Chapter.12 王宮で、一番美しい花

 

「インディッ。インディッ、死んじゃいやっ、インディッ」

 今にも泣きそうな声――ミュアの声だ。
 ミュアが泣くなんて初めてだ……そう思ってから、ぼくはミュアとフレイヤが入れ替わっていることを思い出した。なら、泣いているのはフレイヤ?

「う……」

 なんとか目を開けると、目の前に鮮やかな水色の瞳――。

「インディッ?! よかった、生きていたのねっ」

 そう……ぼくは生きている。
 じゃ、アマフトは?
 かすかに首を上げたぼくは、石畳の上にアマフトが倒れているのを見た。外傷は全くないけど、一目で彼が死んでいると分かった。

 そして、馬上で驚いたようにぼくの方を見ている少女――フレイヤの姿をしていても、それがミュアだとぼくには分かった。ミュア=フレイヤは、お供の人が止めるのも聞かずに馬から降りてぼくに駆け寄ってきた。

 ぼくは、アマフトを倒した――けど、これで精一杯……これ以上は何もできそうもない。体も動かないし、頭がひどくぼんやりしてほとんど気絶寸前だった。
 ぼくの側にかがみ込んだミュア=フレイヤの、やっぱり水色の瞳を見つめながら、ぼくは言った。

「ミュア……悪い、後は任せた……頼むよ」

「分かった。キミは安心して、休んでろよ」

 小さく、でも力強くミュアが答えるのを聞いて、ぼくは今度こそ気を失った。

 

 


 それから後のことは、ぼんやりとしか覚えていない。
 なんせ気絶してたし。それでも時々は意識が戻ったみたいだけど、断片的な記憶しか残っていないんだ。

 誰かに運ばれた時、妙に丁重に運ばれたこと。
 びっくりするぐらいしっかりしていて、それでいてフレイヤらしく見えた、ミュア=フレイヤのこと。
 そして、自分の立場も忘れたように泣きじゃくっていた、フレイヤ=ミュアのこと――。


 後で聞いた話によると、見事にフレイヤになりすませたミュア=フレイヤが、あわてふためく人々に交じり、怯えているふりを装いながらも、しっかりとあれこれみんなに指示したらしい。

 本来のフレイヤらしくないと思われない程度に、それでもしっかりとぼくがニッフルニーニョ大先生に選ばれば魔術師の護衛であること、アマフトがすべての悪の権化であること  そんな事まで説明したっていうから驚きだ。

 しかも、自分とフレイヤが入れ替わったことなんて、おくびにもださずに!
 ホント、ミュアの奴、口が回るからなあ…。自分の目でミュアの詐欺師ぶりを見れなかったのが残念!。

 お陰で、花嫁行列に剣を持って殴り込んだのに、ぼくは王宮の客間で丁重な手当てを受けたってわけ。
 ぼくの普段着よりもはるかに豪華な絹のパジャマを着て、藁のベッドとは比べ物にならない、絹で覆われた羽布団に寝かされたぼくは、ほとんど眠ったままだった。

 ニドゥの呼び出しが答えたのか、あるいは精霊とニドゥの掛け合わせたのが悪かったのか――いまいち原因が分からないけど、とにかく意識がぼんやりしてて、自分でも眠っているのか起きているのか、よく分かんない状態が続いたんだ。

 うとうとってしたかなって思うとすぐに目が覚め、また気絶するように眠り込む。
 それを何度となく繰り返していた時、いつも水色の瞳のシャム猫がぼくの側にいた。
 心配そうに、じっとぼくを除き込んで。
 それを見る度に、ぼくは安心してまた眠りに落ちた――。

 

 


 結局、ぼくがはっきりと意識を取り戻したのは、アマフトとの戦いが終わってから3日も経ってからだった。

「インディ、目が覚めた?」

 きれいな水色の瞳が、ぼくにそう呼びかけた。
 枯れ草色のすんなりとした体付きの猫が、ぼくの枕元にちょこんと座り、生真面目にぼくを見つめていた。

「うん……」

「今度こそ、はっきりと目を覚ましたみたいだね。キミはもう3日も眠っていたんだ、覚えている?」

「ここは?」

「ハミの王宮だよ。キミは非公式ながらハミを救った魔術師と認められて、ハミの客人と認められたのさ」

 落ち着いた口調を聞いて、ぼくはようやく思い当たった。

「ミュア? おまえ、ミュアだな。フレイヤじゃなくって!」

 こくん、とミュアが頷いた。

「アマフトは……? フレイヤは、いったいどうなったんだ」

 思わず起き上がりかけたぼくを、ミュアはやんわりと押しとどめた。

「落ち着けよ、インディ。フレイヤは無事さ、……もう、元の体に戻ったよ。ほら、よく見て」

「あ……」

 確かに、よく見ると後ろの方にフレイヤがいた。いかにもお姫様然としたドレスを着て、ぼくの方を見ている。その後ろには、家臣らしき者が――よくよく見れば、港にフレイヤを迎えにきたクレストだった。
 さらに、なぜかニッフルニーニョ大先生までが控えている。

