Act.2 吸血鬼のマントの秘密 |
ぼくは、必死になって走っていた。ひとりぽっちで、広い広い荒野を。 車の通る道路も、道もなかった。 巨大な火口が、灰と小石で覆われた地面にぽっかりとあいている。 これから、ぼくはどうなるんだろう? 「あ……っ?!」 でも、振り返る勇気なんてないっ! ――なんとか、あそこまでいけば助かる!! ぼくは全速力で走った! 「うわぁっ?!」 何かに足を取られ、ぼくは思いっきりすっころんでいた。 「アントンってば! おまえって、まるで悪魔にでも追いかけられたみたいに走るんだもんな!!」 「リュ……リュディガー……?!」 恐る恐る目を開けると、ぼくのすぐ側にしゃがみこんでいるのは、あのちびっこ吸血鬼だった。おかしそうにケタケタ笑いながら、ぼくを見下ろしている。 「そうさ。また来るって、約束したろ。なのに、なんで逃げるんだ?」 「あ……、うん。ごめん」 怯えたところを見せちゃって、きまりが悪かった。ぼくは立ち上がってズボンの埃を払いながら、リュディガーに笑いかけた。 「ちょっと……驚いちゃってさ。本当に来てくれるなんて、思わなかったし」 「そんなことないさ、来るよ。言っただろ、オレはおまえが気に入ったって」 ニッと笑うリュディガーの口元から、長い牙が見えた。 「だって、こんなに美味そうなヤツに会ったのは、初めてだもんな」 「…………?!」 逃げる間も、助けを呼ぶ間もなかった。突然襲いかかってきた吸血鬼は、嬉しそうにぼくの喉に牙を突き立てた――!
し、心臓が止まるかと思ったっ。 だって、ここは誰もいない荒野じゃなくてぼくのベッドの上だし、今は夜じゃなくて朝だし、ぼくの目の前には吸血鬼だっていやしない。 「でも……昨日のことは、夢じゃない……よな」 自分に言い聞かせるように、ぼくは呟いた。 「アントン、起きな……あら、もう起きていたの?」 ふいにお母さんが部屋に入ってきて、ぼくは飛び上がるほど驚いたっ! 「朝ごはんができているわよ。早くいらっしゃい」 「はぁい」 半分寝ぼけながら答え、ぼくはのろのろと服を着替えた。その間も、ひっきりなしにアクビが出てしまう。……昨日夜更かしたから、眠いのはあたりまえなんだけどさ。 「まあ、吸血鬼ですって? 怖いわねえ」 「きゅっ……吸血鬼?!」 ギョッとして思わず叫んだぼくに、お父さんとお母さんの目が集まる。 「そうさ、吸血鬼だよ。おまえも読むかい?」 からかい半分に、お父さんが読んでいた新聞を広げてみせる。 昨夜、高層マンションの11階で、留守番をしていた子供が、喉を切り裂かれて殺されたという事件をセンセーショナルに書きたてた記事を見て、ぼくは背筋がゾクゾクッとするのを感じた。 玄関には鍵が閉まっていて、窓だけが開いていたなんて――今朝見た夢と重なって、窓からやってきたあいつを思いだしちゃう。 もしかすると 頭の中に、恐ろしい考えが浮かぶ。 「なんだ、ずいぶん熱心だな、アントン。まさか、心当たりでもあるのか?」 「え?! な、なんで?」 「なんでって、おまえは吸血鬼に関しちゃプロだろう。吸血鬼の一人や二人、知り合いがいるんじゃないのか?」 一瞬ドキッとしたけど、お父さんは別に昨日のことに気づいたわけじゃない。ただ、ぼくをからかってるだけなんだ。 「そうだね……少なくとも、一人はいるよ。でも、言っておくけど吸血鬼はこんなことしないよ」 さっきはちょっと疑っちゃったけど、そんなはずない。 「だいたい、バカげているよ。吸血鬼は、牙で喉を噛んで血を吸うんだ。刃物で首を切って、それのどこが吸血鬼なのさ?」 吸血鬼の話を一回でも読んだことがあるんなら、これって常識なのに。