Act. 4 地下室の扉

 

「なんだって?!」

 思わず叫んでしまって  それから、ぼくは慌てて口を押さえた。
 なんせ今日はお父さんもお母さんも家にいるんだ、あんまり大声を出したら二人が変に思うに決まっている。

 リュディガーが見つかったらどうしようかと一瞬、ビビッたけど……幸いにも両親とも、今の声は気づかなかったみたいだ。足音が近付いてこないのを確かめてから、ぼくは改めてリュディガーに向き直った。

「ドロテー叔母さんだって? 叔母さんがなんでこんな所にやってくるんだよ?」

 ついつい高くなりかける声を必死で押さえながらの質問に、リュディガーはおかしそうに笑って答えた。

「忘れたのかよ、アントン。言ったろ、オレはこのマンションに定期的に通っているのがバレて、勘当されたって」

 それを聞いて、ぼくは血の気が一気に引くのを感じた。
 そ……そう言えば、確かにリュディガーはそう言っていたんだっ!
 そして、それと同時にドロテー叔母さんのことを思い出す。声しか聞いたことがないけど――それだけで、充分以上に怖かった。

 叔母さんに見つからないようにと祈って棺桶の中で震えていたのは、ぼくの一生の中でも1、2を争うほど怖い瞬間だった。
 今、ぼくはその恐怖をまざまざと思い出していた。

「そ……それで……、叔母さんはぼくがここに住んでいるって、知っているの?」

 今度は声が高くなるよりも、震え声にならないように気を遣わなければならなかった。
「まっさかぁ! 知っていたら、とっくにここに来ているよ。叔母さんはオレが、『誰』の所に通っていたかまでは知らないだろうさ」
 そこまで言って、リュディガーはいかにもおもしろがっているように、ニッと笑った。


「――もっとも、相手をつき止めたいとは思っているかもな」

 氷の塊をいきなり背中に押しつけられたって、こんなにゾッとしなかっただろう。
 ぼくはしばらく、言葉もなくリュディガーを見つめた。
 ――ドロテー叔母さんが一番貪欲だと、いつかリュディガーは言ってだっけ。アンナだって、そう言っていた。

 もし、彼女がある夜、ぼくの部屋の窓を叩いたとしたら……きっと、ぼくはいつものように窓を開けてしまうだろう――リュディガーやアンナが来たと思って!
 身体が震え出すのを、どうしても止められなかった。
 今まで安全だと思っていた住み慣れた家が、急に頼りない場所に変わったみたいだ。

「なんて顔してんだよ、アントン。余計な心配はするなよ、叔母さんはおまえを探しにきたんじゃなくって、オレの棺桶の場所を探ってただけさ」

 リュディガーの言葉も、何の慰めにもならない。
 だってリュディガーの棺桶の場所が見つかる時は、ぼくの家だって一緒に見つかる時なんだ!

 あの魔女のように鼻の効く、鋭そうなドロテー叔母さんに目をつけられたのかもしれない――そう思っただけで、いてもたってもいられない不安が込み上げてくる。

「それで……ドロテー叔母さんは、また、来るの?」

「大丈夫、叔母さんは今日は来ないよ。うまくまいてやったからな!」

 いかにも得意そうにリュディガーが言ったけど  ぼくはそれほど楽天的になれなかった。

「今日は……って、じゃあ、明日はどうなのさ?」

 その質問には、リュディガーはちょっと首を傾げてみせた。

「さぁな。分かんない」

 嘘でも気休めでもいいから絶対に来ないと言って欲しかったけど、リュディガーって、妙なとこで正直者なんだから!
 彼に当たるのは八つ当たりだと知りながら、ぼくは腹立ち紛れに小声で怒鳴った。

「そんな無責任な!」

「だって、分からない物は分からないさ。
 とにかく肝心なのはオレの棺桶が、ドロテー叔母さんに見つからないことだ」

 平然とそう言ってのけるちびっこ吸血鬼が、こんなに憎たらしく見えたことはなかった。 癪に触るったら、ありゃしない!