「アマフトは死んだ……。あの後、大変だったんだよ」

 ミュアの話によると、ぼく逹がニドゥの力を賭けて戦っていたのを、誰も見てはいなかったと言う。
 ミュア逹が気づいた時は、ぼくとアマフトが倒れたらしい。

 急死したアマフトに、剣を抜いたままのぼく  花嫁行列が大騒ぎになったのも当然だ。それでも、アマフトの胸にクヴァの黒魔法の入れ墨があったことで、彼が黒魔法でなんらかの悪巧みをしていたらしいと、みんな朧気に推測したようだ。

「アマフトは元々、疑われていたみたいだしね。とにかく、奴が死んでムニンの矢――つまり、フレイヤとジュジュの魂を入れ替える魔法は解けた。気づいた時は、ボクはまたフレイヤになって馬の上だったよ。

 なんとか皆を言いくるめて、キミを助けるのは大変だったんだぜ。
 なんせ、キミは花嫁行列に剣を持って殴り込んだんだから」

 少しからかう口調だが、ミュアにはいつもの元気はなかった。……どうしたんだろ?

「後で、落ち着いてからボクとフレイヤの術を解いたんだ。首輪と腕輪を交換してね」

 それを聞いて、ぼくはふと、ミュアとフレイヤはいつ入れ替わったんだろうと思った。ぼくの側にずっと付き添っていたのは  ミュアだったのか、それともフレイヤだったのか?

 そう聞いてみたいと思ったけど、なぜかぼくはそれを聞くのにためらいがあった。それで、ぼくは違う事を聞いた。

「ジュジュは、どうなったんだ?」

「さあ……ボクも分からない。どうやら逃げたみたいだ」

「そっか……」

 なんとなく、ホッとする。アマフトの娘とはいえ、ジュジュはそんなに悪い子とは思えなかったもんな。

「昨日、ニッフルニーニョ先生やフレイヤのご両親がようやく到着して、キミが確かに護衛を受けたアザゼル先生の弟子だと証明されたんだ」

「なぜ、ニッフルニーニョ大先生逹がここに……」

「キミはなぜフレイヤがここにきたのか、忘れてるみたいだね、インディ」

 ……そうだった。
 フレイヤはハミの花嫁になるために、ここに来たんだ。そのために、親族が祝いに来るのは、当然じゃないか。
 どうしてそんな大事なことを、ずっと忘れていたんだろう。

「明日、花嫁到着のパレードをやり直して、一週間後には国を上げて盛大な結婚式が行われる。……もう、何もかも終わったんだよ、インディ」

 ミュアはぼくに何かを説明する時の、あの生意気な口ぶりではなかった。

「インディは勝ったのよね。だから、あたしはこうして元に戻って……」

 やっと、フレイヤが口を開いた。
 ――そうか、そうなんだ。
 ぼくは突然理解した。

 ぼくはヴァーニールのお姫様を無事に、ハミの王家に送り届けた……だから  もう役目は終わったんだ。
 王家を巡る陰謀をぶちこわし、敵の黒幕を倒し、そしてお姫様は無事に王子と結婚して、めでたし、めでたし。

 ――絵に書いたようなハッピーエンドなのに、なぜ、ぼくは少しも嬉しいと思わないんだろう?
 そして、なぜフレイヤはどこか沈み込んだ顔をして、ぼくを見つめているんだ?

