Act.2   吸血鬼のマントの秘密

  

 ぼくは、必死になって走っていた。ひとりぽっちで、広い広い荒野を。
 人の住んでいる気配は、これっぽっちもない。
 それどころか、どんな小さな生き物の気配すらもない。

 車の通る道路も、道もなかった。
 ただ、おかしな格好の木が2、3本生えているだけ。枯れたような枝を暗い空にのばしている木は、かえって陰気さを際立たせるだけだった。

 巨大な火口が、灰と小石で覆われた地面にぽっかりとあいている。
 得体の知れない骨がゴロゴロと転がり、大きな石が黒光りしている不気味な風景――走りながら、ぼくはゾッとした。

 これから、ぼくはどうなるんだろう?
 そう思った時、後ろから何かが追いかけてくる気配を感じた。それも、すぐ近くから。
 

「あ……っ?!」

 でも、振り返る勇気なんてないっ!
 逃げ出すぼくの後ろで、ハァハァとあえぐような息遣いが感じられる。それは間違いなく近づいてきているんだ。
 怯えきったぼくの目に、突然、山が見えた。

  ――なんとか、あそこまでいけば助かる!!
 理屈もへったくれもなく、ぼくは直観的にそう感じ取った。だけど、追いかけてくる者のゾッとするようなあえぎが大きくなってきた。
 もう、首筋に息が感じられる。

 ぼくは全速力で走った!
 それこそもう、死に物狂いに、こんなに一生懸命走ったことはないってぐらいに早く!!
 でも、だめだったんだ。

「うわぁっ?!」

 何かに足を取られ、ぼくは思いっきりすっころんでいた。
 ――ダメだっ、もう……もう、恐ろしいものに捕まっちゃう!
 固く目を閉じて身を少しでも縮めようとした時、聞き覚えのある笑い声が響いた。

「アントンってば! おまえって、まるで悪魔にでも追いかけられたみたいに走るんだもんな!!」

「リュ……リュディガー……?!」

 恐る恐る目を開けると、ぼくのすぐ側にしゃがみこんでいるのは、あのちびっこ吸血鬼だった。おかしそうにケタケタ笑いながら、ぼくを見下ろしている。

「そうさ。また来るって、約束したろ。なのに、なんで逃げるんだ?」

「あ……、うん。ごめん」

 怯えたところを見せちゃって、きまりが悪かった。ぼくは立ち上がってズボンの埃を払いながら、リュディガーに笑いかけた。

「ちょっと……驚いちゃってさ。本当に来てくれるなんて、思わなかったし」

「そんなことないさ、来るよ。言っただろ、オレはおまえが気に入ったって」

 ニッと笑うリュディガーの口元から、長い牙が見えた。

「だって、こんなに美味そうなヤツに会ったのは、初めてだもんな」

「…………?!」

 逃げる間も、助けを呼ぶ間もなかった。突然襲いかかってきた吸血鬼は、嬉しそうにぼくの喉に牙を突き立てた――!

 

 


「うわ……っ!」

 し、心臓が止まるかと思ったっ。
 どきどきする心臓を押さえながら、ぼくは何度も大きく深呼吸をする。
 大丈夫、今のは夢だ。ただの夢……ちょっとばかりリアルだったとしても、夢に過ぎない。

 だって、ここは誰もいない荒野じゃなくてぼくのベッドの上だし、今は夜じゃなくて朝だし、ぼくの目の前には吸血鬼だっていやしない。
 そう――今のは、ただの夢だ。

「でも……昨日のことは、夢じゃない……よな」

 自分に言い聞かせるように、ぼくは呟いた。
 突然やってきた、ちびっこ吸血鬼。リュディガーがぼくを気にいったと言ったのも、また来週くるって言ったのも、夢なんかじゃない。
 本当のことなんだ。

「アントン、起きな……あら、もう起きていたの?」

 ふいにお母さんが部屋に入ってきて、ぼくは飛び上がるほど驚いたっ!

