ACT.1 突如舞い込む大問題

  

 それはとある火曜日の夜、ぼくがお風呂に入っている時のことだった。
 本を読みながら、のんびりとお風呂に入っていた時のことだ。まあ、あんまり行儀もよくないし本も痛むから止めなさいってお母さんによく叱られるんだけど、ぼくの癖なんだよね。

 とにかく、ぼくはお風呂なんかそっちのけで本に夢中になっていたから、玄関のベルが鳴ったのもほとんど気づかなかった。

 でも、そのベルが大問題の始まりだった。
 玄関を開ける音に、誰かの話し声。その後、足音がぼくのいるバスルームの前に近づいてきて、ドアをノックする音が続いた。
 こうなると、知らん顔もしていられない。

「だあれ? ぼく、まだ、お風呂に入ってるんだよ」

「アントン、あなたにお客様よ」 

 ドアの向こうから聞こえてきたのは、お母さんの声だ。ちょっと遠くから呼び掛けているような声だった。
 めんどくさいな、と真っ先に思った。だってさ、まだ入浴中だし、第一、本だっていいところなんだから!

「いったい、だぁれ?」

 本から目を上げずに、ぼくはそう答えた。だって今、ちょうど『ドラキュラ伯爵の屋敷で』のクライマックスでさ、とっても目なんか離せる状況じゃないもん。

「吸血鬼よ」

「きゅっ、吸血鬼?」

 ぼくはびっくりして、もうちょっとで本をお湯の中に落とすところだった。
 でも、すぐ、それがお母さんがぼくをからかっているだけだって分かった。顔なんか見えなくても、声の調子で分かる。
 もちろん、お母さんは吸血鬼なんて信じちゃいない。

 ホントのこと言えばお母さん自身もついでにお父さんも、二人もの吸血鬼の知り合いがいるんだけど、お母さん逹ってばその二人――リュディガーとアンナがただの人間だと思ってるんだ。
 本当は正真正銘、本物の吸血鬼なのに!

「……いったい、どんな吸血鬼?」

 不本意だけど、ぼくはリュディガー達以外の吸血鬼も知っている。
 念のために用心して聞くと、お母さんはやっぱり笑いを噛み殺した声で答えた。

「リュディガーよ。なんでも、あなたに大切な用事があるんですって」

 リュディガーが、大切な用事?
 ぼくはギョッとして、湯船から飛び出していた。
 リュディガーが尋ねてくるのはたいていは両親の出かける土曜日の夜で、それも窓から飛んでやってくるんだ。

 それが平日のこんな時間に、しかも玄関のベルを鳴らしてやってくるなんて初めてだ! ――もしかして、何か大変なことが起きたんじゃ……?!

「待ってて、すぐ行くから!」

 ぼくは体を拭くのもそこそこに、バスタオルだけ巻いた格好でバスルームを飛び出す。 と、意外にも、そこにリュディガーは立っていた。
 廊下の壁によりかかるようにしているリュディガーは、いつもの、あの吸血鬼のマントに古めかしい服という吸血鬼スタイルだ。

 明るい電灯の下ではそんな格好はひどくおかしな物に映るけど、でも、問題はそこじゃない。
 リュディガーの顔を一目見ただけで、なにかとんでもないことが起きたんだなって分かった。

 だって、その顔色ときたら!
 元々、リュディガーは顔色が悪い方だけど、今日は一段とひどかった。ほとんど真っ青で、げっそりとやつれている。そして、真っ赤な目は、熱があるみたいに潤んでいた。

「リュディガー?! いったい、何があったんだよ、その顔色……大丈夫かい、気分でも悪いの?」

 ぼくの質問に軽く首をふり、ちびっこ吸血鬼は声をひそめて言った。

「おまえに、話があるんだ」

 ぼくは思わず、唾を飲み込んでいた。

「こ、ここで?」

 つい、ちらっと居間の方に目をやってしまう。お父さんはテレビを見ているし、お母さんは台所……うかつなことを聞かれたら、とってもまずい!
 でも、ちびっこ吸血鬼はすがるような目付きで、ぼくを見て、

