Act.14 アンナと夜の学校で

 

 ドロテー叔母さんの恐怖も薄れ、落ち着いた頃……ぼくは、アンナにリュディガーの相談をするつもりだった。
 だけどそれよりも早く、アンナは声を弾ませながら聞いてきた。

「ねえ、あなたの教室ってどこなの?」

「え? 教室はあっちだけど……」

 ぼくが答えると、アンナは止める間もなくそっちへ走っていく。

「え、アンナ、待ってよ」

「わたしね、前からずっと、学校っていう物の中を見てみたいと思っていたの!」

 嬉しそうに、アンナは教室のドアを開けて中へ飛び込んだ。慌てて追いかけ、ぼくは言った。

「ねえ、アンナ、君と相談があるんだけど」

「後でね!! 今は好奇心のかたまりだから、だめ!」

 アンナは月の光を浴びながら教室を駆け抜け、椅子を一つずつ数えていく。

「35。にぎやかでいいわねえ」

 羨ましそうにアンナは言うけど――ぼくにはそうは思えなかった。

「にぎやかでいいだって? そんなのがいいのかい?」

「決まってるじゃない! だってこんなに人がいるのなら誰にも気づかれずに、居眠りができるわ」

 ……そんなことしてたら先生にこっぴどく怒られるか、さもなきゃテストで悪い点を取るのがオチだって。
 でも、ぼくがそう言うより早く、アンナは教卓の前に立ち止まった。

「この大きな机は、いったい誰の?」

「先生のさ」

「あ、そう。子供達とは違うのね」

 アンナは物珍しそうに、引き出しの中を覗き込む。

「ムチがないのね」

「体罰は、もう禁じられてるんだ」

「そう? 昔の教師達は、いつだってムチを持っていたわ」

 アンナが言う昔は、多分、百年も前のこと――貴族の娘だったアンナは、学校に行かずに家で家庭教師かなにかに勉強を教わっていたんだろう、きっと。

「今は、もっと違う方法で子供達を罰するんだ。成績表さ」

 ぼくの説明に、アンナはきょとんとした顔をする。

「成績表? なぁに、それ?」

「まったく簡単なことさ。学校じゃ、なんにでも成績がつくんだ。いい成績を取ると、うちのお父さんがいつも言ってるように『上の』学校に行けて、将来はいい職につけてお金をたくさん儲けられるんだ。
 でも、成績が悪いと……全然だめってわけ」