「朝ごはんができているわよ。早くいらっしゃい」

「はぁい」

 半分寝ぼけながら答え、ぼくはのろのろと服を着替えた。その間も、ひっきりなしにアクビが出てしまう。……昨日夜更かしたから、眠いのはあたりまえなんだけどさ。
 だけど、食堂に入った途端、刺激的な言葉が耳に飛び込んできた。

「まあ、吸血鬼ですって? 怖いわねえ」
 

「きゅっ……吸血鬼?!」

 ギョッとして思わず叫んだぼくに、お父さんとお母さんの目が集まる。

「そうさ、吸血鬼だよ。おまえも読むかい?」

 からかい半分に、お父さんが読んでいた新聞を広げてみせる。
 まず、挑発的に目に飛び込んできたのは、『吸血鬼のしわざか?!』と書かれた見出しだった。

 昨夜、高層マンションの11階で、留守番をしていた子供が、喉を切り裂かれて殺されたという事件をセンセーショナルに書きたてた記事を見て、ぼくは背筋がゾクゾクッとするのを感じた。

 玄関には鍵が閉まっていて、窓だけが開いていたなんて――今朝見た夢と重なって、窓からやってきたあいつを思いだしちゃう。
 よく見ると、場所はそんなに離れていない。
 となりの市だ。

 もしかすると  頭の中に、恐ろしい考えが浮かぶ。
 あのちびっこ吸血鬼はぼくの血は吸わなかったけど……あの後、となりの市にいって、そして……。

「なんだ、ずいぶん熱心だな、アントン。まさか、心当たりでもあるのか?」

「え?! な、なんで?」

「なんでって、おまえは吸血鬼に関しちゃプロだろう。吸血鬼の一人や二人、知り合いがいるんじゃないのか?」

 一瞬ドキッとしたけど、お父さんは別に昨日のことに気づいたわけじゃない。ただ、ぼくをからかってるだけなんだ。
 だから、ぼくは大人の冗談につきあってあげることにした。

「そうだね……少なくとも、一人はいるよ。でも、言っておくけど吸血鬼はこんなことしないよ」

 さっきはちょっと疑っちゃったけど、そんなはずない。
 ちびっこ吸血鬼――リュディガーは、おこりんぼで怖いけどぼくにケガなんかさせなかった。考えてみれば最初に血を吸おうとした時でさえ、リュディガーはぼくを殺さないって言ってたもん。

「だいたい、バカげているよ。吸血鬼は、牙で喉を噛んで血を吸うんだ。刃物で首を切って、それのどこが吸血鬼なのさ?」

 吸血鬼の話を一回でも読んだことがあるんなら、これって常識なのに。きっとこの記事を書いた奴はすっごく頭の悪い奴なんだと、ぼくは決めつけた。

「アントンったらおやめなさい、そんな話は」

 事故とか事件の話をちゃかしてはいけない、とお母さんが眉をしかめる。

「事件の話じゃないよ、吸血鬼の話ですよーだ」

「なおさらだわ! まったくあなたときたら寝ても覚めても吸血鬼、吸血鬼って。あんなのは架空のお話なのよ」

「そう? でも、新聞にも『吸血鬼か?!』って、書いてあるよ」

 お母さんをからかうために、ぼくは意地悪くそう言ってから  思い切って聞いてみた。
「お父さん達は……これが本当に吸血鬼の仕業だって思う?」

 答えを聞くまでもなかった。
 二人の顔に、笑いをこらえるような――そんな表情が浮かんでいる。

「なんで、また、そんなことを考えるの?」

 今にも笑いだしてしまいそうな顔をしたお母さんが、ぼくにココアを渡しながらそう言う。

「なぜって、吸血鬼は本当にいるからさ!」

「そう、本の中に……あるいはカーニバルの時にね」

 笑いながら、お父さんがひやかす。
 ちえっ、大人っていつもこうなんだから。自分ばっかり分かっているような顔をしちゃってさ。
 ぼくはムッとして、乱暴にカップをスプーンでかき回した。あんまり乱暴にやったから、もうちょっとでココアがこぼれちゃうところだった。

