Act.11 犬に追われて、ウサギを追って

 

 悩みまくった月曜日はアッという間に過ぎて、翌日――。
 火曜日には、ぼくは少しは明るい気分で家に帰った。書き取りのテストが、思ったよりもよかったんだ。いつもは3か4ぐらいなのに、今日は2の+だ(ドイツでは、6段階評価。1が一番良い)

 これなら、ご褒美に本を買ってもらえるかもしれない。ぼくはもう欲しい本が決まっていた。
 『中級向けの吸血鬼の伝説』だ。

 ぼくはマンション入り口の重いドアを勢いよく開け、エレベーターの方へ向かった。
 だけど、地下室の方から聞こえるざわめきに、ぼくはハッとなった。
 興奮した、がやがやした声……それに、犬がけたたましく鳴いている。
 ――これって、リュディガーに関係があるんだろうか?

 ぼくは足音を殺して地下室へと歩いていった。階段の一番上で立ち止まり耳を澄ます。
 

「ここだわ。うちのスージーが毛を逆立てたのは、まさにここよ!」

 耳障りなおばさんのがみがみ声が聞こえる。――プーフォーゲルさんの声だ!

「ここは、ボーンザックの家の地下室だ」

 答えたのは、聞き覚えのない男の人の声だった。

「ボーンザックの家の? そう言えば昨日の晩、あそこの腕白坊主が大きなバックを持って地下室へ忍び込んでいくのに、ばったり出くわしたわ!
 いい、こっそりとよ。
 そして、わたしがどこへいくのって聞くと、あの子ったら真っ赤になったわ」

 得意げにおばさんがまくし立てるのを、ぼくはムカムカしながら聞いていた。
 あの、嘘つき!
 ぼくはちっとも、こそこそなんかしてなかったぞ!! それにおばさんはぐちぐち言うのに夢中で、ぼくにどこに行くのなんて聞かなかったし!

「それは何時頃ですか?」

 男の人の声が聞こえた。

「7時よ。わたし、おかしいなってピンときたの!」

「すると……犬が騒ぎ出したのは、その後からですか?」

「違うわ。スージーが騒いでいたのは、ずっと前からよ。そう……1週間ぐらい前からかしら」

 続いて、また犬の吠え声が聞こえた。
 それは、まるで怖くて怖くてしかたがないような、怯えきった吠え声だった。

「ほら、ね? うちのスージーはこの地下室の前に来ると、すっかりおかしくなっちゃうの」

 この時、マンションのドアが開いた。
 入ってきたのは  よりによって、お母さんだった!

「あら、アントン。どうしてこんな所にいるの?」

 まずい!
 ひたすらまずい!
 どうしようかぼくがおたついていると――最悪のタイミングで、下からがみがみ声が聞こえてきた。

「あなたですか、ボーンザックさん?」

「はい、なんでしょう?」

 お母さんが答えるとなにやら下でごちゃごちゃと小声で言い合う音が聞こえ、終いには申し訳なさそうな男の声が聞こえてきた。

「ちょっと、下におりてきてください」

「……なんのことか、知っている?」

 声を潜め、お母さんがぼくに聞く。――って、こっちに聞かれても困る!

「ぜーんぜん」

 しらを切ってぼくはこのまま逃げようか、それともお母さんと一緒に下へ行こうか、一瞬、迷った。
 だけど、リュディガーを見捨てるわけにはいかない。

 結局、ぼくはお母さんの後をついて、地下室に降りていった。
 下にいたのは予想通りプーフォーゲルさんと、管理人のおじさんだった。
 おなかの垂れ下がったダックスフントが、尻尾を丸めながら地下室の扉へ吠えているのが見える。

 プーフォーゲルさんは昨日に輪をかけて、ひどい格好だった。ナイロンのスカーフはほどけ、ヘアカーラーはもつれて頭の回りにぶら下がっている。
 おばさんは怯える犬をなだめようとしていたけど、ぼくを見て顔をしかめた。

「おたくの腕白坊主が一緒で、よかったわ」

 その言葉にムカッとしたのは、ぼくよりもむしろお母さんの方だったみたいだ。

「なんですって? 腕白坊主ですって?」

「あら、そうじゃない? 晩の7時に、バックを持って地下室の廊下をこっそり歩くのは、腕白坊主に決まっているわ。だいたいおたくの子はどうかしているわよ、大人の話もまともにきかないんだから!」