「君みたいに自分勝手な人間、初めてだ!」

 正面きっての悪口に、リュディガーはちっとも怯まなかった。それどころか、ぼくをバカにする目付きで見、嘲笑う。
 そして、皮肉たっぷりに聞き返す。

「へえー、誰が人間だって?」

 うっ……そういや、リュディガーは人間じゃないんだった。

「じゃあ、……じゃあ、自分勝手な吸血鬼は初めてだっ! ともかく、君は目的のためには手段は選ばない。
 君には友情なんてどうでもいいんだ!」

 ぼくの精一杯の悪口でさえ、リュディガーは怒りもしない。
 それどころか、かえって気をよくしたように言った。

「あーあ、これを他の吸血鬼の奴らに聞かせたいもんだ。あいつらはいっつも、オレのことを人が良すぎるって言ってるんだ」

 自分勝手なことを嘆いているリュディガーに、ぼくはカンカンに腹を立ててそっぽを向いた。
 ――リュディガーってば、本当に自分のことばっかり考えてんだから!

 きっとリュディガーは、あの血に飢えているドロテー叔母さんにぼくが襲われたって、へっちゃらな顔をしてるんだ!!

「きっと……君は本当の友達じゃないんだ!」

 我慢しきれなくてそう怒鳴った時、リュディガーは不意に身を翻した。

「え……っ、リュディガー?!」

 戸惑って思わず呼びかけたぼくを無視して、リュディガーは一気に窓の外へと飛び出した。止めるスキもない素早さで。
 ぼくがもう一度リュディガーを呼ぼうとした時、後ろでドアの開く音が聞こえた。

「どうしたの、アントン? 何か騒いでいたみたいだけど」

 入ってきたのは、お母さんだった。――そうか、リュディガーはお母さんの足音に気が付いて、とっとと逃げだしたんだ。
 吸血鬼は、ぼくよりもずっと耳がいいから。

「……なんでもないよ、ただちょっと窓から虫が入ってきたから、びっくりしただけ」

 適当な言い訳を、お母さんは納得したみたいだった。

「窓をいつまでも開けておくからよ。ちゃんと、寝る時は閉めておかないと」

「うん。……今、閉めるよ。じゃ、おやすみ、お母さん」

 半ば強引にお母さんを部屋の外に追い出し、ぼくは窓の側に駆け寄った。

「リュディガー?」

 外を眺めてみたけど、空を飛ぶちびっこ吸血鬼の姿はどこにも見当たらない。小さなコウモリさえ、見つけることはできなかった。

「……ふんだ」

 猛烈に腹が立ってぼくはぴしゃっと、勢いよく窓を閉めた。
 リュディガーってば、ホントに自分勝手だ!
 ぼくにさんざん迷惑をかけておいて、おまけに人の命の危険まで晒しておきながら、なんとも思っちゃいないんだから!!

 たとえ後で戻ってきたって、窓なんか開けておいてやるもんか! 厳重に鍵をかけ、カーテンも端まできっちり閉めてから、ぼくはベッドに潜り込んだ――。

 

 

 リュディガーに腹を立てたままの金曜日はアッという間に過ぎ、とうとう土曜日になった。
 普段だったら、ぼくは土曜日はたっぷり朝寝坊する日なんだ。ぼくが10時か10時半ぐらいに目を覚ますと、お父さんもお母さんもたいていもう朝ご飯をすませて、二人で買い物にでも出かけている。

 そういう時は丸パンと保温カバーをかぶせた茹で卵をのせたぼくのお皿だけが、台所のテーブルに置かれているんだ。
 だけど、今日ばかりはぼくはすっごく早く目が覚めた。

 嫌な夢を見たせいで、早く起きちゃったんだ――お父さんが、地下室へ行く夢だった。
 夢の中で、お父さんはがらんと片付いた地下室に、突然置かれた吸血鬼の棺桶を不思議そうに見つめていた。そして、それを開けようとしたんだ。

「…………ふぅ……」

 ぼくは、溜め息をついた。
 あれが夢でよかったとつくづく思ったけど――このままほうっておいたら、あれは間違いなく正夢になるんだ!