「違うよ。吸血鬼はいつだって、いるんだよ。ただ、ぼく逹が気づいてないだけなんだ」
 声を張り上げて言ってから、ぼくは最後につけくわえた。

「いないと思っているから、気がつかないんだよ」

「お母さんには、出かける時間まで後20分しかないことしか、気がつかないわ。
 急ぎなさい、アントン。でないと、また遅刻するわよ」

 笑って、お母さんはぼくのお皿にお代わりのパンを乗せる。
 ぜんっぜん、ぼくの言うことを信じてくれないんだから。ぼくは腹立ちを押さえて、ココアで口の中いっぱいに詰まったパンを流し込んだ。

 ふんっ、いいですよーだっ!
 今に見てろよ――お父さんもお母さんも『吸血鬼なんかいやしない』なんて、笑っていられなくなるんだから。
 だって、吸血鬼はホントにいるんだもん!!

 

 


 約束の土曜日の夜、ぼくはちっとも落ち着かなかった。だって、今日は約束の日、吸血鬼がぼくを尋ねてくる日なんだから!
 なのにこういう日に限って、お母さんが余計なことを言い出した。

「……今日は出かけるのをやめようかしら? 最近、ほら……例の吸血鬼とかの事件があって物騒だし。
 子供一人を残していくのは、不安だわ」

 高層マンションで留守番している子供を狙っての吸血鬼(?)は、まだ掴まっていない。
 つい一週間前のぼくなら喜んだかもしんないけど、今のぼくにとっちゃありがためいわくだっ!
 だから、ぼくはきっぱりと言った。

「ぼくは平気だよ、ちゃんと鍵をかけて寝るし、それに慣れているもん」

 どうしても残ると言われたらどうしようかと思ったけど、心配した割にはお母さんもお父さんもあっさりと出ていった。
 やれやれ、だ。

 でも、せっかくお父さんやお母さんが出かけたのに本を読む気にもなれず、ただ、ぼーっと字の上っ面だけを眺めているだけだった。
 だって、こんな気分の時に読書なんかに集中できないよ。

 一年生の時の遠足の前の日だって、進級のかかったテストの前の日だってこんなにドキドキしたことってない。はっきりいって、この一週間ずっとそうだった。自分が何をやっていのかさえも、よく思い出せないぐらいだ。
 頭の中にあるのは唯一つ……。

 リュディガーは――あのちびっこ吸血鬼は、本当にやってくるんだろうか?
 それに心配と言えば、心配だった。
 だって、この前の夢! ……もちろん、あんなのはただの夢にすぎないんだろうけどさ、でも、やっぱり、ちょっと……ねえ?

 この前、吸血鬼はたまたまうんと機嫌がよくて  だから、ぼくを…その『獲物』にしなかっただけで、今夜はそうはいかないんじゃないか?
 あれこれと迷ってばかりで、気持ちはちっとも落ち着かない。

 その時、窓を叩く音がした。聞き間違いじゃないかと思うほど、小さく。
 バカみたいな話だけど、ぼくはそれが信じられなかった。まるで、夢かなにかみたいに現実感がなくって。
 でも、また、とんとんともう少し強く叩く音がした。

 それを聞いて、ぼくはそれまでのためらいも一切忘れて、ベッドを飛び出して窓に駆けよった。カーテンを開けると、窓台に座っているリュディガーがいた!
 ちびっこ吸血鬼は笑って、手をちょいちょい動かして入れてくれ、と合図する。
 心臓が激しくドキドキして、三日月鍵を押し上げる手が震えた。

「やあ。約束通り、来てやったぜ」

 するりと窓を抜け、リュディガーがぼくの部屋におりたった。
 前に彼が来た時は暗がりだったから気がつかなかったけど――こうして明かりの下で見ると、リュディガーは息を飲むほど美貌の持ち主だった!