 ペラペラと、余計なことばかりしゃべって!
 お母さんがその言葉をどう受け止めたのか怖くてちらっと横を見ると、お母さんもぼくを見ていた。

 何も言わないけど、視線は無言で語っている  『話は後で聞くわ』と。
 そして、お母さんはぼくにじゃなくて、プーフォーゲルさんに向き直った。

「だからと言って、うちの息子を腕白坊主呼ばわりすることはないでしょう。わたしだってあなたのことを  おしゃべり女なんて言わないわ」

「なんですって? わたしがおしゃべり女ですって? あなたは、あなたは……っ」

 興奮のためかおばさんの顔が真っ赤になり、声がキーキーと高くなった。怒りのせいか、言葉に詰まっているプーフォーゲルさんに、お母さんは冷ややかに、そしてぴしゃっと言いはなった。

「あなたは、わたしを誤解しているわ。わたしは『あなたをおしゃべり女なんて言わない』と言ったのよ」

 うわぁ……お母さん、強い!
 多分、こんな風に人にぴしゃっと言われたことなんてないんだろう、プーフォーゲルさんは怒りを通りこして、唖然とした顔になった。

「それで、わたしに何の用なんですの? それともまさか、うちの息子を腕白坊主だと言いたかっただけなんですか?」

 皮肉たっぷりに、お母さんが聞く。
 すると黙り込んだプーフォーゲルさんに変わって、管理人が口を挟んだ。

「……お宅の地下室が変だと文句を言ってきたんですよ」

「地下室が変ですって?」

 それこそ意外そうに、お母さんは聞き返した。

「なにか、うちの地下室に問題でも?」

「いえ、それが………。犬が、異常に騒ぎ立てるので、中になにかあるんじゃないかと……。例えば、ネズミの死骸などあって、異臭がするとか」

「うちの地下室から? まさか、絶対にそんなはずありませんわ。
 2週間ごとにお掃除しているうちの地下室が臭うだなんて……、プーフォーゲルさん、あなたの陰口にはこれまで相当慣れているつもりだけど、でも、これはあんまりだわ!」


 憤慨しきって叫ぶお母さんに、さすがのプーフォーゲルさんもたじたじになった。
 それでもまだ降参する気がないのか、おばさんは食い下がった。……ずいぶん、元気のない声だけど。

「だ、だけど、それじゃ、うちのスージーは? スージーはなぜ、いつもお宅の地下室のドアの前で吠えるの?」

 ぼくはその答えを、知っていた。
 リュディガーだ。人間には気がつかなくても、犬には吸血鬼の気配が分かるんだ、きっと。
 だけど、もちろんぼくは答えを言う気なんかなかった。

「そんなこと、わたしが知るもんですか。……犬によっては、なにかにつけて吠えたがるのがいますけどね」

 そう言ってお母さんは馬鹿にしたような目で、ダックスフントを見下ろした。それが分かるのか、犬もこそこそとプーフォーゲルさんの後ろへと隠れる。

 それと同時に、おばさんもようやくおとなしくなった。管理人さんも、ひどく気まずい思いをしているように見えた。
 どうやら、この場はお母さんの勝ちみたいだ。

「どうも、申し訳ありませんでした。でも、文句を言ってこられると調べないわけにはいかないんです」

 管理人さんがお母さんに謝っている間、プーフォーゲルさんは何も言わずにダックスフントを抱いて、ぷんぷんしながら立ち去った。
 ――なんとか、助かったな。
 ぼくはそっと、溜め息をついた。

 お母さんがここまでぼくの肩を持ってくれるなんて、思わなかった。だけど家に帰ったら、きっとお母さんはぼくが夜の7時に地下室に行ったわけを知りたがるだろう。
 お母さんと一緒に家に戻る間、ぼくはずっと、どう言い訳をしようか考えていた――。

 


「ところでアントン。あなた、晩の7時に地下室で何を探さなきゃいけなかったの?」

 お母さんがそう聞いたのは、お昼ご飯のスパゲティをよそって台所のテーブルについてからだった。
 やっぱり、きた!

