 「いずれは分かるわ。だって、ミュアは……」 そして、ふっと緑色の目から光が消えた。 さっきまでとは見違えるほどきれいに澄み切った水面に、ぽっかりといくつかの鱗だけが浮かんできた。 急に辺りの霧が晴れ、明るく照らし出される。 「ミュア? ミュア、どこだ?」 戦いに夢中ですっかり忘れてたけど、そーいえば途中から全然ミュアの姿を見ていないっ! だって、ミュアの奴ときたら、木の二股に優雅に体をもたせかけて、ぼくの呼び声にも知らん顔で、せっせと毛並みを整えているじゃないか! 「おい、ミュア! ぼくのこの格好を見ろよ」 ミュアは舌を出したまま、やっとぼくの方を見て皮肉っぽく言った。 「ブローケルは惜しかったね。ボクがいなきゃ、あのまま邪力でキミの力を奪いつくせたのにね」 それが、命懸けでそのブローケルと戦った者に言う台詞かっ! 「まったくキミときたら、あんな蛇の化けた女の子にぼーっとしちゃってさ。見ちゃいられなかったぜ。おかげで、ずぶぬれになっちゃったじゃないか」 つんとすまして、ミュアはまた毛づくろいに熱中しだした。 「言ってくれるじゃないか、え? だけど、ブローケルをやっつけたのはこのぼくさ。もう、ここには用がないんだ、さあ帰るぜ」 油断しているスキを狙って、ぼくは泥だらけの手でミュアを引きずり下ろし、泥水まみれの肩に乗せてやった。 「みぎゃあー、なにするんだよおっ」 ミュアが不満一杯にもがくけど、相変わらず一面に膝までの水でいっぱいだから、他にどうしようもない。 「へへん、嫌だったら降りてもいいんだぜ。その代わり、泳いで街まで戻るんだね」 「〜〜」 悔しそうにうなりながらも、ミュアは黙り込んでしまう。やったー、初めてミュアを言い負かしたぞっ? 「おっと……鱗を忘れるところだった」 ぼくの掌よりもはるかに大きい鱗は、ブローケルの瞳と同じ色をしていた。それを拾いあげながら、ぼくは少女の最後の微笑みを思い出した。 最後にブローケルが言いかけた言葉……ミュアが、いったいなんだ、というつもりだったんだろう……? 「インディ、どうしたんだよ? ぼーっとしちゃってさ」 「ん? ああ、なんでもないよ」 いくらなんでも、ミュア本人にこんな話をしたってしょうがないよな。まるでぼくがミュアを疑っているみたいだし、だいたいまた、蛇の化けた女の子に化かされたの、なんのってバカにされるに決まっている! そう思って、ぼくは疑問を胸に沈め込んだ――後で、それを悔やむことになるのも知らずに。 「さ、再生の川に帰ろう。あそこで、一緒に水浴びしようぜ、ミュア」 こうして、ぼく達は妖水の沼を後にした。
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