Chapter.6 百面樹の嘆き
 

「あきれた。あなた、まだミュアを信じているの?」

 大きな緑色の目が、ぼくをまっすぐに見つめていた。少女の姿をした魔物……ブローケルだ。
 そうだよ――ぼくは言い返したつもりだったけど、それは声にならない。

「バカね……信じれば信じるほど、裏切られた時の傷は深くなるのに」

 ブローケルの深い緑の瞳……それを長く見ていてはいけない、と分かっている。
 その瞳には、邪力がある。催眠術のように、その言葉を信じさせてしまう、不思議な力が。

「ミュアは、サタンの使い……信じてはいけないのよ」

 言い返したいのに、言い返せない。
 ブローケルの緑の瞳が、ぼくを真正面から除きこんでいる。それがだんだん大きくなって、そして……。

 

 

「……ンディ。インディったら」

 気がつくと、緑色ならぬ水色の瞳がぼくを除き込んでいた。それも可愛い女の子でも、ブローケルでもなくて、猫の目だ。

「え……あっ、……夢か」

 大きく息をついて、ぼくは起き上がった。
 ミュアによれば魔界では眠らなくてもいいそうなんだけど、精神的に疲れていたぼくは、水浴びの後、再生の河原で横になってそのまま眠っちゃったらしい。

 たとえ夢見が悪くても眠ると少しは違うのか、すっきりと頭の疲れも抜けている。ケガはもともと寝る前に川の水を浴びて直しておいたから、これで完全回復だ。

「ふわぁ、でも、もー少し眠りたかったなぁ」

「なに、のん気なこと言ってんだよ、インディ。ここは魔界なんだよ、少しは気をひき締めたらどうだい?」

 ミュアはやけに険しい顔をして、しきりに河原の上流を気にしている。何を気にしているのかとミュアの視線の先を見ると、離れた所に一人の男が立っているのが見えた。

「気に入らないなあ……。あの男、キミが水浴びを始めた時から、ずっとこっちの方を見ているんだ」

 独り言のように、ミュアが呟く。

「そんなの、気のせいじゃないの?」

「違うってば! あ、こっちにくる」

 男が軽く手を振って、近寄ってきた。細面の、どことなく抜け目のなさそうな顔をした男の人だ。

「これはこれは……ごきげんよう。君にお会いできて、光栄です」

 やけにバカ丁寧な話し方だ。敬語を使っているのに、なんとなく顔の皮の下で笑っているような嫌な感じがする。
 それに、ぼくを知っているような口振りは……?

 ミュアが、軽く毛を逆立ててぼくの足にすり寄る。その態度が、ぼくにも警戒心を呼び起こされた。……ブローケルのように、言葉で翻弄する魔物だっているんだ、気をつけなくっちゃ。

「そう、警戒することはありませんよ。わたしはこの街に住まう魔術師です。あなたの噂を聞いて、少しお話をしたいと思いましてね。なんでも、魔の領域でのご活躍なされたとか」


 いったい、どこでどういう噂になったとゆーんだろ?


「どうです、一つわたしの頼みを聞いてもらえませんかね。わたしは、炎を操る研究をしているんですよ。それでどうしても、ベルフェガーの炎を手に入れたいと思ってましてねえ。あなた、もう、ベルフェガーの所には行きましたか?」

「ううん、まだだけど」

「ほう、まだですか……。
 いかがです? ついでといっちゃなんですが、炎を取ってきてもらえませんかね」

 男はそう言って、奇妙な形のランプを取り出した。やたらと凝った形の、高そうな物だ。


「これをさしあげましょう。なんといっても、ベルフェガーの炎はそこいらの入れ物に入れるわけにはいきませんからね。いえ、ご遠慮なさらずに、後で火種を分けていただければけっこうなんですから。それではお願いしましたよ、いいですね」