「でも、そんなのずるいわ。もし、そんな職につけなかったら……」

 憤慨するアンナを、ぼくはやんわりなだめた。

「しかたがないんだよ」

「でも、あなたは? どんな成績をとっているの?」

 聞かれて、ぼくは少し考えた。
 ぼくの成績は、そう良くもなければ、悪くもない。

「まぁ……真ん中かな」

「それだと、『上の』学校に行けるの?」

「そのうち分かるさ。ぼくが、その気にならなくちゃだめなんだけど」

 ぼくの返事に、アンナは物思いに沈んだ表情を見せた。

「それじゃあ……学校ってわたしが考えていたほど、素晴らしい所じゃないのね」

 しばらく窓の外から校庭を見つめ――不意に、アンナは思いついたように叫んだ。

「ねえ、あなたの席はどこ?」

「ここだよ」

 ぼくは、一番前の列の机を指した。

「お隣りは誰? まさか、女の子じゃないでしょ?」

 本気で心配そうに聞くアンナに、ぼくは思わず笑ってしまった。

「大丈夫、男の子だよ」

 それを聞いて、アンナは喜んだみたいだった。

「ねえ、ちょっとあなたの席に座ってみて」

 あんまり熱心に頼まれたから、ぼくは素直にそれに従った。

「いいけど、どうして?」

「それはね、わたしがあなたの隣に座ってみたいから。ほら、わたし達、まるでクラスメートみたいだわ」

 ちょこんと隣の席に腰を下ろし、アンナは夢中になって囁いた。

「そうしたら、わたし、毎朝、学校であなたに会えるのに。一緒に校庭を歩いて、午後には宿題をできるのに……」

 はしゃいだ声は途中で急に弱々しくなり、最後には消え入りそうなほど悲しい声に変わった。
 ぼくは、アンナが泣きだすのかと思った。

 だけどアンナが溜め息を一つついて顔を上げ、きらきら光る目でぼくを見た。なんだかドギマギしてぼくは慌てて顔を背け、早口に言った。

「リュディガーのこと、今、相談してもかまわないかい」

「リュディガーのこと? あなたは、わたしのことなんてどうでもいいのね!」

 アンナの目に、みるみる涙が盛りあがった。

「違うよ!」

 アンナをどうでもいいだなんて、思ったこともない。ただ、今はリュディガーが大変な時で、明日になっても状況が変わらなければリュディガーだけじゃなくって、ぼくも大変なことになるってことが気にかかりすぎて――。

 今はなんとしてもアンナのご機嫌を損ねるわけにはいかないのに、頭が混乱してしまう。ただでさえ大変な状況なのに、アンナがしゃくり上げているから余計に言葉が見つからないんだ。

「実は……リュディガーが起きないんだ。いっくら呼んでも、揺さぶっても目を覚まさないんだよ」

 やっとリュディガーのことを訴えると、アンナは目を丸くした。アンナが泣きやんだのに勢いづけられて、ぼくは必死になって一気にしゃべった。

「ねえ、アンナ、大変なんだ。
 問題は木の板なんだよ。ぼくのお父さんとおじいちゃんが明日、地下室に置いてある木の板を出すつもりなんだよ、その時に絶対、リュディガーが見つかっちゃう! その前になんとかしなくちゃいけないのに、リュディガーが目を覚まさないんだ!」

 一度にいろいろ聞かされたせいか、アンナは目をこすりながら何度も瞬きした。

「あなたの家の地下室から? じゃ、リュディガーは? どうしてリュディガーはそんなに急いで、棺桶を共同墓所に戻さなければいけないの?
 そりゃ、勘当はもう解けたけど……」

「解けた?」

 ぼくは耳を疑った。

「本当に? あ、でも、リュディガーは勘当を解かれる代わりに、オリジン一族に入らされるんじゃないの?」

 今度の家族会議はエリザベスや従兄弟連中みんなを含めた大会議になるってことは、リュディガーの口からだいたい聞いていた。

「確かに、エリザベス叔母様はそうしたかったみたいね。でも、わたし逹の一族がそれに反対すれば、いくらオリジン一族とは言えリュディガーを連れていくことなんてできないわ」

 きっぱりと、アンナが言い切った。

「昨日の夜遅く、親戚一堂が集まって話し合ったの。リュディガーの勘当を解いて許してやるか、それともこのままオリジン一族へ入れてしまうか。
 おじいちゃんとおばあちゃんはオリジン一族に入れればいいっていったけど、わたしも父さんも母さんもリュディガーを許してやるのに、賛成したわ。ルンピもよ」

「でも……ドロテー叔母さんはまだ怒っているんだろ?」

「ええ、もうカンカン。いっそ、オリジン一族で鍛えてもらった方がいいって言ってたわ」
 

 と、アンナはくすくす笑った。

「でも、テオがリュディガーの勘当を解いて欲しいと言ったの」

「えぇっ?! なんで、テオが」

 テオと言えば、リュディガーのことをドロテー叔母さんに言いつけた張本人だ。それが、なんでリュディガーを庇うような真似をするんだろう?

「違うわ、テオはリュディガーを庇ったわけじゃないわ、逆よ。テオはリュディガーがオリジン一族になるのが悔しいのよ。あの一族に選ばれるってことは、優秀な吸血鬼だと認められた証だもの。テオの両親は息子に甘いから、同じ意見だったの」

「へえ……!」

 がぜん、目の前が明るくなった気がする。ああ、あの憎ったらしいテオに、こんなところで感謝することになるとは思わなかった!
 理由はどうであれ、リュディガーがオリジン一族とやらに行かないですむのはぼくだって嬉しい。

 あのちびっこ吸血鬼に、本当の血も涙もない恐ろしい吸血鬼になんか、なって欲しくないもの。

「よかった……じゃ、リュディガーはもう共同墓所に帰れるんだね?」

「ええ、今日、わたしはそれを伝えにいくつもりだったの。
 わたし、勘当を許してもらえるように、リュディガーのことをうんと大袈裟に言っちゃった。飛べなくなったからちゃんと食物を取ることもできないとか、このままじゃヤケを起こすかもしれないとか」