きっとこの記事を書いた奴はすっごく頭の悪い奴なんだと、ぼくは決めつけた。 「アントンったらおやめなさい、そんな話は」 事故とか事件の話をちゃかしてはいけない、とお母さんが眉をしかめる。 「事件の話じゃないよ、吸血鬼の話ですよーだ」 「なおさらだわ! まったくあなたときたら寝ても覚めても吸血鬼、吸血鬼って。あんなのは架空のお話なのよ」 「そう? でも、新聞にも『吸血鬼か?!』って、書いてあるよ」 お母さんをからかうために、ぼくは意地悪くそう言ってから 思い切って聞いてみた。 答えを聞くまでもなかった。 「なんで、また、そんなことを考えるの?」 今にも笑いだしてしまいそうな顔をしたお母さんが、ぼくにココアを渡しながらそう言う。 「なぜって、吸血鬼は本当にいるからさ!」 「そう、本の中に……あるいはカーニバルの時にね」 笑いながら、お父さんがひやかす。 「違うよ。吸血鬼はいつだって、いるんだよ。ただ、ぼく逹が気づいてないだけなんだ」 「いないと思っているから、気がつかないんだよ」 「お母さんには、出かける時間まで後20分しかないことしか、気がつかないわ。 笑って、お母さんはぼくのお皿にお代わりのパンを乗せる。 ふんっ、いいですよーだっ!
「……今日は出かけるのをやめようかしら? 最近、ほら……例の吸血鬼とかの事件があって物騒だし。 高層マンションで留守番している子供を狙っての吸血鬼(?)は、まだ掴まっていない。 「ぼくは平気だよ、ちゃんと鍵をかけて寝るし、それに慣れているもん」 どうしても残ると言われたらどうしようかと思ったけど、心配した割にはお母さんもお父さんもあっさりと出ていった。 でも、せっかくお父さんやお母さんが出かけたのに本を読む気にもなれず、ただ、ぼーっと字の上っ面だけを眺めているだけだった。 一年生の時の遠足の前の日だって、進級のかかったテストの前の日だってこんなにドキドキしたことってない。はっきりいって、この一週間ずっとそうだった。自分が何をやっていのかさえも、よく思い出せないぐらいだ。 リュディガーは――あのちびっこ吸血鬼は、本当にやってくるんだろうか? この前、吸血鬼はたまたまうんと機嫌がよくて だから、ぼくを…その『獲物』にしなかっただけで、今夜はそうはいかないんじゃないか? その時、窓を叩く音がした。聞き間違いじゃないかと思うほど、小さく。 それを聞いて、ぼくはそれまでのためらいも一切忘れて、ベッドを飛び出して窓に駆けよった。カーテンを開けると、窓台に座っているリュディガーがいた! 「やあ。約束通り、来てやったぜ」 するりと窓を抜け、リュディガーがぼくの部屋におりたった。 「わぁ……」 ぼくは今までこんなにきれいな男の子――いや、女の子だって、見たことはない。テレビや映画に出てくる子供よりも、もっと、ずっと目を引く顔立ちをしている。 ほとんど白に近い銀髪に、それよりももっと白く見える肌。目だけが真っ赤なのがずいぶん風変わりだけど、でもそれでもリュディガーを見た人は『不気味だ』と思うより先に『きれいだ』って思うだろう。 「なんだ? どうかしたのか?」 「いや……ちょっと、びっくりしてただけ。リュディガーって、ハンサムだったんだねー」 感心して言ったつもりだった。 「――オレ、顔のこと言われるのヤなんだ」 「あ、そーなの? ごめん」 「いいよ」 つっけんどんな言い方に、ぼくは話しかけるきっかけを失ってしまう。 なんか、せっかく吸血鬼が来たっていうのに、うまくいかないなあ。 「座れよ」 リュディガーが乱暴に言う。……まあ、いいんだけど、ここってぼくの部屋なのに。 「で、何をするわけ?」 聞かれて、ぼくは一瞬詰まった。