Act. 8 アンナとのキス |
「アントン?」 誰かがマントの端を摘んで、ひっぱる。 「アンナか……よかった」 笑いかけると、アンナは恥ずかしそうに目を伏せた。 「テオが、リュディガーが見たことのない吸血鬼の男の子とここに来ているって、教えてくれたの。 アンナはぼくを真っ直ぐに見ながらそう言った。変装も、アンナには効き目がなかったみたいだ。 「リュディガー! 本当にしょうがないわね、こんな所にアントンを連れてくるなんて!」
「アントンじゃなくて、根暗のアントニオ! もう、心配症のハンネローレにそう紹介しちゃったんだから、ここではそう呼べよ。それに、オレが無理やり引っ張ってきたわけじゃないぜ。アントニオの方が、来たいって言ったんだよ」 事実とはちょっと違うけどまるっきりのウソでもないので、ぼくは黙っていた。言いたいことがないでもけどこんな所でリュディガーとアンナがケンカになって、回りの吸血鬼達の注目を集めてもらっちゃ困るんだ。 二人ともさすがに兄妹というべきか、頭に血が昇ると状況ってもんを忘れちゃうとこはそっくりなんだから。 「そうなの?」 「う、うん、まあね……」 ぼくのあいまいな答えに、アンナはパッと顔を輝かせた。 「じゃあ、一緒に踊らない?」 と、言われたって困るっ。 「うーんと……ぼくは、ぼくはもう、予約済みなんだ」 アンナがくすくす笑った。 「そこの人と?」 一騒ぎ起こるかとヒヤヒヤしたけどリュディガーはいたって上機嫌に、一歩、脇によった。 「レディのお望みとあれば、どうぞ。お譲りしますよ」 「まあ、ご親切に。ありがとう」 アンナが膝を折る古風なお辞儀をした。さすがは貴族の令嬢だけあって、こんな古めかしいしぐさがさまになってる。 「もし、わたしがおにいちゃんなら、逃げるとこだけど」 「どうしてだ?」 「だって、ドロテー叔母さんも来ているのよ。もし、叔母さんに見つかったら……」 ぼくでさえ震え上がる脅しに、リュディガーはうろたえもせず肩を竦めてみせた。 「それが? ここは共同墓所じゃないぜ」 と言って、くるりと背中を向ける。 「ど、どこへ行くんだい?」 ぼくの声が聞こえたのか聞こえなかったのか、リュディガーはあっという間に姿を消していた。 「ぼくをおいて、さっさと行っちゃうなんて……」 リュディガーの身勝手さは知っていたけど、これはあんまりだっ! 吸血鬼だらけの中に、ぼくを放りだして行っちゃうなんて。 「でも、わたしがいるわ」 アンナが、にっこり微笑んだ。 戸惑いながらも、ぼくはさっきまでリュディガーがやっていた男の人のステップを思い出しながら、アンナと一緒に踊る。 背の高さも体付きもほとんどリュディガーと変わらないのに、リュディガーと一緒に踊った時よりもずっと踊りにくい気がする。 リュディガーと踊るよりも、ずっとドキドキする。 アンナが普通の女の子じゃなくて吸血鬼だと思い出させるのは、擦り切れたマントと、冷たい肌だけ――。 突然、アンナが目をぱっちりと開けた。あんまり突然すぎて、どぎまぎする。 「う、……うん」 「あなたはわたしのこと、どう思って?」 「君のこと?」 カラカラになった喉を湿らそうと、ぼくは唾を飲み込んだ。 「……かわいいよ」 「本当に?」 アンナが叫んだ。アンナの頬が、一段と赤く染まった。 「ああ、アントン!」 不意に、唇を冷たくて柔らかいものがふさいだ。そして、触れてきた時と同じように素早く、去っていく。 「ア…アンナ……ッ!」 アンナが大胆だってことは知ってた――知ってたつもりだったけど……まさか、こんなに人目のあるところで、女の子の方からキスしてくるなんて! 「――わたしのこと、怒っているんじゃないわよね?」 しばらくたってから、アンナがおずおずと聞いてきた。 「ううん」 「よかった……」 アンナがホッと、息をついた。そして、秘密を打ち明ける口調で、囁きかけてきた。 「あのね、わたしっていつも、こんな風にお調子にのっちゃうの。もっと自分を押さえろって、リュディガーには言われるわ。 アンナがしゃべっている間、ぼくは気づかれないように素早く舌で口をなめてみた。 「あなた、この舞踏会は気に入ったかしら?」 楽しそうに話しかけてくるアンナは、ぼくの内心にちっとも気づいてないみたいだ。 「う……うん、とっても珍しくて、おもしろいよ。ちょっと、時代遅れな気もするけど」 「でしょ? わたしや若い吸血鬼達は、お城の地下室にディスコを作って欲しかったの。でもね、年寄りの吸血鬼達が反対したのよ!!」 ……うーん、お城でディスコってのも変な気がするけど。 「ちょっと、外の新鮮な空気を吸いに行こうよ」 そう提案すると、アンナはこっちが後ろめたくなるくらいに喜んだ。 「まあ、素敵! 一緒に月の光を浴びて、お散歩しましょ」