 それを聞いて、安心感もたちまちすっとんでしまった。――そうだ、いくら勘当が解かれたって、リュディガーの具合が悪かったらなんにもならないんだっ。

「アンナ、それは大袈裟じゃないかもしれないんだ。……とにかく、ぼくが出てくる時、リュディガーは目を覚まさなかったんだから。それに、リュディガー……昨日も一昨日も、ほとんどなんにも食べていないんだ」

「なんですって?」

 アンナが怪訝そうに首をかしげる。

「一緒に来て、リュディガーの様子を見てやってくれない? ……ぼく、心配なんだ」

 頼むと、アンナは少し黙り込んだ。

「あなたって、本当に優しいのね。――もし、わたしがリュディガーと同じ立場だったら、あなたは同じように心配してくれる?」

「もちろんだよ」

 きっぱりと、ぼくは答えた。
 でもまあ、アンナがリュディガーと同じ立場だったら、きっとこれほどぼくに迷惑や心配をかけるような真似はしないだろうけど。

「それなら、一緒に行ってあげる」

「ありがとう。じゃあ、さっそく……」

 時計を見ると――大変だ、もう8時近いや。
 急いで帰らないと……ぼくはアンナを急かそうと、手を延ばした。その時、アンナが眉を潜めた。

「……? 嫌な臭いがするわ……」

 だけど、ぼくには全然そんな臭いはしない。

「そう?」

「ええ、物凄く嫌な……にんにくの臭いだわ!」

 アンナの言葉に、ぼくはポケットに突っ込んでおいたにんにくを思い出した。手を突っ込んでそれを取り出すと、アンナは悲鳴を上げた。

「やめて! わたしを殺す気?」

 慌てて、ぼくはにんにくを窓から校庭に投げ捨てた。

「ご、ごめんっ! そんなつもりじゃなかったんだ、ドロテー叔母さんへの用心のために、ちょっと持ってただけで……」

 弁解すると、アンナは呆れたように肩を竦めた。

「ある程度力の強い吸血鬼には、にんにくなんてまるで効かないのよ。にんにくを嫌うのは、わたしのようにまだ歯の生えていないような弱い吸血鬼だけ……ドロテー叔母さんには効かないわ。
 相手を怒らせて、かえって凶暴にさせるだけよ」

 うっ、万一の命綱がまるで効き目なしだったとは……!
 ショックを受けて、ぼくは服の下の隠した十字架に触れながら聞いてみた。

「じゃあ、十字架は?」

「そうね、すごく敬虔な聖職者ならともかく、普通の人間が持っていたんじゃ意味がないと思うわ」

「そ……そう」

 声が思わず虚ろになる。
 最初からあまり役に立つとは思っていなかったけど、気休めにもならなかったみたいだ。――ま、まあ、もうすぎちゃったことは、どうでもいい。とにかく、今は8時までに家に帰らないと。

「じゃあ、アンナ、行こう。急がないと」

 

 

 ぼくは本当はすぐにでも地下室に戻りたかった。リュディガーが心配だったんだ。
 だけど、8時にお母さんから電話が来るはずだ。

「アンナ、上に一度戻らないと。……一緒に来てくれる?」

「構わなければ」

 控え目に、アンナは微笑んだ。
 二人そろってエレベーターに乗り玄関の中に入った途端、電話のベルが鳴りだした。
 慌てて受話器を取ると、やっぱりお母さんからだった。

「もしもし、お母さん?」

 心臓がどきどき破裂ものだったけど、ぼくはなんとか普通の声をだそうと努力した。

「アントン? どうしたの、なかなか出なかったけど」

「あ、ああ、今、トイレに入ってたから」

 答えながら、ぼくはアンナを目で探した。玄関の鏡に目をやって、ぼくはギョッとした。
 ブラシが宙を浮いている――!!
 2、3度瞬きしてみたけど、間違いなく浮いている。まるで見えない手が髪をとかしてるように、上から下へと、何度も動いていて……。

「アントン? アントン、ちょっと、聞いてるの?」

「え……ああ、もちろん」

 お母さんの電話に答えながら、ぼくは小さなくすくす笑いを聞いた。
 この声は  アンナだ。
 それで、ぼくにはやっと分かった。

 壁が邪魔になってここからは見えないけど、アンナが玄関の鏡の前に立って髪にブラシをかけているんだ。吸血鬼は鏡に写らないから、すぐに気づかなかったけど。
 事情が分かってホッとしたけど  ある意味で冗談じゃないぞ、これじゃあ電話の中身がアンナに丸わかりだ!