「頼むから、力になってくれ」

 と、小声で言った。
 ――いつも強気なリュディガーがこんな弱音をはくなんて、初めてだ!!
 それで、ぼくは同情心が先にでちゃって、ついついうなずいてしまった。

「ぼくにできることなら、なんでも力を貸すよ。……でも、いったいどうしたんだい?」


 理由をゆっくり聞きたかったけど、でも、両親が近くにいるかと思うと声が自然に小さくなってしまう。リュディガーもそれに気づいたらしく、やはり小さな声で答えた。

「地下の自転車置き場で待っているから、なるべく早くそこに来てくれ」

 そう言うと、リュディガーはくるりと向きを変えて、玄関から出て行った。ドアの締まる音に、お母さんが台所から顔を除かせる。

「もう帰っちゃったの? ジュースを用意したのに」

「どっちみち、あいつは飲まないよ」

 リュディガーの胃は人間の食べ物や飲み物を、いっさい受けつけない。吸血鬼って、そーゆーもんらしい。
 でも、今はそれどころじゃない  夜の7時にいったいどうやったら、怪しまれずに地下の自転車置き場に行けるって言うんだ?!

「いったい、あの子、何をしにきたの? 何か、大事な用事があるって言ってたけど?」
 そんなの、ぼくの方が聞きたいっ!
 まあ、正直に言うわけにもいかないので、ぼくは適当にごまかすことにした。

「あいつに貸していた本を、返しにきただけだよ。もう遅いから、早く帰らなきゃいけないんだって」

 はっきりいって、これは大ウソだ。本を貸しているのはホントだけど、リュディガーは今までいっぺんだって借りた本を返してくれたためしがないぞ。
 でも、お母さんはそのデマカセを信用したみたいだった。

「ぼく、ちょっと、下までリュディガーを送りにいくよ」

 服を着ながら、ぼくはできるだけさりげなくそう言ってみた。まるで夜の7時に外に出ることが、ぼくにとってあたりまえの出来事であるみたいに!

「今? 髪がビショビショじゃないの」

 当然のごとくお母さんが文句をつけてきたけど、そんなことは気にしちゃいらんない。
 

「平気だよ、暖かいし、すぐ戻るから」

 そう言って、ぼくは止められるよりも早く外へと飛び出した。――しめしめ、追っかけてこないぞ。
 エレベーターのボタンを押すと、1階からこの6階へと上がってくるのがランプに表示される。

 リュディガーも、このエレベーターを使ったのかな?
 吸血鬼がエレベーターを使うだなんて……このマンションに住んでいる人達が知ったら、さぞ驚くだろうな。
 そんなことを考えながら、ぼくはやっとついたエレベーターに乗った。

 エレベーターの中でも、ぼくはリュディガーが気になって仕方がなかった。
 いったい、リュディガーはどうしてぼくの所に来たんだろ?
 よっぽどのことが起こったらしい。……でも、色々な能力を持っているはずの吸血鬼にさえ解決できない問題に、ただの人間の子供のぼくが力を貸すなんてできるのかな?

 ――チン、と音と立ててエレベーターが地下についた。
 どこか薄暗い明りのついた地下室の廊下の右手には、ずらっと個別の地下室のドアが並ぶ。そして、左側には立ち入り禁止のボイラー室と、誰でも入ることのできる自転車置き場のドアがある。

 がらんとした地下室の廊下には誰の姿も見えないし、自転車置き場のドアも閉まったままだ。
 なんだか、よく知っているはずのマンションの地下室が、始めてきたお化け屋敷に見えてしまう。

 奇妙にドキドキする胸を押さえて、ぼくはゆっくりと歩いていった。
 自転車置き場の前で立ち止まって、一応聞き耳を立てて見たけど、あいかわらず物音一つしやしない。

「……リュディガー?」

 返事はない。
 ぼくは深く息を吸って、鉄のドアの取っ手を下に押した。中は真っ暗で、電気がついていない。

「リュディガー……? いるのかい?」

 おずおずともう一度呼ぶと、苛立った舌打ちが聞こえた。

「しいっ。中に入って、ドアを閉めろよ」

 ざらついた声に、ぼくは硬直した。今の声は、リュディガーのじゃないっ。

「どうしたんだよ、早く入ってこいよ」

 続いて聞こえたしゃがれ声――この声こそ、間違いなくリュディガーの声だ。

「う、うん」

 ドアを閉めながら、ぼくは地下室の廊下からもれてくる明りで、辛うじて壁に立てかけてある自転車と、部屋の中央にどでんと置かれた大きな箱を見分けられた。箱の上には、人の姿が二つ――それから、真っ暗になった。

