Chapter.11 ニドゥは一つ

 

 ジャヴァの生け贄になるのをまぬがれたぼく逹は、黙々と砂漠を歩き始めた。
 このまま、何食わぬ顔でアマフトがハミ王国を乗っ取るのを、見過ごすことなんてできない!

 アマフトはぼく逹がここから脱出するとは、思ってもいないだろう。――だが、アマフトのあの魔法。
 ……歯が立つだろうか、ぼくに。

 何かとてつもない力を操ってみせたアマフト……ぼくにそれを打ち破ることができるんだろうか?
 怖じ気づいているんじゃない。
 同じ魔術師として、奴の魔力の大きさははっきりと分かる。まともにかかったら勝ち目はないことも……。

 だけどぼくは――そう、ぼくも……ぼくだって魔術師なんだ!
 何か、方法があるはずだ。
 何か、きっと……。

「あ……」

 ミュア=ジュジュが立ち止まった。

「湖だ」

 砂漠の中の湖。
 何も知らなければ、ぼく逹は駆け出してって水浴びしただろう。どんなによどんだ色合いでも、回りに一本の緑がなくても。

「ガルム・ノールか」

 カラジャの古銭商から聞いた話が、もうずいぶんと昔に思える。あの時は、ただのぞくぞくするような話として聞いたっけ。
 悪霊の王、ニドゥ。

「水際の砂が、本当に赤いわ」

 フレイヤ=ミュアの呟きを聞いて、ぼくは思わずコインを探った。
 ニドゥド。
 これで悪霊の王を呼び出すことができる――。

「インディ!」

 ミュア=ジュジュが、ぼくの心を呼んだみたいに振り返る。

「確か、アマフトが言ってたよ、ニドゥの加護がどうとか。奴はニドゥの力を借りてるんだ。ボク逹も試そうよ、ニドゥドで!」

「駄目よ、悪霊の王なんて怖い……!」

 怯えた声を上げ、フレイヤ=ミュアは体を震わせる。

「代わりに何かを捧げなくてはいけないのよ……っ」

 ぼくはコインを握りしめた。
 なんでも1つだけ願いを叶えてくれる、ニドゥ。
 ――そうなのか?
 自分の加護を得た者を、倒そうとしている者の願いでも?

「ぼくは――ニドゥを、呼んでみる」

 ガルム・ノールの水際は、古い血のような色に染まっている。ぼくは血色をした砂の上にコインを置いた。

「インディ……!」

 フレイヤ=ミュアの泣きそうな声。ぼくはつとめて、そっちを見ないようにした。

「これしか勝ち目はないんだ」

「インディ。ボクも手伝おうか?」

 ミュア=ジュジュが申し出る。
 この手の交霊は、一人よりも奇数人数、正確に言うなら三人でやるのが一番効果的だと知っているんだ。

 ……とうぜんだよな、ぼくにその事を教えてくれたのはミュアなんだから。
 でも、ぼくはミュアの手も、ましてやフレイヤの手は絶対に借りたくなかった。

「いらない。ミュアもフレイヤも黙って見ててよ」

 二人とも、反論はしなかった。
 ぼくはコインの上に指を置いて、精神を集中させた。
 ――風が鳴っている。奇妙にも、ガルム・ノールにはさざ波一つたたない。誰もが身動き一つせず、ぼくの指先に熱っぽい視線を注いでいる。

 ミュア=ジュジュは体の震えを閉じ込めようとするように、抱え込んだ膝に顎を埋めている。
 フレイヤ=ミュアは前足をそろえた姿勢で、ぼくにぴったりと寄り添っている。

 声はおろか、息遣いが漏れても術が破れてしまう――そんな約束事でもあるみたいに。ぼく自身、コインに乗せている指先が自分のものでないみたいに見つめていた……。
 ニドゥ。

 ぼくの――ぼく逹の心にあるのは、その事ばかりだ。
 誰もが、ただそれだけを。
 何度声にださずに、ニドゥを呼んだことだろう。

 突然、ガルム・ノールを砂塵が覆った。
 指先に、ぐっと力がこもる。
 フレイヤ=ミュアがぴくんと反応した。ハッと顔を上げたのは、ミュア=ジュジュだ。


 ミュアは、今はジュジュの緑色の瞳で、ぼくに声に出さぬ質問を投げかけていた。
 キミがコインを動かしているのか、と。
 ぼくは鋭く首を降る。

 コインはわずかに砂にめり込んでいる。だが、ぼくじゃない――ぼくは少しも力は入れていない!

 思わず指をのけようとしたのは、意思ではどうにもできない、意識の深いところでの拒絶感だった。恐怖を感じた物を避けようとする、生物に本能的に備わっている自衛の反射神経だ。

 だが、ぼくは指を引かなかった。
 ――できなかったんだ。
 指は、何か見えないものに、ぐっとつかまれていた。

 ぼくじゃない力が、ぼくの指を操って、コインを砂の上を動かした。
 これが――ニドゥ?