「え? ぼくが今、一人かって? もちろんだよ……今の笑い声? テレビだよ」

 お母さんをごまかしながらぼくは壁からこっちに顔をのぞかせたアンナに、手まねで居間を指差した。あっちに行ってくれ、というつもりだったんだ。
 だけど、アンナは済ました顔でブラシをかけ続ける。

「ぼく? うん、もう寝ようと思ってる。うん、身体はちゃんと洗った。じゃ、おやすみ、お母さん」

 手早く話し終え、ぼくは電話を切った。

「ごめんなさい、おかしくてたまらなくなっちゃって」

 アンナは謝り、ようやくブラシを置いた。

「ねえ、わたしの髪、きれいになった?」

「う、うん」

 反射的に、ぼくは頷いていた。――ホントのこと言えば、あんまり変わったようには見えなかったんだけど。

「あなた、本当にもう寝るの?」

「まさか」

「そう、残念だわ。あなたのベッドの寝心地を、一度、試してみたかったのに」

 くすくす笑いながら、アンナはうっとりとした目でぼくを見つめる。
 それが妙に居心地悪くて、ぼくは慌てて言った。

「さ、さあ、急がなくちゃ。リュディガーをなんとかしないと……」

「――そうね、あなたがそう言うのなら」

 どこか冷たく、アンナがいう。
 どうやら、機嫌を悪くしちゃったみたいだ。……また、ヘマをやったかな?
 一緒にエレベーターに乗るまで、アンナは口をきかなかった。
 黙っているのも気詰まりで、ぼくは恐る恐る話しかけてみた。

「ねえ、アンナ」

「なあに?」

 声は多少素っ気ないけど、アンナは答えてくれた。よかった、それほどは怒っていないみたいだ。

「吸血鬼って……ホントに鏡に映らないんだね。さっきは驚いちゃったよ」

「そうなの。鏡に映らないの。ねえ、わたしの髪、変じゃない?」

 恥ずかしそうに、アンナが聞く。
 ぼくは首をぶんぶん振って、否定した。

「まさか! ちっともおかしくなんかないよ。それに鏡に映らないなんて、おもしろくていいなって思ったんだ」

「そうかしら……わたし達吸血鬼は、そんなことばっかり。
 棺桶で寝なくちゃいけないし、カビ臭いマントは着なくちゃいけないし、その上おしゃれをしようと思っても鏡さえみられないのよ」

 深々と、アンナは溜め息をついた。
 ぼくから見るとそれほど悪くないと思うけど、女の子にとっては辛い条件なんだろうな、きっと。

 もし、アンナが普通の子だったら。
 ぼくは想像してみた。髪をきれいにとかして、バラ色の頬をした人間のアンナを。

 長すぎる髪は、ポニーテールかなにかにしてるかもしれない。セーターにジーパンっていうごくありふれた格好で、日の光の下にいるアンナを想像してみて――ぼくは胸がどきどきするのを感じた。

 エレベーターが止まって、外に出た時はホッとしたぐらいだ。
 地下室への階段を下りながら、アンナはおずおずと聞いてきた。

「でも、あなたはこんなわたしでも好き?」

「もちろんだよ」

 はっきりとそう答え――ぼくは、あたりが薄暗いのに感謝した。そうじゃなかったら、赤くなった顔をアンナに見られていただろうから。
 でも、今のは本心だ。
 人間じゃなくったって、アンナが可愛い女の子なことには変わりがない。

 それにぼくは吸血鬼のマント姿のアンナだって、いいと思う。ぼくはアンナに手を伸ばして、小さな、冷たい手を握った。

「こっちだよ、アンナ。足元に気をつけて」

「ええ」

 手をそっと握り返し、アンナは素直にぼくについてきた――。
                                    《続く》

 

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