大広間を横切った、薄暗い階段の吹き抜け。 草は膝の辺りまで伸び放題で、道はとっくに藪や茂みに埋もれてしまっている。大広間と違って、どうやら庭は誰も手入れをしていないらしい。 「あ、足が痺れているんだ」 その馴々しさにドキマギしたぼくはつっかえながらそう言い、身を屈めて痛くも痒くもない足をさすった。 「わたし、月夜って好き」 うっとりと、アンナが月を見上げる。 「あの月が見えて? 詩を朗読するようにそう言うと、アンナは大きな目でぼくを見つめた。 「素敵ね。わたし、下弦の月が好きよ。月の光を浴びると、なんだか心が沈むけど――でも、好きなの」 ぼくは黙って、アンナの言葉を聞いていた。 アンナが情熱的な目でぼくをじっと見つめているのを、ぼくはただうろたえて見ているだけだった。 「な、なんで? なぜ、泣くの?」 ぼくは、なんにもしてないのに?! 「それはね、とっても幸せだから――!」 戸惑う間もなく、アンナがぼくの胸に飛び込んできた! ど、どうすればいいんだろう? 「誰か、来る!」 それに驚くよりも、ぼくはアンナがぼくから離れてくれたことの方にホッとした。 隠れなきゃと思った時は、すでに扉は開いていた。 「そこにいるのはどなたかしら?」 優しげな声が、呼びかけてくる。 「わたしです、歯無しのアンナです。こんばんは、エリザベス叔母様」 アンナはぼくを庇うようにさりげなく後ろに回してくれながら、丁寧にお辞儀をした。 「まあ、久し振りだこと、アンナ! まだ歯無しの名がとれないのね、でも大丈夫、心配しないで、歯なんてすぐに生えるわ」 冗談じゃない、いつまでも生えない方がいいっ。 「シュッターシュタイン家では変わりはなくて? 先程、ドロテーにはお会いしたけど。ご両親は、お変わりなくて?」 「はい、元気です。今日は都合がつかなくて、ここには来ていませんけど」 「まあ、そうなの。この集会にもきて欲しかったけど、残念ね」 エリザベスはかなりおしゃべり好きらしく、大袈裟な身振り手振りをいれながらアンナに話しかけている。 「ところでアンナ、こちらのお若い方はどなたかしら? どうやら初めてお会いするようだけど、是非、紹介してほしいわ」 「え、彼は……」 アンナが困ったように、一瞬、言いよどんだ。
「始めまして、アントニオ。お会いできて光栄だわ、本日はわたしのパーティへよくお越しくださいました。 いかにも話し好きのおばあさんに見えたエリザベスの目が、鋭く光る。 これって、かなりヤバいんじゃないかっ?! 「アントニオはおにいちゃんの友達なのよ! どうやら、おにいちゃんが連れてきたみたいなの」 うまいっ。 「まあ、リュディガーの?」 リュディガーの名を聞いた途端、エリザベスの顔がパッと明るくなった。 「それじゃあ、リュディガーもこの集会に来ているの、珍しいこと! あの子もようやく、吸血鬼として自覚が出てきたようね、良いことだわ。ドロテーも、さぞ喜んでいるでしょう」 「叔母さんは……その、今はリュディガーのことでカンカンだから…」 アンナがリュディガーが勘当された事情を説明すると、エリザベスは大袈裟に首をふった。 「まあ、まあ、ドロテーの短気なこと! そりゃあ人間と友達になるなんて、吸血鬼にあるまじき行為だけれど、そのぐらいでリュディガー程の才能の有る吸血鬼を勘当にするなんて! 「ええ、わたしもそれを心配しているんです!」 アンナが勢い込んで訴えた。 「なんとかおにいちゃんの勘当を解いてもらえないかって、ドロテー叔母さんに何度も頼んだんだけど、聞いてもらえなくて……。ねえ、エリザベス大叔母様、叔母様から口添えしてもらえませんか? そうすれば、ドロテー叔母さんも気を変えてくれるかも……」 「ええ、ええ、喜んで引き受けましょう」 エリザベスがそう言った時、ぼくはあやうくバンザイを叫ぶところだった。 「それじゃあ、こうしてはいられないわ、さっそくリュディガーを探さないと。それじゃあアンナ、それにアントニオ、これで失礼するわね。ゆっくりパーティを楽しんでちょうだい」 すでにエリザベスはぼくなんか眼中にないのか、早足で会場へと戻っていった。 エリザベスが消えて、急に辺りまで静まり返ったみたいだ。アンナでさえさっきまでのロマンチックな気分は消えてしまったのか、どこかぼうっとしているし。 「……アンナ。会場に戻らない?」
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