 男はとても愛想よく笑いながら、それでいてぼくに強引にランプを押しつけ、返事も聞かずにその場を立ち去ってしまった。

「……なんなんだ、あいつは?」

 なにがなんだか分からないけど、まあいいや。
 頼まれるまでもなく、ベルフェガーの炎は取りにいくつもりだったし、ランプをただでもらって、得したと思えば得したんだし。

 ランプをしまいこんで、ぼくは立ち上がった。
 せっかく入れ物も手にいれたことだし、炎熱の砂漠にでも行ってみようかな。

「さっきのやつ、なんとなく気にいらないな」

 ミュアが不機嫌そうに尻尾をふる。

「そうかな。どうして?」

「なんとなくさ……。ねえインディ、ボク思うんだけど、次は暗闇の森にいった方がいいんじゃないかな」

 ぼくはまじまじとミュアを見つめた。行く先について言い出したのは、これが初めてだ。
 

「どうしてそう思うんだい?」

「分かんないよ。でも、なんとなくそんな気がするんだ。本当だよ」

 ミュアはひげを震わせていた。
 ――なんとなく、さっき見た夢を思い出す。ブローケルの最後の言葉は、嫌になるほどぼくについて回ってくる。

 ミュアがサタンの使いだって……?
 まさか、ね。
 でも、疑おうと思えば、魔術書にもそんなこと書いてあったし……ああ、分かんないや。だいたい、ぼくは考え事や推理なんかは苦手なんだよな。

 ぼく達は気まずく黙り込んだまま、町の出口へとやってきた。
 あの男に頼まれた炎熱の砂漠か、ミュアの希望に沿って暗闇の森か――どっちとも決められないので、ぼくは前にやったみたいにロッドを宙に投げてみた。
 ロッドが指したのは、暗闇の森の方向だった。

 

 

 『それ』が近づいてきた。
 だいぶ前から見えていて、ぼくの目を釘付けにしていた『それ』はとても奇妙な風景だった。

 灰色の空  ホントは空なんかじゃないけど  の下に、ぽっかりと開いた黒い穴……そんな感じだ。
 だんだん近づくにつれ、それがとても大きな物だと分かったけど、真っ暗な、そこだけ黒い紙を切り抜いて張ったような真っ暗な穴にしか見えない。

 世の中の暗闇という暗闇をすべて集めてそこに流し込んだら、こんな風な漆黒の闇ができるのかもしれない。

 目の前に開いた暗闇の森の入り口は、なんだか、闇の魔物の巨大な口そのもののように見えた。
 ……やっぱ、炎熱の砂漠にしとけばよかったかな?

「このままじゃあ進めないよ。なんにも見えやしない。おまえはどう? 猫は暗闇でも目が見えるだろ」

 瞳を真ん丸にして闇を見つめていたミュアは、真面目な顔で答えた。

「だめだよ。ここにはほんの一粒の光だってないんだもの」

 じゃあ、精霊の力を借りてみよう。

「カトゥラタンブーラ、善き光の精霊ケレットよ、聞け。
 魔術師インディ=ルルクに、その加護を。
 この深き闇を追い払いたまえ!」

 ロッドの先に輝きがやどる――精霊が答えてくれたんだ!
 輝きはロッドを飛びだした。
 箒星みたいな尾を引いて、行く手の闇の中に飛び込んだ。きらめきが闇に小さな渦を巻き、音もなく光のかけらを振りまいた。

 やがて、渦巻きは闇に溶け込み、消えた。でも、ここはもう、完全な闇じゃなくなっている。
 ほの暗い、奇怪な森が姿を現していた。

「これが、暗闇の森か」

 年を経た木には精霊がやどり、別の命を持つ――アザゼル先生がいつかそんな話をしてたっけ。ここにあるのも、そんな木かも知れない。
 だけど……だけど、あんまりいい精霊が宿っているようには見えないぞっ。

 思い思いの格好に地面に根を張っている木々は、斜めにつきだしたり、幹と同じくらい太い枝がアーチのように地面に届いていたり、こぶやうろだらけですっかり歪んでいたり……。