――そこまで考えてなかった! 「え……えーと、そうだなあ。なんか、おやつでも持ってこようか?」 つい、普通の友達感覚でそう言うと、リュディガーは急に嫌な顔をし皮肉っぽく言った。 「――言ったろ。オレ達吸血鬼は、人間の食べ物は食べないって」 「あ、ごめん」 忘れていたわけじゃないのに、うっかりしてた。さっきのことといいい、今のことといい、ぼくってすっかりリュディガーの機嫌を損ねちゃったみたいだ。 「じゃあ、レコードでも聞く?」 ぼくの提案に、吸血鬼は怒鳴り返した。 「いやだ!」 「じゃなかったら、ゲームをして遊ぼうよ」 「いやだ!」 「それじゃ……ぼくの絵葉書を見せてあげようか?」 「やだ、やだ、まっぴらごめんだ!」 説得するだけ無駄だと、はなっから分かるきっぱりとした言い種に、ぼくはすっかり途方にくれてしまった。 「それじゃあ、ぼくにも分かんないよ」 むくれたリュディガーと途方にくれたぼくの間に、ちょっと、気まずい空気が漂った。その沈黙を取り払おうと、ぼくは逆にリュディガーの意見を聞いてみた。 「リュディガーは何をしたいの?」 「オレ?」 考え込むように、リュディガーは首を傾げる。 「そうだよ。吸血鬼の子供って、普段は何をして遊んでるの?」 それは、リュディガーの機嫌をとりたいだけじゃなくって、前々からの疑問だった。 「オレは……散歩したり、棺桶の中で本を読んだり。まあ、そんなとこだな」 「なーんだ、じゃあ、吸血鬼もあんまり人間と変わらないんだね」 少なからずホッとするのを感じたけど、リュディガーは鋭い牙を見せてニッと笑った。
「ひょっとして……窓から忍び込んで、子供を殺すとか?」 この一週間、テレビで話題になっていたニュースをそのまま口にしたのは失敗だった。 「オレがいつそんなことをしたってんだっ?!」 怒鳴ると同時に、リュディガーは物凄い力でぼくのえり首を掴んだ。 「吸血鬼は人の血を吸うけど、決して殺したりはしない!!」 「き、君のことを言ったんじゃないんだっ。ただ、テレビで、吸血鬼の仕業だって言われてる事件があって……」 しどろもどろに説明すると、リュディガーはぼくのえり首を掴んでいた手を緩めた。 「喉を刃物で切って? そんなの、吸血鬼のやり方じゃないぜ」 「ぼ……ぼくだって、そう思うよ」 しどろもどろに、ぼくは新聞で読んだことを説明した。リュディガーは特に、玄関が鍵をかけてあったのに、窓はあけっぱなしだったってところに興味を持ったみたいだ。 「ふぅん……ちょっと、おもしろいな」 「おもしろいって、何が?」
「よし、行こうぜ!」 「え? 行くって、どこに?」 「決まってるじゃないか、その事件のあったマンションにさ。ちょっと、見てみたくなった」 そう言って、リュディガーはごく当然のように窓から飛び出そうとしたけど――ぼくは飛べないぞっ。 「ぼっ、ぼくは飛べないよ、言っておくけどっ」 「ああ、そうか」 と、リュディガーは初めて気がついたようにぼくを見返し、自分の着ていたマントを脱いでぼくに手渡した。 「こいつを着てみろよ」 リュディガーが囁いた。 「着……着るの?」 恐る恐る聞き返すと、リュディガーは焦れったそうに急かす。 「さあ、早く!」 「うん……でも……」 ぼくはためらった。 読んだ本の中では、生け贄にされる者はまず血を吸われることになってたけど。――吸血鬼が何を企んでいるのか、分かったもんじゃない。 急に、体がガタガタ震え出した。手からマントが重たげに落ち、ぼくはドアの方へ後ずさった。 「別に、このマントにはおまえが考えているような力はないよ」 落ち着いたその言い方に、ウソは感じられなかった。 「オレがおまえに、なんかすると思ってんのか?」 