Act.10 吸血鬼達の危険な遊戯 |
手際良くロープを固定させた男は、念をいれて何度もロープを引っ張り、強度を確かめていた。 音も立てずにふわりとリュディガーはぼくを屋上に下ろし、また空へと浮かんでいった。でも、そのリュディガーがどこへ飛んでいったか確かめる余裕は、全然なかった。 しばらくの間、ぼくはどうしていいか分からず立ちすくんでいた。確かめるって、いったいどうやればいいんだろう? だけど迷ってばかりいては、どこかで見物しているリュディガーが焦れて乱入してこないとも限らない。 「……おじさん、何をしているの?」 ぼくの声に、男はびっくりして振り返る。 最初は声をかけたこっちが驚くぐらいの驚きを見せた男も、ぼくを見て安心したらしい。例のマントは今はリュディガーが持っているし、今のぼくはどこにでもいる普通の子供にしか見えないはずだもんね。 「君こそ何をしているんだい? 子供が出歩く時間じゃないだろう?」 その声は、優しいと言ってもいいぐらいの声だった。 「早く家に帰らないと、お父さんやお母さんが心配するよ」 悩み過ぎてどこかぼーっとしていたぼくは、紛れ込んだ日常的な質問に無意識に返答してしまった。 「ぼくの家はこのマンションだし、それにお父さん達はまだ帰ってこないよ」 「おや、そうなの?」 男の目が奇妙に光る。それを見た途端、しまったと思ったけどもう遅い。 「それはそれは……ぼくには幸運だな。ぼうやにとっては不運かもしれないが」 魔法のように、男の手にはいつの間にかナイフが握られていた。 「そ…っ、……それで、何をするつもりなの?」 後ずさりながら、ぼくは聞いた。自分の声が、情けないほどかすれて聞こえる。 「ぼうやの首を切って、血を吸うんだよ。――実は、ぼくは吸血鬼なんだ」 あざわらうような男の声――とても、これ以上がまんできない! 「リュ……リュディガーぁ……っ!」 ぼくの声は、悲鳴にすらなってなかった。怖い時って、大きな声はでないんだ。それでも、ぼくは必死になってどこかにいるはずのリュディガーを呼んだ。 「リュディガー……っ、どこっ…?!」 「――ここだよ」 ふわりと黒いマントがひるがえった。 「ほぉら、見ろ! オレの言った通りだったじゃないか」 そ、それは認めるけど、今はそんなこと言ってる場合じゃないっ! 笑っていたのは、犯人だった。 「おい、おまえ! 何がおかしいんだよ?!」 犯人の態度が気にいらないとばかりに、リュディガーが文句をつける。だが、犯人はそんなリュディガーを無視して、笑うばかりだ。 「おい――こっちを見ろ!」 腹を立てように、リュディガーは怒鳴った。 吸い込まれるように、ぼくはリュディガーを見つめていた。初めて会った時と時と同じように頭がぼーっとして、身体の力が抜けていく……。 「アントン! おまえは、こっちにこいよ!」 その命令の、意味さえ考えなかった。 「あ、あれ、ぼく……?」 「おまえまで、何やってんだよ。少し、離れてろ」 言いながら、リュディガーはぼくを軽く突き飛ばした。 「あ……ありがと」 とにかく、少しでもリュディガーの視界に入ると、またどーなるか分かったもんじゃない。 リュディガーの背中越しから、犯人が見えた。 「もう一度聞くぞ。答えろ 何がおかしいんだ?」 ほとんど命令するような、リュディガーの声。 「…………ゆ、かいだ、からさ」 奇妙に区切った発音で、犯人が言う。何かに操られたような、ぎこちない口調だ。 「それじゃ、分からない。もっと、詳しく言え! おまえの本心を、残さず話すんだ!!」
「愉快だ……愉快でたまらないよ……。まさか、本物の吸血鬼に会えるだなんて」 しゃべる口調にも、さっきまでの不自然さが消えていた。その代わり、まるで自分に酔ってでもいるような熱意がこもる。 「その姿に、その能力……! まさか、こんなところで本物の吸血鬼にお目にかかれるとはね!! 嬉しさを押さえきれないのか、犯人の顔には絶え間ない笑みが浮かぶ。どこか邪悪な印象のその笑顔から、ぼくはどうしても目をそらせなかった。 「運命……だって?」 リュディガーの声が低く、いっそうしわがれていく。それは、リュディガーが怒りを爆発させる前兆だと、ぼくはもう気がついていた。 「そうさ! ぼくは、この世に吸血鬼はいないと決めつける、愚かな人間どもとは違う。吸血鬼は存在するんだ。存在するんだ。 誇らしげに、犯人は言い切った。それに比べ、リュディガーの声は冷えきっていた。 「違うね。おまえは、……人間だ」 「ぼくは愚かな人間じゃない。人間なんかと一緒にするな」 犯人は、頑固に首を振る。 「ぼくは人間以上の存在だ。ぼくが愚かな人間社会で失敗ばかりするのは、ぼくが吸血鬼だからだ。 「そうかよ。……よっく、分かったぜ」 怒りを無理に押し殺したような抑揚のない声が、次の瞬間には空気を裂く怒声へと変わる。 「おまえは吸血鬼のエサにもなれない、正真正銘のクズだ!!」 その叫びと同時に、犯人がもんどりうった。 「……く…ぅう……っ?!」 苦しげにうめく犯人は、すぐに起き上がらなかった。とてつもなく強い力で打ちのめされたように、頭を抱えてうずくまっている。 彼の真後ろにいるぼくには、何の影響もないのに。 小説や映画とはまるで違う吸血鬼の力を、実際に目の当たりにして、ぼくはただ震えていた。