 まともな木なんか、一本もありゃしない。
 共通しているのは醜さだけじゃない。その大きさも、だ。
 いたるところで岩のように見えるのは、地面に押し出された土色の根だ。いくつもがからみあい、ぼこぼこと膨れ上がっている。

「ブッキーなとこだなあー」

 まあ、しょせんは魔物が住み着く所だもの、明るく楽しい所であるわけないけどね。
 木々に気を取られながら歩いていると、なにかがぼくの足に絡みついた。

「ひゃっ?! ……なんだ、根っこか」

 まるで蛇のように、ぼくの足首に絡みついている。まさか、今伸びてきたんじゃ――いやいや、ぼくがぼーっとしてて自分でこの中に足をつっこんだんだよな、きっと。

 それを取ろうと引っ張った途端、足の方じゃなくて、なんと地面に埋まっている方があっさりと抜けてしまった。
 あんまりあっけなく抜けたもんで、すかをくらって尻もちをついちゃった、おーいてえ。


「え…?」

 地面に埋まっていた部分は、膨らんでいた。その膨らみはちょうど人の頭ほどの大きさで……ぼくは足に絡みついた根の先をじっと見つめていた。
 自分でそのことに気がつくのに、しばらく時間がかかったんだ。

「う…わわあぁああっ?!」

 気がついた途端、ぼくは声の限りの悲鳴を上げて、それを投げ出していたっ!
 その根っこの先の膨らみは、確かに頭だったんだっ、しかも顔つきの!!
 そして、ニィッと笑いかけてきた顔は、紛れもなくぼくの顔だったんだっ!

 ううっ、まさか自分の顔にこんなにショックを受けるとは……。
 きっと、邪気かなんかを放っているに違いない。慌てて回りを見回すと、地面のいたるところから気味の悪い根っこがニョキニョキ腕を伸ばしてきている  っ!

「インディっ、魔術書を読むんだよっ」

 ミュアに言われても反発する気力もなく、ぼくはさっそくそれに従った。

「エアナアルデリラアム、
 魔の森の地中に蠢き、邪気を及ぼすものを封じる術はっ?」

 

 

  第十六章
    ☆汚れし土 ラルヴァを生ず
      悪霊やどりし古き木あり その根 ときにラルヴァに変ず
      その姿人型をなし 傷つけるにおよび 赤き血に似た液を流すなり

      触れるなかれ 毒気あり あるいは地中から引き抜くは避けよ
      抜きたる人の顔となりて 生気を奪う
      汚れし土を聖水で清めるは ラルヴァ退散の手早き法なり
      大地除霊の呪文を唱えよ 『クルセイドエランド』

 

 

 聖水っ!! ――は、ないんだっ。

「どうしてそのぐらい、用意しておかなかったんだよっ?!」

 いち早く安全な木の上に逃げたミュアが叫ぶ。……ホント、要領がいいったら。

「ミュアの首輪がけっこう高かったから、聖水を買えなかったんじゃないかっ」

 怒鳴り返すと、ミュアはころっと意見を変えた。

「ないならないで、逃げるとか他の方法を探さないと!」

 しかし、腕やら脚に似たものが地面からニョキニョキつきだして、回りをすっかり囲まれている。
 焦る気持ちを抑え、ぼくは自分に言い聞かせた。

 聖水がなくちゃだめ、とは書いてないんだ。手っ取り早いってだけでさ……。
 おし、立ち直りっ!
 立ち直りの早いのが、ぼくの長所なんだ。反省がない、ともいうけど。

「ミュア、ラルヴァ……木の根に触れちゃだめだぞ。毒があるんだから」

 抜いても、血のようなものに触れてもだめなんだ。それを頭に叩き込んでから、ぼくはブーメランをかまえた。
 こうなりゃ、強行突破だ。

 地中から伸びて、ざわざわと蠢くラルヴァ。そのいくつかを、ブーメランでぶっちぎるっ!
 気味の悪い赤い汁に触れないように注意し、ぼくはジャンプを繰り返してラルヴァを飛び越えた。

