Act. 16 心の深遠に潜むもの

 

 目を焼きつかさんばかりの、真っ白な光――それが消えた後、残ったのは闇だった。
 それこそ光のかけらも見えない、ただ一面の闇。
 最初は、ヒロユキと心で会話した時にいつの間にか移動していた灰色の荒野にちょっと似ているかなと思ったけど、それよりもずっとひどい。

 精神が入れ替わった時に自動的に閉じ込められる、小さな小部屋よりももっと最悪な場所だった。
 ここではオレは自由だったが、それも善し悪しというものだ。

 自分が立っているのか、それとも宙に浮いているのかも分からない様な曖昧な空間にただ彷徨っているだけなら、限定された小部屋の椅子に腰掛けている方がよっぽどましだ。 腕輪をアドルにつけると同時に、何かが起きるんじゃないかと期待していたのは事実だが、起こったことはあまりにもオレの予測と違っていた。

 だいたい、ヒロユキが精神からいなくなるのは覚悟していたけど、まさかオレまでこんなわけの分からない場所に飛ばされるなんて思ってもいなかったぞ。

「おいおいおい〜、勘弁してくれよ……っ。まさか、これで終わりってわけじゃないだろうな〜?」

 闇の恐怖に押し潰されないように、声を張り上げた独り言は全然響かなかった。というよりも、自分の言葉を耳からちゃんと聞くことが出来ない。
 まるで、オレが最初っから喋らなかったかのように。

 と言うより、この空間ではオレは自分自身の姿を目で見ることも出来ない。自分で自分に触れて見ようとしたが、手足がちっとも思い通りに動いてくれなかった。
 余りにも手応えのない、空虚な空間。

 まるで、いつの間にか自分が死んでしまって幽霊にでもなってしまったんじゃないかという恐怖すら込み上げてくる。
 じわじわと膨れ上がる恐怖に、オレは思わず叫んでいた。

「お……おーいっ、誰かいないのかっ?! ここはどこなんだーっ?!」

 返事は、ない。
 と言うよりも、叫んだ実感すらないままだ。
 叫んだせいで、かえってこの場の異様な静寂を実感して怖さが増してしまう。

 このまま闇に溶けてしまうんじゃないと言う得体のしれない恐怖を感じながら、オレは必死でここに来る直前のことを思い出そうとした。
 だが、いつもなら簡単に出来るはずのことが今はひどく難しかった。

 身体の実感がなくなると同時に、記憶まで曖昧になってしまった様で、なかなか思い出せない。
 それでも、オレは何とか一人の少年の名を思い出せた。

「えっと……そうだっ、ヒロユキっ!! ヒロユキ、聞こえるかーっ?!」

 アドルに呼び掛けると言った、ヒロユキ。
 あいつもこの闇の中にいるんだろうか? いくら目を凝らしても見えなかったし、叫んでも自分の耳さえ自分の声が聞こえなかったが、オレはそれでもヒロユキを呼んでみた。


「ヒロユキ、いるのか?! いるんなら返事をしてくれ、ヒロユキ――っ!」

 そして、呼びながらこんな風に必死に人を呼ぶなんて何年ぶりだろうと思い、おかしくなった。
 チンピラな詐欺師まがいの生活を送ってきたオレは、繰り返して名を呼ぶ程親しい友人などいやしない。

 と言うよりも、互いに名前を覚えあった頃にはその場所を離れることが多かった。その場限りの知人は多いが、友人と呼べるだけの人間なんか、思えば一人も思い出せない。
 他人に深く関わりたいとは思わなかったし、別に関わってほしいとも思わなかった。

 オレにとって、名前なんてのは他人と区別するためのただの記号だ。だいたい、元々ユーロって名前自体が本名じゃない。孤児院でつけられた名前だ。

 だから偽名を名乗るのにも抵抗もなかったし、口から出任せで相手を騙すなど日常茶飯事だった。
 なのに、今、こんなにも必死になって他人を呼んでいる。

「ヒロユキ――っ!」

 心底絶叫するような勢いで叫んだ時、遠くの方でチカッと光が見えた。それはひどく遠くて、しかも小さな光だったが、こんな何の当てもない闇の中ではそれは大きな意味を持つ。