 明るい所に慣れていたぼくの目が、地下室の小さな二つの窓から入ってくる薄明りに慣れるまで、2、3分はかかった。
 闇に溶け込んでしまいそうなマントに、夜目にも白く見える青白い顔……二つの人影は、吸血鬼だった!

 一回り小さくて、ほっそりとしている方は確かにリュディガーだ。
 でっ……でも、もう片方の、大きくてがっしりした吸血鬼は誰だろう? リュディガーは友達だし吸血鬼でも怖くはないけど、でも、知らない吸血鬼は……やっぱり怖いっ。
 後ずさりかけたぼくに、リュディガーが声をかけてきた。

「座れよ、アントン。ちょっと、長い話なんだ」

「すっ、座るって、どこに?!」

 半ば予想はついてたけど、リュディガーの返事はぼくの思った通りだった。

「ここさ。棺桶の上」

 うっ、やっぱ、このおっきな箱は棺桶だったんだっ!
 ゾッとすると同時に、恐ろしい考えが頭をよぎった。
 ――もしかして、この棺桶ってぼくのじゃ……?

 今まで、嫌というほど読んできた吸血鬼物のクライマックスが頭に浮かぶ。吸血鬼が哀れな犠牲者の血を吸って、仲間にするシーン……!!
 足が自然にガタガタと震えて、歩くどころか、立っているのもやっとだった。

「さあ、こいよ!」

 リュディガーが、ぼくを呼ぶ。
 ガクガクする足でぼくは手探りで棺桶に近より、一番はしっこ(もちろん、リュディガーのいる側の!)に腰をかけた。

 棺桶に横向きに座っていたリュディガーが、くるっと体をぼくの方に向けてあぐらを組む。

「どうしたんだよ、元気ないな。まさか、怖いとでも言うのかい?」

 この暗がりでは、ぼくにはリュディガーの顔ははっきりと見えない。
 ……まあ、リュディガーも吸血鬼の癖に夜目が効かない方だから、ぼくが怖がっているのが見えないのが救いだけど、でも、リュディガーの横にいる吸血鬼はぼくの怯えをお見通しだった。

「分かってるじゃねえか、怖いのよ。真っ青になってガタガタ震えてやがる。これからどんな目にあうのか、こいつには皆目分からねえからなあ」

 棺桶に横座りして、こっちを向いてもいない吸血鬼の言葉に、ぼくはゾゾッとした。このがらがら声……どっかで聞いたことがあるような気がするのに、分からないのがまた、不安をかきたてる。

「ぼくは…リュディガー……ぼく、早く、上に戻らなきゃ…」
 
やっとそう呟くと、リュディガーの赤い目がぎらりと光った。

「なんだよ、オレの話も聞かないでか?」

 口調が、一気にきつくなる。

「ち、ちがうよ!」

「なら、いいや。じゃあ、手っ取り早く説明するぜ」

 リュディガーの声が、少しだけ和む。
 でも、悪いけどぼくにはリュディガーの説明よりも、大きな吸血鬼の方が気にかかっていた。

 腕を組んで、ぼくやリュディガーに見向きもしないでいる吸血鬼は、何を考えているのかさっぱり分かんない。
 だが、大きな吸血鬼を気にしていられるのも、リュディガーが爆弾発言を落とすまでだった。

「聞いてくれ――オレは、家を出てきたんだ」

 あたりはしぃんと静まり返っているのに、リュディガーは誰かに聞かれるのを恐れるように、声をひそめて言った。
 ひどく辛そうな声で、ぼくにとっても聞き捨てならないことを言ってのける。

「勘当、されちゃったんだ。もう、共同墓所には帰れない」
                                   《続く》
 

2に続く→ 
プロローグに戻る
目次に戻る
小説道場に戻る

inserted by FC2 system