ACT.1 突如舞い込む大問題 |
それはとある火曜日の夜、ぼくがお風呂に入っている時のことだった。 とにかく、ぼくはお風呂なんかそっちのけで本に夢中になっていたから、玄関のベルが鳴ったのもほとんど気づかなかった。 でも、そのベルが大問題の始まりだった。 「だあれ? ぼく、まだ、お風呂に入ってるんだよ」 「アントン、あなたにお客様よ」 ドアの向こうから聞こえてきたのは、お母さんの声だ。ちょっと遠くから呼び掛けているような声だった。 「いったい、だぁれ?」 本から目を上げずに、ぼくはそう答えた。だって今、ちょうど『ドラキュラ伯爵の屋敷で』のクライマックスでさ、とっても目なんか離せる状況じゃないもん。 「吸血鬼よ」 「きゅっ、吸血鬼?」 ぼくはびっくりして、もうちょっとで本をお湯の中に落とすところだった。 ホントのこと言えばお母さん自身もついでにお父さんも、二人もの吸血鬼の知り合いがいるんだけど、お母さん逹ってばその二人――リュディガーとアンナがただの人間だと思ってるんだ。 「……いったい、どんな吸血鬼?」 不本意だけど、ぼくはリュディガー達以外の吸血鬼も知っている。 「リュディガーよ。なんでも、あなたに大切な用事があるんですって」 リュディガーが、大切な用事? それが平日のこんな時間に、しかも玄関のベルを鳴らしてやってくるなんて初めてだ! ――もしかして、何か大変なことが起きたんじゃ……?! 「待ってて、すぐ行くから!」 ぼくは体を拭くのもそこそこに、バスタオルだけ巻いた格好でバスルームを飛び出す。 と、意外にも、そこにリュディガーは立っていた。 明るい電灯の下ではそんな格好はひどくおかしな物に映るけど、でも、問題はそこじゃない。 だって、その顔色ときたら! 「リュディガー?! いったい、何があったんだよ、その顔色……大丈夫かい、気分でも悪いの?」 ぼくの質問に軽く首をふり、ちびっこ吸血鬼は声をひそめて言った。 「おまえに、話があるんだ」 ぼくは思わず、唾を飲み込んでいた。 「こ、ここで?」 つい、ちらっと居間の方に目をやってしまう。お父さんはテレビを見ているし、お母さんは台所……うかつなことを聞かれたら、とってもまずい! 「頼むから、力になってくれ」 と、小声で言った。 「ぼくにできることなら、なんでも力を貸すよ。……でも、いったいどうしたんだい?」
「地下の自転車置き場で待っているから、なるべく早くそこに来てくれ」 そう言うと、リュディガーはくるりと向きを変えて、玄関から出て行った。ドアの締まる音に、お母さんが台所から顔を除かせる。 「もう帰っちゃったの? ジュースを用意したのに」 「どっちみち、あいつは飲まないよ」 リュディガーの胃は人間の食べ物や飲み物を、いっさい受けつけない。吸血鬼って、そーゆーもんらしい。 「いったい、あの子、何をしにきたの? 何か、大事な用事があるって言ってたけど?」 「あいつに貸していた本を、返しにきただけだよ。もう遅いから、早く帰らなきゃいけないんだって」 はっきりいって、これは大ウソだ。本を貸しているのはホントだけど、リュディガーは今までいっぺんだって借りた本を返してくれたためしがないぞ。 「ぼく、ちょっと、下までリュディガーを送りにいくよ」 服を着ながら、ぼくはできるだけさりげなくそう言ってみた。まるで夜の7時に外に出ることが、ぼくにとってあたりまえの出来事であるみたいに! 「今? 髪がビショビショじゃないの」 当然のごとくお母さんが文句をつけてきたけど、そんなことは気にしちゃいらんない。 「平気だよ、暖かいし、すぐ戻るから」 そう言って、ぼくは止められるよりも早く外へと飛び出した。――しめしめ、追っかけてこないぞ。 リュディガーも、このエレベーターを使ったのかな? エレベーターの中でも、ぼくはリュディガーが気になって仕方がなかった。 ――チン、と音と立ててエレベーターが地下についた。 がらんとした地下室の廊下には誰の姿も見えないし、自転車置き場のドアも閉まったままだ。 奇妙にドキドキする胸を押さえて、ぼくはゆっくりと歩いていった。 「……リュディガー?」 返事はない。 「リュディガー……? いるのかい?」 おずおずともう一度呼ぶと、苛立った舌打ちが聞こえた。 「しいっ。中に入って、ドアを閉めろよ」 ざらついた声に、ぼくは硬直した。今の声は、リュディガーのじゃないっ。 「どうしたんだよ、早く入ってこいよ」 続いて聞こえたしゃがれ声――この声こそ、間違いなくリュディガーの声だ。 「う、うん」 ドアを閉めながら、ぼくは地下室の廊下からもれてくる明りで、辛うじて壁に立てかけてある自転車と、部屋の中央にどでんと置かれた大きな箱を見分けられた。箱の上には、人の姿が二つ――それから、真っ暗になった。 明るい所に慣れていたぼくの目が、地下室の小さな二つの窓から入ってくる薄明りに慣れるまで、2、3分はかかった。 一回り小さくて、ほっそりとしている方は確かにリュディガーだ。 「座れよ、アントン。ちょっと、長い話なんだ」 「すっ、座るって、どこに?!」 半ば予想はついてたけど、リュディガーの返事はぼくの思った通りだった。 「ここさ。棺桶の上」 うっ、やっぱ、このおっきな箱は棺桶だったんだっ! 今まで、嫌というほど読んできた吸血鬼物のクライマックスが頭に浮かぶ。吸血鬼が哀れな犠牲者の血を吸って、仲間にするシーン……!! 「さあ、こいよ!」 リュディガーが、ぼくを呼ぶ。 棺桶に横向きに座っていたリュディガーが、くるっと体をぼくの方に向けてあぐらを組む。 「どうしたんだよ、元気ないな。まさか、怖いとでも言うのかい?」 この暗がりでは、ぼくにはリュディガーの顔ははっきりと見えない。 「分かってるじゃねえか、怖いのよ。真っ青になってガタガタ震えてやがる。これからどんな目にあうのか、こいつには皆目分からねえからなあ」 棺桶に横座りして、こっちを向いてもいない吸血鬼の言葉に、ぼくはゾゾッとした。このがらがら声……どっかで聞いたことがあるような気がするのに、分からないのがまた、不安をかきたてる。 「ぼくは…リュディガー……ぼく、早く、上に戻らなきゃ…」 「なんだよ、オレの話も聞かないでか?」 口調が、一気にきつくなる。 「ち、ちがうよ!」 「なら、いいや。じゃあ、手っ取り早く説明するぜ」 リュディガーの声が、少しだけ和む。 腕を組んで、ぼくやリュディガーに見向きもしないでいる吸血鬼は、何を考えているのかさっぱり分かんない。 「聞いてくれ――オレは、家を出てきたんだ」 あたりはしぃんと静まり返っているのに、リュディガーは誰かに聞かれるのを恐れるように、声をひそめて言った。 「勘当、されちゃったんだ。もう、共同墓所には帰れない」 |