 その光の方を目指して、オレは動きだした。
 と言っても、この変な空間では歩くこともままならないんだけど、移動しようと思ってもがくとなんとか動ける。

 水よりももっともったりした、見えない何かの中を泳ぐ様にしてオレは光を目指した。じたばたとそうやって動いていた時間が、どのぐらいのものなのかオレには分からない。 何せ一面の闇では、時間を計る感覚も失われる。長いのか、短いのか分からない時間をかけて、オレはやっと光の側へと辿り着いた。

 そこにいたのは、全身を淡い光で覆われた見も知らぬ少年だった。今まで見たこともない風変わりな衣装を着たそいつは、オレとほぼ同じぐらいの年齢だろうか。
 目が合うと、そいつは驚いたように目を丸くする。

「あれっ、ユーロ?」

 名前を呼ばれたことよりも、聞き覚えのあるその声のせいでオレはそいつの正体に気付いた。

「その声……っ、おまえ、もしかしてヒロユキか?!」

「うん、そうだよ。それにしてもユーロまでここに来るなんて、思わなかったよ」

 人の良さそうな笑顔でのん気に笑っているヒロユキは、この闇の中なのにいつも通りのままだった。
 変なところで大物だよな、こいつって。さすがは勇者の片割れというべきか。

「いや、オレだって来る気なんかなかったんだけどよ。つーか、ここってどこなんだよ?」


「んー? ぼくもはっきりとは分からないけど……多分、アドルの心の中だと思う」

 分からないという割には、やけに確信ありげにヒロユキは断言した。

「こ、心の中?」

「うん。前にも一度だけ、ここに来たことがあるんだ。もし、前と同じ状況だとしたら、心の奥の、一番深い部分……そこにアドルがいるんだと思う」

 そう言いながら、ヒロユキは下の方向を指差す。ここはどこを見ても闇しかない世界だが、その中でも下の方ほどそれが深かった。澱んでいるというのか、なんだか見ているだけでゾッとする様な雰囲気がある。

 なのに、ヒロユキは恐れる様子もなく下へ向かって移動していた。こんなところで一人で取り残されるなんて、冗談じゃない。

「お、おい、待てよ! おまえ、マジであんなとこに行く気なのか? ヤバいんじゃないのか、あそこって」

 不安からとりあえずヒロユキの後を追ったけど、少し進んだだけで今までと違うのが分かる。
 もったりとした空気が、さらに粘度を増してどんよりとしていくような感じがする。なにより、闇に自分が溶かされてしまいそうな恐怖がさらに強まるのがたまらない。

 この先に進むのは危険だと、本能とも言うべきものが激しく警鐘を鳴らす。
 けど、ヒロユキは頑固だった。

「でも、この先にアドルがいるんなら、行かないと」

 ヒロユキも動きにくそうでのろのろとした速度でしか進めないが、その動きは一時も止まらない。

「ここが危ない場所なのは分かってるよ、前にレアに……女神に言われたんだ。ここでは心を強く持っていないと、意識が闇に溶けてしまうって。
 そうなったら、多分、死んじゃうみたいだし」

「げっ?!」

 気楽な口調で、何を言ってくれるかな、この男っ?!
 しかも嫌なことに、その言葉は嘘とも思えない。さっきヒロユキを見つける前に感じた得体のしれない恐怖を思い出すと、それもありそうだと思ってしまう。

 こんな一面の闇で、自分の身体さえ実感出来ない不気味な場所の中で、自意識を保ち続けるのは――多分、ひどく難しい。
 仕事柄、オレは刑務所送りになった知り合いも何人もいたが、彼らは口を揃えていったものだ。

 一番辛い刑罰は、『何もない』刑だと。
 厳しい労働や処罰、がんじがらめの規則で縛られる以上に、独房に閉じ込められる罰こそが一番辛いと誰もが言った。

 誰とも口を聞けず、何の刺激もない狭い場所に閉じ込められるだけの人間は、遅かれ早かれ精神に異常を来してしまうそうだ。
 屈強な大男でさえ、その拷問に耐えきれず子供のように泣き叫んで許しをこうか、あるいは完全に精神を壊して使い物にならなくなってしまうと聞いた。

