Act. 5 リュディガーの誘い |
何気なく時計に目をやると、まだ8時半 今夜はやけに時間が経つのが遅いや。映画が始まるまで、後30分もある。 ちょっと前にお父さんもお母さんも出かけたばっかりだし、夜中の12時まで帰らないって言ってた。――と、いうことは、今日のスリラー映画を見るのに邪魔されないってこと! なんと言っても今日はぼくのいっちばん好きなドラキュラ映画のパートUで、しかもお気に入りの俳優がたっくさん出てるんだ、これを見逃す手はないっ♪ なんたって、パートTの時はリュディガーが珍しく最後まで見たぐらいだもん。 心のせまい奴と言われようとぼくはまだ、一昨日のこと、怒ってんだから! ……でも、まあ……あいつの方からやってくるんなら、別に部屋に入れてやってもいいんだけどさ。 ……ふん、勝手にすればいいんだ。 「はい? どなたですか」 用心してインターホンでそう聞くと、威張りくさった声が返ってきた。 「約束の日だ、迎えに来たぞ。さっさと開けろよ」 「リュッ、リュディガー?!」 慌ててドアを開けると、手に黒い布包みを持ったリュディガーが立っていた。いつものマント姿だけど、その下に着ている服は普段のものよりずっと立派で、まるで昔の王子様みたいな服だ。 「と、とにかく入ってよ、人目につくからさ」 「ああ」 するりと、リュディガーが入ってくる。 「でも、リュディガー、約束って……?」 「なんだよ、覚えてないのか?」 と、リュディガーが不満そうに舌打ちした。 「おまえ、前に吸血鬼の祭りを見たいって言ったじゃないか。だから、わざわざ迎えに来てやったんだぞ」 感謝しろ、と言わんばかりに尊大な口調がいかにもリュディガーらしい。 「前って……確かに、言ったけど」 呆れて、ぼくは言葉を失った。 おもしろそうだから行きたいとは確かに言ったけど、ぼくだって本気じゃなかったし、リュディガーだって危ないからと全然取り合ってもくれなかった。 こんな約束とも言えない、細やかな世間話なんかを? 「オレ、おまえとはケンカしてるから、ホントは来るつもりはなかったんだけど……約束は約束だからな、しかたなく来てやったんだ」 ぼくはもう一度呆気にとられ それから、もう少しで吹きだしちゃうところだった。 この意地っ張りのちびっこ吸血鬼は――そんな、取るに足りないような口実を盾にしなくちゃ、ぼくん家に来れなかったんだろうか? 「なんだよ? 行きたくないのかよ?」 そっぽをむいたまま、リュディガーが拗ねた口調で言った。 そして、ぼくは今晩やるはずのずっと楽しみにしていた映画のこと思い出した。ついでに、お父さん達の帰りが今日は遅いことも。 「ううん、行きたいよ! でもリュディガー、吸血鬼の祭りっていったいなんなの?」 「そりゃあ、自分の目で実際に確かめてみろよ。さぁ、行くと決まったら君を吸血鬼にしないとな!」 リュディガーが大きく手を広げ、ぼくの方へ近寄ってきた。 「……!」 危うく、ぼくは大声を上げそうになった。 「誤解するなよ、オレはそんなことはしやしないよ。ただ、変装させるだけだって」 「へ……変装?」 そうと知って、ぼくは心の底からホッとした。 「服は用意してある。後は、ベビークリームはないか? 口紅は」 リュディガーがせかせかとそう聞いてきた。吸血鬼への変装と口紅がどう関係するのか分からなかったけど、簡単に答えられる質問にぼくは頷いた。 「お風呂場にあるよ」 「じゃあ、来いよ」 先に立って、リュディガーはぼくを風呂場へと引っ張り込んだ。
「リュディガー……本当にこれを着なくちゃダメかい?」 ぼくはリュディガーに渡された服を見て、溜め息をついた。 「いつもみたいに、マントを羽織るだけでもいいんじゃないの?」 「駄目さ!」 きっぱりと、リュディガーが首を振る。 「普段だったらともかく、今日の集まりは舞踏会なんだ。ジーンズなんか履いてたら、目立ちまくりだよ。みんな、盛装してくるんだから。 確かに、リュディガーの服も豪華で立派なものだ。 まるっきり、仮装しているみたいにばかげて見えるに決まっている! だけど、リュディガーは譲らなかった。 それに根負けして、ぼくはしぶしぶ着替えた。飾りだらけで動きにくいシャツやズボン……それにブローチだの飾りがごちゃごちゃついたベストまで、諦めて着ることにする。 「よし、お次は髪だ」 ブラシをつかむと、リュディガーは乱暴にぼくの髪をとかし始めた。 「いてててっ! リュディガー、痛いよ?!」 ぼくの悲鳴にもお構いなしに、リュディガーはブラシを大胆に動かす。