考えるより早く、ぼくはリュディガーにしがみついていた。 もし、リュディガーがそのつもりだったら? 振り返ったリュディガーの目が、赤く光っている。 「なに、心配してんだよ、アントン?」 口調にも、さっきの怒りは残っていない。 「言っただろ? こんな奴、血を吸う価値もないって」 ともかく、最悪の想像だけは当たらなかったみたいだ。ぼくは大きく溜め息をついて、改めて聞いてみた。 「じゃ……この人、どうするのさ?」 頭を抱え込んでうずくまっている犯人は、震えていた。歯のぶつかりあう音が聞こえるほど、激しい震えだ。 「さーな。ほっといたって、構わねえけど」 無責任に、リュディガーが言う。……いや、さすがにそーゆーわけにもいかないと思うけど。 「だって、ここ、ぼくん家のマンションだよ?! ほうっておくってのも……でも、リュディガー、いったい何をしたの?」 この犯人の怯え方は、どう見ても普通じゃない。 「ふん、ちょっと『恐怖』の暗示を与えただけさ。しばらくは震えがとまらないだろうぜ」 「しばらくって……どれくらい?」 「さあ?」 リュディガーは小さく肩を竦めた。 「別に、深く考えて暗示を与えたわけじゃないもんな。1時間か、1日か、それとも1ヶ月か、1年か」 ものすごく無責任な返事に、ぼくは絶句した。 「冗談じゃないよ。困ったなぁ……警察に連れていくにしても、これじゃあ無理だし」 だいたい、警察にどう説明すればいいんだろ? 「なんだ、警察に突き出せばいいのか? それなら、簡単だ」 「へ? 簡単って……、どうする気さ?」 思わず尋ね返すと、リュディガーはニヤッと笑った。 「これからやってやる。だけど、おまえは見るなよ」 そう言うと、リュディガーは犯人の側に行き乱暴に髪をつかんだ。無理やり引き起こしたかと思うと、じっと目を覗き込む。 そうか――また、暗示をかけるつもりなんだ。頼まれたって、そんなの見物したくない! ぼくはくるっと後ろを向いた。 「おい……オレが怖いか?」 優しいのに、どこか凄味を感じさせる声が聞こえる。おそらくは犯人のものだろう、すすり泣くようなくぐもった声も聞こえた。 「逃げたければ、逃げな。――だけど、どんなに逃げても吸血鬼からは逃げられない。 ゆっくりと、リュディガーは言葉を繰り返す。まるで、呪文を呟くように。 「そして、おまえはオレを忘れる。 それっきり、言葉はとぎれた。 「もう、いいぜ、アントン」 「リュディガー……」 振り返ると、犯人はもういなかった。 「ど……どうなったの?」 「あいつはもう、逃げてったよ。今頃、警察に駆け込んでるぜ」 自信たっぷりに、リュディガーが言う。 「それより……大丈夫、リュディガー?」 「平気だ」 リュディガーはそう言うけど――どう見てもこの間より、ぐったりして見える。 「でも、そうは見えないよ」 「強い暗示をかけると、疲れるんだ。いつものことだ……ちょっと休めば、すぐよくなる」 「じゃあな、アントン。オレ、帰るよ」 「あ……、待ってよ。一人で大丈夫かい?」 「平気だ」 もう一度そう答えて、リュディガーは飛んでいった。ぼくも途中まで追いかけかけたけど、飛ぶのはリュディガーの方が早い。ぼくはすぐ、追うのを諦めた。 それに、ぼくも疲れていた。
「へえー…。アントン、知っているかい? 吸血鬼が、警察に自首したそうだよ」 そう、からかうようにお父さんが言ったのは、よく日の朝食の時だった。新聞を見ると、映っている写真は確かにあの男のものだった。 だってリュディガーは本物の吸血鬼だもん、それぐらいの力があったっておかしくないさ! 「残念だったな、アントン。本物の吸血鬼じゃなくって。掴まったのは、ただの人間だってさ」 そんな風にからかわれるのって、ムッとくる。ぼくは、自分のためのココアをかき回しながら言い返した。 「そんなの、あたりまえだよ! ぼく、前にも言っただろ、これは吸血鬼のしわざじゃないって」 「ほう! そうだったのかい?」 お父さんは相変わらずニヤニヤしている。 「そうさ! それにね ホントのこと言うとこのニセ吸血鬼を退治したのは、本物の吸血鬼なんだよ」 混じりっけなしの真実を、お父さんはとびきりのジョークとして受け取ったらしい。お父さんときたら、おかしそうに声を立てて笑った。それだけならまだしも、こういう話は嫌いなはずのお母さんまで笑っている。 ふんだ! 「そうそう、吸血鬼と言えば、アントン。あなたリュディガーにお茶会の話をしたの?」 「あ…っ?!」 そ……、そー言えば、すっかり忘れてたっ! 「呆れた。まだ、招待してなかったの?」 「だ、だって、聞いたんだけど、……返事を聞くの、忘れちゃったんだよ」 犯人を見つけた騒ぎで、うやむやになっちゃったんだっけ。今、聞かれるまで思いだしもしなかったぞ。 「ますます、呆れた。どうせ遊びに夢中になって、忘れてたんでしょう」 「……うん」 あれを『遊び』と言っていいのかどうか悩むけど、ある意味ではお母さんの言う通りなので、ぼくは頷いた。 「今度会ったら、聞くよ、必ず」 とりあえずそう言ったものの 考えてみれば、昨日、リュディガーは次にいつ来るか、なんて言わなかった。
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