 ただの刑務所でさえそうなるというのに、こんな異様な場所ならば尚更だろう。
 助けを叫ぼうが、泣こうがわめこうが全てが闇に吸い取られるようなこの場所で、長時間一人で耐えられる自信なんかオレにはない。

「だ、だったら早くここから出ないと……! っていうか、どうしたらここから出れるんだよっ?!」

 焦って問い質すオレに、ヒロユキはさらりと爆弾発言をかましてくれた。

「さあ。ぼく、それは知らないんだ」

「ぉおおおおいっ?! マジかっ?! マジで言ってんのかよ、それぇっ?!」

 心の底から、オレが全力でツッコむ。が、ヒロユキは申し訳なさそうな顔をしながらも、やっぱり首を左右に振る。

「悪いけど……ホントにぼくは、ここから出る方法は知らないんだよ。前は、入る時も出る時もレアが助けてくれたんだ」

 なるほど、女神ならそれぐらいは――だが、納得しかけてから、オレは再び絶叫した。


「って、女神様も氷付けになっちゃってるじゃねえかよぉおっ?! どーするんだよ、オレ達っ?! つーか、どうなるんだっ?!」

 聞けば聞く程、ヤバいとしか思えないぞ、この状況っ。
 せめて、ヒロユキがアドルに会えばなんとかなるのかと思いたかったが、奴はあっさりとその希望も潰してくれた。

「前にここに来た時は、アドルは自分の心の一番深いところで氷の殻に籠っていたんだよ。いくら呼んでもぼくの声は届かなかったし、逆にぼくの方がアドルの意識に引きずられて闇に溶けてしまうところだったんだ」

 な、なんの希望にもならないことをっ!
 本当に、どんどんまずい方向へと転がっていく情報に頭を抱えながら……オレは今更の様にヒロユキの覚悟に気がついた。

 ――こいつは、最初からそのつもりだったんだ。
 オレはごく単純に、腕輪をつければヒロユキがアドルと会話できるだろうと思っただけだった。

 オレがそうだった様に、灰色の荒野かあるいは心の小部屋で顔を会わせるのだろう、と。失敗したとしても、ヒロユキが元の世界に戻ってしまうぐらいのものではないかと、高を括っていた。

 だが、どうもそんなに簡単な話じゃなかったみたいだ。
 文字通り、一歩間違えれば死にかねないぐらい危険な行為だと、ヒロユキは最初から知っていた。

 成功するかどうか分からないと、ヒロユキがあれだけ自信なさげだったのも今なら分かる。
 それでも、ためらわずにオレの提案に応じたヒロユキの勇気や覚悟は立派なものだとオレでさえ思うが……ボヤかずにはいられない。

「……ったく、ここまで危険だって言うなら、最初に教えといてくれよな〜」

「ごめん、まさか君までここに来るなんて、思いもしなかったから。せめて、君だけでも返す方法があればよかったんだけど……」

 言葉を濁すヒロユキが、本心からそう思っているのは疑わなかった。他人のためでさえ助け手を惜しまないこのお人好しが、オレに対して助けを惜しむなんて思えない。

「ま、しょうがねえよ。こうなったら、乗りかかった船と思って最後までおまえと一緒にいくしかねえみたいだな」

 諦め半分、博打半分でそう言い、オレはヒロユキの後を追って下降する。
 少なくとも、一人で延々闇の中を彷徨うよりは、ヒロユキと一緒に行動する方が幾らかましなはずだ。

「うん、ありがとう! 
 ……それにしても、君の身体の方が大丈夫だといいんだけど」

「おい、ボソッと気になること、言うなよなっ?! そういやこの場合、オレの身体ってどうなっているんだよ?!」

「えーと、ぼくの経験から言うと、どうも魂が他人の中に入り込んでいる間は、意識不明でぶったおれているみたいだよ。
 少なくとも、ぼくはそうだったし」

 経験者の言葉は説得力はあったが、何の助けにも気休めにもなってくれやしなかった。……ってことは、オレの肉体は魂の抜け殻になってあの宝物庫に倒れているわけか。
 別の魔物が現れないことを心底祈りつつ下降するオレの目に、ぼんやりとした光が見えてきた。