『の ぞ み は』

 そして、沈黙。……答えを待っているんだ!

「アマフトの魔法を破る力が欲しい」

 かすれた声が、望みを告げる。とても、それが自分の声だとは思えない……。
 再び、コインが動き出した。

『あ ま ふ と の ち か ら は に ど ぅ の ち か ら』

 アマフトの力は、ニドゥの力? ……やっぱり、そうだったのか!

「……ぼくにもその力を!」

『に ど ぅ は ひ と つ』

「なんでも――なんでも望みをかなえてくれるんじゃなかったのか?!」

『か な え る』

 ガルム・ノールは血色の砂塵に覆われた。

「では、ぼくにニドゥの力を」

『に ど ぅ は ひ と つ』

 コインは焦れったい程の速度で同じ言葉を綴り、新しい単語を書きくわえた。

『し を』

 し――死か?!

『な ん じ の だ い し ょ う は 、し。 お ま え か、 も う ひ と り か ……ど ち ら か の し を さ さ げ る か ?』

 ぼくかアマフトか、どちらか一人が死ぬ事……これが、ニドゥの求める代償か?!

「インディ、やめてっ! もうやめよう、アマフトはほうっておけばいい!」

 緊張に耐え切れなくなったのか、フレイヤ=ミュアが叫んだ。

「もう、いいの! あたしはこのままでも……だから、やめて、お願いっ」

「フレイヤ」

 でも、ぼくはもう心を決めていた。

「ニドゥの力を使ったアマフトに、ぼくは負けた。だけど、ぼくにもニドゥの力があれば、今度は対等に戦える。そんなチャンスをあきらめろっていうのかい?」

「でも、ニドゥはどっちかが死ぬ事を求めているわ。もしも――もし……いやっ!!」

 狂ったように暴れるフレイヤ=ミュアの体を、ミュア=ジュジュがそっと抱き上げた。


「フレイヤ、やめなよ。もう、インディは決心している。……もう、止められないよ」

 猫を抱いた赤毛の少女が、すべてを見通したようにぼくを見つめる。

「でも……でも……っ」

 まだ諦め悪く言うフレイヤに、ぼくは優しく話しかけた。

「それで負けたら、もともとぼくには力がなかったってことさ。それとも、初めからぼくには力がないって、諦めるべきなんだろうか?」

 フレイヤに向かって言っているようで、ぼくは自分に言っていた。
 ぼくは、ずっと不安だった。
 ロッドを使えば魔力を操れるようになったとはいえ、そこから少しも進歩しないでいる自分が。

 地道な修業さえ積めば力は強くなるって先生は言っていたけど……でも、それよりもぼくには魔法の才能がないんだと諦める方が、はるかに楽だった。
 ――でも、やっぱり諦めたくはない!

 ぼくは、魔術師でありたい。二度と力不足のせいで、大切な人を失う苦しみを味わいたくはない!
 たとえ、一時凌ぎだろうと……そのせいで死んだとしても、かまいやしない。ぼくは、今、その力を必要としているんだ。

「死を賭ける! ぼくにニドゥの力を!」

 そう叫んだ瞬間、赤い砂塵が渦巻き、ぼく逹を飲み込んだ。
 誰かが叫んでいる。
 猫をかばうように抱きしめ、うずくまるミュア=ジュジュが見える。

 ぼくは強烈な砂塵に耐えたが、片膝をついてしまった。それでもぼくは腕を差し上げ、剣を掲げた。

「ニドゥよ! ぼくに力を!」

 砂塵のうなりは、なにかの呪文のように聞こえた。
 力――目には見えない力が、ぼくを包んだ。
 剣が、……剣がぶるぶると震える!!

 ザブルガンの空が、一度だけ鳴った。
 そして、あたりは元の静寂を取り戻す。だが、さっきまでと違って、ぼくには明らかに、いままでにない力が宿っていた。

「も――後には引けないのね」

 フレイヤ=ミュアが、悲しげに呟く。

「うん。これはもう君だけじゃなく、ぼくの戦いなんだ」

 ぼくは言いながら、静かに剣を収めて歩き出した。
 ハミに向かって。
 やがて、ぼく逹はザブルガン砂漠を脱出した。

 

 


 ハミ王宮広場では、着飾った人々が待ち受けていた。まるで祭りのように、人々は興奮してざわめきあう。
 王家の花嫁が、まもなく到着する予定だそうだ。人々は声も高らかに囁きあう。

 誉れ高きハミ王子に嫁がれるのは、ヴァーニール領主の娘、フレイヤ姫。後見人は、ハミ王国の大臣アマフト。
 なにもかもが習わし通り、ハミ王国に益々栄えあれ。

 華やかなざわめきの中で、口を閉ざしていたのはぼく逹だけだろう。
 ミュア=ジュジュの肩から、水色の瞳が何度も何度もぼくの顔を振り返る。この小さな猫が本物のフレイヤだったなんて、いったい誰が思うだろう。

「来たぞ!」

 どこかで叫び声が上がった。人々はどよめき、一斉に広場の門の方へ首を伸ばす。門の向こうからは、なんともきらびやかな行列。
 白い衣装にくるまれた馬上のフレイヤが、みんなに向かって微笑みかけている。――もちろん、ジュジュ=フレイヤだ!

