Act.11 木曜日の夜に、窓の外から |
チーズケーキをお皿に乗せ、ジュースをコップについで自分の部屋に戻ったぼくは、ドアの前まできて中から音楽が聞こえるのに気がついた。 でも、ぼくはラジオやテレビのスイッチは入れてなかったのに。 でも、今日は土曜日じゃない、木曜日だ。それに来てるんなら来てるで、なんで電気をつけてないんだろ? 「リュディガー? 来てるの?」 答えの代わりに、低いくすくす笑いが聞こえた。 「リュディガーなんだろ?」 暗闇に向かって声をかけると、笑い声が返ってきた。 「はずれ!」 リュディガーよりもワンオクターブ甲高い声は、女の子のものだ。 「ひょっとして……アンナ?!」 「当たり!!」 答えと同時に、パッと柔らかな明りがともる。ベッドサイドの電気スタンドの光の中に、ちょこんとベッドに腰かけているアンナの姿が見えた。 この前会った時にはもじゃもじゃに肩にかかっていた髪が、きれいにとかされてつやつや光っている。目もきらきらと輝いていて、運動した直後みたいに頬がバラ色に染まっていて――もう、死人のように青白くはなかった。 でも、いったい何の用なんだろ? ……まさか、ぼくを……。 「忘れたの? わたしは、歯なしのアンナよ」 そうだった! 「き、君も食べない?」 と、言ってから、ぼくは前に同じことをして、リュディガーを怒らせたことを思い出したっ! うっ、吸血鬼って、甘い物はダメだったんだ。 「ありがとう。わたし、こういうのが好きなの」 「……食べれるの?」 リュディガーはボールガム一つ、食べれなかったけど。 「ええ。ミルクからできているものなら、なんとかね」 「じゃ、ちょっと待ってて。ミルクを持ってくるから」 ぼくは急いで、ミルクを一杯持ってきた。そして、それを添えて、チーズケーキをアンナに差しだした。 「どうぞ」 「ありがとう」 軽くうなずいて、アンナはお行儀よくミルクとチーズケーキを食べる。でも、その間も、アンナはぼくがすっかりどぎまぎしてしまうような目付きでぼくを見ていた。 悪い気分でもないんだけど、どうにも気まずくて、ぼくは何か話をしようと思った。でも、話題が思いつかないっ! 「……もう一冊、本を借りたいの?」
「き、君? ……い、いいと思うよ」 うわ言のように言いながら、ぼくは改めてアンナの顔を見つめた。前に、リュディガーが驚くほどの美形だと思ったけど――アンナはそれ以上だ!! 「本当に?」 嬉しそうに笑い、それからアンナは溜め息まじりに自分の服を見下ろした。 「でも……わたし、こんな古めかしい服じゃなくって、もっとおしゃれな服が着たいわ。みっともないわ、こんなもの!」 アンナの着ているのは、リュディガーと同じくひどく古めかしい衣装だ。喪服……なのかな? 古風な形の黒いワンピースに、吸血鬼のマント。 「あのね、昔はわたし、自分がどんな風に見えようとどうでもよかったの。でも、今は……普通の格好をしてたら、きっとわたし、もっとあなたに気にいってもらえるんじゃないかしら?」 きらきらと熱の籠った視線は、ぴたりとぼくにむけられていた。 「ぼく……ぼくは、その格好もいいと思うけどな。それに吸血鬼のマントは、飛ぶのに必要なんじゃないの?」 「それでも、不公平だわ! 人間の女の子はなんでも好きなものを着れるのに、吸血鬼の女の子だけは、いつもこんなみっともないものを着なくちゃいけないなんて」 アンナは唇をきゅっと結んで、考え込む素振りを見せた。 「……ちょっと、聞いてもいいかしら?」 「うん」 「あなたは、吸血鬼のことをどう思って?」 「吸血鬼?」 思いがけない質問に、ぼくはめんくらった。 「ええ、吸血鬼のこと……恐ろしいと思う?」 重ねて聞かれて、ぼくは考え込んだ。確かに……最初は吸血鬼って、ものすごく怖いもののように思っていたけど――でも、リュディガーに会ってからは、だんだんそうと思えなくなってきた。 「ううん」 アンナの顔が、パッと明るくなった。 「それって、吸血鬼のことが気に入っているって意味かしら?」 「もちろん、気に入ってるよ」 今度は自信を持って、答えられた。だって、ぼく、ホントにリュディガーを――あのちびっこ吸血鬼を、気にいっているもの。 「じゃあ、吸血鬼の女の子は?」 「き、吸血鬼の女の子はって言われても、ぼく、君しか知らないもの」 「じゃあ、わたしのことはどう思って?」 アンナが、くっくと笑いながら聞いてきた。 「うん……いいと思うよ」 答えてから、ぼくは顔が赤くなるのを感じた。でも、この答えはアンナには物足りなかったらしい。 「それだけ? わたしは、あなたのことをもっともっと、想っているのに」 がっかりしたアンナが、今にも泣きだしそうに口元を歪めた。 ぼく、正直言って、こーゆー話って苦手だよぉ〜。できるなら、もっと当たり障りのない会話をしたいっ。 「リュ、リュディガーは、どこにいるの?」 「リュディガー。あなたはおにいちゃんのことばっかり、考えているのね?」 アンナがべそをかく。 「そんなことないよ。でも、リュディガーにちょっと話があるから来て欲しかったんだ」
