Act.3   空の散歩は危険が一杯

     

 最初に感じたのは、風だった。
 風がぼくのマントをふわっとふくらませ、髪をなびかせ、頬を吹き抜ける。広げた腕が、地上に歩いている時には決して感じ取れない空気の流れを捕らえた。
 恐る恐る目を開けると、ぼくはちゃんと飛んでいた。

「ほら、飛べるだろう?」

 そしてぼくの少し前には、やはり空に浮かんでいるちびっこ吸血鬼がいる。

「う、うん」

 恐怖は、ほとんどなかった。
 下を見下ろしても、窓から下を見下ろすほどにも怖くはない。それって、手をひっきりなしに動かしているからかもしれない。

 変な話かもしれないけど、考えているだけの時よりも体を動かしている時の方が怖さは薄れるんだ。
 それに、なんといっても一人じゃないし。

「そうそう、初めてにしちゃ上手いもんじゃないか。それなら、すぐに飛ぶのになれるぜ」
 空を初めて飛ぶ小鳥みたいに手をぱたぱた必死に動かすぼくと違って、リュディガーはマントなしでも平気な顔してスィスィ飛んでいる。

 少なくとも、ぼくの目にはリュディガーがマントがなくて不自由しているようには見えない。
 それが不思議で、ぼくは自由自在に飛び回るちびっこ吸血鬼に聞いてみた。

「ねえ、リュディガー。吸血鬼って、マントなしで飛べるの?」

 そう聞くと、リュディガーはなんでそんなバカなことを聞くんだ、と言わんばかりの顔でぼくを見た。

「今、飛んでいるだろ」

「そーじゃなくて!
 吸血鬼のマントには飛ぶ力があるから、吸血鬼は飛べるの? それとも、吸血鬼達は元々、飛ぶ力があるの?」

 これって、ぼくの読んできた吸血鬼の本の中でも、説き明かされていない最大の謎だもんね。
 知的好奇心に燃えてワクワクするぼくを焦らすように、リュディガーはぼくの回りを一周してから答えた。

「人それぞれさ!」

「人それぞれ?」

「吸血鬼それぞれ、って言うべきかな? 飛べるヤツはマントの補助がなくったて飛べるし、飛べないヤツはマントなしじゃ絶対飛べない」

 そーゆーものだったとは――ブラム=ストーカー(すべての吸血鬼物の原点になった、あの『ドラキュラ』の作者)だって、こんなこと知らないだろーな。

「でも、リュディガー、マントなしでも飛べるんだったら、なんでいつもマントを着てるんだい?」

 ぼくの素朴な疑問は、リュディガーに取っては聞かれたくない質問だったらしい。
 リュディガーが嫌そうに顔をしかめたのが、はっきりと分かった。

「…からだよっ」

 リュディガーの返事は、とても早口の上に小さかったから、よく聞こえなかった。

「え? 聞こえないよ」

「……二度も三度も言わせるなよなっ。急に飛べなくなった時に困るからだよっ!!」

 そう言うリュディガーがあんまり不機嫌そうだったから、ぼくはそんなことがよくあるのかどうかは、聞かないことにしておいた。
 でも、込みあげてくる笑いを押さえるのには苦労した。
 ――リュディガーも、ちびっこ吸血鬼でも、やっぱり落ちるのは怖いだなんて!

「……なんだよ?まだ、文句あるのか?!」

 ムクれた顔をしたリュディガーが、つっかかってくる。でも、なぜか――本当に、なぜかぼくにはもう、ちびっこ吸血鬼の怒り顔も怖くはなくなってきていた。
 ぼくはすまして首を振った。

「ううん、別に。ぼく、文句なんてないよ」

 リュディガーはまだなんとなく納得できてないような顔をしていたけど、それ以上この話題に突っ込んではこなかった。

「まあ、いいや。それより、もう少し高度をあげるぞ。こんなに低く飛んでいちゃ、危ないからな」

「危ない?」

「ああ、あんまり低いと、建物にぶつかりやすいんだ。特に飛ぶのに慣れていないヤツは、飛んでいるうちにどんどん下がってくるしな」

 言われてみれば、ぼくはいつのまにか、6階の自分の部屋よりもずっと下の方を飛んでいた。
 3階から2階にかけてといった所だ。

「いいか、アントン。
 飛んでいる時はつい、下の景色を見てしまいがちになるが、それはやめろ。下を見ていると、どうしても下へと下がりやすくなるから。
 上に飛ぶ方が難しいが、慣れれば簡単だ。上がってこいよ、アントン」