普通とは逆に、まるで毛を逆立てるように逆にとかすと、リュディガーは今度はベビークリームを手に取った。そして、たっぷりとクリームをぼくの顔に塗りたくる。 だけど、リュディガーのやり方はかなり雑で、大雑把だった。仕方なく、ぼくはリュディガーがほかの化粧品を探しだしたすきに、自分でクリームをのばすことにした。 「もう、それでいいよ。次は白粉だ!」 そう言って、リュディガーはぱたぱたと白粉をはたきだす。その煙をもろに吸い込んで、ぼくはむせた。目を閉じ、咳き込んでいるぼくに対して、リュディガーはひどく上機嫌だった。 「いいぜ、アントン。イカずじゃないか! さあ、お次は口紅だ」 リュディガーは口紅を回してサックからだし、うっとりとそれを見つめた。 「血みたいな色だな……」 牙をかちっと鳴らし、リュディガーはまるで口紅に噛みつこうとするかのように、顔を近づける。だけど、匂いを確かめると、ちびっこ吸血鬼は露骨に顔をしかめた。 「うへっ、甘ったるい匂い!」 どうやら、化粧品の匂いはリュディガーの気に入るものじゃなかったらしい。だけど、リュディガーはすぐに気を取り直した。 「ま、いいや。食い物じゃないからな」 リュディガーはすばやく、ぼくの唇に口紅を塗りたくった。 「よし。後は目のクマさえつけりゃ、完成だ」 「目のクマまで?」 ぼくは思わず叫んでいた。 「あったりまえさ。それで初めて、本当に死んでいるように見えるんだ。だけど、なんで書こうか?」 考え込んだリュディガーが油性マジックとか言い出す前に、ぼくは自分なりの意見を言うことにした。 「眉墨で。そこの、二番目の棚だ」 リュディガーがぼくの目の縁を丁寧にくまどっている間、ぼくは内心ビクビクしながら終わるのを待った。 「終わった! もう、誰だか分からないぜ」 得意げにリュディガーが言った時も、不安な気持ちの方が強かった。 「だけど……もし、うまく行かなかったら?」 ぼくの不安も知らないのか、リュディガーは自信満々だ。 「ばかばかしい。君が誰かの近くに行かない限り、大丈夫さ」 「い、行きっこないよ!」 慌てて、ぼくは首を振る。 「なら、平気さ。自分で見てみろよ!」 仕上げにぼくの肩にマントをかけ、リュディガーはぼくを鏡の方へと押しやった。 ぼさぼさと逆立った髪の下から、真っ白な恐ろしい顔がぼくを睨みつけている。……いや、本当はただ見ているだけなんだけど、黒く縁取られた眉墨が、ぼくの目付きを陰気で鋭いものに変えていた。 血のように赤い唇はちょっと歪んでいて……まるでにやりと笑っているみたいだ。 「満足か?」 振り返ると、リュディガーがニヤニヤと笑っていた。 「それなら、誰にも分かりっこない。……アンナにだって」 「アンナも祭りに出るの?」 「そうさ。もう、君を待ってるよ」 言われて、ぼくは顔がかぁっと熱くなるのを感じた。白粉を分厚く塗った顔に、どこまで赤みが出たかまでは分からないけど、それをごまかそうとぼくは早口に言った。 「それはそうと……リュディガー、今日は大変だったんだよ、お父さんをごまかすの。本当だったら、今日、お父さんが地下室へ行くところだったんだから」 話を逸らすためと、ちょっぴりリュディガーに脅しをかけようと思って言ったのに、彼は顔色一つ変えなかった。 「ふうん、そうだったのか」 って、まるで人事みたいに言ってるし! 「『そうだったのか』じゃないだろ、リュディガー! ぼく、前から言ってたじゃないか」
「ああ、聞いてた。だから安心してたぜ、おまえがなんとかすると思ってた」 ――これって、ひょっとして……リュディガーがぼくを信頼してくれてた、って意味だろうか? 「今週はなんとかしたけど、来週は保証できないよ! 次の土曜日には、きっともう、お父さんを止めきれないよ。 脅しと期待を込めてそう言ったけど、リュディガーはあまり本気で受け止めているようには見えなかった。 「ま、様子を見てみよう。なんとかなるかもしんない」 ったく、何のんきなことを言っているんだか。 「……そうなるといいんだけど」 溜め息交じりにそう言うぼくの背を、リュディガーは元気よく叩いた。 「そんなことより、行こうぜ」 「……ぼく、やっぱり家に居た方がいいんじゃないのかな」 ぼくは急に弱気になったけど、リュディガーは耳を貸そうとしなかった。 「馬鹿言うなよ。こんな、またとないチャンスを逃がそうって言うのか?」 身軽に、リュディガーが窓台に飛び乗った。 「祭りはとっくに始まっているんだ。さあ、来いよ!」
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