Act.1 土曜の晩に、窓の外から |
それはお父さんとお母さんの『外出日』の土曜日の夜のことだった。 「お父さん逹は今日も遅くなるから、いつものように先に休んでいなさい」 「あまり夜更かししないのよ。深夜映画なんか、見ちゃダメだからね」 二人のお決まりの注意を右から左へと聞き流し、ぼくは二人に向かって手だけを振った。
夜遅くまで一人っきりで留守番するのは、ぼくみたいな子供には寂しいんじゃないかってよく言われるけど、その度にぼくは、たまには一人でいるのって気軽でいいんだって答えるんだ。 普段は『趣味が悪い』って眉をひそめられる、大好きな吸血鬼の本や怪奇物をなんの遠慮もなしに読めるし、ベッドの中におやつを持ち込んだって叱られることもない! だから、その晩もぼくはいつものようにお母さん達が出ていった後、自分の部屋で毛布にしっかりくるまり込んで、ゾクゾクするようなフランケンシュタインのお話を読んだ後、電気を消して映画を見ることにしたんだ。 月明りだけの部屋はすっごく怖くて、まるで全然知らない部屋にいるみたいな気分にさせられる。 おかしはたっぷりと用意しておいたんだけど、ジュースは……冷蔵庫の中のりんごジュースが、突然、飲みたくなった。 正直、さっき読んだばかりのフランケンシュタインの顔が頭にこびりついて、安全で安心感のあるベッドの中から出るのは嫌だったんだけど どうしてもジュースが飲みたくなって、ぼくは仕方なく起きあがった。 なにも、怖いことなんてない。 電灯が壊れっぱなしの暗い廊下が、まず怖い。 ほとんど走るように台所にたどりつくと、ぼくはまずジュースを一杯飲んだ。 ジュースの瓶を横に抱えて、ぼくは台所を飛び出した。 誰かがぼくの部屋に忍び込んできて、テレビを消したんだろうか……恐ろしい予感に体が震える。 夜、留守の家に空き巣に入って、邪魔をする奴は皆殺しにしてしまう、ナイフやピストルを持った、ストッキングで覆面をした男達……。 ――ガタン!! でも、何も起こらなかった。 ミシッ……。 ミシリ……ッ。 ――なんて、恐ろしい姿!! もじゃもじゃの髪は、まるでたてがみのように黒いマントにまで垂れ下がっていた。 「……っ?!」 あまりに恐ろしさに、心臓が止まりそうだった。 そいつが、ニヤリと笑う。 「きゅっ……吸血鬼…?!」 思わず叫んだ時、そいつが初めて口をきいた。 「そうさ、吸血鬼だ!」 地獄の底から響いてくるような、不気味な声――。 黒いマントに、映画でしかお目にかかれない古めかしい服装 子供の姿をしているとはいえ、そいつはまさしく映画の中から抜け出してきた吸血鬼そのものだった。 「怖いのか?」 そう聞かれても、ぼくは返事ができなかった。恐怖にすくみ上がって、喉がカラカラに乾いてしまっている。 「弱虫だな。そんなにビクビクするなよ」 吸血鬼がジロジロとぼくを眺め回し、ちらっと後ろのドアに目をやる。 「おまえ、……一人か? 両親は?」 答える勇気がなく、ぼくはただ震えていた。 「どうやら、おまえは一人でお留守番をしてるみたいだな。こっちには、都合がいいや」
「分かっているだろうが、オレ逹は血を吸って生きてるんだ」 「ぼ……ぼくのは、……ものすごく、わ、悪い血なんだ……。ぼくは、いつも……く、薬を飲まなくちゃいけないんだ……っ」 やっとのことで絞りだした言い訳を、吸血鬼は鼻先で笑い飛ばした。 「哀れな奴だな。それ、本当か?」 吸血鬼が、一歩、ぼくの方につめよった。 「ぼくに近づかないで!」 悲鳴を上げ、ぼくは窓枠ぎりぎりまで後ずさった。 「ああ、近づきゃしないさ。近づくのは、おまえだ」 「え……?」 「――さあ、オレの目を見るんだ」 抗うことは、できなかった。 でも、どうしても赤く光る目から目を反らせなかった。頭がボーッとなって、体の力が抜けていく――こんなことって……。 「そう、こっちにこい。心配するな、殺したりはしない。……それに、痛くだってないさ」
もうダメだ!! 一瞬、何がなんだか分からなかったけど、すぐにそれがベッドの脇に置いておいたボールガムだと気づいた。おばあちゃんにたくさんもらったんだけど、そんなに好きじゃないし、困ってその辺に投げ出しておいたんだった。 ぼく同様、目をぱちくりさせていた吸血鬼が突然笑い出した。普通の子供みたいな、明るい笑い声だった。 「うわっ、ボールガムだ! きれいだなあ」 声も口調も、ずっと優しくなる。 「ずっと前、オレもこんなのをおばあちゃんからもらって、持っていたっけ」 懐かしそうに呟き、パクンとその一つを口にほうり込んだ。――と、思うや、ガムをぴゅっと吐きだし、ゼイゼイ言いながらものすごい勢いで咳き込みだした。 