「わぁ……」

 ぼくは今までこんなにきれいな男の子――いや、女の子だって、見たことはない。テレビや映画に出てくる子供よりも、もっと、ずっと目を引く顔立ちをしている。
 古めかしい衣装を着ているのにそれが妙にしっくりと体になじんでいるのは、その美貌のせいかもしれない。顔がいいと何を着たって似合うんだよね、実際。

 ほとんど白に近い銀髪に、それよりももっと白く見える肌。目だけが真っ赤なのがずいぶん風変わりだけど、でもそれでもリュディガーを見た人は『不気味だ』と思うより先に『きれいだ』って思うだろう。
 思わず見とれていると、リュディガーが不思議そうに聞いてきた。

「なんだ? どうかしたのか?」

「いや……ちょっと、びっくりしてただけ。リュディガーって、ハンサムだったんだねー」
 

 感心して言ったつもりだった。
 だけど、褒めた途端にリュディガーは露骨に嫌な顔をした。

「――オレ、顔のこと言われるのヤなんだ」

「あ、そーなの? ごめん」

「いいよ」

 つっけんどんな言い方に、ぼくは話しかけるきっかけを失ってしまう。  なんか、せっかく吸血鬼が来たっていうのに、うまくいかないなあ。

「座れよ」

 リュディガーが乱暴に言う。……まあ、いいんだけど、ここってぼくの部屋なのに。
 ぼくの部屋にはイスが一個しかないから、とりあえず二人並んでベッドに腰かける。まるで自分の部屋であるかのようにふん反り返って足を組み替えながら、リュディガーが聞いた。

「で、何をするわけ?」

 聞かれて、ぼくは一瞬詰まった。――そこまで考えてなかった!

「え……えーと、そうだなあ。なんか、おやつでも持ってこようか?」

 つい、普通の友達感覚でそう言うと、リュディガーは急に嫌な顔をし皮肉っぽく言った。

「――言ったろ。オレ達吸血鬼は、人間の食べ物は食べないって」

「あ、ごめん」

 忘れていたわけじゃないのに、うっかりしてた。さっきのことといいい、今のことといい、ぼくってすっかりリュディガーの機嫌を損ねちゃったみたいだ。

「じゃあ、レコードでも聞く?」

 ぼくの提案に、吸血鬼は怒鳴り返した。

「いやだ!」

「じゃなかったら、ゲームをして遊ぼうよ」

「いやだ!」

「それじゃ……ぼくの絵葉書を見せてあげようか?」

「やだ、やだ、まっぴらごめんだ!」

 説得するだけ無駄だと、はなっから分かるきっぱりとした言い種に、ぼくはすっかり途方にくれてしまった。

「それじゃあ、ぼくにも分かんないよ」

 むくれたリュディガーと途方にくれたぼくの間に、ちょっと、気まずい空気が漂った。その沈黙を取り払おうと、ぼくは逆にリュディガーの意見を聞いてみた。

「リュディガーは何をしたいの?」

「オレ?」

 考え込むように、リュディガーは首を傾げる。

「そうだよ。吸血鬼の子供って、普段は何をして遊んでるの?」

 それは、リュディガーの機嫌をとりたいだけじゃなくって、前々からの疑問だった。
 本に出てくる吸血鬼は、昼間は眠っていて夜は哀れな犠牲者を狩りにいく。でも、その他の時間は何をやっているのか、さっぱり書いてないんだもん。