 言いながら、リュディガーはお手本を見せるようにすーっと上へと上っていく。

「あ、待ってよ」

 ぼくもリュディガーのように、上へと飛ぼうとした。が、上手く飛べない。
 真横や下へ飛ぶのと違って、重力に逆らって上へと上がるのは、すごく難しかった。まるで、マラソンした後みたいに体が重くなって、思うように動かせない。

「遅いぞ。それじゃあ、隣町まで行くまでに、夜が明けちゃうぜ」

「ぼくだって、いっしょうけんめいやってるんだよっ」

 でも、まだ5階までしか上がれてない。
 あきれたようにぼくを見ていたリュディガーは、すっと左手をさしだしてきた。

「掴まれよ」

 少し、ためらわなかったっていったらウソになる。
 でも、ぼくはすぐにそんな自分を恥じた。リュディガーの手を、どうして怖がる必要がある?

「こう?」

 握手すると、リュディガーの手はびっくりするぐらいに冷たかった。
 そう言えば、リュディガーから手を握られたり、えり首を掴まれたことはあっても、ぼくからリュディガーに触るのって、これが始めてなんだ。

「それじゃあダメだ。もっと、手首をしっかりと握れよ」

 言われた通り、ぼくはリュディガーの手首を、リュディガーはぼくの手首を、お互いにしっかりと掴みあう。

「よーし、これでいいや」

 言うなり、リュディガーはいきなり真上に飛びだした!

「うわっ?!」

 体が何倍にも重くなったような、エレベーターの上昇の時みたいなショックに、少々の眩暈とゾクゾク感――。でも、ジェットコースターに乗っているみたいに、気持ちのいいゾクゾクだった。

「ほぅら、だいたいこんぐらいが、安全な高さだ」

 そう言ってリュディガーが手を離してから、ぼくは下を見下ろした。

「うわぁ……!!」

 目の下に、ぼくの住んでいるマンションがあった。いつの間にか、ぼくは12階建てのマンションの屋上よりもずっと高く、高層ビルと肩を並べるぐらい高いところを飛んでいた。

 このくらいの高さだとかえって現実感に欠けていて、恐怖も感じない。宝石箱からこぼれ落ちたように見える、夜景がこの上もなくきれいに見えた。

「す……っごーい、すごいやっ」

 はしゃぐぼくに比べて、リュディガーはいたって冷静だった。

「じゃ、行こうか」

「え? 行くってどこへ?」

「もう忘れたのかよ?! 隣町のマンションへ行くって言ったろ!」

 ……あ、そう言えば、そうだった。
 元々、そのために、ぼくはリュディガーにマントを借りたんだっけ。

「ごめん、ごめん。ほら、ぼく、飛ぶのは初めてだから、ちょっと興奮しちゃって」

「まったく、もう……」

 ぶつくさ言いながらも、リュディガーは先にたって飛びだした。割とゆっくりとしたスピードなので、それに合わせるのは難しくはない。
 でも、飛ぶのって歩くのとは全然違う!

 歩いていったら45分、自転車でも20分はかかる距離を、ぼくとリュディガーは10分もかからずに飛ぶことができた。
 リュディガーに言わせると本気なら2、3分もかからない距離だそうだけど、まあ、初めて飛ぶ初心者としちゃいいタイムだろう。

「リュディガー、多分、あのマンションだよ。新聞にでてた」

 見覚えのあるマンションを指すと、リュディガーは用心深く近づきながら聞いた。

「で、どこの部屋だって?」

「最上階……一番上の部屋だって言ってたよ。あそこじゃないかな」

 明りのついていない、窓の壊れた部屋を指すと、リュディガーは迷いもせずにその窓台へと舞い降りた。
 狭い窓台に止まるのは大変だったけど、ぼくもそれに並んで止まる。

「……ふぅん」

 興味深げに中を覗き込んだリュディガーは、ためらいなく窓を開けた。

「あっ……リュディガー、中に入るの?」

「そうさ。じゃなきゃ、ここまで来た意味がないだろ」

 ごくあたりまえのように言いながら、リュディガーはするりと部屋に入り込む。

「人の気配はない。おまえも入ってこいよ」

 促されて、ぼくは恐る恐る部屋へと入り込んだ。
 明りを点けなくとも、明るい月の光で部屋の中は意外とよく見えた。そこは、ぼくのと似たり寄ったりの子供部屋だった。

 置いてある本が吸血鬼の本じゃなくてコミックが大半だということと、プラモデルが多いっていう違いはあるけど、ごく普通の男の子の部屋って感じだ。
 なんとなく辺りを見回していると、リュディガーがドキっとするようなことを言った。
 

「血の匂いがする」

「え……?!」

 ぼくには、そんなものは全然感じ取れなかった。でも、リュディガーが見ているものに気がついて、ぼくはギョッとした。
 リュディガーが見ているのは部屋の片隅に置いてあるベッド……色が変わった染みが飛び散っているアレは、もしかすると血の跡――?!