いつの間にか体が自由に動くようになったので、ぼくはこれ幸いと机の後ろに隠れた。 そんなところじゃ隠れたって丸見えだし、吸血鬼にまた睨まれたら意味がないと分かっていたけど、少しでも身を隠さずにはいられなかったんだ。 でも、吸血鬼は咳の発作ですっかり弱って、ベッドの上に座り込んで、しばらくは身動きもしなかった。 「また、やっちゃった。よ−く言われていたのにさ」 うめきながら、吸血鬼がぼやく。 「言われてたって、どうして?」 吸血鬼が、ジロリとこっちを見た。でも、さっきみたいな不思議な目の光も、声もでないほどぼくを脅かした表情も、きれいさっぱり消え失せている。 「吸血鬼の胃は敏感さだからさ、おばかさん。甘い物は、オレ逹には毒なんだ」 甘い物が毒だなんて――ぼくは、その瞬間、吸血鬼にすっかり同情してしまった。 「りんごジュースもダメかな?」 聞いた途端、吸血鬼は恐ろしい声で怒鳴った。 「オレを毒殺する気かっ?!」 「ごめん、ちょっと思っただけなんだ」 慌てて謝ると、吸血鬼は溜め息をついた。 「もう、いいよ。……やれやれ、すっかり気が抜けちまったぜ」 どうやら、血を吸う気はもうなくしてしまったらしい。それに、ぼくのことを悪く思ってもいないみたいだ。――怖くは見えるけど、ホントはとってもいい吸血鬼なのかもしれない。 「……君、もう、年をとってるの?」 思い切って聞いてみると、吸血鬼はあっさりと答えた。 「ああ、ものすごく」 「でも、ぼくと……おんなじぐらいに見える」 背比べしたわけじゃないからはっきりとは言えないけど、吸血鬼はぼくよりちょっと高い程度の背丈しかないみたいだ。 「それがどうした? オレは小さいガキの時、死んだんだ」 「ふうん、そうかあ。じゃあ、君はもう死んでる……んじゃなくて、お墓を持っているんだね?」 ぼくの言い方の何がおかしかったのか、吸血鬼はクックッと笑った。 「来たかったら、来てもいいぜ。日が暮れてからじゃないとダメだけど。昼間はオレ逹、眠ってるんだ」 「ぼく、全部知ってるよ」 吸血鬼の気安さにホッとしたぼくは、今まで冬眠前のリスみたいにせっせとため込んできた吸血鬼の知識を披露できるのがうれしくて、自慢げに話しだした。 「吸血鬼は陽の光に当たると死んじゃうんだろ。だから、夜があける前にお墓の中に戻れるように、吸血鬼はいつも夜はささっと行動しなくちゃならないんだ」 「頭いいじゃないか」 吸血鬼が、意地悪く口端を歪める。再び、彼の表情が険しくなったことに、ぼくはうかつにもその時はまるで気がつかなかったんだ。 「そして、人間に居場所がバレると心臓に杭を突き立てられるんだ」 調子に乗ったぼくは、つい口を滑らしすぎたらしい。 あいつの方がドアから離れていたにも拘らず、ぼくがドアのノブを握った時はもう、その手首を掴まれていた。 「あ……」 ものすごい力だった。 「吸血鬼に詳しいのがご自慢なら、ついでに吸血鬼が杭のことを言われると頭に血が昇るってことも知っているよな?」 低い、ドスのきいた声にぼくは震え上がった。今度こそ、血を吸われてしまう――。 「わ、分かったよ。……ぼ……ぼくは、君を怒らせるつもりなんか、なかったんだ」 つっかえながら、ぼくは必死に言い訳した。 「……変な質問ばかりすると思ったら、この部屋、吸血鬼だらけだな」 「う……ん。ぼく、吸血鬼にすごく興味があるから……」 「へえ?」 吸血鬼の目が、キラっと光った。 「――おまえ、吸血鬼になりたいの……?」 優しげな声――でも、答え方を間違えたらそのまま襲いかかってくるような雰囲気が、確かにあった。 機嫌を取るためになりたいって言おうか? 「……な、なりたく……ない。ぼく、絶対に……吸血鬼に、なりたくないんだ!」 それで、吸血鬼をよけいに怒らせることになるのは覚悟の上だ。 「なりたくない? ――仲間になんなきゃ、ここで殺されるって言われてもか?」 それを聞いた時のぼくの恐怖ったら!! 「……そ……それでも、嫌だ……。ぼくは……人間のままでいたい……!」 「そうか」 吸血鬼は初めてニッコリ笑って、ぼくの手を離した。 「おまえ、おもしろい奴だな……気にいった!」 笑いながらそう言う吸血鬼は、もう、あんまり怖くは見えなかった。 「それはそうと、おまえ、なんて名前なんだい?」 「ぼく? ぼくは、アントン。君は?」 「リュディガーだ」 ――リュディガー? ……変な名前! 「いい名だね」 「そうかなあ?」 「そうだよ。君にぴったりだ」 褒めると、吸血鬼――リュディガーはすっかり気をよくしたみたいだった。 「アントンってのも、いい名だな」 「そんなことないよ。学校じゃ、いつも笑われてるんだ。でも、うちのお父さんもアントンっていうんだよ」 「ふうん」 「そして、うちのおじいちゃんもアントンっていうんだ。こんなの、イカさないよね」