「本当は、飛び上がって喜ばなきゃ、いけないのよね。だけど――だけど……」

 フレイヤの声は小さくかすれていて、最後の言葉は聞き取れなかった……。

 

 


「インディ、ホントに明日の朝にここを発つの? ハミ王国側はキミにとても感謝して、結婚式までゆっくり滞在していって、って言ってたよ」

「いいよ、もう帰るよ。なんだかんだで先生のおつかいで出たのに、半月の長旅になっちゃったもんな。急いで帰らなきゃ」

 本当に、その日のうちに帰れるつもりのおつかいが、こんなに長くなるなんて!
 ニッフルニーニョ大先生がメサジュの魔法で知らせてくれたとはいえ、アザゼル先生からの返信がなかったというし、ひょっとしてカンカンに怒ってるのかもしんない。

 先生、何か用事があるみたいだったし……ま、ぼく程度の魔術師でも、居ないよか居た方がましだよな。

「でも……インディは結婚式みたいなお祭り騒ぎが好きだろ」

 控え目に――ホントに、ミュアにしてはすっごく控え目に誘いをかける。

「ぼくは堅っ苦しいのは、苦手だよ。宮殿なんて、立派すぎて息が詰まっちまう」

 実際、塵一つないように磨き上げられている王宮って、思ったほど居心地がよくないんだよな〜。なんか壊しちゃうんじゃないか、汚してしまうんじゃないかって、いつもビクビクしちゃってって、非常に精神的に疲れるっ。

「…………フレイヤに、本当に挨拶していかない気かい?」

「もう、伝えてくれるように頼んだよ。だから、同じだろ?」

 フレイヤだけにだったら、挨拶していくのに不満はない。
 でも、いつもいつもハミの家臣達に囲まれているフレイヤは、まるで別人のようで――なんとなく気後れしてしまう。

「でもさあ……」

 まだしつこく言いかけるミュアに、ぼくはとうとう怒鳴りつけた。

「うるさいなあっ! そんなに残りたきゃ、ミュアだけ残ってればいいだろ! ぼくはもう帰るよ!!」

 つい、強く言い過ぎたが、ミュアは言い返さなかった。何も言わずに、黙って毛並みをペロペロと整える。しばらくの沈黙の後、ぼくはずっと聞きたかった事を聞いてみた。

「ミュア……」

「なに、インディ?」

 怒った様子もなく、ミュアは何事もなかったように返事を返してきた。

「おまえ、フレイヤの結婚相手って知ってる?」

「うん。――直接会ったことはないけどね。今年28になるこの国の第一王子だよ。なかなか人々の評判もいいし、武芸の腕は一流だって聞いた」

 でも、28ってことは――フレイヤと14才も違うじゃないかっ!

「自分の……倍も年上の人と結婚するのか……。一度も会った事もないのに?」

「そうだよ――それが、政略結婚ってものだからね」

「だけど……っ」

「フレイヤもそれは充分に承知しているよ、インディ」

 ぼくの言葉を遮って、ミュアが静かに言った。

「前にも言ったと思うけど、フレイヤの一族はね、生まれつき魔力を持っている。でもフレイヤには、それがまったくなかった。だから、生まれてすぐにハミ王家に嫁がせることに決まったんだ。

 だからこそ、フレイヤは誰よりも大切に育てられた。将来がすでに決まってしまった事の代償にね」

 ぼくは言葉に詰まった。
 ――トントン。
 ノックとほぼ同時に入ってきたのは、ニッフルニーニョ大先生だった。

「ニッフルニーニョ先生?」

 いったい、何しにきたんだ、このじーさん? ……とは思ったものの、話がそれたのは有り難かった。

「なに、おまえらが明日立つと聞いて、ちと礼を言いにのう。良くやってくれたな、インディ=ルルク、そしてミュア。フレイヤを送ってくれただけじゃなく、黒幕も倒してくれるとは夢にも思わなんだぞ、いや本当にこんなヒヨッコがのう」

 ニッフルニーニョ大先生は、やたらと感心したように、しきりにそう繰り返す。……どーでもいいけど、大先生、ぼくの事を本気で信用してなかったんだな…。

「……そう思っていたんなら、ニッフルニーニョ大先生がフレイヤを連れて来ればよかったんじゃないですか? どうせ、この国に来る用事があったんでしょうに」

 思わず皮肉を言うと、ニッフルニーニョ先生は苦笑した。

「ああ、そうしてやってもよかった。……が、ワシはどうも孫娘には弱くてのう。あのコの最後のわがままをかなえてやりたかったんじゃ」

 と、先生はどこか遠い目で中庭を見下ろした。

「同じぐらいの年の子と旅するなんて、フレイヤには生涯許されない事……ハミ王家に嫁入りとは俗に言えば玉の輿かもしれぬが、王宮暮らしは意外と苦労が付き物だからのう……その前に、思いっきり自由を味合わせてやりかたったんじゃよ」