「リュディガーは来れないわ。病気だもの」 「病気だって?!」 驚いてつい大声を出してしまい、ぼくは慌てて声を押さえた。 「どうして? 吸血鬼はもう……その、もう、病気にはかからないんじゃないの?」 うっかり、もう死んでいるんじゃないのと言いかけたのをうまくごまかして聞くと、アンナはあやふやに微笑んだ。 「本当の病気じゃないの。でも、吸血鬼には時々、体の具合が悪くなったりすることがあるの。力を使い果たした後とか、無理をした後にね」 無理をした後 あの、犯人に暗示をかけた時の影響かな、やっぱり。そう言えば、リュディガーはひどく疲れて見えたっけ。 「それで、リュディガーは今、どうしているの?」 「今は動けなくなって、棺桶の中で寝ているわ」 ぼくはすっかりうろたえて、なんて言っていいのか分からなくなった。 「具合は? うんと、悪いのかい? まさか、死ぬような病気じゃ…」 心配のあまり、ぼくはもうちょっとで泣きだしそうになった。でも、アンナは落ちつきはらったものだった。 「心配ないわ。だって、リュディガーはとっくの昔に死んでいるんだもの」 「それだって、心配だよ!」 あまりにもアンナが平気な顔をしてるので、ぼくはつい大声を出してしまった。 「リュディガーは具合が悪いんだろ? ちゃんと、手当てをしてもらってるの?」 「リュディガーはどうせ死なないもの、具合が悪くったって誰も気にしたりはしないの。 家の人は棺桶で寝ているか、さもなきゃ出かけるか…どっちかよ」 そっけなく言うアンナは、どこか悲しそうだった。 「でも、病気の時ぐらい、誰かが面倒を見てくれたっていいのに」 「わたし達のことなんか、誰も面倒をみてくれないわ。せいぜい、掟を破った時にお仕置されるぐらいよ。 一気に言い捨て、アンナは小さく息を弾ませる。どこか悲しそうだった表情は、もう泣きだす寸前に見えた。 今の話が本当なら、吸血鬼の子供っていうのは、思ったより辛いものなんだ。ぼくも、いつも親があまり構ってくれないと思っていたけど、吸血鬼の子供達に比べればそんなの贅沢な悩みだよ。 「でも……でもさ、君のうちの人達が出かけちゃっているなら、ぼく達二人で、リュディガーの面倒を見てあげられるよ」 あんまりアンナとリュディガーがかわいそうで、ぼくはついそう言っていた。 「あなたと……わたしで?」 きょとんと、アンナが目を見開いた。 「……でも、もし、誰かが早く帰ってきたら? あのね、ドロテー叔母さんはうちで一番タチが悪いのよ、知ってる?」 そっ、そんなの知るわけないっ。 「ほ、本当に?」 「本当よ。叔母さんは、わたしまで襲おうとしたことがあるのよ。わたしだって吸血鬼なのに!」 「えぇえっ?!」 そ、そんなに危険な吸血鬼だったなんて……。じゃあ、この間、もう少しのところで助かったのは、ぼくは思っていたよりも、もっとずっと運がよかったんだ! 「でも、叔母さんはたいてい、一番長く出かけているわ。つまり、一番貪欲なの」 なにかおもしろい冗談でも言ったようにアンナはくすくすと笑ったが、ぼくはひきつるばっかでとても笑えなかった。 「それで、アントン。わたし達、いつ共同墓所に行く?」 聞かれて、ぼくは思わず詰まった。 「きょ、共同墓所に? どうしても?」 あ、なんか、急に弱気が。 「そうよ、決まってるでしょ。リュディガーの面倒を見てあげなくちゃって言ったのは、あなたじゃない――それとも、やめる?」 アンナはぼくの決意を確かめるように、ぼくの目を除き込んだ。 だから、返事をためらったのは、ぼくの気持ちの問題だ。 ……でも、そう言って逃げるのって、すっごく卑怯だ。わざわざ来てくれたアンナに悪いし……それに、やっぱりリュディガーが気になる。 「行くよ、これから」 そう答えると、アンナは嬉しそうに顔を輝かせた。 「あ、だけど、そんな長くはだめだよ。今、お父さん達、散歩に出ているんだ。二人が戻ってくる前に、ぼくも戻らないと」 それに、ドロテー叔母さんが戻ってこないうちに! 「きっと、目を丸くするわよ、リュディガーは!」 と、アンナは笑うけど――ぼくは笑うどころじゃなかった。行くとは決めても、やっぱり怖いっ。 「どうか、うまくいきますように……」 口の中だけで小さく呟き、ぼくはマントを羽織って窓に足をかけた。それから、アンナと二人で飛び立った。
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