慰めるような口調で、リュディガーが言う。 「そうなんだ、慣れちゃうんだよね」 互いの名前を愚痴りあいながら、ぼくは背筋がゾクゾクするような、ジェットコースターが動き出す直前のようなワクワク感を味わっていた。 ぼくの部屋を物珍しげに眺め回しているリュディガーは、特に本棚に興味があるみたいだった。吸血鬼が、吸血鬼の本に関心を持つだなんて、ウソみたいだ。 「これ、おもしろそうだな、借りてもいいか」 それは『ドラキュラ』の本だった。ぼくがなんにも言わないうちから手にとって眺めている。 「ああ、いいよ。でも、返してよ、分かった?」 「分かってるさ」 うれしそうに、リュディガーはマントの下に本をつっこんだ。 「ところで、おまえはしょっちゅう、こんな風に一人で留守番をしているのかい?」 「土曜日はいつもさ」 「それで、おまえ全然怖くないの?」 吸血鬼がそんなことを聞いてくるなんて、なんだか変な気分だった。 いつもなら気楽でせいせいすると強がりを言うところだけど、さっきさんざん怖い目にあった今は、そんな強がりを言う余裕はなかった。 「……ホントは、怖いんだ。夜に一人っきりでいるのってさ」 「オレもさ」 思いもかけず、リュディガーがうなずいた。ぼくが驚いてリュディガーを見返すと、あいつは照れたように笑った。 「特に、暗いとな。オレ、あんまり夜目が効かないんだ」 猫のように光る目を瞬かせて、リュディガーは言った。 「うちの父さんはいつもぼやいてるぜ。『リュディガー、おまえは吸血鬼じゃない、おまえはおくびょうもんだ!』って」 大袈裟に嘆いてみせる吸血鬼と、ぼくは目を見合わせて笑った。 「君のお父さんも吸血鬼なの?」 「あったりまえさ! いったい、何考えてんだい」 「じゃ、君のお母さんも?」 「もっちろん。それにうちの妹も、兄貴も、おばあちゃんも、おじいちゃんも、叔母さんも、叔父さんも、従兄弟も」 「ひゃあっ、じゃ君の家族、全部?」 思わず大声を出してしまう。 「そうさ、うちはみ〜んな、吸血鬼一族だ!」 リュディガーが威張って答える。 「うちの家族は、普通なんだ」 ぼくは溜め息まじりに、訴えた。 「お父さんは会社で働いていて、お母さんは学校の先生でさ。兄妹はいないんだ。分かるだろ、うちがどんなに退屈か」 リュディガーが、同情的にぼくを見る。 「うちなんか、いつもてんやわんやだ。家族が多いし、それに吸血鬼ってのはいつもごたごたに巻き込まれるんだから!」 「どんな? ちょっと、話して聞かせてよ」 これで、ついに、本当の吸血鬼の話が聞けるぞ! 「何を話せっていうんだよ?」 「なんでもいいよ。ぼく、怖い話って好きなんだ」 「怖い、ねえ? オレが今まで体験したことで、一番怖い出来事は……あの墓守りの事件かな。その話、聞きたいか?」 「もちろん!」 「それじゃ、話してやるよ。あれは、ある――」 言いかけて、リュディガーはふと口をつぐんだ。 「何か、聞こえないか?」 と、言われても、ぼくはすぐには気がつかなかった。よぅく耳をすませて、やっと車の近づいてくる音に気づいた。 「聞こえる」 窓から見下ろすと、マンションの駐車場に見覚えのある車が止まるのが見えた。 「お父さん達だ!」 ぼくがそう叫んだ途端、リュディガーがぴょんと窓台に飛び乗った。 「あ…」 せっかく知り合いになれた吸血鬼が、飛んでいってしまいそうなのを見て、ぼくは焦った。 「待ってよ、また……来るんだろ? ぼくの本、いつ返してくれる?」 「来週にな!」 一言叫んで、リュディガーは空に身を踊らせた。 けど、玄関からガチャガチャいう音が聞こえてぼくはやっと正気に返った。こうしちゃいられないっ! お父さんとお母さんが、廊下を歩いている足音が聞こえた、それがぼくの部屋の前で立ち止まり、ドアがそっと開かれた。 「アントンは眠っているみたいね」 「そらごらん、考え過ぎだよ、ヘルガ。うちの窓から人影が飛び出した、なんて。窓もちゃんと閉まっているじゃないか」 ――あ、危ないところだった! 死ぬほど怖かった、暗闇の侵入者。 ボールガムなんかに気を取られたり、自分も吸血鬼のくせに吸血鬼の本を読みたがったり! リュディガーは、来週と言った。――また、来週の土曜日にはあのちびっこ吸血鬼と会えるんだ! いつもはちょっぴり憂鬱な土曜日が、今は待ち遠しくてたまらない。すっかり興奮してしまって、ぼくはなかなか眠れなかった――。 《続く》
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