Chapter.11 ニドゥは一つ |
ジャヴァの生け贄になるのをまぬがれたぼく逹は、黙々と砂漠を歩き始めた。 アマフトはぼく逹がここから脱出するとは、思ってもいないだろう。――だが、アマフトのあの魔法。 何かとてつもない力を操ってみせたアマフト……ぼくにそれを打ち破ることができるんだろうか? だけどぼくは――そう、ぼくも……ぼくだって魔術師なんだ! 「あ……」 ミュア=ジュジュが立ち止まった。 「湖だ」 砂漠の中の湖。 「ガルム・ノールか」 カラジャの古銭商から聞いた話が、もうずいぶんと昔に思える。あの時は、ただのぞくぞくするような話として聞いたっけ。 「水際の砂が、本当に赤いわ」 フレイヤ=ミュアの呟きを聞いて、ぼくは思わずコインを探った。 「インディ!」 ミュア=ジュジュが、ぼくの心を呼んだみたいに振り返る。 「確か、アマフトが言ってたよ、ニドゥの加護がどうとか。奴はニドゥの力を借りてるんだ。ボク逹も試そうよ、ニドゥドで!」 「駄目よ、悪霊の王なんて怖い……!」 怯えた声を上げ、フレイヤ=ミュアは体を震わせる。 「代わりに何かを捧げなくてはいけないのよ……っ」 ぼくはコインを握りしめた。 「ぼくは――ニドゥを、呼んでみる」 ガルム・ノールの水際は、古い血のような色に染まっている。ぼくは血色をした砂の上にコインを置いた。 「インディ……!」 フレイヤ=ミュアの泣きそうな声。ぼくはつとめて、そっちを見ないようにした。 「これしか勝ち目はないんだ」 「インディ。ボクも手伝おうか?」 ミュア=ジュジュが申し出る。 ……とうぜんだよな、ぼくにその事を教えてくれたのはミュアなんだから。 「いらない。ミュアもフレイヤも黙って見ててよ」 二人とも、反論はしなかった。 ミュア=ジュジュは体の震えを閉じ込めようとするように、抱え込んだ膝に顎を埋めている。 声はおろか、息遣いが漏れても術が破れてしまう――そんな約束事でもあるみたいに。ぼく自身、コインに乗せている指先が自分のものでないみたいに見つめていた……。 ぼくの――ぼく逹の心にあるのは、その事ばかりだ。 突然、ガルム・ノールを砂塵が覆った。
コインはわずかに砂にめり込んでいる。だが、ぼくじゃない――ぼくは少しも力は入れていない! 思わず指をのけようとしたのは、意思ではどうにもできない、意識の深いところでの拒絶感だった。恐怖を感じた物を避けようとする、生物に本能的に備わっている自衛の反射神経だ。 だが、ぼくは指を引かなかった。 ぼくじゃない力が、ぼくの指を操って、コインを砂の上を動かした。 『の ぞ み は』 そして、沈黙。……答えを待っているんだ! 「アマフトの魔法を破る力が欲しい」 かすれた声が、望みを告げる。とても、それが自分の声だとは思えない……。 『あ ま ふ と の ち か ら は に ど ぅ の ち か ら』 アマフトの力は、ニドゥの力? ……やっぱり、そうだったのか! 「……ぼくにもその力を!」 『に ど ぅ は ひ と つ』 「なんでも――なんでも望みをかなえてくれるんじゃなかったのか?!」 『か な え る』 ガルム・ノールは血色の砂塵に覆われた。 「では、ぼくにニドゥの力を」 『に ど ぅ は ひ と つ』 コインは焦れったい程の速度で同じ言葉を綴り、新しい単語を書きくわえた。 『し を』 し――死か?! 『な ん じ の だ い し ょ う は 、し。 お ま え か、 も う ひ と り か ……ど ち ら か の し を さ さ げ る か ?』 ぼくかアマフトか、どちらか一人が死ぬ事……これが、ニドゥの求める代償か?! 「インディ、やめてっ! もうやめよう、アマフトはほうっておけばいい!」 緊張に耐え切れなくなったのか、フレイヤ=ミュアが叫んだ。 「もう、いいの! あたしはこのままでも……だから、やめて、お願いっ」 「フレイヤ」 でも、ぼくはもう心を決めていた。 「ニドゥの力を使ったアマフトに、ぼくは負けた。だけど、ぼくにもニドゥの力があれば、今度は対等に戦える。そんなチャンスをあきらめろっていうのかい?」 「でも、ニドゥはどっちかが死ぬ事を求めているわ。もしも――もし……いやっ!!」 狂ったように暴れるフレイヤ=ミュアの体を、ミュア=ジュジュがそっと抱き上げた。
猫を抱いた赤毛の少女が、すべてを見通したようにぼくを見つめる。 「でも……でも……っ」 まだ諦め悪く言うフレイヤに、ぼくは優しく話しかけた。 「それで負けたら、もともとぼくには力がなかったってことさ。それとも、初めからぼくには力がないって、諦めるべきなんだろうか?」 フレイヤに向かって言っているようで、ぼくは自分に言っていた。 地道な修業さえ積めば力は強くなるって先生は言っていたけど……でも、それよりもぼくには魔法の才能がないんだと諦める方が、はるかに楽だった。 ぼくは、魔術師でありたい。二度と力不足のせいで、大切な人を失う苦しみを味わいたくはない! 「死を賭ける! ぼくにニドゥの力を!」 そう叫んだ瞬間、赤い砂塵が渦巻き、ぼく逹を飲み込んだ。 ぼくは強烈な砂塵に耐えたが、片膝をついてしまった。それでもぼくは腕を差し上げ、剣を掲げた。 「ニドゥよ! ぼくに力を!」 砂塵のうなりは、なにかの呪文のように聞こえた。 ザブルガンの空が、一度だけ鳴った。 「も――後には引けないのね」 フレイヤ=ミュアが、悲しげに呟く。 「うん。これはもう君だけじゃなく、ぼくの戦いなんだ」 ぼくは言いながら、静かに剣を収めて歩き出した。