 揃いの儀式用のマントを羽織った十数人がつき従い、それを満面に笑みをたたえた大臣アマフトが先導する。
 見物の人々は、大臣に敬意を表し、会釈する。

 ふん、いい気なもんだ!
 ぼくは怒りをこらえて、その波がゆっくりとぼく逹の所まで近づくのを待った。

「ミュア。フレイヤを頼むぜ」

 それだけ呟き、ぼくは剣の柄に手をかけた。

「インディ!」

 フレイヤの叫びは、かきけされる。
 驚く人々をかきわけ、ぼくは通りに飛び出していた!
 広場は静まり返った。

 アマフトも、ジュジュも、信じられないものを見るようにぼくを見た。
 ジュジュは一瞬だけ喜びを、アマフトは一瞬だけ驚愕を表す――が、すぐにアマフトは目を細めた。
 たっぷりとたるんだ頬が震えている。

 笑みが戻るのを押さえ切れないと言うように、そっと飾り襟のついた衣装の胸元を探っている。
 ちらっとあの石が見えた。だが、そうはさせないぞ。
 ぼくはゆっくりと剣を抜いた。そして、低くこう囁く。

「ニドゥ」

 アマフトは脂ぎった皮膚の下から、じっとぼくを見つめていた。
 驚きの中に怒りがひらめき、押さえ切れずに額の血筋が膨れ上がる。
 だが、さすがに一国を乗っ取ろうとした張本人だけあって、アマフトはふてぶてしい笑みを浮かべた。

   ニドゥ。

 その一言で、奴は悟ったのだ。
 ニドゥは一つ――どちらかが、消えなければいけない事を。
 その時、広場の静けさは別のものに変わっていた。息を詰めたような沈黙から、まったくの沈黙へ。

 ミュア=ジュジュが妙な格好で人波を泳いでいた。それはそのまま、凍りついている。馬上のジュジュ=フレイヤさえも。
 ぼくとアマフトを除いて、すべてのものが動きを止めていた。
 この戦いの見物人は、ニドゥだけなのだ。

「……ふはははは。ニドゥは一つ――よかろう。それは私だ。これからそれを教えてやろう」

 アマフトはニヤリと笑い、首に下げていた石を掴む。
 奇怪な容貌の人頭石だ。
 どうくる?

 ぼくは素早く一歩跳びずさり、剣を構えた。だが、アマフトの動きは、ぼくの予想外だった。

「な……っ?!」

 ぼくは唖然と見上げる。
 アマフトのずんぐりとした体が、そのままゆっくりと浮かび上がっているのだ!

「んー、届くまい?」

 宙に浮かんだアマフトは、そっくり返って見下ろした。

「小僧よ。クヴァの魔法を見せてやるぞ」

 首にかけている人頭石を外す。……くそっ、何をする気だ?!

「クヴァの諸悪霊よ、祖先の石に蘇れ……ニドゥの大いなる加護の下に!!」

 アマフトは呪文を叫び、人頭石を放り投げた。

「うわぁっ?!」

 その瞬間、空中に巨大な石が出現した!
 あの奇怪な容貌を刻んだ人頭石が、何百倍にも膨れ上がって。それが、何の前ぶれもなく落下した――!!

 ぼくは石畳を転がった。が、ぼくはその瞬間にはすべてを諦めていた。巨大な人頭石の底は、もう体を転がして避ける間もないほどに迫ってきている。
 剣? それで、何ができるってんだ?!
 だが、それでもぼくは剣を胸に抱え、ぎゅっと握り込んでいた。

「……?!」

 巨石はぼくの体に触れるか触れないかの所で、なぜか止まった。
 手に握りこんだ剣が、熱い。――この剣の秘めた魔法の力?
 それとも、ニドゥの?