 ぼくはスパゲティをわざとゆっくりフォークに巻きつけながら、もっともらしく答えた。
 

「それは――秘密なんだ」

「先週の火曜日、アンドレアレスの所へ行かなかった理由も秘密なの?」

 ぎくっとして、ぼくはお母さんを見返した。
 お母さんはいたずらっ子のような微笑みを浮かべて、じっとぼくを見ていた。

「ほぅら、びっくりしてる。
 お母さんはね、一昨日、アンドレアレスのお母さんにバッタリ会ったの。そうしたらあなたはここ半年以上、あの子の家に来ていないと話していたわ」

 あやや、全部バレてる……。
 これだから、お母さんって油断できないんだ。でも、あまり怒っているようには見えないのが救いだった。どちらかと言うと、おもしろがっているような様子だ。

「それもあなたが地下室を幽霊みたいにうろついていたことと、関係があるの?」

「幽霊みたいなんて、冗談じゃない」

「でも、地下室には何か用があるんでしょう? 何をするつもりだったの?」

「だから、秘密なんだよ」

 ぼくはそう繰り返したけど、お母さんは納得してくれなかった。

「でも、お母さん、知りたいわぁ。……教えてはもらえないの?」

 食い下がるお母さんをごまかすのは、無理っぽい。ぼくは少し考えてから、答えた。

「いいよ。木曜日に、ね」

「そんなに後で? まあいいわ、あなたがそう言うなら」

 くすくす笑いながら、お母さんは頷いた。そしてそれっきりぼくへの追及をやめて、食事を食べ始める。
 お母さんはどうやら、このことを冗談だと思ってるみたいだ。

 ぼくにとっては、その方が都合がいい。お母さんが本気で怪しんで地下室を大掃除するよりも、ぼくのジョークにつきあってくれて木曜日までほうっておいてくれれば……リュディガーはかなり安全だ。

 だけどリュディガーはどんなことがあっても、木曜日までには地下室から姿を消していなくちゃならない。
 そうすれば、安心してお母さんに話せるだろう。

 ――秘密は、うちの地下室に1週間も吸血鬼がいたことだって。
 そう打ち明ける時のお母さんの顔を想像したら、なんだか今からおかしくなって、ぼくもくすくす笑いを隠せなかった。

「スパゲティのお食事だと、とても楽しくなるみたいね」

 見当違いなことを言うお母さんに、ぼくは済まして答えてあげた。

「スパゲティを食べると、ルンルン気分になるんだ。お母さん、知らなかった?」

 

 

 お昼がすんだ後、ぼくは自分の部屋で宿題をやり始めた。
 『シルダ市民は、なぜ畑に塩をまいたのか』と言う宿題だ。だけど頭はすぐに、地下室にいるちびっこ吸血鬼を思ってしまう。いくら読み返してもちっとも頭に入ってこない本を、ぼくはとうとうぱたんと閉めた。

   とにかく今日のうちにリュディガーと話す時間を作って、彼にこれ以上うちの地下室にいられないことを、はっきり言わなくちゃ。
 だけど、今度もまた、夜、地下室に行くことを、両親にどう言い訳すればいいんだろう?
 こっそり抜け出すのも、嘘をついて出るのも、もう危ない――なら、今までやらなかった方法を探すしかない。
 例えば、早めに……そう、5時ぐらいに散歩に出かけて、少々遅刻して戻ったら?
 それなら、それほど怪しまれないですむんじゃないかな?

 心を決めて、ぼくは本をもう一度取り上げた。今晩はとても夜に宿題をやる暇なんかないんだ、どうしたって今やっておかないと。――とにかく、ぼくはシルダ市民みたいに馬鹿じゃないぞ。

 

 

「ぼく、ちょっと散歩に行ってくる」

 ぼくがそう言ったのは、5時少し前だった。まだ外は明るいし、夕食までには時間がある。お母さんは軽く頷いた。

「いいわよ。でも、忘れないでね、6時半にお夕食よ」

「分かってるよ」

 もちろん、それは知っている。30分ぐらい遅刻するとして――2時間あれば充分だ。なんとか、うまくやれるだろう。
 ぼくは読みかけの本を持って、自転車で散歩に出かけた。