 ヒロユキの時に見えた光と比べると、あまりにもか弱い、闇に溶け込みそうな程にかすかな光。
 だが、そんなわずかな光であっても目標となってくれる。

 最初、それは大きな氷の塊としか見えなかった。しかし、よくよく見ればその中に人影が見える。
 胎児の様に手足を丸め、目を閉じている少年――それは、さっき見た氷像と極めてよく似ていた。

「アドルだ……!」

 小さく呟いたヒロユキは、突進する様な勢いで氷の塊へと進んでいった。そして、手でその氷を叩きながら大声で叫ぶ。

「アドルッ!! アドル、聞こえている?! 起きてくれよ、どうしてまたこんなところで眠っているんだよっ!」

 氷像の時と同じように、ヒロユキの声がアドルに聞こえた様子はない。
 だが、氷像の時と違って、思いがけない反応があった。

「ほう? まさかこのような場所で貴公に再び会えるとは思いもしなかったぞ、異界より来たる戦士よ」

 落ち着き払った張りのある声には、不思議な程魅力があった。男の声と分かっているのに、つい聞き惚れてしまいそうな声だ。
 驚いて、と言うよりは、その声の主を見てみたい気持ちで振り向いた先に、一人の男がいた。

 ついさっきまで確かに誰もいなかったはずの闇の中に、その男は悠然と立っていた。
 それは背の高い、すらりとした体格の青年だった。一見ほっそりとしている様に見えるが、その体格は決して華奢ではない。充分に鍛えられ、しなやかな筋肉に覆われているのがはっきりと分かる。

 だが、それ以上に目を引くのは彼の美貌だった。
 長い金髪に、青い切れ長の瞳。
 その辺の役者や結婚詐欺師も裸足で逃げ出す様な、それこそ見とれる程に美しい男だった。

 単に顔立ちがいいというだけじゃない。なんというか、こう色気があるというのか、人の目を引きつけてはなさない不思議な魅力を備えている男だった。
 長いマントをなびかせ、豪奢な服を事も無げに着こなしているその姿まで様になる。だが、唯一にして最大の欠点は、その男の頭上にあった。

 節くれ立った長い角が、二本生えている。こいつ、絶対に人間じゃないぞっ。
 それにしてもこんな目立つ奴を見るのは初めてなのに、どこかで見たことがあるような気がするのが不思議だった。

 そんなつもりはなかったのに、思わずまじまじと見入っているだけのオレの目の前で、ヒロユキが進みでる。
 軽く手を伸ばし、オレを後ろに庇うような形で前に立った態度に、ちょっとムッとしないでもなかった。

 まるで女の子にでも対する様に庇われているような感じがして、なんだか軽く見られた気がする。
 おかしなもので、同じ身体を共有している時ならピンチの時に交替してもらうのも、助けてもらうのも抵抗はないのに、別の身体だとその辺が違うみたいだ。

 だが、文句を言う気にならなかったのは、オレよりもヒロユキの方が強いという事実があるせいと――奴が、異様なまでに緊張していたせいだ。

 今までどんな強敵を相手にしても、それこそオレが悲鳴を上げる様な化け物を相手取ってもけろりとしていたヒロユキが、今は震えていた。
 青ざめた表情も、今にも相手に殴りかかりそうなその気迫も、ただ事ではない。

「ど、どうしたんだよ、ヒロユキ?」

 そう呼び掛けたオレの声さえ、耳に届いているかどうか。
 ヒロユキは殺気すら感じさせる目付きで謎の美青年を睨みつけ、やっとのように低い声を押し出す。

「それは……こっちの台詞だよ……! なぜ、こんなところにおまえがいるんだ――ダルク=ファクト!!」
                                    《続く》

 

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