「オレは……散歩したり、棺桶の中で本を読んだり。まあ、そんなとこだな」

「なーんだ、じゃあ、吸血鬼もあんまり人間と変わらないんだね」

 少なからずホッとするのを感じたけど、リュディガーは鋭い牙を見せてニッと笑った。


「これはあくまでオレの話! 普通の吸血鬼は、もっと別な遊びをしてるさ」

「ひょっとして……窓から忍び込んで、子供を殺すとか?」

 この一週間、テレビで話題になっていたニュースをそのまま口にしたのは失敗だった。
 

「オレがいつそんなことをしたってんだっ?!」

 怒鳴ると同時に、リュディガーは物凄い力でぼくのえり首を掴んだ。

「吸血鬼は人の血を吸うけど、決して殺したりはしない!!」

「き、君のことを言ったんじゃないんだっ。ただ、テレビで、吸血鬼の仕業だって言われてる事件があって……」

 しどろもどろに説明すると、リュディガーはぼくのえり首を掴んでいた手を緩めた。

「喉を刃物で切って? そんなの、吸血鬼のやり方じゃないぜ」

「ぼ……ぼくだって、そう思うよ」

 しどろもどろに、ぼくは新聞で読んだことを説明した。リュディガーは特に、玄関が鍵をかけてあったのに、窓はあけっぱなしだったってところに興味を持ったみたいだ。

「ふぅん……ちょっと、おもしろいな」

「おもしろいって、何が?」


「だって、犯人が吸血鬼だとしたら喉を切るのはおかしい。でも、人間だとしたら、窓から入ってきたってのが変だ。……いったい、誰の仕業なのかなぁ……?」


 少し考え込み、リュディガーは不意に立ち上がった。

「よし、行こうぜ!」

「え? 行くって、どこに?」

「決まってるじゃないか、その事件のあったマンションにさ。ちょっと、見てみたくなった」

 そう言って、リュディガーはごく当然のように窓から飛び出そうとしたけど――ぼくは飛べないぞっ。

「ぼっ、ぼくは飛べないよ、言っておくけどっ」

「ああ、そうか」

 と、リュディガーは初めて気がついたようにぼくを見返し、自分の着ていたマントを脱いでぼくに手渡した。

「こいつを着てみろよ」

 リュディガーが囁いた。

「着……着るの?」

 恐る恐る聞き返すと、リュディガーは焦れったそうに急かす。

「さあ、早く!」

「うん……でも……」

 ぼくはためらった。
 マントを着ること事態には、文句はない。ともかく、仮装パーティにはいつも憧れていたもんだし。
 ――でも、この本物の(!)吸血鬼のマントを着たら、ぼくも吸血鬼に変身しちゃうんだろうか?

 読んだ本の中では、生け贄にされる者はまず血を吸われることになってたけど。――吸血鬼が何を企んでいるのか、分かったもんじゃない。
 受け取ったマントはゴワゴワした手触りで、とても重く感じる。

 急に、体がガタガタ震え出した。手からマントが重たげに落ち、ぼくはドアの方へ後ずさった。
 そんなぼくを見て、リュディガーはぼくの考えていたことを悟ったみたいだった。

「別に、このマントにはおまえが考えているような力はないよ」

 落ち着いたその言い方に、ウソは感じられなかった。

「オレがおまえに、なんかすると思ってんのか?」

 真顔で聞かれて、ぼくは赤くなった。

「ううん! ――ごめん、ぼくはひょっとしたらこのマントは……って思っちゃって。でも、そんなの、もちろんバカげてる」

「そうさ。全然、大丈夫だよ」

 力強くうけあい、リュディガーはマントを拾い上げてもう一度ぼくに渡した。

「さあ、これを着ろよ!」

 リュディガーは目をきらきらさせながら、ぼくをじっと見ている。その期待に応えて、ぼくはかすかにカビの匂いのするマントを羽織った。

「さあ、これで飛べるぞ!」

 自信ありげに断言するリュディガーには悪いけど、ぼくにはとてもそうは思えなかった。


「飛べる? どうやって?」

「実に簡単さ」

 叫んで、リュディガーは机の上に飛び乗って腕を広げた。

「腕が羽だって、思えばいいんだ! そして、腕を羽みたいに動かせばいい。上へ、下へ、上へ、下へ」

 もっとも、リュディガーにはそんな羽ばたきは必要がないみたいだった。現にマントなしで宙に浮かび、空中で胡座をかいてぼくを見下ろしているもの。

「慣れれば、腕を動かさなくても飛べるぜ。さっ、今度はおまえの番だ」

「ぼ、ぼくの?」

「そうさ!」

 強く言われて、ぼくはリュディガーと同じように机の上によじ登った。けど、格好だけ真似したってぼくに飛べるわけはない。
 ためらうぼくに、リュディガーは命令するように言った。