 そう言って、大先生は傍らに置いてあった剣を手にした。

「あ……それ、どうもありがとうございました」

「ふむ」

 何度も試すがつ繰り返して見たあげく、ニッフルニーニョ大先生は納得したようにうなずいた。

「そこそこは、これを使えるようになったようじゃな。どうじゃ、インディ=ルルクよ、この剣が欲しいか?」

「えっ。くれるんですかっ?」

 嬉しい驚きに、ぼくはつい両手を前に突き出したっ。

「やってもよいが、条件がある。中庭で、一番綺麗な花を持ってきてくれたら、代わりにこの剣をくれてやろう」

「中庭?」

 ハミ王国の中庭には数えきれないほどの花が咲き誇っていて、上から見ただけでも、それがすばらしいもんだと分かる。  とはいえ、かってに花を摘んだりしちゃ、怒られるんじゃ……。

「なに、花の一輪ぐらいはどうって事はあるまい。それに今夜は中庭は立ち入り禁止になっていて、誰も近づかんから、おまえが花を摘んだと文句を言う奴もおるまいて」

 ……そーゆー問題でもない気がする。

「まあ、この剣が要らんのなら別にいいんじゃよ」

「あっ、いりますっ、いります! じゃ、今から取ってきますから……ミュア、来いよ」


 はっきりいってこのインディ=ルルク、美的感覚には自信がないっ! だからミュアに花を選んでもらおうと思ったが、その目論見は見事につぶされた。

「こら、猫になど頼らず、一人で見極めてこい。よいか、中庭でもっとも美しい花を選ぶのじゃぞ」

 うっ……自信ないなあ……。
 でも、とにかくぼくは魔力の剣欲しさに、ニッフルニーニョ大先生のご指示に従うことにしたのだ。

 

 


「えーっと…ど、れ、に、し、よ、う、か、な?」

 花、花、花  とにかく、一面の花だった!
 さすがは王宮の庭と言うべきか、ありとあらゆる種類の花が、季節を無視して咲き誇っている。その甘い香りで、むせ返りそうだった。

 月明りの下でさえ、花の美しさは損なわれちゃいない。
 さすがに鮮やかな色合い、というわけにはいかないが、月明りに照らされた花逹はどれも独特の美しさを誇示しているようで、ぼくにはどの花が一番美しいのかなかなか決められなかった。

 迷いながら庭をうろついている時だった――不意に、目の前に誰かが飛び出してきたのは。

「インディ!」

 明るい声。
 ぼくはぽかんとして、その少女を見つめていた。
 豪奢な服を事も無げに着こなし、大人の女性みたいに髪を結い上げた少女は、ハミの花嫁となるヴァーニールの姫――フレイヤだったんだ。

 でも、髪形のせいか、薄くとはいえお化粧をしているせいか一気に大人びて……それに、すっごく綺麗に見えた――!

「ひどいわ、あたしに断りもなく帰っちゃうつもりだったなんて。言っておくけど、あたし、怒ってるんですからね!」

 笑いながらそう言ったフレイヤは、長い裾を翻すようにくるっと一回転してみせた。

 フレイヤの金髪が、ドレスの長い裾が、ふわりと揺れる。その拍子に、どんな花よりもかぐわしいいい匂いがした。
 ……フレイヤのつけている香水?
 

「ねえ、どう? この服、明日のパレードで着る服なの。おかしくないかしら?」

 おかしいだって?
 フレイヤってば、なんて分かりきった事をわざわざ聞くんだろ?

「ううん、良く似合うよ。びっくりするぐらい、綺麗だ」

 すんなりとそう言ってから、ぼくはカッと頬が赤くなるのを感じた。……自分で、女の子にこんな事を言えるだんて、想像すらしなかったぞっ。
 フレイヤもちょっとびっくりしたような顔をして、それから花のように笑った。

「嬉しい。インディに褒めてもらったのって、初めてね。まあ、あたしってインディの前じゃ、ろくな格好をしたことがなかったら当然かもしれないけど」

 初めて会った時は、フレイヤは旅装束だった。
 一目で貴族のお姫様と分かる豪家な衣装は、フレイヤにとってはたいしたことがないかもしれないけど、ぼくの目には充分綺麗に見えたっけ。

 ――いや、最初の時だけじゃない。
 変装のため男の子の格好をした時も、ミュアの体に入っていた時でさえ、フレイヤはいつだって可愛く見えたんだ。
 ただ、ぼくが素直に言えなかっただけで――フレイヤはいつだって綺麗だった。