真顔で聞かれて、ぼくは赤くなった。 「ううん! ――ごめん、ぼくはひょっとしたらこのマントは……って思っちゃって。でも、そんなの、もちろんバカげてる」 「そうさ。全然、大丈夫だよ」 力強くうけあい、リュディガーはマントを拾い上げてもう一度ぼくに渡した。 「さあ、これを着ろよ!」 リュディガーは目をきらきらさせながら、ぼくをじっと見ている。その期待に応えて、ぼくはかすかにカビの匂いのするマントを羽織った。 「さあ、これで飛べるぞ!」 自信ありげに断言するリュディガーには悪いけど、ぼくにはとてもそうは思えなかった。
「実に簡単さ」 叫んで、リュディガーは机の上に飛び乗って腕を広げた。 「腕が羽だって、思えばいいんだ! そして、腕を羽みたいに動かせばいい。上へ、下へ、上へ、下へ」 もっとも、リュディガーにはそんな羽ばたきは必要がないみたいだった。現にマントなしで宙に浮かび、空中で胡座をかいてぼくを見下ろしているもの。 「慣れれば、腕を動かさなくても飛べるぜ。さっ、今度はおまえの番だ」 「ぼ、ぼくの?」 「そうさ!」 強く言われて、ぼくはリュディガーと同じように机の上によじ登った。けど、格好だけ真似したってぼくに飛べるわけはない。 「さあ、飛ぶんだ!」 「ぼくにはできないよ!」 机から床までの距離――たいしたことない高さが、今は途方もなく高く感じる。…人間って運が悪いとたいしたことない高さから落ちても、ケガをするんだよな〜。 「無理だっ! 絶対、無理だっ」 「できるって!」 焦れったそうに、リュディガーが叫ぶ。 「ただ、その気になりさえすりゃあいいんだ!」 「だめだよ!」 「できるったら!」 「だめだ!」 「できるよ!! 飛ぼうと思えば、飛べるんだ!」 熱心に、ほとんど怒っているようにリュディガーが怒鳴る。 「飛べるったら! 絶対に、できるって!!」 「…………分かったよ!」 うなずいたのは、それを信じたからじゃなかった。 たとえ机から落っこって、頭にコブの一つや二つこしらえても、それでリュディガーが人間は飛べないんだって分かってくれるんなら、構わないって思った。 「じゃ……見ててよ、リュディガー」 念を押してから、ぼくはさっきリュディガーがやったみたいに机の上から飛んだっ。 「と、飛んでるっ?!」 それは、ちょうどエレベーターで降りる瞬間、体重が一瞬だけなくなったみたいな感じに似ていた。 「飛んでいる! うわあ、飛んでいるんだ!!」 歓声をあげるぼくを、リュディガーはむしろ不思議そうに見ていた。 「あたりまえさ。それは、本物の織り姫のマントだもの」 「織り姫?」 「ああ、そんな名前のうーんと長生きの吸血鬼がいるんだ。織り姫の作ったマントには、空を飛ぶ力が備わっているのさ」 それを早く教えてくれっ! 「それじゃ、さ、飛ぼう!」 リュディガーが言って、窓の方に向き直った。だけど、飛べると分かっても、窓を見るだけで勇気がなえる。――だって、ここ、6階なんだもんっ! 「……ぼく、勇気がないな」 「勇気がない?」 リュディガーがぼくを、じっと見る。……怒るか、それともバカにするかな?
笑って、リュディガーがポンとぼくの脇腹をこづく。 「君も怖いの?」 なんだか、不思議な気がした。リュディガーは、空を飛んでいる時が一番生き生きとして見えるのに――。 「今はもう、怖くないけどさ」 そう言って、リュディガーは窓台から夜空にふわりと飛び出していった。ぼくも後に続こうとして――つい、下を見てしまったりして。 ――でも、……こ、こんなの!
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