「さあ、飛ぶんだ!」

「ぼくにはできないよ!」

 机から床までの距離――たいしたことない高さが、今は途方もなく高く感じる。…人間って運が悪いとたいしたことない高さから落ちても、ケガをするんだよな〜。

「無理だっ! 絶対、無理だっ」

「できるって!」

 焦れったそうに、リュディガーが叫ぶ。

「ただ、その気になりさえすりゃあいいんだ!」

「だめだよ!」

「できるったら!」

「だめだ!」

「できるよ!! 飛ぼうと思えば、飛べるんだ!」

 熱心に、ほとんど怒っているようにリュディガーが怒鳴る。

「飛べるったら! 絶対に、できるって!!」

「…………分かったよ!」

 うなずいたのは、それを信じたからじゃなかった。
 ぼくはヤケになったんだ。

 たとえ机から落っこって、頭にコブの一つや二つこしらえても、それでリュディガーが人間は飛べないんだって分かってくれるんなら、構わないって思った。
 てっとりばやく言えば、ぼくは開き直ったんだ。

「じゃ……見ててよ、リュディガー」

 念を押してから、ぼくはさっきリュディガーがやったみたいに机の上から飛んだっ。
 すると――飛んだんだ!
 ぼくは、宙に浮かんでいた。

「と、飛んでるっ?!」

 それは、ちょうどエレベーターで降りる瞬間、体重が一瞬だけなくなったみたいな感じに似ていた。
 でも、もっと、もっと気持ちがいい!

「飛んでいる! うわあ、飛んでいるんだ!!」

 歓声をあげるぼくを、リュディガーはむしろ不思議そうに見ていた。

「あたりまえさ。それは、本物の織り姫のマントだもの」

「織り姫?」

「ああ、そんな名前のうーんと長生きの吸血鬼がいるんだ。織り姫の作ったマントには、空を飛ぶ力が備わっているのさ」

 それを早く教えてくれっ!
 そうすれば、あんなに長い時間迷ったりしなかったのにさ。

「それじゃ、さ、飛ぼう!」

 リュディガーが言って、窓の方に向き直った。だけど、飛べると分かっても、窓を見るだけで勇気がなえる。――だって、ここ、6階なんだもんっ!
 さっきまでの浮かれた気分が、急速にしぼんでしまった。

「……ぼく、勇気がないな」

「勇気がない?」

 リュディガーがぼくを、じっと見る。……怒るか、それともバカにするかな?
 そう思ったけど、リュディガーは怒りもからかいもせずにひょいと窓枠に飛び乗った。


「それじゃ、オレのようにやればうまくいくよ。オレがどうやってうまく切り抜けてきたか、知ってるか?
 目を瞑って、飛びだすのさ」

 笑って、リュディガーがポンとぼくの脇腹をこづく。

「君も怖いの?」

 なんだか、不思議な気がした。リュディガーは、空を飛んでいる時が一番生き生きとして見えるのに――。
 ぼくの視線からそんな疑問を読み取ったのか、リュディガーはほんの少し照れくさそうに笑う。

「今はもう、怖くないけどさ」

 そう言って、リュディガーは窓台から夜空にふわりと飛び出していった。ぼくも後に続こうとして――つい、下を見てしまったりして。
 もちろん、すっごく後悔。うっ……見るんじゃなかったっ。

 ――でも、……こ、こんなの!
 リュディガーにできるんだ、ぼくにできないはずはないっ!
 自分にそう言い聞かせて、目を閉じ、そして――ぼくは窓枠を力いっぱい蹴った。
                                    《続く》

 

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