「……会えてよかった」

 突然そう言われて、ぼくはどっきりした。

「え? あ、会えてよかったって……」

「だって、明日にはインディもミュアも、行ってしまうんでしょ? 今夜会えなければ、もう会う機会がないかもしれないもの」

「あー。そういう意味」

 なんかホッとしたような、がっかりしたような――でも、突然フレイヤに会ってどぎまぎしてたせいで、すこーんと忘れてたけど、これってニッフルニーニョ大先生の演出だな。
 見事にしてやられて悔しい気もするけど……でも、ちょっと……まあ、正直なところを言えば悪くない気分だ。

「だから、お礼を言っておきたかったの……インディ=ルルクさん、どうもありがとうございました」

 改まって頭を下げられ、ぼくは頭を掻いた。

「えぇ〜? そんな風に言われると、なーんか照れるよ」

「でも、言っておきたかったの。インディには、さんざん迷惑をかけちゃったから」

 そう言って、フレイヤはまた、屈託なく笑う。
 ぼくの部屋で、泣きそうな顔をしていたフレイヤとは思えないぐらい、フレイヤはどこかふっきった顔をしている。

「ね、インディ。あたし、わがままだったでしょ?」

 ……どーして女の子ってのは、こう、答えに詰まる質問を突然するんだ?!

「あたしね、小さな頃から甘やかされっ子で……本当に、わがままだったと思うわ。ねだればみんなが言う事を聞いてくれたから、それが悪いなんて思ったこと、なかったの」

 フレイヤはぼくに話していると言うより、夜露にぬれた花に手を触れ、独り言のように呟いた。

「生まれた時からあたしはハミ王国の花嫁になるって決まっていたけど、あたしがそれを聞いたのは11才の時だったの」

 11才……ちょうど、ぼくがアザゼル先生に弟子入りしたのと同じ年だ。

「その時は、嫌だと思ったの。後3年で見たこともない国に行って、それから一生、ずうっと暮らさなきゃいけないって聞かされて――あたし、嫌だってだだをこねたの、そう言えば、それまではなんでも許してもらえたから」

 フレイヤが揺らした木の枝から、ぷるんっと無数の水滴が落ちた。

「でも、お父様もお母様も、ニッフルニーニョ大おじい様も……それだけはどうしても許してくれなかったの。いくら泣いても、頼んでも、駄目だって。
 ――それで……あたし、分かったの。どうして、みんながあたしのわがままを許してくれていたのか」

「フレイヤ……」

 その時――どうしてそんな気になったのか、後でいくら考えても分からなかった。
 ただ、フレイヤがすごくか細く、頼りなく見えて……。
 気がついた時は、ぼくはフレイヤをぎゅっと抱き締めて、こう言っていた。

「――花嫁になりたくないんなら、逃げちゃえよ。ぼくが、手伝ってやるから……!」

 言った後で、ぼくは自分の正気を疑った。
 おい、おい、インディ=ルルク、それってアマフトとたいして変わんないぞっ!
 だいたいそんな事したら、二度とアザゼル先生やニッフルニーニョ大先生や、ミュアにだって会わせる顔がないっ。

 でも――それでも、フレイヤが『うん』と言ったなら、……ぼくは本気でやったかもしれない。
 だけど、フレイヤはぼくを優しく抱き返してから、するりとぼくの手から離れた。引き止める間もないほど、鮮やかに。

