Act.6 お茶会の誘い |
……いい匂いがする。 ――うん、オーブンで焼いたラザニアの匂いだ! ちびっこ吸血鬼がきたこと、夜空を飛んだこと、テオのこと、墓地のこと、ドロテー叔母さんのこと――そう言えば帰りに着てきたマント、あの時は怖いなんて思う余裕もなかったけど……ひょっとしてあれはテオドール叔父さんのマントじゃなかったのかな? 杭で打たれて……いなくなっちゃったっていうテオドール叔父さん。 脱いだ服はイスの背に、着替えはイスの上に置くのがぼくん家の習慣で、昨日も確かマントはあそこにかけておいたはずだった。 昨日着ていた服もなくなっていて、代わりに新しい服がイスに乗せてある。それを見た途端、眠気がふっ飛んだ! ぼくは慌ててベッドから飛び出し、服を着替えて台所にすっとんでいった。 「おはよう、アントン」 お父さんは上機嫌に言ったけど、ぼくはとても今日はご機嫌気分じゃない。 「おはよう」 口の中でもごもごと返事を返すと、お父さんはニヤリと笑った。 「まだ疲れがとれないのかい?」 「ううん」 答えながらぼくはできるだけさりげなく、横目で洗濯機をうかがった。 「何か、捜し物かい?」 「ううん、別に」 軽く受け流してぼくは洗濯機を離れ、冷蔵庫を開けた。中をざっと見てから、たいして欲しくもないミルクを手に取る。 「今、何か洗っているの?」 慎重に、ぼくは聞いた。秘密を悟られないように、ミルクをコップに注ぎ込むことに集中しながら。 「なんで、そんなことを聞くんだい?」 お父さんの声は、笑いが今にもはみ出しそうなものだった。 大人が子供の隠しているウソを見透かして、わざとそれにあわせてやっている時の声だ! 「ぼくの部屋にあったのも、洗っちゃったの?」 「それはお母さんに聞いてごらん」 「お母さんはどこにいるの?」 「居間だ。繕い物をしているよ」 「繕い物?」 完全に予想外の答えに、ぼくはびっくりした。 「そう。お母さんは大きな黒い布を見つけたらしいな」 お父さんの言葉を最後まで聞かず、ぼくは居間へと走っていった! お母さんは窓べにすわって、針をちくちく動かしているところだった。その膝に広がっているのは――リュディガーから借りたマントだ! 「お母さんっ! その、そのマント、ぼくの友達のなんだよ!!」 勢い込んだあまり、つっかえながら言うと、お母さんは笑った。 「分かっているわよ、あなたのじゃないことは」 そう言いながらも、お母さんの手は止まらない。 「見て、ここにこんなに大きなかささぎができているわ! 人から借りた物を乱暴にあつかったりしちゃ、駄目じゃない」 「それはぼくがやったんじゃないよ。元々、開いてたんだ」 確かめわけじゃないけど、昨日帰ってくる時、ぼくはマントを破るようなことはしなかったもんね。 「それなのに、勝手に穴を繕ったりしたら……あいつ、嫌がるんじゃないのかなぁ?」 リュディガーは、マントは織り姫の作った特製だと言ってた。そんなのを普通の針と糸で繕ったりして、いいんだろうか? 「そんなはずないわ。穴が開いたマントを着て歩くのが好きな人、いやしないわよ。繕ってくれる人がいないだけじゃない?」 そう決めつけて、お母さんはためらわずにまた針をマントに刺す。 「きっと感謝してくれるわ。ところでアントン、このマントの持ち主はいったい誰なの?」
しぶしぶ、ぼくは答えたけど――本当は泣きわめきたい気分だった! でも、考えれば考えるほど腹が立ってくる。 心の中で不満をいっぱいにぶちまけた後、今度は猛烈に自分自身にも腹が立った。 これで、リュディガーのことがバレちゃった。次はお父さんもお母さんも、リュディガーがどんな子か聞きたがるに決まっている! 「アントン、ごはんができたぞ!」 ドアをノックして、お父さんがぼくを呼んだ。 「ぼく、おなか全然すいてないんだ」 おなかがグウグウなっているのを無視してぼくはそう返事をしたけど、お父さんは納得してくれなかった。 「何を言っているんだ。アントンは朝ごはんも食べてないんだぞ!」 これ以上食べないと意地を張れば、話はこじれるばっかりだ。 「うん、じゃあ食べるよ」 ラザニアは大好物だけど食卓でリュディガーのことを聞かれるかと思うと、食欲なんてふっとんでいた。いったい、なんて説明すりゃあいいんだろう? 「ねえ、アントン。リュディガーの名字は何ていうの?」 その上、お母さんの攻撃はだしぬけにきた! 「な、なんで、そんなこと聞くの?」 「なんでって、興味があるからよ。その子、転校生なの? 聞かない名だけど」 一瞬、そうだと言ってしまおうかと思ったけど、このアパートにはぼくの同級生がいっぱいいる。 「違うよ。同じ学校の子じゃないんだ。最近、友達になったんだよ」 どこで友達になったかを聞かれる前に、ぼくは続けてリュディガーの名字を言った。 「それで名字はシュロッターシュタイン」 「なんですって?」 お母さんは、もう一歩で笑う直前の顔で踏みとどまった。 「シュロッターシュタイン? その子、リュディガー=シュロッターシュタインっていうの?」 「フォン=シュロッターシュタインだよ。正式には、リュディガー=フォン=シュロッターシュタインっていうんだ」 「そいつは、ますますいただけないね」 お父さんは、声を立てて笑う。 「アントン=ボーンザックだってよくないよ!」 「はてな、お父さんもお母さんもボーンザックという名のはずだが?」 ぼくの皮肉も気にせず、お父さんはニヤニヤしている。 その上、家でまでからかわれるなんて、あんまりだ!