「ふん……、まあ、一気に押しつぶしてしまっても、つまらんわ」

 アマフトは不機嫌な声で、それでも負け惜しみを言う。
 だが、それもまんざら強がりばかりとはいえない。かろうじて助かったとはいえ、この状況は圧倒的にぼくに不利だ。一度は止まった人頭石だが、再びじりじりと圧力をかけて迫ってきた。

 このまま、こいつに押しつぶされてしまうのか?!
 冷たい汗にまみれながら、ぼくは必死に這いずった。だが、すぐに冷たい汗は吹き飛んだ。

「ほぅれ、這い出せ。そこから虫ケラのように這い出すがいいわ。立て、立って逃げ回ってみろ!」

 それを聞いて、冷たい汗の代わりにカッと体が熱くなった。それがアマフトの挑発だと分かっていても、どうしても止められなかった。
 体がぶるぶる震えだす。ぼくは唇を噛みながら、石畳に爪を立てていた。
 ほかに、どうしようがある?!

 アマフトの言う通り、巨大な石の下からずるずると這い出す他に?! くそ  今に見てろ……今に見てろよ!!
 ぼくが起き上がるか否や、巨石はあざ笑うように急浮上した。ぼくどうしても自分を押さえられなかった。

「くそおっ!!」

 満身の力を込めて打ち下ろした剣は、石畳を粉々に砕いた!
 感情のままに振る舞うのは、弱みを見せたことになるのかもしれない。が、それがどうだって言うんだ?!
 ぼくは今、本気で怒ってるんだ!!

「よぉし、よし……もう遊びはたくさんだな? え?」

 宙に浮かんだままのアマフト。だが、その言い種とは裏腹に、アマフトは笑ってはいなかった。

「おまえには、ニドゥの加護を得る力などない!」
 アマフトがカッと目を見開くと、クヴァの人頭石はさらにジリジリと上昇する。勢いをつけて、今度こそぼくを押しつぶすつもりか?!

「ニドゥ!」

 アマフトが叫んだ。
 巨石の目に、血の色の光が浮かぶ。それはぐいぐいと、ふりこのように勢いを増しながら降下してきた。
 ぼくは剣を構えた。同じ色の光を帯びた剣を。

「おっさん、決めつけるなよ! やってみなきゃ、分かるもんか!!」

 精霊逹よ、ぼくに加護を!
 ぼくは地面を蹴った。
 共に得た、ニドゥの加護。

 ぼくが勝つか、アマフトが勝つか。
 精霊の力か、クヴァの黒魔法か。
 ぼくは振りかぶって、巨大な人頭石に剣を!

「くらえ――っ!!」

 渾身の力を込めて、ぼくは剣を降り下ろした――!

 

 


 束の間、ぼくは何が起こったのか分からなかった。
 今、目の前に見えるのは一面の赤い砂塵――ガルム・ノールの血色の砂!
   …ゥオルンッ!!

 ぼくの剣が人頭石にぶつかった時……精霊の力と悪霊の力がぶつかった途端、奇妙な轟音と共に、そこからザブルガンの赤い砂塵が鵜なりをあげて出現したんだ!
 その中心に見えるのは  さざ波一つたっていないガルム・ノール!

 アマフトが顔をゆがめ、何かを叫んでいた。が、それは聞こえない。ぼく自身も何かを叫んだのに、まるで声が届かない。
 ぼく逹はニドゥの時と空間に引きずり込まれ、ニドゥの一部として戦わなければいけないんだと、気づいたのはほぼ同時だっただろう。

 ぼくとアマフトは、互いに睨み合った。
 ――あいつを倒さなければ、決してここから出ることはできない! 命懸けの戦いを前にして、ぼくは大きく息を吸い込んだ。

 たった一人で敵と相対する心細さに、つい、目がここにはいないはずの小さな猫を探してしまう。
 鮮やかな水色の瞳を、今、切実に見たいと思った。

「負ける……もんか」

 声が消えてしまうのを承知で、ぼくは呟いた。そして、剣を振り上げようとして、気づいた。
 剣じゃない。剣の形をした、赤く沈んだ光だ。

 それを腕ごとアマフトに向かって突き出すと、砂塵はうねり、膨れ上がった。同時に向こうからも、恐ろしい力の波がぼくにたたきつけられる。
 くっ……どっちだ?

 ニドゥは一つ――精霊の魔術師、インディ=ルルクか、クヴァの黒魔術師、アマフトか?
 無慈悲なニドゥの加護を、命の利子をつけて返さなければいけないのは、どっちなんだ――?!

『ニドゥは一つ』

 不意に、重々しい響きの声が響き渡った。

『我、見定めたり――汝が願いをかなえよう……!!』

 ぼくの……それともアマフトの?
 だが、それを確かめる間もなく、強烈な力の波動がぼくを覆い尽くした!!

「ミュアーっ!! フレイヤーっ!!」

 必死の叫びも虚空へと吸い込まれ、ついで、意識が暗黒へと吸い込まれていく。
 ただ一度、ガルム・ノールが大きく波打ったのを見たのを最後に、ぼくは完全に意識を失った……!
                                                                  《続く》

 

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