「インディがそんな事を言っちゃ、おかしいわ。だって、そんなのは駄目だって言ったじゃない?」

「あ……」

 突然、ぼくは思い出した。
 ジュジュに取引を持ちかけられた後、ミュアがその通りにした方がいいかもと言った時に自分が言った言葉を。

 あのミュアは、ホントはフレイヤだったんだ……。
 笑顔が透き通るように綺麗で、それでいてどこか寂しそうだった。

「あたしは、ハミの花嫁になるの。――もう、そう決めたの」

 そう言われて、ぼくに何が言えるというんだろう?
 黙って立ち尽くすぼくを、フレイヤもまた黙って見つめていた。

「……インディは、魔術師になるの?」

 聞かれて、ぼくはちょっと間を置いてから頷いた。

「うん。――ぼくは、魔術師になる。ずっと前にそう決めたんだ」

 そう決めていたのに、ぼくは忘れていた。
 ただ、思うように魔法が進歩しないのに苛立って、最初の頃の気持ちを忘れてしまっていたんだ。

「インディなら、すごい魔術師になれるわ。アザゼルおじ様や、ニッフルニーニョ大おじい様みたいな……ううん、もっともっとすごい魔術師に」

 自分の事のように熱心にフレイヤははしゃいで、それからじっとぼくを見つめた。

「……ねえ、インディ。もしあたしが、もっと、わがままを言ったら怒る?」

「うーん、どうかな? 話によるかもね」

 怒る気なんて全然なかったけど、ぼくはわざとそう言った。

「じゃ、言っちゃう! ――インディ、あたしの事、ずっと忘れないでいてくれる?」

「忘れるはずなんて、ないだろ?」

「駄目、そんな言い方じゃ! ちゃんと、約束して」

 はいはい。
 ぼくは片手をあげて、宣誓した。

「魔術師インディ=ルルクは、生涯に渡ってフレイヤの事を忘れないと約束します」

「はい、それでよろしい!」

 ちょっと気取って言った後、またフレイヤが言った。

「じゃ、インディ。あなたがすごい魔術師になって、アザゼルおじ様みたいにいろいろな王様に助けを求められるようになっても……あたしが危なくなったら助けに来てくれる?」


「うん、必ず。ほかの約束を蹴飛ばしてでも、駆けつけるよ――そう、誓います」

「あたしが結婚して……子供も産んで、おばさんになってても?」

 うわあっ、フレイヤがお母さんで、その上おばさんになるだって? なんか、想像もできないや。
 でも、それでも答えは決まっていた。

「もちろんだよ」

「でも……恥ずかしいな、なんだか」

「なに言ってるんだよ。その時はぼくだっておじさんになってるさ。ぼく逹、1才しか違わないんだから」

「そうよね」

 フレイヤはくすくす笑い、また、真顔になって言い出した。

「じゃあね、インディ……」

「まだあるの?」

「安心して、これで最後だから。――インディ、今度女の子が好きになったら……必ずその子に好きだと告白すると、約束して」

「え……?」

 虚を衝かれて、ぼくは黙り込んだ。

「どんな状況でも、その子がどんな立場の子でも  今度こそ、インディ、……好きだと言ってね。後先の事を考えたりしないで、その子の事だけを考えてね」

 フレイヤの金髪が、月明りの下でなびく。

「約束して。これが、最後のわがままだから」

 まっすぐぼくを見つめる瞳は、ミュアと同じ鮮やかな水色だった。

「……約束するよ。今度は――今度こそ、必ず、その子を好きだと言うよ」

 言いながら、ぼくはちくんと胸が痛むのを感じた。
 『その子』は現れるのだろうか?
 こんなにもフレイヤが綺麗だと思う気持ちを押し退け、ほかの女の子が好きだと思える日が、本当にくるんだろうか?

 回りの花をも欺く輝きを見せる少女を見つめ――ぼくは、ふと、思い出した。
 そういや、ニッフルニーニョ大先生に、この庭で一番美しい花を選んでこいって言われてたんだっけ。

 もう、ぼくはどれが一番美しい花か、分かっていた。
 間違えっこない。

「フレイヤ。ぼくからのわがままも、一つだけ聞いてくれるかい?」

 

 


「遅かったね、インディ」

 たっぷりと時間をかけて戻ってくると、ミュアが不満げにそう言った。が、ニッフルニーニョ大先生は悠然としたものだ。

「なに、もっとゆっくりでもかまわんかったがのう。……で、インディ=ルルクよ、一番美しい花は見つかったか?」

「はい」

 ぼくは頷いて、ポケットから飾り櫛を取り出した。ミュアがきょとんとそれを見上げる。


「なに、それ? 花じゃないじゃんか」

「そう、ぼくは花を摘んではこなかったんだ。……あんまり美しい花だったから、ぼくにはとうてい手が届かなかった。だから、花びらを一枚だけもらってきたんだよ」

「ほほう、なるほどのう……うひゃひゃひゃっ」

 ニッフルニーニョ大先生は、櫛をしげしげと見つめた。

「こりゃあ……フレイヤの13才の誕生日に、国一番の宝石商で作られた飾り櫛にそっくりじゃのう。フレイヤがなにより大切にしていたものじゃったが……そうか、そうか」

 そっ、そんな大切なものだったのかっ?
 ハンカチでもなんでもいいって、言ったのに……。

「まあ、これはおぬしが持っとれ。その方が、花も喜ぶじゃろう」

 大切そうに櫛をぼくに渡した後、大先生は無造作に魔力の剣をぼくに放った。

「ほらっ、餞別にくれてやる。――大切にせえよ!」
                                   《続く》

 

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