 ぼくは意味もなく部屋を見回し、ついでに時計を見た。
 7時15分過ぎ。
 お父さんやお母さんだって、まだ寝ている時間だ。まだ早いと思ってぼくはもう一度寝ようと思ったけど、とても無理だった。

 あまりに興奮しすぎている。
 なら、本でも読もうかと枕元に置いておいた新しい本、『共同墓所からの大きな笑い声』を一度は手にとった。
 だけどぼくは一行も読まないまま、また、本を伏せた。

 そこに書かれている共同墓所の恐ろしさなんて、今朝見た夢に比べたらおままごとみたいなものだ。
 まったく、ばかげている。
 あの、棺桶が開かれた瞬間に感じた恐怖  日の光を浴びたちびっこ吸血鬼が消滅するかもしれないと思った時の恐怖は、自分の胸に杭を打たれたかのようにリアルだった。

 その恐怖の前じゃ、リュディガーへの怒りなんて昼間の月ぐらいに薄れて思える。
 昨日の夜までは、やってこようともしないリュディガーに腹を立てて、あいつのために何一つしてやるもんかと思っていた。

 ――だけど、今、ぼくはその決意を撤回することにした。
 この際、ケンカは後回しだ。まずは、リュディガーを助けなきゃ! 何があろうと、絶対にお父さんを地下室に行かせちゃいけない。……そのためにぼくが思いついた作戦は、ひどくお粗末なものしかなかった。

 だけど今となっては贅沢はいっていられない、それで間に合わせるしかない。
 ぼくはとりあえず洗面所に向かった。
 そして、鏡に映った自分の顔に驚いた。だって、ぼくの顔ときたら今まで見たことがないほど青ざめていた。

 お父さん達があんまり夜遅く間でパーティを楽しみ過ぎると、日曜の朝にそうなるみたいに。
 こんなんじゃ、怪しまれちゃう。
 ぼくはタオルをとって、顔が赤くなるまでこすった。

 着替えをすませてから、ぼくは台所に向かった。
 朝食の支度なんてやったことはないけど、手順は知っていた。
 コーヒーメーカーに水をいっぱい入れ、ミルク鍋をレンジにかける。茹で卵機のスイッチを入れるのも、忘れなかった。

 食器をできるだけ丁寧に並べながら、ぼくは何か足りないものがないか、台所を見回した。
 ――丸パンがない。

 ぼくは卵が茹で上がるのを待ってから、パン屋へ行くことにした。そのついでに、ぼくはちょっとだけ地下室へ寄ってみた。

 『ボーンザック』と書かれた扉は他の地下室と同じように静まり返っていて、何の気配も感じない。
 ぼくはその扉に軽く手を当てた。

「……リュディガー……いるんだろ?」

 ぼくはそっと、呟いた。もちろん、返事なんかないのは分かっていたけど。
 ドア越しにこんな小声じゃいくら吸血鬼の耳がよくったって聞こえっこないし、第一、リュディガーは今はぐっすり眠っているはずだ。

 この時間じゃ、起きないのは分かっている。ちびっこ吸血鬼の棺桶が無事かどうかだけでも確かめたいなとちらっと思ったけど、今はそんな時間もない。
 ぼくは、そっと囁くだけですませることにした。

「リュディガー。この扉は、決して開けさせないからね」

 それだけ言うとぼくはパン屋へ行くために、急いで走り出した。

 

 

「完璧だ」

 自分で自分の仕事に満足して、ぼくは頷いた。
 コーヒーはいい匂いを立て、卵はエッグスタンドに乗せられている。買ってきたばかりの丸パンも並べたし、朝食の準備は万全だ。

 これで、お父さんとお母さんが何も感じないわけがない。
 ぼくは二人の寝室へ言って、ドアをノックした。

「はい?」

 お母さんの寝ぼけた声が返ってくる。

「朝ご飯だよ」

 2、3分間を置いてから、お母さんがやっと部屋から出てきた。驚いたように目を見張り、ぼくに聞く。

「なんですって?! あなたが、朝ご飯を作ってくれたの?」

「当たり前さ。さあ、来てよ。卵が冷めちゃうよ」

「ええ、今すぐ。お父さんを起こさなくっちゃ。今日はお父さんにはもう、素直に起きてもらわないとね。お父さんは今日、台所の改装工事をやるつもりなんですもの」

 その言葉に、背筋がゾゾッとするのを感じた。
 万一でも忘れていてくれればと願っていたけど、やっぱり無駄な願いだったみたいだ。


「とにかく、早く来てね」

 それだけ言って、ぼくは先に台所へと向かって行った。

 

 

「なんだって? 今日はアントンが朝食を作ってくれたそうだな」

 おどけてそう言いながら、お父さんがテーブルについた。わざとらしくテーブルの上を眺め回してから、大袈裟に驚いたふりをする。
 お父さんは真っ先にエッグスタンドから卵をつまみ、軽く降ってみせた。