 ミュアはと心配してちらっと見ると、安全な木の枝を伝って追って来る。その動きは、ぼくよりもずっと素早かった。
 ラルヴァはぼくを狙って根を伸ばすが、植物のトロい動きになんか、負けるはずないっ。
 投げてはブーメランを拾いあげ、ラルヴァを飛び越えることを繰り返す。さして時間もかけずに、ぼくは危険地帯を抜け出した。
 ラルヴァはざわざわ悔しそうに根を動かしているけど、追ってはこない。やっぱ、魔物化してるとはいえ、植物だもんな。

 安全と見て、ミュアも木の上から降りてくる。ぼく達は並んで、さらに森の奥へと進んでいった。
 しばらくして、ぼく達は目的のものを見つけた。

 一際大きく、そして醜い。無数のこぶで、幹はただならぬ有様。奇怪なのは、こぶの一つ一つが人間の顔のように見えることだ。
 そろそろと近づいて見ると、確かに人の顔  だが、どれ一つとしてまともに目をあてられるものはない。

 断末魔の恐ろしさを刻み込んだ、顔、顔、顔……これが、百面樹?!
 それに気を取られていたぼくは、頭上に迫る動くものの気配に気がつくのが遅れた。

「インディ、危ないっ」

 ミュアの注意も、一瞬遅かった。
 蔓はぼくの腕ほどもあった。それは驚く程の素早さで、ぼくの腕に巻きついてきた!

「うわっ?!」

 足が宙に浮く。
 もがけばもがくほど、蔓はようしゃなく食い込んで、ぼくを木の幹へと引きつけていく。硬いはずの木の幹は、なぜか生き物じみて柔らかく、ねっとりとぼくの体を包みこもうとしている!

 このままじゃ、ぼくも百面樹の顔の一つに――冗談じゃないっ!
 ぼくは渾身の力を込めて大きく足を振り上げ、思いっきり木の幹を蹴りつけた!
 その反動で、蔓を振りほどく。が、その途端ぼくは地べたに投げ出された。

「う…っ」

 したたかに背中を打ち、息が詰まる。再び蔓はぼくを狙ってゆらゆらと近づいてきた。――が、思うように動けない!

 背中を打ったのが悪かったのか、蔓でしめられたのが悪かったのか、あるいはラルヴァの毒が今頃効いてきたのか……懸命に地面をかいて体を引きずったけど、こんなスピードじゃ亀にだって追い抜かれるっ。

 頼みのブーメランは離れたところに転がり、魔術書も手の届かないところまで飛ばされてしまっている。
 手元にあるのは、腰にさしたままのロッドだけだった。

「インディっ、何してるんだよっ?!」

 ミュアが毛を逆立てながら、ゆらゆら動く木の蔓の回りをしきりに動き回る。その動きに釣られたのか、蔓はぼくとミュアをどっちを襲おうか迷っている。

「体が…動かないんだ……もう…」

 おまけに、ブーメランも魔術書もない。この魔物を封じる方法を調べられない。
 戦う手段も、対抗する知恵も失い――初めて、ぼくは死を間近に意識した。動けずにいるぼくに、ミュアは強く叫ぶ。

「何言ってるんだ、キミはっ。魔術書やブーメランがなければ、なんにもできないなんて、それでも魔術師なのかいっ?!」

 ……死を覚悟した人間に、そこまで悪口を言うか、ふつーっ?!