誉れ高きハミ王子に嫁がれるのは、ヴァーニール領主の娘、フレイヤ姫。後見人は、ハミ王国の大臣アマフト。 華やかなざわめきの中で、口を閉ざしていたのはぼく逹だけだろう。 「来たぞ!」 どこかで叫び声が上がった。人々はどよめき、一斉に広場の門の方へ首を伸ばす。門の向こうからは、なんともきらびやかな行列。 揃いの儀式用のマントを羽織った十数人がつき従い、それを満面に笑みをたたえた大臣アマフトが先導する。 ふん、いい気なもんだ! 「ミュア。フレイヤを頼むぜ」 それだけ呟き、ぼくは剣の柄に手をかけた。 「インディ!」 フレイヤの叫びは、かきけされる。 アマフトも、ジュジュも、信じられないものを見るようにぼくを見た。 笑みが戻るのを押さえ切れないと言うように、そっと飾り襟のついた衣装の胸元を探っている。 「ニドゥ」 アマフトは脂ぎった皮膚の下から、じっとぼくを見つめていた。 ニドゥ。 その一言で、奴は悟ったのだ。 ミュア=ジュジュが妙な格好で人波を泳いでいた。それはそのまま、凍りついている。馬上のジュジュ=フレイヤさえも。 「……ふはははは。ニドゥは一つ――よかろう。それは私だ。これからそれを教えてやろう」 アマフトはニヤリと笑い、首に下げていた石を掴む。 ぼくは素早く一歩跳びずさり、剣を構えた。だが、アマフトの動きは、ぼくの予想外だった。 「な……っ?!」 ぼくは唖然と見上げる。 「んー、届くまい?」 宙に浮かんだアマフトは、そっくり返って見下ろした。 「小僧よ。クヴァの魔法を見せてやるぞ」 首にかけている人頭石を外す。……くそっ、何をする気だ?! 「クヴァの諸悪霊よ、祖先の石に蘇れ……ニドゥの大いなる加護の下に!!」 アマフトは呪文を叫び、人頭石を放り投げた。 「うわぁっ?!」 その瞬間、空中に巨大な石が出現した! ぼくは石畳を転がった。が、ぼくはその瞬間にはすべてを諦めていた。巨大な人頭石の底は、もう体を転がして避ける間もないほどに迫ってきている。 「……?!」 巨石はぼくの体に触れるか触れないかの所で、なぜか止まった。 「ふん……、まあ、一気に押しつぶしてしまっても、つまらんわ」 アマフトは不機嫌な声で、それでも負け惜しみを言う。 このまま、こいつに押しつぶされてしまうのか?! 「ほぅれ、這い出せ。そこから虫ケラのように這い出すがいいわ。立て、立って逃げ回ってみろ!」 それを聞いて、冷たい汗の代わりにカッと体が熱くなった。それがアマフトの挑発だと分かっていても、どうしても止められなかった。 アマフトの言う通り、巨大な石の下からずるずると這い出す他に?! くそ 今に見てろ……今に見てろよ!! 「くそおっ!!」 満身の力を込めて打ち下ろした剣は、石畳を粉々に砕いた! 「よぉし、よし……もう遊びはたくさんだな? え?」 宙に浮かんだままのアマフト。だが、その言い種とは裏腹に、アマフトは笑ってはいなかった。 「おまえには、ニドゥの加護を得る力などない!」 「ニドゥ!」 アマフトが叫んだ。 「おっさん、決めつけるなよ! やってみなきゃ、分かるもんか!!」 精霊逹よ、ぼくに加護を! ぼくが勝つか、アマフトが勝つか。 「くらえ――っ!!」 渾身の力を込めて、ぼくは剣を降り下ろした――!
ぼくの剣が人頭石にぶつかった時……精霊の力と悪霊の力がぶつかった途端、奇妙な轟音と共に、そこからザブルガンの赤い砂塵が鵜なりをあげて出現したんだ! アマフトが顔をゆがめ、何かを叫んでいた。が、それは聞こえない。ぼく自身も何かを叫んだのに、まるで声が届かない。 ぼくとアマフトは、互いに睨み合った。 たった一人で敵と相対する心細さに、つい、目がここにはいないはずの小さな猫を探してしまう。 「負ける……もんか」 声が消えてしまうのを承知で、ぼくは呟いた。そして、剣を振り上げようとして、気づいた。 それを腕ごとアマフトに向かって突き出すと、砂塵はうねり、膨れ上がった。同時に向こうからも、恐ろしい力の波がぼくにたたきつけられる。 ニドゥは一つ――精霊の魔術師、インディ=ルルクか、クヴァの黒魔術師、アマフトか? 『ニドゥは一つ』 不意に、重々しい響きの声が響き渡った。 『我、見定めたり――汝が願いをかなえよう……!!』 ぼくの……それともアマフトの? 「ミュアーっ!! フレイヤーっ!!」 必死の叫びも虚空へと吸い込まれ、ついで、意識が暗黒へと吸い込まれていく。
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