……前言撤回。 「ど、どんな子って……あいつ、ちょっと変わってて……」 言いながら、ぼくは口ごもる。吸血鬼であることを『ちょっと変わっている』ですませていい物なのだろうか? 「それはそうでしょうね、よその家にマントを忘れていくような子じゃ。でも、そんなの気にすることないわ。変わった人って、おもしろいじゃない? まさかどころか本物の吸血鬼だと言ったら、お父さんやお母さんはどれほど驚くだろう?
「ほう? リュディガー君はカーニバルの衣装が好きなのかな?」 お父さんがおもしろくもないジョークを言いながら、笑いを堪えている。それには耐えられたけど、お母さんはいっそうとんでもないことを言い出した。 「あら、それなら余計に会ってみたいわ。それにしても、この真夏にカーニバルとはね」 「そ、それがいけない?!」 やけくそになって、ぼくは声を大きくしていった。 「それにあいつ起きるのがすごく遅いし、それにお茶とかケーキってあんまり好きじゃないんだ」 本当のことを言ったのに、お父さんは笑いだした。 「まったく、おまえの友達ときたら!」 「それに、ちゃんとお行儀良くもできないし……」 「アントンったら。そんなことより、もっと大切なことがあるんじゃなくって?」 お母さんに言われて、ぼくは顔から血の気が引くのを感じた。 「そ、それ、どういう意味?」 ――まさかとは思うけど、お母さんは何か気づいているんじゃ? 「大切なのはあなたがその子を信頼できるかっていうこと、あなた達がどちらが困っている時に見捨てないかってことじゃない?」 「あ、そういう意味……」 なんだ、別に気づいたわけじゃないんだ。ぼくはホッとして、ちょっと考えた。 「うん、リュディガーはいい奴だよ」 自信を持ってうなずくと、お母さんは嬉しそうに笑った。 「ね、そうでしょ、それが肝心なの。あなたの気にいる子だったら、お父さんやお母さんも気に入るわよ」 「そうかなぁ……?」 それは怪しいものがあると、ぼくは思った。 「……お父さん達、吸血鬼は好き?」 「ほら、また、おまえの吸血鬼好きが始まった!」 真面目に聞いたのに、お父さんは笑い出した。――ふんだ、バカにして。 「わたしは――変だとは思わないわ」 お母さんは怒ったのを我慢した顔で、そう答える。それを見て、お父さんはますます大きな声で笑った。 「おまえの新しい友達は、どうやら趣味の点で気があったらしいね。 「そ……それは……。まず、リュディガーに聞いてみなきゃ」 そう言いながら、ぼくは眩暈がしそうだった。昨日、確かにリュディガーは『また来る』と言っていた。 「今種の水曜日なら都合がいいわ。その日なら、お母さんケーキを焼けるもの」 「だっ、だめだよっ!」 とっさにぼくは大きく首を振った。リュディガーといつ会えるかどうかさえ分からないのに、水曜日に約束なんかできるわけない! 「あら、それならいつがいいの?」 「え、えーと、来週か、再来週か……とにかく、聞いてみなくちゃ。これから、外に行ってもいい?」 無意識に腰を浮かせたのはとにかくこの場から逃げたかっただけだったんだけど、お父さんもお母さんも別の解釈をした。 「いいとも。リュディガー君に、お茶会のことを話してくるんだな」 お父さんにそう言われ、お母さんからきれいに折り畳んで紙袋にいれられたマントを手渡され、ぼくはひきつり笑いを浮かべるのがやっとだった。 ――リュディガーの家に行くだって? そう心の中で絶叫しながら、ぼくは絶望的な気分で家を出た。その途端、大きなため息がでてしまう。
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