 暗くなるまで公園で本を読み、7時ちょっと前にこっそりとマンションへ戻った。誰にも見つからないように気をつけて、地下室へと潜り込む。

 リュディガーは、もう目を覚ましていた。
 棺桶の中に座って、大きなひもじそうな目でぼくを見た。でも、その目に失望の色が浮かぶ。

「――なんだ、おまえか」

 リュディガーは、ずいぶんがっかりしているように見えた。
 髪の毛がもしゃもしゃと逆立ち、顔はいつもよりも一段と青ざめている。こんなに、元気のないちびっこ吸血鬼を見るのは初めてだ。

「リュディガー! 君、病気なの?」

 心配して、思わず聞いてみると、リュディガーは首を横に振った。

「違う。オレは腹ぺこで、飢え死にしそうなんだ」

 呻くように言い、リュディガーは両手で自分のおなかを押さえた。

「……すごく、はらが減るんだ。力を封じられたせいかもしれない。ちくしょう、ネズミでもいいからいればいいのに!」

 獲物を探すように、リュディガーの目が地下室をゆっくりと眺め回す。
 だけどその目は、いつのまにかぼくの上で止まった。
 きらきらと光る赤い目が、じっとぼくを見つめている。多分、無意識だろうけど舌なめずりをしているリュディガーを見て、ぼくの心臓が跳ね上がった。

 ま、まさかとは思うけど……。
 ぼくはつい、2、3歩後ずさった。
 そりゃあリュディガーは友達だけど、でも、腹ぺこの吸血鬼は何をやらかすか分かったものじゃない。

 リュディガーは棺桶から立ち上がろうとして――よろめいて、ぺたんとまた棺桶の中にへたりこんだ。

「ああ、眩暈がしやがる!」

 頭を押さえ込みながら、呻いているリュディガーは、ひどく気の毒に見えて……ぼくは恐怖もコロッと忘れて、すっかり同情してしまった。
 こんな状態のリュディガーに、もう一つ心配事を増やすのは、あんまりなんじゃないか?
 せめてその前にちょっぴりでも、おなかに何かを入れてからの方がいいんじゃないだろうか?
 ――まあ、吸血鬼の好きな食べ物について考えると背筋がゾゾッとするけど、ぼくはなんとかその恐怖と戦った。

「ぼく……ぼく、助けてあげられると思うよ」

「いったい、どうやって?」

 期待に満ちたリュディガーの目を見ながら、ぼくは長い時間ためらい……やっと答えた。
「ウサギをつかまえるの、ぼく、割とうまいんだ」

 吸血鬼は狼も非常食にできるなら、ウサギで悪いはずもない。とにかく相手が人間じゃなければ、協力したってかまわないだろう……きっと。

「ホントか? じゃ、一緒にやってみよう」

 リュディガーの暗い表情が、パッと明るくなった。
 ちびっこ吸血鬼はいかにも彼らしい身軽さで棺桶を飛び出ると、窓に駆けよった。
 ――歩けないんじゃなかったのか?
 あまりに現金な態度に、ぼくは早くも助け手を申し出たことを後悔しかけた。

「ねえ、リュディガー、地下室のことで話しがあるんだけど。つまりうちのお父さんと、おじいちゃんが…」

 言ってはみたけど、案の定、リュディガーはぼくの言葉なんか聞いてなかった。
 早くも窓を開け、外に向かってよじ登っている。

「来いよ、あそこにウサギが二匹いるぞ!」

 そう叫んで、リュディガーは外に飛び出した――。

 


 ぼくが地下室のドアから出て、大回りして外に出た時は、リュディガーはもう、芝生の上にうずくまってキョロキョロ辺りを見回していた。
 ぼくを見つけると、リュディガーは軽く手を振った。

「たった今、そこにいたんだぞ」

「それより、もっと遠くへ行った方がいいよ。ここだと、うちのマンションの人達に見つかるよ」

 不安から、ぼくは何度も上を見上げずにはいられなかった。もし、こんなところをプーフォーゲルさんに見つかったら、今度はなんて言われることやら!