「そんな言い方はないだろっ、ぼくだって一生懸命やったんだっ」

「嘘つきっ、途中で諦めるなんて弱虫のすることだよっ」

「誰が弱虫だよ、誰がっ。ミュアなんて、いつだって安全な所に隠れていただけのくせに!」


 体も動けず、敵にとどめをさされる直前だとなのに、ぼく本気になってミュアと言い争った。百面樹がどーだろうと、この生意気な猫にだけはバカにされたまま死ねないぞっ。
 

「ぼくは、ぼくにできることはやったんだっ! でももう体も動かないし…、しょうがないじゃないかっ」

「何言ってるんだい、そんなに怒鳴る元気があるくせにっ。 どうして呪文を唱えないんだよ、キミは魔術師だろう?!」

「――!!」

 ミュアの言葉は、心の一番深い所を貫いた。――確かに、そうだとは思いながらも、それでもなにか悔しくて、ぼくは必死に言い返した。

「だって……魔術書がなければ、なんの呪文を唱えていいかも分からないし…」

 ぼくのしどろもどろの言い訳を、ミュアは蔓から逃げ回りながら鼻先で笑う。

「ふん、そんなに魔術書が頼りなら、魔術書に魔界封印をしてもらうがいいさ! キミが魔法を使うよりも、きっと頼りになるよっ」

 なんだって――?!
 冗談じゃない、今まで魔界封印をしてきたのは、ぼくなんだぞ!
 そりゃ確かに魔術書の力は借りたけど、でも、その度に傷だらけになって、力を振り絞って戦ってきたのは、魔術書なんかじゃなくて、ぼくだっ!!

 ぼくは力を振り絞って、ロッドを手に握り込んだ。
 立ち上がる力まではないけど、でも、ロッドの先を百面樹に向けるぐらいはできる。

「ミュア……後で、絶対にその言葉、取り消してもらうからな!」

 蔓を手のように自在に動かし、邪悪な意思を持っているとは言え、木はあくまで木に過ぎない。
 そうだ、たかが木なんて燃やしてしまえばいいんじゃないか。


「……カトゥラタンブーラ、善き火の精霊サラマンデルよ、聞け!
 魔術師インディ=ルルクに、その加護を。
 古き木にやどりし悪霊を滅ぼさん!」

 ロッドが輝く――炎がともった!
 クリスタル球のまわりを、澄んだ色をした炎がちろちろ踊りながら浮かんでいた。
 ぼくやミュアをうかがっていた蔦が、たじろいだのが分かった。

 獲物を狙う蛇のような動きが影を潜め、少し不安げに先の方が縮こまる。
 力を振り絞ってロッドを宙にかかげると、蔦はスルスルと退く。
 ようし、いいぞ。見てろ……。

 ぼくはロッドを握る手に力を込め、念を凝らした。
 百面樹目がけて、火トカゲ(サラマンダー)の形をした炎が飛び出していった!
 ぼおっと大きく燃え上がり、奇怪なこぶに覆われた百面樹の幹を鮮やかなオレンジ色の炎が包む。

 しかし、それも一瞬――すぐに炎は縮んでしまった。
 無数のこぶの顔が、くすくす笑っている。嫌な笑いだ……ブローケルを思い出させる。
 

「炎の力が足りないのか?!」

 精霊は力をもたらす――だが、それを使うのはぼくなんだ。ぼくの意思、ぼく自身の力を奮いおこさなくてはいけないんだ!
 攻撃を躱した百面樹は勢いづき、触手のような蔓は再びいっせいに蠢いた。

 だが、ぼくはそれから逃げなかった。どうせ体はろくに動かないんだ、逃げても逃げなくても同じだ。
 ただ、呪文を唱えることだけに全神経を注ぐ。

 ありったけの力を、ふりしぼるつもりで!
 今までだって、ぼくは全力で戦ってきた。ぎりぎりまで体力を使って、それこそ命懸けで。今度は、それをすべて精神力に注ぎこむまでだ!

 再び、ロッドの先から炎がほとばしり、百面樹をオレンジ色の炎が包む。こぶだらけの幹、その顔の一つ一つがわめき、叫んだ。
 ぼくは火の精霊の力を操り、木の姿を借りた悪霊に悲鳴を上げさせるところまで追い詰めたのだ。

 だが、炎は押し返されていた。
 それを感じ、ぼくは必死で呪文を繰り返す。しばらくの間、精霊の力を操るぼくと、悪霊の力がせめぎあっていた。

 次第に、全身が震えはじめる。それでも、ぼくは呪文を唱えるのをやめなかった。
 炎は百面樹の回りで渦を巻く。それは、何十、何百匹もの火トカゲが跳ね回っている様を連想させた。彼らはなにかをためらうように、木を攻めあぐんでいる。