 見ているだけで怖くなって、ぼくはガタガタ震え出してしまった。
 とても近寄る勇気がなくて、窓際まで下がってしまう。

 だけど、リュディガーはまったく恐怖を感じないのか、ベッドに近寄って熱心に調べ出した。
 その様子は、まるで本職の探偵か刑事さんみたいだ。

「ふぅん……きっと、子供は寝ていたんだな、で、窓からやってきた奴が――」

 何気なく呟いているリュディガーの言葉に、ぼくはものすごく想像力を刺激されてしまった。
 うっ……光景が目にうかぶみたいだ。

「や……やだ、やだよっ! もう帰ろうよっ」

 思わず叫ぶと、リュディガーは馬鹿にしたような顔で振り返った。

「帰ろうって、今来たばっかじゃないか。怖いのかよ?」

 正直言えば怖くてたまらない。
 けど、それを正直に告白したらリュディガーに馬鹿にされそうで、とてもじゃないけど素直には言えなかった。
 ちょっと考えてから、ぼくはいい言い訳を思いついたんだ。

「違うよ。ただ、警察とかに見つかったらヤバいと思っただけだよ」

「へえ? 警察ねえ?」

 ぼくの言ったことを全然信じちゃいない口調で、リュディガーが繰り返す。……ぼく自身でさえ信じられないんだから無理もないけど。
 でも意外なことに、リュディガーはぼくに同意した。

「ま、いいや。もう見る物は見たし……後は外だな」

 と言って、リュディガーはひょいっと窓台の上に立った。そして、まじまじと下を見下ろす。いくらリュディガーが飛べると知っていても……なんだか、見ている方が怖くなるや。
 と、思っていたら、不意にリュディガーの姿が消えた。

「え……、わっ、待ってよ!? どこいったの?」

 慌てて飛び出すと、真上から声がした。

「ここだよ」

 見上げると、屋上の柵の上に器用に立っているリュディガーが見えた。

「なんだ、びっくりした」

 ぼくも屋上へと上がっていって、柵の内側に降りる。あー、やっぱり足が地面に触れていると安心だ♪
 だけど、リュディガーはサーカスの綱渡りみたいに、細い柵の上を歩いて屋上を一周している。

 ただ遊んでいるのかと思ったけど、リュディガーは下を熱心に見下ろしながら、そんなことをしているんだ。

 で、時々、納得したようにうなずいたり、首をかしげたり――ぼくはそれを見ているだけ。
 これって、まるで一人だけ事情の分かっている名探偵と、間抜けな助手役みたいだ。

「……リュディガー、何か分かったの?」

 頃合を見計らって聞いてみると、ちびっこ吸血鬼は長い歯を見せてニヤリと笑った。

「まぁね――少しはな」

「教えてよ!!」

 ホラーの次にミステリーが好きなぼくとしては是非とも聞きたかったけど、リュディガーはぼくの質問に答えず、ふと、空の一方を見た。
 その表情が、一気に険しくなる。

 何か見えるのか、とぼくもそっちを見て――向こうから小さな影が飛んでいるのを認めた。
 鳥? でも、鳥が夜に飛ぶわけない!
 コウモリにしちゃ、大きすぎる。あれは……ひょっとして?

「げっ、テオだ」

 リュディガーが嫌そうに顔をしかめた。――少なくとも、リュディガーにとっちゃ会いたい相手じゃないらしい。

「誰? 知り合い?」

「従兄弟なんだよ…ヤなヤツに見つかっちまったな」

 それだけで、ぼくにはテオの正体が分かった。もちろん、そのテオとやらも吸血鬼に決まっている!

「に、逃げようか?」

 思わずそう言ったけど、リュディガーは肩を竦めただけだった。

「もう、バレてるよ! あいつの方が、ずっと夜目が効くんだ」

 リュディガーの言葉が終わるか終わらないかのうちに、黒い影が音を立てて屋上の中心へと舞い降りてきた――。
                                   《続く》

 

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