「茹で過ぎてカチカチかな?」

 ったく、お父さんときたらぼくをからかうのが好きなんだから!
 ムッとして、ぼくは言い返した。

「お父さんは、ぼくが卵も茹でられないと思ってるんだね」

「じゃ、コーヒーは? お味はどうかな?」

 気取った手つきでお父さんが、ごく普通にお母さんが、それぞれ同時にコーヒーを飲む。


「おいしいわ」

 お母さんがニコリと笑いかけてきた。
 褒めてくれたのは嬉しいけど、でもこれって機械で自動的にできた奴なんだよね。

「丸パンまで! うちの息子を見直したよ、どういう風の吹き回しだい? なにか、おねだりしたいものでもあるのかな?」

 お父さんがパンにかじりつきながら、軽くウインクを送ってよこす。だけど、ぼくは首を横に振った。

「そんなんじゃないよ」

 ここで、冗談に乗って陽気に振る舞う訳にはいかない。ぼくはできる限り神妙な顔を取り繕って、真面目ぶってみせる。

「それじゃあ、なにかやらかしたのかい? テストをしくじったとか」

 パンにバターを塗りながらも、お父さんはぼくから目を離さない。鈍いお父さんにも、やっとぼくの様子が普通じゃないと分かったらしい。お母さんの方はとっくにぼくを怪しんでいたらしく、食事を一時中断してぼくをじっと見つめている。

「アントン、なにかあったの?」

 優しげなお母さんの言葉に、ぼくはためらった。――少なくとも、ためらったふりをしてみせたつもりだった。
 迷った末に失敗を報告するのに丁度いいだけの間を置いてから、ぼくは早口に一気に言った。

「…………ぼくっ、地下室の鍵を、なくしちゃったんだ」

 上機嫌だったお父さんの顔が、険しくなった。

「なんだって? 地下室の鍵をなくした?」

 怒った声を聞いて、ぼくはうつむいた。
 そうすれば、ぼくが怒られてがっかりしているように見えるだろうから。

「よりによって、大工仕事をしようとした日に限ってか! じゃあ、お父さんはどうやって板や大工道具を取りに行けばいいんだ?」


「わ、分からないよ、ぼく」


 もごもごと呟き、ぼくはバレないようにそっと、ポケットの上に手を置いた。――ホントはここに、地下室の鍵がある。それを気付かせちゃ駄目だ。

「それで、どうやって鍵を無くしたんだ?」

「多分……昨日、自転車に乗ってる時だと思う」

「一応、探したのか?」

「ううん、もう暗かったもん」

「それじゃあ、今すぐ探してこい。こんなにのらくらしてるなんて、呆れた奴だ!」

 お父さんが怒鳴ったのを見て、ぼくはひょこんと席を立った。

「もう、行くところだったんだ」

 そのままさっさと外に行こうとしたら、お母さんに引き止められた。

「せめて、朝ご飯ぐらいゆっくり食べさせてあげて。地下室の鍵なんて、そんなにたいしたものじゃないわ」

 普段だったらお母さんのとりなしはありがたいんだけど、今日ばかりは余計なお世話だ。

「どっちみち、ぼく、おなかが空いてないんだ」

 実際、今日は食欲なんてない。
 気になって気になってしょうがないことがあると、朝ご飯なんてどうでもいいんだ。

「それで……お父さんは、もう、仕事始めるの?」

 恐る恐るそう聞いてみると、お父さんはプリプリ怒りながら皮肉に言った。

「いったいどうやってだね、大工道具なしで? 始めないよ、おまえを待っている」

 その言葉を聞いた途端、ぼくはお父さん達に背を向けて、外へ突っ走った。
 歓声を上げたのは、エレベーターに乗り込んでからだった。

 やった! 上手くいった。
 お父さんをまんまと騙したぞ!
 これでいい――これでとりあえず、今週は大丈夫だ。

 午後に鍵を持って戻ったところで、それからじゃもう時間が足りない。お父さんは地下室には行かないだろう。
 それに、今晩は二人とも映画に行くって言っていた。

 明日の日曜日には、おじいちゃんとおばあちゃんがやってくる。お客様がきているのに、大工仕事なんかやれるわけがない。
 嬉しさのあまり歌を歌いながら、ぼくは友達の家――オーレの家に向かった。

 時間潰しに、オーレと一緒に午後まで遊ぶつもりだった。そうだな……気楽なモノポリーなんかがいいかもしんない。
 ぼくは鼻歌交じりに、自転車に飛び乗った――。                《続く》

 

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