 ぼくはさらに力を注ぎ込み、火トカゲ達を励ました。が、木の形をした悪霊も、その力をふりしぼっていた。
 無数のこぶが、醜くゆがむ。蔓がからみあい、無目的にのたうつ。
 ぼくの力が勝つか、悪霊の力が勝つか――。

「……インディ=ルルクの名において、命じる!
 サラマンデルよ、その力を現せっ!!」

 なにかがぼくの中で弾けた!
 火トカゲ達はいっせいに躍りかかった。ついに、力が解き放たれたんだ。
 悪霊どもの凄まじい悲鳴が、炎の中からふきだした。百面樹は透けるようなオレンジ色の炎に包まれ、燃え上がっている。

 不思議なことに、百面樹の側に倒れているぼくには、その火の熱さは感じられない。これが、魔法の力なのか……。ぼくは魅入られたように、燃えていく百面樹を見つめていた。
 それが焼け落ち、炎が消え失せるまでの間、ずっ ――。

 百面樹が黒こげの残骸となり、そこから立のぼる煙が薄れてから、ぼくはやっと起き上がった。いつのまにか、体力が戻ってきている……百面樹の邪力かなにかで、体の動きを封じられていたらしい。

 ぼくは、勝った。
 だけど、体が少し震える。――怖いわけでも、寒いわけでもない、まだ興奮が抜けきれないだけだ。

 これはぼくにとって、精霊の力を借り、それを十分に使いこなした、初めての戦いだったんだ。重要なのは、ぼくにそうする力があったって事実だ。

「やれやれ、ずいぶんと手間取ったものだね。こんなんじゃ、まだまだ一人前とはいえないな」

 ……せっかくの気分に冷水をぶっかけるようなご意見は、もちろんミュアのものだ。ペロペロと肩のあたりをなめてから、もったいをつけてぼくの所へと歩いてくる。

「ミュアっ、おまえだって見てただろう、ぼくはちゃんと魔法を使ったんだぞ! さっきの言葉、取り消せよ」

「ああ、そうだね。魔術書よりは、役にたつみたいだね」

 けろりと、ミュアがそんな台詞を言う。……ふん、まったくこの猫ときたら!
 腹立ちを押さえて、ぼくは百面樹の根っこを切り取った。引き上げようとした時だ。
 百面樹の残骸の上にまだ小さな炎が一つ、踊っていた。

 それは、見る間に色を黒く変えていく。だが、燃え尽きたのではなかった。黒いまま、ちろちろと燃え続けているのだ。
 燃えがらなんかじゃない、炎なんだ。それも透明な、黒い炎。

「ちっとも熱くない!」

 ミュアが顔を近づけ、前足で触れる。でも、毛一筋も焦げはしなかった。
 手ですくってみて、それが本当だと分かった。熱さも重さも感じない。燃料もなしに燃え続ける、不思議な黒い炎――いったい、これはなんなんだろ?

 ぼくとミュアは顔を見合わせた。
 結局、なんだか分からないけど、もちろんもらっておくに決まっている!
 別にほかのものにも燃え移らないので、火のしまい方としては変だけど、ハンカチにくるみ込んでポケットの奥にしまい込んでおいた。

「さ、帰ろう。なにもかもうまくいったみたいだね、インディ。アザゼル先生が見たら、きっとびっくりするぜ」

 上機嫌のミュアが、珍しくぼくを褒めてくれる。

「へっへ、まあ実力ってやつかな?」

「ぜーんぶ、片づいてから言いなよ」

 ぴしゃりと言って、ミュアはぴんと尻尾を立てて駆け出した。もし、ぼくにも尻尾があれば、今はきっと、あんな風にぴんと立てているだろうな。
 でもぼくは人間だから、尻尾なんてない。
 尻尾を立てるかわりに胸を張って、ぼくは暗闇の森を後にした。
                                 《続く》

 

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