「じゃ、どこに行くんだよ?」


 リュディガーは、苛々しているみたいだ。
 できるだけ遠くの方が都合がいいんだけど、時間がない。ぼくは仕方なく、子供の遊び場の方を指差した。

「向こうだよ」

 そこなら、背の高い木の茂みが多いから、人にジロジロ見られるにすむ。

「あそこに、本当にウサギがいるのか?」

「いるとも!」

 ぼくはきっぱりと言い切った。――ホントは、あんまり自信がなかったんだけど。
 とにかく、ぼく達はそろりそろりと芝生の上を歩いた。木の茂みの中に入ると、リュディガーはともかくぼくは心からホッとした。

「……ウサギは、どこにいるんだよ?」

 不機嫌な声で、リュディガーは言う。

「ここさ、ここがウサギが好きな場所なんだ」

 適当にその辺のウサギがいてもおかしくなさそうな場所を指すと、リュディガーの目が爛々と光り出した。

「本当か?」

 声までも、なんとなく荒っぽくなる。
 リュディガーは音も立てずに茂みの中に消えた。――と、思う間もなく、また戻ってきた。
 不機嫌そのものの顔には、いくつかひっかき傷ができている。

「これが、ウサギなのかよ?」

 そう言って、リュディガーがぼくの前に突き出したのは、まるまるとした2匹のクモだった!

「げっ?!」

 ぼくは思わず身を引いた。
 クモは大っ嫌いなんだ! リュディガーがクモをぱくんとやるところを見るのなんか、真っ平御免だ。
 だけど、リュディガーはバカにしたように鼻を鳴らした。

「フン! オレがクモを食うとでも思っているのか? どうやら、悪い吸血鬼映画の見過ぎのようだな」

 そう言って、リュディガーは不愉快そうにクモを払い落とした。

「ご、ごめん、ぼくはただ……。あっ、そうだ。ぼく、きみのために薬局に行ってあげるよ」

 なんとかリュディガーの機嫌を取ろうしたんだけど、リュディガーは不思議そうな顔をしただけだった。

「薬局に? なんでだ?」

「薬局には、血……血の缶詰があるんだ」

 本当にそんなものがあるのかどうか分からなかったけど、輸血とか冷凍血液ってのがあるんだから、似たような物が有るだろう、きっと。
 だけど、リュディガーはちっとも喜ばなかった。

「缶詰! オレが、缶詰なんか食うもんか!」

 感謝どころかあまりの高飛車な怒りっぷりに、さすがのぼくもムッとした。

「ぼくに、そこまで分かるはずないだろ」

 丁度ぼくがそう言い返した時、リュディガーの顔がさっと緊張した。ぼくのことを忘れたように、リュディガーは道路の方へ注目し始める。
 その時になってから、ぼくにもやっと近付いてくる足音が聞こえ出した。

「……もう、我慢できないや」

 リュディガーは興奮して、歯をかちっと鳴らした。それを見て、ぼくは立ちすくんだ。
 まさか、リュディガーは――。

「掴まえるのは、ウサギだけだろ? もし君が、他のものを掴まえたら、そしたら…」

「そしたら、なんだ?」

 不機嫌に、リュディガーが文句を言うけど、ぼくだって負けてなんかいられない。

「――そしたら、裏切りだ!」

 リュディガーは、ひどく傷ついたような顔をした。でもそれはほんの一瞬で、すぐに負けん気の強いふてぶてしさを取り戻す。

「何を? オレは別におまえをとっつかまえて、血を吸おうとしてるわけじゃないぜ!!」


 リュディガーが激しく言い返す。

「だって、人の血を吸うなんて……!」

「殺したりなんかはしないよ! おまえだって、オレがどうやって生きているか知ってるくせに」

「違う……っ! 違うよ――っ」

 ぼくは首が抜け落ちそうなほど、強く首を振った。言いたいことが、喉に詰まる。
 リュディガーが血を吸って生きていると言うことと、それをこの目で見ることとは全然違うんだ。
 だけどそれをどう言えばリュディガーに分かってもらえるのか、分からなかった。

「なにが違うんだ! おまえだって、鳥とか牛の肉を食べているじゃないか」

「それは……」

 その通りなので、ぼくはとっさに反論できなかった。そのスキに、リュディガーはぼくを押し退けて道の真ん中に飛び出した。

「……!」

 悲鳴が聞こえるのを覚悟したのに、何も聞こえない。
 ぼくも茂みから這い出ると、リュディガーと若い男の人が向かい合っているのが見えた。
 リュディガーの目は、燃えるように爛々と輝いていた。ちょうど、ぼくと初めて会った時と同じように。

 突然飛び出してきた変な格好をした子供に、通りかかった人は驚きもしない。リュディガーに目を奪われたように、ぼんやりとしているだけだ。

「――来い!」

 リュディガーの命令に、男の人はぼんやりとした足取りで近づいてきた。まるっきり無抵抗に、まるで催眠術にでもかけられているみたいに。
 男の人は……知り合いじゃあない。話したことさえないけど、犬を散歩させているところをぼくは何度となく見たことがあった。

「屈めよ――首を出して」

 男の人が、リュディガーの目の前で首を傾けながらしゃがむのを、もうそれ以上見ていられなかった。

「やめて!」

 ぼくはリュディガーの腕にしがみついて、懇願した。邪魔をされたリュディガーが、怒りに燃えた目でぼくを睨む。

「余計なお世話だ!」

 血に飢えた吸血鬼に対抗するには、ぼくの中の勇気を総動員しなければならなかった。
 

「も……もし、君が…ぼくの目の前でそんなことをするなら……き、きみとはもう、絶交だ…っ!」

 声が震えてしまうのは、興奮のせいか、恐怖のせいか――。
 喉の奥で、リュディガーが唸る。
 怒りの矛先を変えて、ぼくに襲いかかってくるかも  そう思った時、リュディガーは男の人に向き直って言った。

「――家に帰れ! 家でベッドに入り、そして、そのまま明日の朝までぐっすり眠っちまえ!! 起きた時には、おまえは何にも覚えていない……なに一つとして!」

 操り人形みたいなぎくしゃくした動きで、男の人は歩いていった。それを、リュディガーは悔しそうに見つめている。
 男の人の姿が見えなくなってから、リュディガーは歯ぎしりしながらぼくを振り返った。


「これが、助けてくれるってことなのかよ?! オレは飢え死にしちゃうよ、獲物をわざわざ逃がして、惨めにもはらぺこでくたばるんだ!」

 それだけしゃべる元気があれば絶対飢え死にしないという確信はあったけど、ぼくは黙っていた。
 だって、リュディガーは結局、あの男の人を逃がしてくれたんだ。

「帰れよ、おまえなんか邪魔なだけだ! 一人で獲物を探した方が、よっぽどいい!!」
 きっぱりと心決めて、リュディガーはマントを広げて向きを変えた。

「だけど、地下室のことはどうするんだい?」

 リュディガーはもう返事もしなかった。
 聞こえているだろうに、振り向きもせずに走っていく。やむなく、ぼくはもう一つの忠告を叫んだ。

「リュディガー! お願いだよ、この近所では……人は……狙わないで! ぼくの知り合いが大勢いるんだ!!」

 やっぱり、返事はなかった。
 しげみの奥に、マントが消えていく。

 リュディガーがこの忠告を聞いてくれるかどうかなんて、ぼくには分からない。諦めて、ぼくは家に帰ることにした。
 何もかもが、うまくいかない。これで、残るのは後一日――水曜日だけだ!

 

 

「これが、6時半かしら?」

 玄関のドアを開けると、いきなりお母さんがそこにいた。

「違うよ」

 言い訳を言う気にもならない。時計なんか見なくても、時間オーバーしたのは、分かってるんだ。

「こんなに遅く帰ってきたりして。罰として、夕食抜きにしなきゃいけないところよ」


「して、いいよ」

 どっちみち、ぼくは食べたくなかった。――リュディガーにおなかを空かせるように仕向けておいて、自分だけおなかいっぱい食べるだなんて!

「アントンったら! 時間を破っておいて、そんなことを言うようじゃ、もう、夜に下には行かせませんよ」

 お母さんはプンプンしていう。
 ぼくだって、行きたくていってるわけじゃない。どっちかと言えば、もう、行きたくなんかない!

 でも、とぼくは自分の部屋に行きながら思った。
 ――多分、明日もぼくはリュディガーに会いに行っちゃうんだ、……きっと。
                                    《続く》

 

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